黙示録講解

(第262回)


説教日:2016年8月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(15)


 ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばにおいて、イエス・キリストは、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身が契約の神である主、ヤハウェがダビデに与えてくださった契約、すなわち、ダビデ契約に約束されている、まことのダビデの子であり、そのダビデ契約を踏まえて記されている詩篇2篇に示されているメシアであることを示しておられます。
 ダビデ契約の約束の核心にあることは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という「」のみことばに示されています。
 ここでは、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださるとき、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになるということ、そして、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださるということが約束されています。さらに、「」は、このダビデの「世継ぎの子」について、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と約束してくださっています。この最後の約束は、ダビデの子が、その「王国の王座」に着座する時、すなわち、王として即位する時のことを指しています。このことが基となって、イエス・キリストは、テアテラにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 先主日には、旧約聖書においては、神である主に仕える者の任職の時に、その人に油を注ぐことがあったことをお話ししました。それは、王が即位する時や祭司の任職の時、また、時には、預言者の任命の時になされました。そのようにして「油を注がれた者」は「メシア」と呼ばれました。その「メシア」ということばが後に専門用語化していき、主が約束してくださっている贖い主を指すようになりました。「メシア」ということばはヘブル語やアラム語を音訳したものですが、ギリシア語では「キリスト」になります。この、主が約束してくださっている贖い主としてのメシア、すなわち、キリストは、王、祭司、預言者の職務を合わせもつ主です
 キリストが王、祭司、預言者の職務を合わせもつ主であることは聖書のいろいろな個所に示されていますが、そのことをまとめて示しているヘブル人への手紙1章1節ー3節には、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 先主日には、1節ー2節前半に、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と記されていることを取り上げました。ここでは、神である主の贖いの御業の歴史において「むかし」と呼ばれている時代、すなわち、古い契約の下にあった時代においては、主の贖いの御業の進展とともに、約束の贖い主とその御業にかかわる啓示が、「預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」積み上げられるようにして与えられてきたことが示されています。そして、神である主の贖いの御業の歴史において「この終わりの時」と呼ばれている、新しい契約の下にある時代においては、約束の贖い主として来られて、古い契約において約束されていた贖いの御業を遂行された御子イエス・キリストが、最終的に、また決定的に神さまご自身とそのみこころを啓示されたことが示されています。イエス・キリストはこのような方として、預言者の職務を果たしておられます。


 以上が、先主日にお話ししたことの、ごく簡単な要約です。ヘブル人への手紙1章では、続く2節後半ー3節において、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 ここには「御子」が3回出てきますが、すべて関係代名詞で、その前の2節前半で、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子」(先行詞)を受けています。[注]

   * * *
[注]1節から始まる文は、3節で終わっていなくて、4節において、

 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

と言われていることまで続いています。この4節の「御子」は関係代名詞で表されているのではなく、分詞による状況文の主語で、3節で「御子」が

 すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました

と言われていることを説明しています。これはヘブル人への手紙の流れでは大切な意味をもっていますが、今お話ししていることとは、あまりかかわりがないと思われるために引用していません。
   * * *

 2節後半ー3節に3回出てくる「御子」が関係代名詞で表されていることは、この2節後半ー3節の、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

