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説教日:2016年11月6日 |
古い契約の下では、メシアが「万物の相続者」であることには二つの面があることが示されています。 一つは、「相続者」であることはダビデ契約に先立って、「主」がアブラハムに与えてくださった契約、アブラハム契約の祝福に関わっているということです。これは、創世記12章1節ー3節に記されている、 主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 という、「主」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった祝福の約束に関わっています。 このとき「主」は、アブラハムを祝福してくださるだけでなく、アブラハムが「祝福となる」ことを約束してくださり[注]、「地上のすべての民族は」アブラハムによって祝福されると約束してくださっています。 [注]2節最後の新改訳の、 あなたの名は祝福となる。 は、マソラ本文の読みを変えたものですが、マソラ本文に従って、 あなたは祝福となる。 と訳した方がいいと考えられます。 新改訳は、「(・・・と)なる」を表すハーヤー動詞(英語のbe動詞に当たる)の、マソラ本文の読み(ヘイェー、命令形・男性・単数、それで2人称で、アブラハムのことを述べる)の母音を(ハーヤー、完了時制の3人称・単数に)変えて、アブラハムの「名」のことを述べているようにしています。 しかし、この場合の命令形はヘブル語の願望形(コホータティヴ・願いや意図や命令などを表す・ここでは「あなたの名を大いなるものとしよう」)に続く命令形が、その結果の確かさや、その結果が意図されたものであることを表すという用法であると考えられます(参照GKC, 110i.)。それで、この場合は、アブラハムが確かに祝福となるという意味合い、あるいは、アブラハムが祝福となるのは「主」の意図であるという意味合いを示しています。 「主」がアブラハムを「大いなる国民」(ゴーイ)としてくださるという約束は、「主」がアブラハムに契約を与えてくださったことを記している17章の4節ー6節に記されている、 わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民(ゴーイム、ゴーイの複数)の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。 という「主」の契約の約束へとつながっていきます。「地上のすべての民族は」アブラハムによって祝福されるという、アブラハムが召命を受けた時に与えられた祝福の約束は、アブラハムが「地上のすべての民族」の霊的な父となることによって実現するということが示されています。さらに、このことは、6節の、 あなたから、王たちが出て来よう。 という約束によって、先ほど触れましたダビデ契約の約束へとつながっていきます。 アブラハム契約の枠の中では、「地上のすべての民族は」アブラハムによって祝福されるという約束は、アブラハムがその子イサクを「主」にささげたことを記している22章の17節ー18節に記されている、 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 というアブラハムに与えられた約束につながっています。 これらのことから分かりますが、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになることは、アブラハムの「子孫」(ゼラァ)によって「地のすべての国々[ゴーイム(ゴーイの複数)17章4節ー6節に出てくる「国民」と同じことば]は祝福を受けるようになる」ことによって実現します。アブラハムの子孫(ゼラァ)は単数ですが、集合名詞的にアブラハムの子孫たちの共同体を表します。そこには、その共同体の「かしら」があります。それがアブラハムの子孫として来られるメシアです。そして、その「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになることは、さらに、ダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている王座に着座される王、すなわちメシアが「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」を治めるようになることによって実現します。 このことは、メシアが「地のすべての国々」を、アブラハム契約の祝福に基づいて相続するということを意味しています。当然、メシアは「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」がアブラハム契約の祝福にあずかるようになるために治めることになります。そのことは、イエス・キリストにおいて実現しています。ガラテヤ人への手紙3節8節ー9節に、 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されており、13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。また、この、私たちが受けた「約束の御霊」は、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて、死者の中からよみがえった後、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、注いでくださったものです。その日の出来事についてペテロが人々に語ったことばを記している使徒の働きの2章33節に、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されているとおりです。 これが、メシアが「万物の相続者」であることの二つの面のうちの一つのことで、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」がアブラハムによって祝福されるということで、具体的には、メシアが「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」を相続財産として受け取り、彼らがアブラハム契約の祝福にあずかるようになるために、御霊によって導いてくださる形で、治めてくださることです。