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説教日:2016年10月30日 |
これによって、二つのことをめぐる霊的な戦いが始まっています。これは、神である主の贖いの御業の根本にあることですので、先主日にお話ししたことを少し補足しておきます。。 第一のことは、神さまが創造の御業において示されたみこころの実現をめぐる霊的な戦いです。これが、霊的な戦いの根本にあることです。 いくら「女」と「女の子孫」が救われて神である主の側につくようになったとしても、神さまが創造の御業において示されたみこころが実現しないのであれば、サタンが企てたことが実現することになってしまいます。ですからサタンと悪霊たちは、救われて「主」の民とされている人々が、神さまが創造の御業において示されたみこころを実現することがないようにと、知恵を尽くして働きかけています。 その最も把握することが難しいことの一つは、私自身がなかなか気づくことができなかったことでしたが、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業が、創造の御業において、神さまが人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身がご臨在されるこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されている神さまのみこころの回復とは関係がないかのように、福音のみことばが歪められてしまうことです。 私たちがイエス・キリストを信じて救われる前になじんでいたこの世の宗教は、いかにして自分の安心立命を獲得するか、あるいは、自分を人格的に磨き上げるかということを中心として成り立っていました。そこでは、神は目的ではなく、手段とされてしまっています。同じように、キリスト教も、そのような目的に最もかなった宗教であると考えてしまうことがあります。具体的には、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じれば、罪が赦され、天国に行くことができるということが、もちろんそれは間違ってはいないのですが、それが福音のみことばが私たちに示していることのすべてであるとされてしまうのです。 ただし、実際には、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じて、罪を贖っていただき、新しく生まれている人は、御子イエス・キリストと父なる神さまを愛して、神さまを礼拝することを中心として、神さまととの愛の交わりと、信仰の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりのうちを歩み、飲むにも食べるにも、何をするにも、神さまの栄光を現そうとして生きるようになります。そのことが、知らずのうちにではあっても、日を改めてお話しします、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすことにつながっていきます。 第二のことは、「最初の福音」において示された神である主のみこころの実現をめぐる霊的な戦いです。 神である主は、この時に、ご自身が直接的にサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されないで、「女」と「女の子孫」をお用いになって、サタンとその霊的な子孫に対する霊的な戦いを展開されます。そして、「女」と「女の子孫」のかしらなる方をとおして、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行することをお示しになりました。このことは、サタンにさらなるチャンスを与えることになりました。 サタンとしては、その「女の子孫」、特に、そのかしらとして来られる方を亡き者にしてしまえば、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止することだけでなく、「最初の福音」に示された神である主のみこころをも阻止することができるということになります。 実際に、堕落後の人類の歴史の中では、「女の子孫」がほぼ根絶やしになってしまったことがありました。それが、大洪水によるさばきをが執行される前のノアの時代の状態です。創世記6章5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。ここでは、「みな」、「いつも」、「悪いことだけ」ということばを連ねることによって、人の罪による腐敗が徹底化してしまっていることが示されています。しかも、それは特定の人々においてというのではなく、それが人の現実であるというのです。11節ー12節にも、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。このような状態をそのまま放置しておくことは、「主」の聖さが問われることになります。それで、5節に続く6節ー7節には、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。 しかし、そのような状態になった時においても、なお、「主」は恵みによって、「女の子孫」を残してくださっていました。続く8節には、 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。 と記されています。この新改訳の訳は、ノアの信仰に基づくものではありますが、ノアの人となりのよさが示されているかのような印象を与えます。この部分は、より直訳調に、 しかし、ノアは、主の目の中に恵みを見出していた。 と訳した方が、ここで言われていることの主旨が伝わります。