黙示録講解

(第266回)


説教日:2016年10月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(19)


 先主日には秋の伝道集会をいたしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話に戻ります。
 イエス・キリストは、そのみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、イエス・キリストがダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示すものです。
 「」がダビデに契約の約束を与えてくださったことは、サムエル記第二・7章と、その並行個所である、歴代誌第一・17章に記されています。そして、その約束の核心にあることは、サムエル記第二では12節ー14節前半に記されています。それは、第一に、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださること、第二に、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになること、第三に、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださること、第四に、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」ということの四つにまとめられます。
 今は、このことと関連して、「」が古い契約の下で約束してくださっているメシアは、ダビデ契約において約束されているダビデの子として来られて、王としての職務を果たされるだけでなく、さらに、祭司、預言者としての職務をも併せもつ贖い主であるということ、また、そのメシアはイエス・キリストであるということについてお話ししています。そして、そのために、イエス・キリストが王、祭司、預言者の職務を併せもつ贖い主であり、古い契約において約束されていたメシアであることをまとめて示しているヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されていることを取り上げてお話ししています。
 ヘブル人への手紙1章1節ー3節には、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 これまで3回にわたって、2節に、

 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

と記されていることの前半の、

 神は、御子を万物の相続者とし、

ということについてお話ししました。


 お話が一週あきましたので、これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関連していることをまとめておきます。
 神さまが「御子」を「万物の相続者」として任命されたと言われていることは、メシア詩篇の一つである詩篇2篇に記されていること、特に、7節ー9節に記されていることを背景としています。
 詩篇2篇7節ー9節には、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。」

と記されています。
 7節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばが、イエス・キリストがテアテラにある教会へのみことばにおいてご自身のことを「神の子」として示しておられることの背景になっています。それはさらに、先ほどのダビデ契約の四つの約束のうちの最後の、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」という約束を背景としています。
 7節で、「」が、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と語りかけられた方は、その前の6節で、「」が、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

と言われるときに「わたしの王」と呼んでおられる方です。この、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

というみことばは、古い契約の下では、「」がダビデに与えられた契約、すなわち、ダビデ契約において約束されている、ダビデの「世継ぎの子」たちを王としてお立てになったことを指しています。それで、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばは、そのダビデの「世継ぎの子」たちが王として即位するときのことを指していると考えられます。
 また、「」が、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われる方は、「」にとって「」ですから、「相続者」でもあります。それで、「」は続いて、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

と言われたのです。そして、「」にとって「」となった方は、「国々を」「ゆずり」として、「地をその果て果てまで」「所有」として受け取り、それを治めるようになります。そのことが、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されています。
 このように、詩篇2篇に記されていることは、古い契約の下においては、ダビデ契約において約束されている、ダビデの「世継ぎの子」たちのことです。けれども、古い契約の下でのダビデ王朝の王たちは、古い契約の下での「地上的なひな型」としての限界をもっていて、まことのダビデの子ではないことを露呈していました。彼らはやがて来たるべき約束の贖い主であるメシア、すなわちイエス・キリストを指し示しています。

 詩篇2篇において、「」にとって「」となった方が、「ゆずり」として受けた「国々」や「所有」として受けた「」を「鉄の杖で・・・打ち砕き」、「焼き物の器のように粉々にする」と言われているのは、詩篇2篇が取り上げているのが、「と、主に油をそそがれた者とに」敵対して立っている国々であるからです。1節ー3節に、

 なぜ国々は騒ぎ立ち、
 国民はむなしくつぶやくのか。
 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。」

と記されているとおりです。
 ここで「と、主に油をそそがれた者」と言われているときの「主に油をそそがれた者」が、6節で、「」が、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

と言われるときの「わたしの王」です。
 詩篇2篇では、先ほど引用しました1節ー3節において「地の王たち」、「治める者たち」が「と、主に油をそそがれた者とに」敵対して立っていることを記していることに続いて、4節ー6節に、

