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説教日:2016年9月25日 |
この点は、今お話ししていることとかかわっていますので、もう少しお話ししておきたいと思います。 「主」の契約の祝福は、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という、聖書の中に繰り返し出てくる、みことばによってまとめられます。これは、「主」が私たちの神となってくださり、私たちが「主」の契約の民となるという祝福の約束です。聖書の中では、この一方の約束、すなわち、「主」が私たちの神となってくださるという約束か、私たちが「主」の契約の民となるという約束だけが出てくることがあります。このアブラハム契約の、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる という約束もそうですが、その場合には、必ず、もう一方の約束(アブラハム契約であれば、聖書に記されてはいませんが「あなたとあなたの子孫は、わたしの民となる」)も含まれています。 この祝福の約束は、この後、出エジプト記6章7節、レビ記11章45節、22章33節、26章12節後半、45節、民数記15章41節、エレミヤ書7章23節、11章4節、24章7節、30章22節、31章1節、33節、32章38節、エゼキエル書11章20節、14章11節、31章33節、34章24節、36章28節、37章23節、27節、ゼカリヤ書2章11節、8章8節、コリント人への手紙第二・6章16節、ヘブル人への手紙8章10節、黙示録21章3節などに出てきます。 代表的に、出エジプト記6章7節を見てみたいと思いますが、その前の6節から引用しますと、そこには、 それゆえ、イスラエル人に言え。 わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。 と記されています。 ここでは、出エジプトの贖いの御業の目的が、 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。 ことにあるということが示されています。引用はしていませんが、これに先立つ3節ー5節には、出エジプトの贖いの御業がアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブへと受け継がれた契約、すなわちアブラハム契約に基づくものであることが示されています。 また、この、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という「主」の契約の祝福には、必ず、これと裏表になっている祝福がともなっています。それは、「主」が「主」の民の間にご臨在してくださり、主の民は「主」との親しい交わりのうちに生きるようになるということです。 このこと(「主」が「主」の民の間にご臨在してくださるということ)は、出エジプト記25章8節、29章45節ー46節、レビ記26章11節ー12節前半、民数記35章34節、イザヤ書57章15節、エゼキエル書43章7節、9節、37章26節ー28節、ゼカリヤ書2章10節ー11節前半、8章3節、黙示録21章3節などに示されています。 出エジプト記29章45節ー46節には、 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。 と記されていて、出エジプトの贖いの御業の目的が、「主」がイスラエルの民の間に住んでくださることにあったことが示されています。45節の、 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。 という「主」のみことばは、「主」が私たちの神となってくださり、私たちが「主」の民となることと、「主」が私たち「主」の民の間にご臨在してくださり、私たちは「主」との親しい交わりのうちに生きるようになることが切り離し難くつながっていることを示しています。 出エジプト記24章には、「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださったことと、そのことを受けて、「主」がモーセに、ご自身がご臨在されるシナイ山に登って来るように命じられたことが記されています。そして、25章以下には、「主」がモーセに語られたことが記されています。「主」が最初に示されたのは、主がイスラエルの民の間にご臨在されるための「聖所」についてでした。8節ー9節には、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 と記されています。このことも、「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださって、イスラエルの民をご自身の契約の民としてくださったことは、「主」がイスラエルの民の間に住んでくださることにおいて現実的なこととなる、ということを示しています。 主がご自身の契約の民の間にご臨在してくださるために与えてくださった「聖所」は、この後、イスラエルの民が約束の地へと旅を続けている間は、民とともに移動することができる幕屋の中心にありました。その状態は、イスラエルの民がカナンの地に入ってからも、ダビデによって統一王国が確立されるようになるまで続いていました。そして、「主が周囲のすべての敵から守って、彼[ダビデ]に安息を与えられたとき」(サムエル記第二・7章1節)、ダビデは「主」の御名のための神殿の建設を志しました。