新国際訳(NIV)、新アメリカ標準訳(NASB)、新欽定訳(NKJV)、新改定標準訳(NRSV)も、この直訳調の訳を採用しています。すでに触れましたように、人類の罪による腐敗が極まってしまったようになった厳しい時代状況にあってなお、ノアが「女の子孫」として残されたのは、「主」のまったくの恵みによっていたのです。 また、このようなサタンの目論見を背景として(もちろん、それがこの出来事の背景のすべてであるというわけではありませんが)、出エジプト記1章に記されている、イスラエルの民がエジプトに居住していた時に、パロが助産婦たちとエジプトのすべての民に、ヘブル人の男子が生まれた時には殺してしまうように命じたこと(16節、22節)を理解することができます。パロにはパロの思惑があったのですが、そのさらに奥には、暗やみの主権者の巧妙な働きがあったと考えられます。 そして、御子イエス・キリストが「女の子孫」のかしらとして来られた時に、マタイの福音書2章に記されていますが、東方から来た博士たちの話を聞いたヘロデが、自分の王位を脅かす存在を亡き者としようとして、16節にあるように、 ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。 ことも、ヘロデの猜疑心の強さ[そのことは歴史的に知られています]によっていましたが、そのさらに奥には、暗やみの主権者の巧妙な働きがあったと考えられます。 さらに、イエス・キリストが地上の生涯の最後に、ユダヤ人の指導者たちからにせメシアであるとされて、十字架につけられて殺されてしまったことも、ユダヤ人の指導者たちが、また、そのほかの民たちも、メシアとその働きについての旧約聖書の預言のみことばについて理解することができていなかったことによっていますが、そのさらに奥には、暗やみの主権者の巧妙な働きがあったと考えられます。 ヨハネの福音書8章39節後半ー40節には、イエス・キリストがユダヤ人たちに語られた、 あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。 というみことばが記されており、44節には、 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。 というみことばが記されています。 「最初の福音」において示された神である主のみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおけるサタンの目論見には、さらに、「女」と「女の子孫」を誘惑して、もう一度、神である主に背かせて、霊的な戦いにおいて、自分たちの側につくようにしてしまえば、「最初の福音」に示されたみこころの実現を阻止することができるということがあります。 このことを背景(の一つ)として、「女の子孫」のかしらなる贖い主として来られたイエス・キリストが、いよいよ、メシアとしてのお働きを始められた時に、まず、御霊によって導かれて荒野に行って、サタンの試みに会われたことが理解されます。ルカの福音書4章1節ー2節前半には、 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。 と記されています。そして、その時の試みの終わりを記している、13節には、 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。 と記されていて、これでサタンがイエス・キリストを誘惑することを止めたわけではないことが示されています。ヘブル人への手紙2章17節ー18節に、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されており、4章14節ー16節に、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されていることは、イエス・キリストがその公生涯の初めにサタンの試みを受けただけだったのではないことを示しています。また、5章7節には、 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 と記されています。 おそらく、イエス・キリストにとっての最大の試みは、マタイの福音書では24章39節ー44節に記されていますが、実際に、十字架につけられた時に、そこに居合わせた人々が、 もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。 と言ってあざけっていたことでしょう。イエス・キリストは十字架刑がもたらす、私たちの想像を絶する苦痛の中で、ご自身がご自分の民の所に来られたとあかしされている、そのご自身の民であるべき人々からのあざけりを受けながら、なおも十字架にとどまり続けられました。それは、ひとえに、その肉体的、精神的な苦しみの極みにあって、さらに、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになるためでした。 また、このサタンの目論見を背景(の一つ)として、古い契約の下で「女の子孫」として召されているイスラエルの民が、荒野において繰り返し試練に会って、その度に、「主」への不信を募らせてしまい、本当に「主」は自分たちとともにおられるかどうかを試したこと、そして、そのことが、詩篇95篇7節後半ー9節に、 きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、 荒野のマサでの日のように、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 あのとき、あなたがたの先祖たちは すでにわたしのわざを見ておりながら、 わたしを試み、わたしをためした。 