というみことばが、

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子」を説明しているということを意味しています。どういうことかと言いますと、神さまが、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子」は、第一に、神さまが「万物の相続者」として任命された方であり、第二に、その方によって「世界を造られ」たと言われている方であり、第三に、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられ」る方であり、第四に、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」た方であるというのです。
 このことは、神さまが「御子」を「万物の相続者」として任命されたことも、「御子によって世界を造られ」たことも、「御子」が「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられ」ることも、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」たことも、それぞれが、豊かな意味をもっていますが、基本的には、神さまが、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われていることに関わっているということ、さらに言いますと、神さまが「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」たことの現れというか、むしろ、それらのこと自体が、神さまが「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られ」たことであるということを意味しています。
 このことは、先主日お話ししたを思い起こしていただけると分かりやすいかと思います。関連する部分を、ほぼそのまま引用してお話ししますと、1節で、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と言われていることは、神である主の贖いの御業の歴史の中の古い契約の下で、段階的に積み上げるように啓示が与えられたことを指していますが、そのようにして与えられた啓示は、ことばによる啓示だけではありませんでした。神である主がご自身の民のために遂行された贖いの御業そのものや、民の贖いを説明するために制度化された儀式や祭りなどが、啓示としての意味をもっていました。それと同じように、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子によって」語られたということは、イエス・キリストが語られたみことばをとおしての啓示を指しているだけではありません。何よりも、ヨハネの福音書1章18節において、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

とあかしされている、イエス・キリストご自身が、人しての性質を取って来られた「ひとり子の神」として神の啓示です。ヨハネの福音書14章7節には、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 それとともに、イエス・キリストが地上でなされた御業、特に、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業が、神さまがどのような方であるかを、この上なく明確に示しています。
 これが先主日お話ししたことですが、これと実質的に同じことが、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節に記されているわけです。

 このようなことを念頭に置いて、2節後半ー3節に記されていることを見ていきましょう。
 2節後半には、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

と記されています。
 ここでは、まず、

 神は、御子を万物の相続者とした

と言われています。ここで「(・・・と)した」と訳されていることば(動詞ティセーミの不定過去時制)は「任命した」という意味合いを伝えています。
 また「相続者」ということばは、これが「この終わりの時に」約束の贖い主として来てくださったメシアとしての「御子」について述べていることから、メシア詩篇の一つである詩篇2篇の8節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

と記されていることを背景としていると考えられます。さらに、この詩篇2篇8節に記されているみことばは、神さまがアブラハムに与えられた契約、すなわちアブラハム契約を背景としています。アブラハム契約はアブラハムの相続人、「相続者」としての子にかかわる契約です。
 アブラハム契約における「相続者」としてのアブラハムの子のことをお話しする前に、「」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった、創世記12章1節ー3節に、

 あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている約束に触れておきます。その約束の核心にあることは、その最後に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束です。「」はこの祝福の約束を踏まえて、また、この祝福の約束を実現してくださるために、アブラハムを召してくださり、アブラハムに契約を与えてくださいました。このことが背景となって詩篇2篇8節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

という約束が「主に油をそそがれた者」(2節)すなわちメシアに与えられているということは、「」がメシアに「国々を・・・ゆずりとして与え」てくださり、「地をその果て果てまで・・・所有として与え」てくださることによって、つまり、メシアがこれらを治めるようになることによって、この「国々」や「地・・の果て果てまで」がアブラハムによる祝福を受けるようになるということを意味しています。先主日にお話ししましたように、メシアはアブラハムの子孫として来られました(マタイの福音書1章1節「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト」参照)。
 「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束は、まず、12章5節ー7節に、

アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

と記されている中で、

 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える

と約束されていることに、より具体的に示されています。これには二つのことが約束されています。一つは、「」が「この地」すなわち「カナンの地」をアブラハムの「子孫に」与えてくださるというこことです。もう一つは、少し分かりにくいので説明しますと、4節には、

 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

と記されています。そして11章30節には、アブラハムの妻サラについて、

 サライは不妊の女で、子どもがなかった。

と記されています。サラはアブラハムより10歳年下でしたから、この時65歳でした。「七十五歳であった」アブラハムにはまだ子どもがありませんでした。ですから、

 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える

という約束は、「」がそのアブラハムに「カナンの地」を受け継ぐ子ども、すなわち、相続人としてのアブラハムの子を与えてくださることを約束するものです。
 そして、15章1節ー7節には

これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
 「アブラムよ。恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出したである。」