 天の御座に着いている方は笑い、
 主はその者どもをあざけられる。
 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」

と記されています。
 ここでは「」は「天の御座に着いている方」として示されています。そして、その「」が、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

と言われているときの「シオン」は、詩篇132篇13節ー14節に、

 はシオンを選び、
 それをご自分の住みかとして望まれた。
 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、
 ここにわたしは住もう。
 わたしがそれを望んだから。

と言われている、「」が「ご自分の住みかとして望まれ」お選びになった「シオン」のことです。
 この「シオン」は、詩篇2篇4節で「天の御座に着いている方」と言われている「」、したがって、ご自身がお造りになったすべてのものを治めておられる方が、ご自身の「住みかとして望まれた」所ですし、「わたしの聖なる山、シオン」と言われているように、ご自身の「住みかとして」聖別された所です。「」はそのご自身の「住みかとして」聖別された所に「わたしの王を立てた」と言われます。
 このことは、古い契約の下では、ダビデ契約において、ダビデの「世継ぎの子」が約束された王座に着座すると、「シオン」に主の御名のための「」を建てるようになることを指しています。先ほど引用しました詩篇132篇13節において、

 はシオンを選び、
 それをご自分の住みかとして望まれた。

と言われていますが、17節には、

 そこ[シオン]にわたしはダビデのために、
 一つの角を生えさせよう。
 わたしは、わたしに油そそがれた者のために、
 一つのともしびを備えている。

と記されているとおりです[「一つの角」と「一つのともしび」の「一つの」ということばはなく、「」と「ともしび」が単数であることによっています]。
 これらのことは、「天の御座に着いている方」として、ご自身がお造りになったすべてのものを治めておられる「」は、「」が「わたしの王を立てた」と言われる「主に油をそそがれた者」をとおして、堕落後の人類の世界を治め、救いとさばきの御業を遂行されることを示しています。そして、詩篇2篇では、その救いとさばきの御業のうち、特に、さばきの御業の方に焦点が当てられています。
 古い契約の下では、ダビデの「世継ぎの子」は、「シオン」にご臨在される「」のみこころにしたがって、「」から委ねられた使命を果たすために、ダビデ契約において約束されているダビデ王朝の王座に着いて治めるるように召されていました。
 それを詩篇2篇に示されているさばきの御業に焦点を当てて見ますと、ダビデの「世継ぎの子」は「騒ぎ立」つ「国々」と「むなしくつぶやく」「国民」たち(複数)を治めている「地の王たち」と「治める者たち」が、「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って立っていることに対して、さばきの御業を遂行するようになるということです。
 このことは、やはりメシア詩篇として知られている詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることにも表されています。
 ここで「あなた」と呼ばれている方は、ダビデ契約に約束されているダビデの「世継ぎの子」です。そして、「あなたの敵」と言われているのは、「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って立っている「地の王たち」と「治める者たち」です。また、「足台とする」ということは、古代オリエントにおいて、勝利をおさめた王が、敵対していた者たちの首の上に足を置いたことから生まれた表象で、敵を打ち破って自分の主権に服させることを意味しています。さらに、「」の「右の座に着く」ということは、「」から委ねられた権威によって、治めることを意味しています。
 これらのことを踏まえますと、110篇1節は二つのことを示していることが分かります。
 一つは、これまでお話ししてきた詩篇2篇に記されていることに沿って言いますと、「天の御座に着いている方」として、ご自身がお造りになったすべてのものを治めておられる「」が、「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って立っている「地の王たち」と「治める者たち」をおさばきになることは、「」が彼らを「主に油をそそがれた者」の「足台とする」ことにおいて実現するということです。
 もう一つは、「」が「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って立っている「地の王たち」と「治める者たち」をおさばきになることは、「主に油をそそがれた者」が「」から委ねられた権威によって、治めることをとおして実現するということです。
 この二つのことは、一つのことの裏表のようなことで、互いに切り離すことができません。「」はご自身が「油をそそがれた者」をとおして、すべてのものを治められるということです。また、その方を通して、「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って立っている敵に対するさばきを執行されるということです。
 このように、ダビデの「世継ぎの子」は「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」っている「地の王たち」と「治める者たち」に対するさばきを執行するように召されています。ところが、繰り返しお話ししていますように、血肉のダビデの「世継ぎの子」たちは、何人かの例外がありますが、「」を礼拝し、「」に仕えるどころか、「地の王たち」と「治める者たち」に倣って、「地の王たち」と「治める者たち」が仕えているさまざまな偶像を拝み、それらに仕えるようになってしまいました。この意味でも、彼らはまことのダビデの「世継ぎの子」ではありませんでした。