ただし、メシアが「万物の相続者」であることによってもたらされる祝福は、これで終わるのではなく、それ以上のものです。それにつきましては、日を改めてお話しします。 メシアが「万物の相続者」であることにはもう一つの面があります。それは、メシアが「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」を相続財産として受け取ったことに、もう一つの面があるということにほかなりません。 これまで取り上げてきましたメシア詩篇の一つである詩篇2篇7節ー9節には、 「わたしは主の定めについて語ろう。 主はわたしに言われた。 『あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。』」 と記されていました。 ここでは、メシアが「国々」[ゴーイム、創世記22章18節で「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになると言われているときの、「国々」と同じことば]を「ゆずり(ナハラー、「譲渡できない世襲の相続財産」)として」、「主」から受け取り、「地をその果て果てまで」「所有として」受けると言われています。けれども、この場合は、メシアがこれらの「国々」をアブラハム契約の祝福にあずかるように治められるのではありません。9節に、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする と記されているように、メシアはこれらの「国々」に対するさばきを執行されます。これがメシアが「万物の相続者」であることのもう一つの面です。この場合も、メシアが「万物の相続者」であることは、メシアがこれらの「国々」に対するさばきを執行することで終わるものではなく、それ以上のことがあります。それは、それらの国々の支配者たちのさらに奥にあってこの世を支配している暗やみの支配者へのさばきを執行することです。 それでは、メシアがこれらの「国々」を相続財産として受け取り、彼らに対するさばきを執行することは、アブラハム契約の祝福の約束とは関係がないのでしょうか。もちろん、メシアによるさばきの執行を受ける「国々」はアブラハム契約の祝福にはあずかってはいません。けれども、そのことも、アブラハム契約の約束と関わっています。 先ほど引用しました、創世記22章17節ー18節には、 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されていました。この約束で注目したいのは、 あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 という約束です。この「敵の門を勝ち取る」と言われているときの「門」は、城壁で囲まれている町の入り口のことです。町の大きさによっていくつもの門がありましたが、常に、中心となる門があり、そこには、外門と内門があることが多く、時には、3つか四つの扉がありました。門の両脇、時には、門の上には守衛のための部屋がありましたし、門を守るための塔が建てられることもありました。この門はその町にとってとても重要な所で、町の防衛のための要でした。それで、敵に降伏する場合には、その門を開きました(申命記20章11節)。門では、商売上の取引が行われたり(創世記23章10節、18節、そこにその町の王や長老たちが坐って、法的な訴えを聞いて裁定を下していました(申命記21章18節ー21節、22章15節、ルツ記4章1節ー12節、ヨシュア記20章4節)。それで、門に坐ることは栄誉あることとされました(箴言31章23節)。このように、門はその町にとって重要なものですので、それがその町全体を象徴的に表すことがあります。アブラハムに与えられた、 あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 という約束においても、「門」は「敵」(複数形)の住んでいる町全体を指しています。それで、「敵の門を勝ち取る」ということは、その町を征服することを意味しています。 この約束は、アブラハム契約の枠の中では、アブラハムの相続人としての子のことを記している創世記15章に記されていることが関わっています。5節ー7節には、 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」 と記されています。ここでは、アブラハムの相続人としての子が天の星のようになるということが約束され、アブラハムは「主」を信じました。「主」はそれをアブラハムの義と認めてくださいました。そのことを受けて、「主」はカナンの地をアブラハムが「所有するために」(直訳)アブラハムに与えてくださることを示してくださいました。そして、「主」はアブラハムの求めに応じて、そのことに関わる契約締結の儀式を遂行してくださいました。注目したいのは、その時に「主」がアブラハムに語ってくださったことです。13節ー16節には、 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」 と記されています。 ここで、「主」はアブラハムの子孫が、この時は「自分たちのものでない国」と言われているだけですが、エジプトの地で、寄留者になり、さらには、奴隷となり、「四百年の間、苦しめられ」ることをお示しになりました。この「四百年の間」はアブラハムに預言として語られたことですので概数で、実際には430年(出エジプト記12章40節ー41節)です。そして、「主」は彼らを奴隷としていた国民をおさばきになり、彼らは「多くの財産を持って、そこから出て来るようになる」ということをお示しになりました。それによって、「四代目の者たちが」カナンの地に戻って来ることになると言われています。この場合の、「四代目」の「一代」(ドール)は、今日の世代のことではなく、その当時の人々の数え方による人の「寿命」で、アブラハムの時代は百年ほどでした。ちなみに、サラは127年(23章1節)生き、アブラハムは175年(25章7節)生きました。また、イシュマエルは137年(25章17節)、イサクは180年(35章28節)、ヤコブは147年(47章28節)、ヨセフは110年(50章22節)生きました。 