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説教日:2016年10月9日 |
ここ詩篇2篇9節で、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする と言われているのは、7節ー9節に先立つ1節ー6節に、 なぜ国々は騒ぎ立ち、 国民はむなしくつぶやくのか。 地の王たちは立ち構え、 治める者たちは相ともに集まり、 主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、 彼らの綱を、解き捨てよう。」 天の御座に着いている方は笑い、 主はその者どもをあざけられる。 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。 わたしの聖なる山、シオンに。」 と記されていることによっています。 ここでは、「国々は騒ぎ立ち」、「国民[複数]はむなしくつぶやく」ことのむなしさが示されていますが、それは彼らを治める「地の王たち」、「治める者たち」が「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」ことに集約されます。ここで、「地の王たち」と「治める者たち」(ラーゾーン[位の高い人]の複数)の組み合せで、すべての種類の権力者たちを表していると考えられます。彼らが さあ、彼ら[主と、主に油をそそがれた者]のかせを打ち砕き、 彼らの綱を、解き捨てよう。 と言うとき、自分たちが「主と、主に油をそそがれた者」の主権の下にあることを踏まえています。しかし、それでも、彼らはこぞって、「主と、主に油をそそがれた者」に逆らっているというのです。 このことは、旧約聖書の時代にも、いろいろな形で実現しますが、新約聖書においては、特に、それが約束のメシアに対してなされたことであることが示されています。 使徒の働き3章ー4章に記されていますが、ペテロとヨハネが宮で、生まれつき足の萎えた人を癒し、人々にイエス・キリストをあかししていた時に、捕らえられ、留置されました。二人は、翌日サンヘドリンによって裁判にかけられ、尋問を受けた時に、その議員たちにもイエス・キリストをあかししましたが、審理の後釈放されました。二人からこのことを聞いた「仲間」たちのことが4章24節ー29節に、 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。 『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、 もろもろの民はむなしいことを計るのか。 地の王たちは立ち上がり、 指導者たちは、主とキリストに反抗して、 一つに組んだ。』 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。 と記されています。 詩篇2篇では、1節ー3節に続いて4節に記されている、 天の御座に着いている方は笑い、 主はその者どもをあざけられる。 というみことばは、「主」を「天の御座に着いている方」(直訳「天に座している方」)として、次に「主」(アドーナーイ)として表しています。これは、「地の王たち」と対比されます。「地の王たち」、「治める者たち」が地上にあって権力を振るっているだけであるのに対して、「主」は天の御座に着いて、すべてのものを治めておられる「主」(アドーナーイ)です。 この方は、「地の王たち」、「治める者たち」が「主と、主に油をそそがれた者」に逆らっていることを、笑いとあざけりをもって受け止めておられます。卑近なことばで言いますと、「ちゃんちゃらおかしい」ということでしょう。 しかし、5節に、 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。 と記されているように、「主」はそれを笑い飛ばして終わってはいません。「その時」(アーズ・新改訳「ここに」)、彼ら、「地の王たち」、「治める者たち」に対する聖なる御怒りをもって語られ、「燃える怒りで彼らを恐れおののかせる」と言われます。 そうしますと、その「主」が語られたことは、身の毛もよだつほど恐ろしいことではないかと思われます。それが6節に、 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。 わたしの聖なる山、シオンに。 と記されています。「えっ、何でこれが」と思いたくなるようなことですが、それは、先ほど引用しましたが、これに続く7節ー9節、特に、9節に、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 と記されている「主」のみことばに示されています。 6節に記されている、 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。 わたしの聖なる山、シオンに。 という「主」のみことばに戻りますが、これは、「主」が語られたことを直接引用する形で記されています。それでこれは、「地の王たち」、「治める者たち」が「主と、主に油をそそがれた者」に逆らって言ったことばを直接引用する形で記している、 さあ、彼らのかせを打ち砕き、 彼らの綱を、解き捨てよう。 ということばに対応する「主」のことばです。 