|
説教日:2016年10月2日 |
そのことについては、日を改めてお話ししますが、その前に、これまでお話ししてきましたアブラハム契約との関係に触れておきます。 詩篇2篇8節に記されている、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 という「主」のみことばは、神さまがアブラハムに与えられた契約であるアブラハム契約を背景としています。というのは、アブラハム契約はアブラハムの相続人、「相続者」としての子にかかわる契約であるからです。 アブラハム契約の根底にあるのは、創世記12章3節に記されている、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という「主」による祝福の約束です。「主」はこの祝福の約束を実現してくださるために、アブラハムを召してくださり、アブラハムに契約を与えてくださいました。 「主」がアブラハムに契約を与えてくださったことは創世記17章に記されています。その4節ー6節においては、「主」が、 あなたは多くの国民の父となる。 と約束してくださいました。そして、アブラハムの名前をそれまでのアブラムからアブラハムに変えてくださることによって、「主」ご自身がこのことに主権的にかかわってくださることを示してくださいました。このようにして、「地上のすべての民族は」、「多くの国民の父となる」と約束されているアブラハムの霊的な子孫となることによって祝福を受けるようになります。 その祝福は続く7節ー8節に記されている、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 というみことばに示されています。その中心にあるのは、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる。 という祝福の約束です。 先主日、詳しくお話ししましたように、「主」の契約の祝福は、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という、聖書の中に繰り返し出てくる、みことばによってまとめられます。 アブラハム契約の約束は、この「主」の契約の祝福が「あなた」と呼ばれているアブラハムだけでなく、「あなたの後の子孫」(単数形ですが集合名詞として理解します)にまで及ぶということに特徴があります。このことを受けて、出エジプト記3章6節に記されているように、出エジプトの時代に、「主」はモーセに、 わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われてご自身のことを表されました。また、14節で、ご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 であることを示してくださったことを受けて、ご自身のことを、 あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主 として示しておられます。「主」はご自身がアブラハムに与えてくださった契約に対して真実であられ、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる。 という約束を守られ、アブラハムの子イサクの神となられるとともに、アブラハムが世を去った後も、なお、アブラハムの神でいてくださいました。それはイサクとヤコブにおいても同じでした。そして、モーセの時代になっても、それは変わることはありませんでした。「主」はアブラハム契約の約束に基づいて、エジプトの奴隷の状態にあるイスラエルの神となってくださいました。そして、その時も、「主」は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であられました。 また、この、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という「主」の契約の祝福には、必ず、これと裏表になっている祝福がともなっています。それは、「主」が「主」の民の間にご臨在してくださり、主の民は「主」との親しい交わりのうちに生きるようになるということです。実際、「主」はこの祝福を実現してくださるために、出エジプトの贖いの御業を遂行されました。出エジプト記29章45節ー46節に、 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。 と記されているとおりです。この「主」のみことばには、「主」の契約の祝福の二つの面がともに取り上げられています。 「主」の契約の祝福の二つの面をともに取り上げている代表的なみことばは、主の契約の祝福を記しているレビ記26章に出てきます。その11節ー12節には、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と記されています。前半部分(11節ー12節前半)で、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 というみことばは、「主」が「主」の民の間にご臨在してくださることを示しています。 ここに出てくる「わたしの住まい」は、イスラエルの民が荒野を旅する時代には主の幕屋を表しています。これは、後の王国の時代には主の神殿として発展します。いずれも、「主」の御臨在の場所を表す「地上的なひな型」です。 また、 わたしはあなたがたの間を歩もう。 と言われているときの「わたしは・・・歩もう」ということば(ヒスハルラクティー)は、強調形(ヒスパエル語幹)で表されていて、「歩き回る」という意味合いを伝えています。これと同じ形は、エデンの園において、神である「主」が人にご自身を現してくださるためにそこにご臨在された時のことを記している創世記3章8節において、 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 と言われているときに用いられています。これは、人とその妻が神である「主」に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後のことを記すものですが、その時も、「主」はいつものように彼らとの交わりをもつために、そこにご臨在してくださったと考えられます。けれども、人とその妻は、そのような神である「主」の御臨在を恐れる者となっていました。この時は、それでもなお「主」は、人とその妻に語りかけてくださっています。それは、ご自身に対して罪を犯した人とその妻を悔い改めに導いてくださるための語りかけであり、「主」の御臨在は恵みによる御臨在でした。 また、このことばは、「主」の民が「主」とともに歩むことについても用いられています。このことばは、創世記5章22節と24節で、 エノクは神とともに歩んだ。 と言われているときや、17章1節において、「主」がアブラハムに、 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 と言われたときに用いられています。 これらのことから、「主」の、 わたしはあなたがたの間を歩もう。 という約束は、「主」が御自身の民との親しい交わりをもってくださり、主の民を「主」との親しい交わりのうちに生きるようにしてくださることを示していると考えられます。 また、レビ記26章11節ー12節の後半部分の、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 というみことばは、「主」と「主」の民の契約に基づく関係、その意味で、法的な関係を示しています。 聖書の中では、「主」と「主」の民の契約に基づく関係が夫と妻の関係にたとえられています。このたとえを用いますと、結婚関係において、男子は女子の夫となり、女子は男子の妻となります。これは、「主」が、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と言われたことに当たります。このようにして確立された夫と妻の関係は、法的な関係ですが、そこには法的ということばが醸し出す冷たさはなく、それは愛の関係です。私たちの間では契約は取引の際に結ばれるものであるというイメージがあります。けれども、「主」と「主」の民の間の契約関係は、男女の結婚関係と同じように、本質的に、愛の関係です。