黙示録講解

(第261回)


説教日:2016年9月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(14)


 今日も、ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、冒頭の18節において、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることについてです。これによって、イエス・キリストは、ご自身がダビデ契約の約束に示されている、まことのダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 ダビデ契約の約束の核心にあることは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、「」がダビデに語られたみことばに示されています。このみことばにおいては、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださるとき、そのダビデの「世継ぎの子」が主の御名のための「」すなわち神殿を建てるようになるということ、そして、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださるということが約束されています。
 さらに、「」は、このダビデの「世継ぎの子」について、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と約束してくださっています。この約束は、ダビデの「世継ぎの子」が、その「王国の王座」に着座する時、すなわち、王として即位する時のことを指しています。


 旧約聖書においては、王が即位する時の重要な儀式に油を注ぐことがありました、そのように、神さまに仕える者に油を注ぐことは、王の即位の時だけでなく、祭司の聖別の時にもなされました。また、預言者にもなされた記録もあります。列王記第一・19章16節には、「」の命によって、エリヤが後継者のエリシャに油を注いだことが記されています。そのようにして「油を注がれた者」は「メシア」と呼ばれました。その「メシア」が後に専門用語化していき、主が約束してくださっている贖い主を指すようになりました。「メシア」ということばはヘブル語(マーシーァハ)やアラム語(メシーハー)を音訳したものですが、ギリシア語では「キリスト」(クリストス)になります。
 このことからも推察することができますが、メシアすなわちキリストは、王、祭司、預言者の職務を合わせもつ主です。日を改めてお話ししますが、このメシアの王、祭司、預言者という職務は神である主のお住まいとしての神殿の意味とかかわっています。
 キリストが王、祭司、預言者の職務を合わせもつ主であることをまとめて示しているのはヘブル人への手紙1章1節ー3節です。そこには、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 今日は、ここに記されていることのうち、イエス・キリストが預言者の職務をもっておられることについてしかお話しすることができません。
 1節ー2節前半には、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と記されています。
 ここでは、神さまは「むかし」から「父祖たちに」語りかけてくださっていたことが示されています。この場合の「父祖たち」はアブラハム、イサク、ヤコブなどのイスラエルの民の父祖たちに限られているのではなく、ヘブル人への手紙の著者と読者たちにとっての「父祖たち」で、古い契約の下にあったすべての主の民のことを指しています。それで、この場合の「むかし」も古い契約の下にあった時代の全体を指しています。神さまは、彼らには「預言者たちを通して」語りかけてくださったと言われています。注目しておきたいのは「預言者たち」は複数形であるということです。また、「預言者たちを通して」の神さまの語りかけは「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」なされたと言われています。
 これは、古い契約の下では、ばらばらな啓示が断片的に与えられたという意味ではなく、神である主の贖いの御業の歴史の中で、段階的に積み上げるような形で、それぞれの時代に、それ以前に与えられた啓示に加えて、さらに新しい啓示が与えられてきたということを意味しています。しかも、それは不確かなものがだんだんと確かなものになってきたという意味でもありません。それぞれの時代に与えられた啓示は、それとしての確かさをもっていました。
 イエス・キリストは「種まきのたとえ」で、神のみことばを「種」にたとえておられます。また、「からし種」のたとえでは天の御国を「からし種」にたとえておられます。これに倣って、「種」のことを用いて、神さまの啓示のことをお話しします。
 たとえば、ビワの木の生長のそれぞれの段階には、ビワの木の成長の段階としての一貫性があります。同時に、最初の種の段階では想像もできないほどの多様性を増していきます。また、それぞれの段階にはそれとしての完全性があります。その種が根をはり、芽を出したなら、その種は種として良い種、その意味で完全な種です。また、その根や芽が育っていくなら、その根も芽も、良い根であり良い芽です。そのようにして、それは良い木となり、多くの良い実をならせます。このような生長を「有機的な発展」と呼びます。
 これに対して、大きな水槽に水を注ぐと、時間の経過とともに、水の量が増えていきます。これも(大げさな言い方ですが)歴史的に発展することですが、そのような発展は「無機的な発展」です。誰が見ても、水が増えていくの見て、何が増えているかはすぐに分かります。しかし、ビワの木の場合のような「有機的な発展」においては、種が量的に大きくなっていくのではありません。その多様性が増していくのです。
 神さまが、ご自身の贖いの御業の歴史の中で示してくださった啓示も「有機的な発展」をしてきました。その有機的な発展のそれぞれの段階において与えられた啓示には、それぞれの段階としての独自性がありながら、全体的には一貫性がありますし、そのためにお互いの間にもつながりがあります。それは、神さまが与えてくださった啓示に示されている真理(福音の真理)は、底の浅い薄っぺらなものでも、一面的なものでもなく、豊かな多様性をもちながら一貫しているものであるからです。
 また、神さまの贖いの御業の歴史の中で与えられた啓示は、ことばによって与えられただけではありません。神である主がご自身の民のために遂行された贖いの御業そのものや、民の贖いを説明すために制度化された儀式や祭りなどが、啓示としての意味をもっていました。たとえば、出エジプトの贖いの御業そのものが啓示としての意味をもっていましたし、最初の過越の日の出来事、特に、そのために備えられた過越の小羊と、それがイスラエルの民のそれぞれの家の長子のためにほふられたこと、さらには、その日のことを覚えるために制度化された過越の祭りも、啓示としての意味をもっていました。そのほか、主がイスラエルの民の間に住んでくださるために与えてくださった幕屋や神殿も、また、そこにご臨在してくださる主との交わりのために、聖所の前に備えられた祭壇において、動物のいけにえの血が流されたことなども、啓示としての意味をもっていました。
 ただし、このような、神である主がご自身の民のために遂行された贖いの御業そのものや、民の贖いを説明すために制度化された儀式や祭りなどがどのような意味をもっているかは、神である主が啓示のみことばによって説明してくださらなければ分かりません。それらの御業や出来事を目の当たりにして、驚嘆したり、小躍りして喜んた人々でも、もし神である主がみことばによって説明してくださらなければ、自分勝手な解釈をすることでしょう。ですから、最終的には、神さまの贖いの御業の歴史の中で与えられた啓示は、神である主ご自身がそのみことばをもって示してくださったことになります。私たちにとっては、神である主が聖書を通して啓示してくださっていることです。
 私たちは、種がやがて実を結ぶようになることを経験的に知っていますので、そのことに驚くことはありません。仮にそのことを知らない人がいたとします。その人のことを、「仮にいたとした人」という意味で「仮想の人」と呼ぶことにします。その「仮想の人」にとって、ビワの種と根と芽と茎と葉と花と実(の絵や写真)を、ばらばらに見せられると、それらはまったく別なものであるとしか思えないことでしょう。それらはみな、互いにつながりがあるものだと言われても、どのようにつながっているか、よく分からないことでしょう。
 けれども、そのような人でも、木の種の段階から実を結ぶようになるまでの生長の過程を見た時、特に、その最終段階の実を豊かにつけている木を見た時に、すべてが時間的、歴史的につながっていることが分かるようになります。また、一つ一つの成長の段階が独自の現れをしていながら、木の生長にかかわることとしての一貫性があることも分かるようになります。
 それと同じように、神さまの啓示のみことばの全体的なことが分かって、その全体を貫いているものを理解するようになると、まとまりのない断片のように感じられていた部分が互いにどのようにつながっているかが分かるようになってくることがあります。