「四代目の者たちが」カナンの地に戻って来ることは、430年もの長い間、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が他国で寄留者となり、王朝が代わると奴隷とされて苦しめられるようになることを意味しています。そのようなことが放置されていてもいいのかという疑問が出てきそうです。しかし、それは見方を変えれば、「主」がそれほど長い間、カナンの地の住民たちに対して忍耐深くあられたということでもあります。また、それは出エジプトの贖いの御業がなされるようになることへとつながっていきます。それによって、「主」がご自身の民のために成し遂げられる贖いの御業がどのような意味をもっているかが示されることになります。それを私たちに当てはめて言いますと、私たちはそのことが象徴的に示しているほど強力な罪の力によって縛られていて、自分たちの力ではどうすることもできない状態にあったことを示していますし、「主」はそのような罪の力から私たちを解き放ってくださったことを示しています。 それとともに、そのことには、もう一つの意味がありました。それが15章16節の最後に記されている、 それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 という「主」のみことばに示されています。これは、「主」が「エモリ人」に忍耐深くあられた430年の間に、彼らの罪が満ちるようになり、イスラエルの民は、「主」が「エモリ人」に対するさばきを執行するために用いられるということを意味しています。 この場合の、「エモリ人」はカナンの地の住民全体を代表的に表しています。その地の住民たちのことは、19節ー21節に、 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人 という十の民が挙げられています。 エモリ人がカナンの地の住民たちを代表的に示す事例は、北王国イスラエルの王アハブの罪のことを記している列王記第一・21章25節ー26節に、 アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。 と記されている中に見られます。この後、「主」はアハブの家を滅ぼされることを告げられます。ただし、「主」のさばきの宣告を恐れたアハブがへりくだったので、災いは彼の子の時代に下されることになりました。 また、南王国ユダの王たちの中で、王国を滅亡に至らしめる決定的な罪を犯したマナセの罪のことを記している列王記第二・21章10節ー12節に、 主は、そのしもべ預言者たちによって、次のように告げられた。「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。 と記されています。アハブの罪を示す時も、マナセの罪を示す時も、創世記15章において、「主」がアブラハムに語られた、 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 というみことばが踏まえられています。 「主」がこのようなアハブとマナセの罪をおさばきになることが、エモリ人の罪と比べられて述べられていることは、あのカナンの地の十の住民たちが、その罪のためにさばきを受けて、その地から追い出されることは、イスラエルの民の事情によっているのではないことを意味しています。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民には定住する地がないから、カナンの地の民を侵略して追い出したのではないということです。イスラエルの民であっても、それと同じような罪を犯し続けるなら、カナンの地の住民と同じように「主」のさばきを受けて、その地から追い出されることになるのです。 そのことは、「主」が初めからご自身の律法において、イスラエルの民に示しておられたことです。レビ記18章24節ー28節には、 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。・・・あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。 と記されています(20章22節ー24節も見てください)。 また、申命記9章4節ー6節には、 あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。 と記されています。ここで「主」は、イスラエルの民が約束の地を与えられるのは、彼らの良さによっているのではなく、「主」が一方的な恵みによって与えられたアブラハム契約の約束を果たしてくださることによっていることを示しておられます。これによって、イスラエルの民は「主」の御前に誇ることができないばかりか、カナンの地の住民たちに対しても、誇ることができないことが示されています。このことは、そのまま、「主」の一方的な愛と恵みによって「主」の民としていただいている私たちに当てはまります。 このように、メシアが「万物の相続者」として「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」を相続財産として受け取り、彼らを「主」がアブラハム契約において約束してくださった祝福にあずかる者としてくださるように治めてくださることと、「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」「地の王たち」と「治める者たち」に治められて、「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」ようになってしまっている「国々」をおさばきになることは、「主」がアブラハム契約とダビデ契約において約束してくださっていることの枠の中にあります。そして、このことは、メシアによる救いの御業とさばきの御業が一つのことの裏表のように切り離すことができないことであることを意味しています。 そのことは、先主日にお話ししました、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、「主」が示してくださった「最初の福音」が、基本的には、暗やみの主権者に対するさばきの宣言であったことによっています。 これについては、改めてお話しします。 |
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