結婚関係において、二人は、結婚という法的な関係に基づいて、ともに住み、愛において心もからだも一つとなって、ともに生きるようになります。 これが、「主」の契約の基本的な祝福のもう一つの面の、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 ということに当たります。「主」が私たちとともに住んでくださり、私たちとともに歩んでくださいます。それで、私たちも「主」の御臨在の御許に住まい、「主」とともに歩むようになります。 結婚において二人の男女が夫と妻となることと、二人が愛において一つに結ばれて、ともに住み、ともに歩むことは、結婚における祝福の裏表の関係にあって、切り離すことはできません。同じように、「主」の契約において「主」が、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と約束してくださっているなら、「主」は、必ず、その愛と恵みによって、私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともに歩んでくださいます。 「主」と「主」の民の契約関係を夫と妻の結婚関係にたとえることによって見えてくることがあります。それは、結婚における夫と妻の関係が愛の関係であるというとき、夫が愛しているのは妻その人ですし、妻が愛しているのは夫その人です。より一般化して言いますと、夫と妻、親と子、兄弟姉妹、友人同士など、それがどのような関係であっても、愛の関係であれば、相手の存在そのものが目的であり、喜びとなります。その人がいてくれるということ自体が目的であり、喜びとなるのです。 とはいえ、自らのうちに罪を宿しており、罪の自己中心性に縛られてしまっている私たちは、このような愛の関係の本来のあり方を見失い、損なってしまうことがあります。けれども、「主」にはそのようなことがありません。 ローマ人への手紙5章8節には、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されており、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 また、ヨハネの手紙第一・3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されており、黙示録1章5節後半ー6節前半には、 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。 と記されています。これほどまでに私たちを愛してくださり、愛してくださっている父なる神さまと御子イエス・キリストには、決して「下心」はありません。父なる神さまと御子イエス・キリストは私たち一人一人を愛してくださり、私たち一人一人を御自身の喜びとしてくださっています。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛は、決して、変わることがありません。 いろいろな機会にお話ししていますが、先ほど引用しました、ローマ人への手紙5章8節には、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されています。ここで言われている、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったこと は、今から2千年前に起こったことです。そのことにおいて、御子イエス・キリストと父なる神さまの私たちに対する愛が、この上なく豊かに、また、鮮明に現されました。けれどもそれは過去のことではありません。ここでは、そのことによって、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と言われています。これは現在時制で表されていて、神さまが常に変わることなく「私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられ」ると言われているのです。今から2千年前に、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことにおいて現された愛は、今も、また、この後も、永遠に変わることなく、私たちに注がれています。 このように父なる神さまと御子イエス・キリストに愛していただいている私たちは、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛するようになります。それは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に「ジーン」ときて心を入れ替えたということではありません。表面的にはそのように見えるかも知れません。けれども、その奥には、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちに働きかけてくださっているという事実があります。 具体的には、聖霊降臨節の日に、父なる神さまの右の座に着いておられるイエス・キリストが遣わしてくださった御霊が、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださっているのです。ちなみに、これも日を改めてお話ししますが、この父なる神さまの右の座が、ダビデ契約に約束されているまことのダビデの子が着座する永遠の王座です。 イエス・キリストが遣わしてくださった御霊は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。御霊は私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって私たちの罪をきよめてくださり、私たちを罪の自己中心性から解き放ってくださるとともに、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。 これによって、初めて、私たちのうちに父なる神さまと御子イエス・キリストを愛する愛が生まれてきたのです。それの時、私たちはイエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった約束の贖い主であると信じるようになり、イエス・キリストを主として告白するようになりました。とはいえ、これらのことは、イエス・キリストにあって、確かに、私たちに起こっていることですが、同時に、地上にある間は、私たちのうちには、なおも、罪の性質が残っています。私たちはこの現実の中にあってうめいています。けれども、終わりの日に再び来てくださるイエス・キリストが私たちを御自身の栄光のかたちに似た者に造り変えてくださいます。ですから、今はローマ人への手紙8章23節に、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されているように、うめきながらも、望みのうちを歩んでいます。 このように、父なる神さまは、御霊によって、私たちを御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、私たちを愛のうちに生きる者として造り変えてくださいました。これによって、私たちも、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛する者としていただいています。その私たちにとって、父なる神さまと御子イエス・キリストが喜びの源となっています。しばしば、揺れることがあるとしても、最後にはそこに落ち着きます。 実は、このことが、聖書では、神である「主」こそが私たち主の契約の民の相続財産であるという思想の核心にあります。このことについては、改めてお話ししますが、ここでは、このことを告白している詩篇の一つ、73篇25節ー26節を引用しておきます。そこには、 天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。 しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。 と記されています。ここで「分の土地」と訳されていることば(ヘーレク)にはいくつかの意味がありますが、ここでは「相続地の割当分」という意味で「分の土地」と訳されています。 |
|
||