 このように、詩篇2篇(と110篇1節)においては、「天の御座に着いている方」である「」が、ご自身が「わたしの王」と呼ばれる方、「主に油をそそがれた者」(メシーホー、「その[の]メシア」)をとおして、「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」っている主権者たちに対するさばきの御業を遂行されることが示されています。
 これには、さらに深い歴史的な背景があります。このと、主に油をそそがれた者とに逆ら」っている主権者たちを歴史的にさかのぼっていきますと、暗やみの主権者であるサタンに行き着きます。そして、「主に油をそそがれた者」すなわち、「」がダビデ契約において約束してくださっているダビデの「世継ぎの子」についての約束を歴史的にさかのぼっていきますと、「最初の福音」に行き着きます。
 このことについては、いろいろな機会にお話ししてきましたので、ごく簡単にまとめておきます。
 神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとして造られている人にお委ねになりました。創世記1章27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 暗やみの主権者であるサタンは、大天使に属する栄光を与えられた御使いとして造られたのに、その栄光のゆえに高ぶり、自らが神のようになろうとして、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったと考えられます。そのこと自体を記しているみことばはありませんが、イザヤ書14章12節ー15節に記されているバビロンの王の高ぶりや、エゼキエル書28章11節ー19節に記されているツロの王の高ぶりが、サタンの堕落を映し出していると考えられます。
 また、サタンとサタンに従って堕落した悪霊たちは、その本性が完全に罪によって腐敗しきっているために、ひたすら神である主に逆らうことを目的として存在し、働いていると考えられます。
 そのようなサタンからしますと、神さまがお造りになった世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人を、造り主である神さまに対して罪を犯させ、もはや、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たすことがないようにしてしまえば、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現しないことになります。
 これは創造の御業における神さまの栄光にかかわることです。サタンは創造の御業において現されている神さまのみこころとそのご計画を阻止して、神さまの栄光を恥辱に変えようとして、人を誘惑したのです。
 サタンの働きについては、一般的なイメージに従っている人々の間では、サタンがとても悪い存在で、人を不幸に陥れようとして人を誘惑したと考えられています。あるいは、救われて主の民となった人々の中でも、サタンは、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったので、人に嫉妬して、人を誘惑したというように考える人々がいます。どちらも、まったく間違っているというのではないのですが、派生的なことです。サタンが、神である主が愛しておられる人を憎んで、不幸に陥れるということは考えられることです。けれども、それは派生的なことです。
 創世記3章1節ー6節に記されているように、サタンは人を誘惑して、神である主に対して罪を犯させることに成功しました。その際に、サタンは、まず、1節に、