その時、先ほど触れましたダビデ契約が与えられました。 そして、そのことの古い契約の下での成就として、ダビデの「世継ぎの子」であるソロモンがエルサレム神殿を建設しました。主の聖所は、その神殿の中心にありました。 けれども、繰り返しお話ししてきましたように、ソロモンはダビデ契約に約束されていてまことのダビデの子ではありませんでしたし、ソロモンが建てた地上の建物としてのエルサレム神殿も、ダビデの子が建てる、まことの主の御名のための神殿ではありませんでした。ソロモンも、またソロモンの後のダビデ王朝の王たちも、何人かの例外はありましたが、偶像礼拝を中心として主の戒めに背き続けて、主のさばきを招き、ダビデ王朝は滅亡し、エルサレム神殿も破壊され、主の民のおもだった人々はバビロンへと捕らえ移されました。ソロモンも、またソロモンが建てた神殿も、やがて、まことのダビデの子として来られるメシアと、メシアが建てるまことの主の神殿を指し示す「地上的なひな型」でした。 「主」は預言者たちをとおして、特に、バビロンからの帰還の表象を用いて、終わりの日におけるメシアによる、「主」の契約の祝福の実現を預言してくださっています。すでに引用したことがあるイザヤ書やエレミヤ書からのみことば以外の、いくつかの例を見てみましょう。 今日は、前597年の第2回の捕囚によってバビロンに移された民たちの間で預言をしたエゼキエルの預言を取り上げます。 エゼキエル書34章1節ー6節において、「主」は、「イスラエルの牧者たち」と呼んでおられる、北王国イスラエルと南王国ユダの王たちが、羊に譬えられている民を搾取し「力ずくと暴力で」治めていることを糾弾しておられます。そして、11節ー16節において、「主」ご自身が「わたしの羊を捜し出し、これの世話をする」と述べておられます。そして、そのことが具体的にどのように実現するかということが、23節ー24節に、 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。 と記されています。 ここには、「わたしのしもべダビデ」が出てきますが、イスラエルの統一王国を確立したダビデはこの時より約4百年ほど前の人です。また、ここでは、この方のことが「彼らを牧するひとりの牧者」と言われています。この場合の「ひとりの牧者」(ローエー・エハード)は、単なる単数形ではなく、「ひとりの」(エハード)ということばがあります。それで、この「牧者」を集合名詞と取って、これがダビデ王朝の王たちの復興のことであると考えることはできません。もう一つ注目したいのは、この方について、 わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。 と言われていることです。この場合の「君主」(ナースィー)ということばは、意図的に用いられていて、この方が、ダビデ王朝の王(メレク)たちと区別される方であることを示している可能性があります。さらに、この方は「あなたがたの間で君主となる」と言われています。これはこの方が、民の上に立って「力ずくと暴力で」治めていた王たちと違って、羊である民たちの「間で」、民と一つとなって治めることを示しています。これらのことから、この「わたしのしもべダビデ」は、「主」がダビデ契約において約束してくださっているまことのダビデの子であると考えられます。 ここでは、この「わたしのしもべダビデ」と呼ばれている方が、「君主」となって治めてくださるときに、 主であるわたしが彼らの神となる という主の契約の祝福が実現することが示されています。 エゼキエル書では、実質的にこれと同じことが37章24節ー28節に、 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。 と記されています。 ここでも「わたしのしもべダビデ」と呼ばれている方が、 彼ら全体のただひとりの牧者となる。 と言われています。ここでは「彼ら全体のひとりの牧者」(直訳)と言われていていて、牧者がひとりであることがより明確に示されています。新改訳はこの点を示すために「ただひとりの牧者」と訳しているのでしょう。さらにここでは、 わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。 と言われています。「彼ら全体のひとりの牧者」と言われている「わたしのしもべダビデ」が「永遠に彼らの君主となる」ということです。これは、ダビデ契約において、「主」がまことのダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(サムエル記第二・7章13節)と約束してくださったことの成就を預言しています。 このことは、その前の部分において、 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、 と言われていることと対比されます。ここでも、「とこしえに」(アド・オーラーム)続くことが示されていますが、この場合には「彼らとその子らとその子孫たちとが」と言われていますように、子々孫々と継続していくことが示されています。これは、「主」がアブラハム契約において、アブラハムとその子孫と契約を結んでくださり、約束の地であるカナンの地をアブラハムとその子孫に「永遠の所有として与える」と約束してくださったこと(創世記17章7節ー8節)を思い起こさせます。この子々孫々と続いていくすべての民を、「彼ら全体のひとりの牧者」と言われている「わたしのしもべダビデ」が「永遠に彼らの君主」として治めるというのです。 