「主」は、 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。 わたしの聖なる山、シオンに。 と言われたのですが、ここで、 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。 と言われているときの「わたしは」は、代名詞(アニー)で表されていて強調されています。 ご自身のことを、天の御座に着いて、すべてのものを治めておられる「主」として示しておられる「主」が、「わたしの王」と呼んでおられる方を立てたと言われました。これは、「主」がすべてのものを治めておられる主権者として定められたことであり、必ず実現することです。 言うまでもなく、「主」が「わたしの王」と呼んでおられる方とは、「地の王たち」、「治める者たち」が「主と、主に油をそそがれた者」に逆らっていると言われているときの「主に油をそそがれた者」、すなわち、「主」がお立てになったメシアのことです。また、 わたしの聖なる山、シオンに。 と言われているのは、詩篇132篇13節ー14節に、 主はシオンを選び、 それをご自分の住みかとして望まれた。 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、 ここにわたしは住もう。 わたしがそれを望んだから。 と言われている、「主」が「ご自分の住みかとして望まれ」お選びになったシオンのことです。 このことは、この13節ー14節の前の、11節ー12節に、 主はダビデに誓われた。 それは、主が取り消すことのない真理である。 「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。 もし、あなたの子らが、わたしの契約と、 わたしの教えるさとしを守るなら、 彼らの子らもまた、とこしえに あなたの位に着くであろう。」 と記されていますように、「主」がダビデに与えられた契約に基づくことです。 そして、ダビデの血肉の子であるソロモンが、シオンに、「地上的なひな型」としての主の神殿、エルサレム神殿を建てました。しかし、詩篇132篇14節には、「主」が、このシオンについて、 これはとこしえに、わたしの安息の場所 と言われたことが記されています。けれども、ソロモンが建てた神殿は、ソロモンから始まる、ダビデの血肉の子である王たちの、偶像礼拝を中心とした罪に対する「主」のさばきによって、バビロンの王ネブカデネザルによって破壊されてしまいました。それは地上の建物としては壮大なものでしたが、「主」が、 これはとこしえに、わたしの安息の場所 と言われた神殿ではなく、それを指し示す「地上的なひな型」でしかありませんでした。 地上の建物としての神殿は、「主」が、 これはとこしえに、わたしの安息の場所 と言われた神殿ではなく、それを指し示す「地上的なひな型」であったということは、「第二神殿」あるいは「ゼルバベルの神殿」と呼ばれる神殿や、「ヘロデの神殿」と呼ばれる神殿についても当てはまります。 「第二神殿」あるいは「ゼルバベルの神殿」と呼ばれる神殿は、主が預言者たちをとおして示してくださったとおり、ペルシアの王クロスの勅令によって、バビロンの捕囚からユダヤに帰還した南王国ユダの民が再建したものです。これは前516/5年に完成しましたが、前63年にローマのポンペイウスによってエルサレムが陥落して、ユダヤがローマの属州になってから、9年後に、ローマの行政長官クラッススによって神殿のすべての金が略奪されてしまったようです。その後、エルサレム神殿はヘロデによって、前20/19年から再建され後64年に完成するようになります。けれども、70年にローマ軍によってエルサレムが陥落した時に、エルサレム神殿は略奪され、消失しました。 「主」が、このシオンについて、 これはとこしえに、わたしの安息の場所 と言われたことは、イザヤ書66章1節ー2節に、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 ――主の御告げ―― わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と記されているみことばを思い起こさせます。詩篇132篇14節に出てくる「わたしの安息」(「の場所」は補足)とイザヤ書66章1節に出てくる「わたしのいこい」(「の場」はマーコーム)は同じことば(メヌーハーティー)です。 使徒の働き7章には、イエス・キリストのあかしをしたために捕らえられて、サンヘドリンで審問を受けたステパノのあかしが記されています。ステパノは父祖アブラハムが神さまの召命を受けたことから初めて、神である主の贖いの御業の歴史と、それにあずかっているイスラエルの民の不信仰の歴史を交えてあかししています。その主の贖いの御業の歴史のあかしの最後に、ソロモンが建てた神殿についてもあかししています。44節ー50節には、 私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。 「主は言われる。 天はわたしの王座、 地はわたしの足の足台である。 あなたがたは、どのような家を わたしのために建てようとするのか。 わたしの休む所とは、どこか。 わたしの手が、これらのものを みな、造ったのではないか。」 と記されています。 ステパノはここまであかしをしてから、続く、51節ー53節において、彼のあかしを聞いている人々、サンヘドリンの議員たちを糾弾しています。