 が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。

と記されている「」を用いて、エバを誘惑しました。ここで「狡猾な」と訳されていることば(アールーム)は「賢い」というよい意味もあります。「が造られた」ものであるという点では「賢い」ものでした。エバはそれに引かれたと考えられます。
 エバが神である主の戒めに背いて罪を犯した後は、「」は背後に退いて、エバが夫アダムを誘惑して、神である主の戒めに背いて罪を犯すように導きました。
 このようにして、サタンは、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人を、造り主である神さまに対して罪を犯させ、もはや、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たすことがない状態に陥れました。これによって、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現しなくなってしまったように思われました。少なくとも、サタンはそう確信したはずです。
 これに対して「神である」はサタンに対するさばきの宣言において、サタンが想像することもできなかったみこころを明らかにされました。それが「最初の福音」と呼ばれている、神である主のみことばです。それは、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 この「最初の福音」は、「おまえ」と呼ばれているサタンと「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫に対するさばきの宣告です。ここで神である主は、サタンがエバを誘惑するために用いた「」をお用いになって、サタンに対するさばきの宣言をしておられます。ここには、サタンがエバを誘惑するために適したものとして用いた「」は、神である主がサタンに対するさばきを宣言するために用いるのにうってつけのものであったという、痛烈な皮肉があります。
 ここで神である主は、この時、ご自身が直接的にサタンをさばくのではなく、まず、「」と「女の子孫」(「」の霊的な子孫)とサタンとサタンの霊的な子孫の間に「敵意」を置いてくださった上で、「」と「女の子孫」をとおしてサタンに対するさばきを執行するというみこころを示されました。
 この時、「」ご自身が直接的にサタンとその霊的な子孫をおさばきになっておられたら、サタンと悪霊たちだけでなく、サタンと罪によって一つとなっていたアダムとエバもさばきを受けて、滅ぼされていたことでしょう。神さまに逆らうことを目的とし動機としているサタンにとっては、そのように自分がさばかれることは覚悟の上であったはずです。しかし、神である主はそのようなサタンの目論見を越えたみこころを示されました。
 この「最初の福音」においては、「」と「女の子孫」は、神である主がサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行するための器として用いられること、それゆえに、「」と「女の子孫」は、霊的な戦いにおいて、神である主の側に立つようになることが示されています。これが「最初の福音」において示されている私たち主の民の救いです。
 それとともに、これによって、二つのことをめぐる霊的な戦いが始まっています。
 一つは、より根本的なことですが、神さまが創造の御業において示されたみこころの実現が阻止されてしまうか、それとも実現するかということをめぐる霊的な戦いです。いくら「」と「女の子孫」が救われて神である主の側につくようになったとしても、神さまが創造の御業において示されたみこころが実現しないのであれば、サタンが企てたことが実現することになってしまいます。ですから、サタンと悪霊たちは、救われて神である主の民とされている人々が、神さまが創造の御業において示されたみこころを実現することがないようにと、知恵を尽くして働きかけています。
 もう一つは、少し説明が必要です。「最初の福音」に示されている神である主のみこころは、この時に、神である主ご自身が、直接的に、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」をお用いになって、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行すということにありました。
 このことは、サタンにさらなるチャンスを与えることになりました。サタンとしては、「」と「女の子孫」を亡き者にしてしまえば、神である主は「」と「女の子孫」を通して、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行するという「最初の福音」に示されたみこころをも阻止することができるということになります。
 あるいは、「」と「女の子孫」を、もう一度、神である主に背かせて、霊的な戦いにおいて、自分たちの側につくようにしてしまえば、「最初の福音」に示されたみこころを阻止することができるということになります。「」と「女の子孫」の内には、罪の性質が残っているわけですから、これはサタンにはやさしいことに思えたことでしょう。
 このことには、さらにもう一つのことがかかわっています。
 それは、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」においては、「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとその霊的な子孫の共同体が歴史的に継続していって、霊的な戦いを展開していくことが示されています。そして、それぞれの共同体には「かしら」があることが想定されています。共同体にかしらがあることは、旧約聖書が踏まえていることです。サタンとその霊的な子孫の共同体のかしらは、言うまでもなく、サタンです。これに対して、「」と「女の子孫」の共同体のかしらは「」ではなく、「女の子孫」の中にいます。そして、「最初の福音」においては、この「女の子孫」のかしらとして来られる方が、

 彼は、おまえの頭を踏み砕く

と言われているように、サタンに対する最終的なさばきを執行します。
 御子イエス・キリストはこの「女の子孫」のかしらとして来られましたし、今お話ししました、いくつかの問題をすべて神さまのみこころにしたがって実現しておられます。これについては、日を改めてお話しします。


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