と記されています。
 6節には、アブラハムが信仰によって義と認められたこと記が記されています。ここでは、アブラハムの相続人としての子孫のことが問題となっています。アブラハムには子どもがありませんでした。けれども「」は、アブラハムに、

 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。

と言われました。そして、「」は、アブラハムに天の星を見せて、

 あなたの子孫はこのようになる。

と約束してくださいました。このことを受けて、

 彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。これがアブラハムの信仰の特質で、それは契約の神である「」(ヤハウェ)の約束を信じる信仰です。そして、これが人は信仰によって義と認められるというときの、信仰の特質です。

 「」がアブラハムと契約を結んでくださったことは17章に記されています。1節ー8節には、

アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

と記されています。
 これは「アブラムが九十九歳になったとき」、サラが89歳の時のことですが、アブラハムとサラの間には、まだ、子どもがありませんでした。それでも、「」は、

 あなたは多くの国民の父となる。

と約束してくださっていますし、このことを確証してくださるために、

 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

と言われて、アブラハムの名を変えてくださいました。
 「アブラハム」という名は「多くの人々の父」を意味しています。一般には、「アブラーハーム」と「アブハモーン(「多くの人々の父」)」の語呂合わせによると考えられていますが、「アブラーハーム」ということば自体が「多くの人々の父」を意味し得るという主張もあります。
 このように、「」は、アブラハムの名前を変えてくださって、

 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とする

と約束してくださいました。このことは、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束は、アブラハムが「多くの国民の父となる」こと、言い換えますと、「多くの国民」がアブラハムの相続人としての子孫になることによって実現するということを意味しています。
 さらに、「」は、このことの上に立って、6節で、

わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

と約束してくださっています。
 ここで、

 あなたから、王たちが出て来よう。

と約束されていることは、アブラハム契約の祝福とかかわっていますし、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束にかかわっています。
 さらに、この「王たち」の約束は、後に、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルが約束の地であるカナンに入ってから、ダビデの時代に統一王国を形成するようになった時に、「」がダビデに契約を与えてくださることにつながっていきます。つまり、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださるとき、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになるということ、そして、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださるというダビデ契約の約束は、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束が実現するための約束であるのです。言い換えますと、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束は、まことのダビデの「世継ぎの子」がその永遠堅く建てられた王座に着座して治めることによって実現するということです。
 そして、このことが、先ほど触れました、詩篇2篇8節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

という約束につながっているわけです。
 アブラハム契約の核心にあることは、7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。
 この契約の祝福の中心は、7節の終わりに記されている、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

という約束のみことばに示されています。これは、アブラハム契約だけの祝福ではなく、契約の神である「」(ヤハウェ)の契約を一貫して貫いている祝福です。いろいろな機会にお話ししていますので、詳しい説明を省いて、結論的なことだけをお話ししますと、この、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

というアブラハム契約の祝福を、より一般的な形で言いますと、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

となります。これは、「」が私たちの神となってくださり、私たちが「」の契約の民となるという祝福の約束です。この約束には、これと裏表になっている祝福が必ずともなっています。それは、「」が私たち「」の民の間にご臨在してくださり、私たちは「」との親しい交わりのうちに生きるようになるということです。
 アブラハム契約において、「」はさらに、

わたしは・・・カナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と約束してくださっています。最後に、

 わたしは、彼らの神となる。

と言われていることから分かりますように、カナンの地は、そこにおいて「」がアブラハムとアブラハムの子孫の間にご臨在してくださって、彼らが「」との親しい交わりのうちに生きるようになることが実現するために与えられるものです。このことは、ダビデ契約において、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださるとき、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになるということへとつながっていきます。
 そして、それは、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束が実現することへとつながっていくのです。
 今日は、ヘブル人への手紙1章2章後半において、

 神は、御子を万物の相続者とした

と言われていることがアブラハム契約とダビデ契約において約束されている祝福を背景としているということで終わりますが、これにはそれをはるかに越えた祝福が示されています。それにつきましては、改めてお話しします。


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