これらのことを踏まえて、 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 と言われています。 これらのことを踏まえますと、ここで、 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。 と言われている「平和の契約」は、古い契約の下で、「最初の福音」に始まり、さらに積み上げるようにして与えられてきた四つの契約、すなわち、ノアとその子孫とノアとともにいた生き物たちに与えられた契約、アブラハム契約、イスラエルの民と結ばれたシナイ契約、そしてダビデ契約のすべてを成就する「新しい契約」のことであると考えられます。 ここでは、この「平和の契約」の祝福が、 わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 と示されています。これは、主の契約の祝福の二つの面である、 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 ということと、 わたしは・・・わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにある ということが、もはや、永遠に変わることなく、主の契約の民の間に実現するということを示しています。言うまでもなく、これは、 わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。 ことによって実現します。 これは、黙示録21章1節ー4節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。 と記されていること、特に、3節ー4節に、 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。 と記されていることへとつながっていきます。 エゼキエル書37章24節ー28節に記されていることで、もう一つ注目しておきたいことがあります。それは、24節に、 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。 と記されている中で、 彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。 と言われていることです。 出エジプトの時代から、バビロンの捕囚に至るまで、さらには、まことのダビデの子として来てくださった御子イエス・キリストを信じることがなかったイスラエルの民の間に連綿と続いていた「かたくなさ」を考えますと、この預言のことばの重大さが見えてきます。この預言のことばは、この連綿と続いてきた「かたくなさ」が取り除かれることを示しています。 実は、このことは、エゼキエル書においては、これに先立って説明されていました。それは、36章24節ー28節に、 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。 と記されています。 ここでは、「主」が「きよい水を」振りかけて、彼らを「すべての汚れから」きよめてくださり、「新しい心を与え」てくださり、彼らのうちに「新しい霊」すなわち「主」の御霊を授けてくださると言われています。そして、これによって、「主」は彼らの「からだから石の心を取り除き」、彼らに「肉の心」を与えてくださると約束してくださっています。このようにして、 わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。 と記されているとおり、「主」は、彼らを「主」の「おきてに従って歩」むようにしてくださり、「主」の「定めを守り行」うようにしてくださると言われています。 これに先立って「主」は、22節において、 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。 と述べておられます。ここでは、イスラエルの民は、その行く先々で主の聖なる御名を汚したと言われています。ですから、「主」がこのように彼らを造り変えてくださるのは、彼らの良さによるのではなく、主の聖なる御名のためであるというのです。 ですから、37章24節で、 彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。 と言われているのは、「主」がその一方的な恵みによって、彼らを汚れからきよめてくださり、御霊によって新しく造り変えてくださることによっています。 ヨハネの福音書3章5節には、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 という、イエス・キリストの教えが記されています。この教えは、「主」が「きよい水を」振りかけて、彼らを「すべての汚れから」きよめてくださり、彼らのうちに「新しい霊」すなわち「主」の御霊を授けてくださるという、「主」がエゼキエルをとおして約束してくださっていることを背景としていると考えられます。 イエス・キリストこそは「彼ら全体のひとりの牧者」と言われている「わたしのしもべダビデ」が「永遠に彼らの君主」として治めてくださる方です。 これらのことが、神さまが「御子」を「万物の相続者」として任命されたこととどのようにつながっているかということは、改めてお話しします。 |
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