と記されているように、後の時代の「主」の民たちへの戒めとされたことを理解することができます。また、そのことは、この詩篇95篇のみことばを引用して記されている、ヘブル人への手紙3章7節ー19節において、新しい契約の下にある私たちへの教訓ともなっています。 * このように、古い契約の下では、約束の贖い主であるメシアに関わる最初の約束、すなわち、「最初の福音」は、暗やみの主権者に対するさばきの宣言という形において示されています。そして、神である主は、「女」と「女の子孫」の(共同体の)かしらとして来られる方をとおして、暗やみの主権者であるサタンとその霊的な子孫たちに対する最終的なさばきを執行されるということを示されました。 この「女」と「女の子孫」のかしらとして来られる方こそが、最初にメシアとして示された方です。 それと同時に、これが「最初の『福音』」であるのは、先ほど触れましたように、「女」と「女の子孫」が、そのかしらとして来られる方との一体性において、霊的な戦いにおいて神である主の側に立つようになり、神である主の民とされるようになるからです。先ほど引用しましたローマ人への手紙16章20節に、 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。 と記されているとおりです。 このようにして、「女」と「女の子孫」の共同体のかしらなる方は救いとさばきの御業を遂行されますが、この方は後の時代に来られます。それで、この「最初の福音」以来、古い契約は、神である主がご自身の契約において約束してくださっている贖い主を、やがて来たるべき方として示しています。 そのために、旧約聖書においては、「女」と「女の子孫」の共同体と、そのかしらなる方のことを預言的にあかしするときに、「女の子孫(ゼラァ)」という呼び方だけでなく、「アブラハムの子」、「アブラハムの子孫」(注1)や、「ダビデの子」、「ダビデの子孫」(注2)、さらには、「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」(注3)や、「イスラエルの子孫」(注4)などの呼び方、あるいはそれに相当する呼び方によって、主の民の目を将来に向けさせるように導いていました。 (注1)「アブラハムの子孫(ゼラァ)」のことは、すべての個所ではありませんが、創世記12章7節、15章5節、18節、17章7節ー10節、22章17節ー18節、歴代誌第二・20章7節、イザヤ書41章8節などに出てきます。 (注2)「ダビデの子孫(ゼラァ)」のことは、サムエル記第二・7章12節、列王記第一・11章3節、詩篇18篇50節、89篇4節、29節、36節、エレミヤ書33章22節、26節などに出てきます。 (注3)出エジプト記32章13節、33章1節、申命記1章8節、34章4節、エレミヤ書31節36節ー37節などに出てきます。 (注4)イザヤ書44章3節、45章25節、48章19節、54章3節、59章21節、61章9節、66章22節、エレミヤ書31節36節ー37節などに出てきます。 また、旧約聖書に出てくる「系図」[トーレードートということばで表され、新改訳では「(誰々の)歴史」と訳されています]も、ある父祖から始めて、その特定の子孫に至るまでという形で記されています私たちがなじんでいる系図は、私たちから始めて、先祖へとさかのぼっていく形で記されていますが、旧約聖書に出てくる「系図」はこの逆の形になっています。これによって、私たちの目を「その特定の子孫」の方へと向けさせています。 たとえば、「アダムの歴史の記録」を記している創世記5章1節6章9節では、5章1節ー32節に、アダムからノアとその子どもたちに至る父祖たちの名が記されていますし、「セムの歴史」を記している11章10節ー26節には。ノアの長子であるセムから、アブラハムの父テラに至るまでの父祖たちの名前が記されています。 また、歴代誌第一・1章1節ー28節には、アダムからアブラハムとその二人の子(イサクとイシュマエル)に至るまでの父祖たちの名が記されていますし、2章では、1節ー2節でイスラエル(ヤコブ)の十二人の子たちの名が挙げられ、3節からは、特に、ユダの子孫たちの名が記されています。そして、3節ー17節にはユダからダビデに至る父祖たちの名が記されています。そして、3章には、ダビデの子孫たちの名が記されています。 旧約聖書に出てくる「系図」は必ずしも、約束のメシアに関わる「系図」だけに限られているわけではありません。主要な父祖たちの時代の歴史的な背景となっている存在のことも取り上げられています。 創世記4章16節ー24節には、カインから、洪水前の暴虐に満ちた世界を生み出した張本人であると考えられるレメクに至るまでの父祖たちの名前が記されていますし、「ノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史」を記している10章には、セム、ハム、ヤペテのそれぞれから出た洪水後の父祖たちの名前が記されています。この中でも、特に、ハムからカナンの諸氏族が出てきたことが特記されています。これは、後にアブラハムとその子孫にカナンの地が相続地として与えられることの背景となっています。 そして、新約聖書は、旧約聖書に預言的に記されている、これらの「子孫」に関わることばを用いて、その子孫に関わる約束がイエス・キリストご自身において、また、イエス・キリストにあって、私たちにおいて成就していることを示しています。アブラハムの「子孫」については、ガラテヤ人への手紙3章29節、ヘブル人への手紙2章16節を見てください。また、ダビデの「子孫」については、使徒の働き13章23節、ローマ人への手紙1章3節、テモテへの手紙第二・2章8節などを見てください。 |
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