51節ー52節には、 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。 と記されています。 一見すると、突然、主の贖いの御業の歴史に基づくあかしが終わってしまったように見えます。けれども、神である主が人の手で造った神殿にはお住みにならないということは、イスラエルの民のかたくなさと深くかかわっていました。 主のさばきが目前に迫って来ていることをユダの人々に警告したエレミヤは、エレミヤ書7章において、ユダの人々に悔い改めを迫っています。4節には、 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っている偽りのことばを信頼してはならない。 と記されています。この、 これは主の宮、主の宮、主の宮だ ということばはについては、これがにせ預言者のことばであるという見方と、神殿における祭儀において繰り返し語られることばであるという見方があります。いずれにしましても、確かに、そこには「主の宮」がありましたから、このことば自体は間違ったことを言っているわけではありません。けれども、このことばは、エルサレムには「主の宮」があるから、そして、そこで「主」にいけにえがささげられているから、自分たちは大丈夫であるということを人々に伝えています。 このことばが語られているユダの人々の実情を記している、8節ー11節には、 なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ―― という「主の御告げ」が記されています。 その時代のユダの人々は、「盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き」、「ほかの神々に従って」いました。それなのに、「主の宮」にやって来て、「私たちは救われている」と言っていました。いわば、「主の宮」を「隠れみの」として「盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き」、「ほかの神々に従って」いたのです。そのようなことをしていながら、壮大な「主の宮」があるから、そこで「主」にいけにえがささげられているから、自分たちは大丈夫だと思い込んでいたということでしょう。 これを、引用はしませんが、12節ー15節に記されていることに照らして見ますと、北王国イスラエルは「主」への不信仰と不従順のために滅ぼされたけれども、自分たちは大丈夫だという誇りがともなっていたと思われます。それで、これに続く12節ー15節においては、彼らが頼みとしている「主の宮」が破壊されてしまうことが、北王国イスラエルの滅亡に重ね合わされる形で示されています。 ステパノは、まさに、これと同じことを、最高議会であるサンヘドリンの議員たちにあかししつつ、悔い改めを迫っていたのです。 イザヤ書66章1節で「主」が、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と言っておられることは、詩篇2篇4節で「主」がご自身のことを「天の御座に着いている方」にして、すべてのものを治めておられる主権者である「主」(アドーナーイ)として示しておられることに通じています。 この方が、「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」「地の王たち」と「治める者たち」をおさばきになるために、「わたしの王」すなわち「主に油をそそがれた者」であるメシアを、「主」がご臨在される場所としてお選びになったシオンにお立てになります。しかし、それは、「主」がお立てになるメシアについて、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 と述べておられることが実現するだけで終わるものではありません。 「主」のみことばは、「主」の贖いの御業の歴史においては、救いの御業とさばきの御業が、そこに時間的なズレがある場合があるとしても、裏表のように遂行されることを示しています。 ですから、「主」は「地の王たち」と「治める者たち」にさばきを執行されるだけではありません。それと同時に、「主」が「わたしの王」としてお立てになるメシアをとおして、ご自身の民をお救いになります。具体的には、「主」が「わたしの王」と呼ばれる方が、まことのシオンに、まことの「主」の神殿をお建てになります。そこに、「天の御座に着いている方」である「主」がご臨在してくださり、ご自身が「わたしの王」としてお立てになったメシアをとおして、ご自身の民を治めてくださり、ご自身との交わりを中心とした、いのちの道へと導いてくださるようになります。 また、もう一つ心に留めておきたいことがあります。 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と言っておられる「主」は、ご自身が目を留めてくださるのは「へりくだって心砕かれ」、「主」の「ことばにおののく者だ」と言われます。「主」は自分の力では何もできないことを認めて、御前にへりくだり、ひたすら「主」の恵みとあわれみにより頼む者たちに目を留めてくださり、彼らの間に御臨在してくださいます。 |
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