 このこととのかかわりで触れておきたいのは、神さまが、ご自身の贖いの御業の歴史のそれぞれの段階で啓示を与えてくださったというときの、それぞれの段階はどのようにして判断するのかという問題です。これにつきましては、神である主が一つの契約(とその約束)を与えてくださったことによって、神である主の啓示の歴史の一つの段階となり、次に、もう一つの契約(とその約束)を与えてくださった時に、次の段階になると考えられます。
 具体的に言いますと、贖いの御業にかかわる契約として、最初に与えられた契約としての意味をもっている約束は、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」に示されている約束です。これが最も基礎的な約束です。いろいろな議論は省いて、結論的なことをごく簡単にお話ししますと、これは神である主の暗やみの主権者に対するさばきの宣言です。ここで神である主は、暗やみの主権者をおさばきになる器として「」と「女の子孫」をお用いになること、したがって、「」と「女の子孫」は、贖いの御業の歴史をとおして、暗やみの主権者とその子孫との霊的な戦いを展開すること、そして「女の子孫」のかしらなる方が、最終的なさばきを執行するということが約束されました。
 そのようにして、「」と「女の子孫」は神である主に敵対して働いている暗やみの主権者に対して霊的な戦いを展開することにおいて、神である主の側に立つようになります。これは「」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、「最初の福音」においては、神である主が備えてくださっている救いは、霊的な戦いの状況において与えられるという、救いの根本にあることが示されています。
 これ以降、神である主は古い契約の下で4つの契約をお与えになりなりますが、それぞれの契約は、その契約を与えられた人の「子孫」にかかわることを約束をしています。つまり、古い契約の下で与えられた契約は「子孫」から「子孫」へと受け継がれていき、最終的な成就である「女の子孫」のかしらなる方を指し示しつつ、待ち望む形になっています。
 次に、ノアの時代に、ノアとその家族とノアとともにいた生き物たちとに与えられた契約がありますが、それは「最初の福音」に示されている約束を踏まえて、それに加える形で与えられています。
 どういうことかと言いますと、「暗やみの主権者としては、最初の福音」において示されている「女の子孫」を根絶やしにしてしまえば、自分たちをさばく者はいなくなるということで、「女の子孫」を滅ぼしてしまうよう働きました。
 具体的にはアダムがらカインを経て7代目のレメクの暴力による支配(創世記4章23節参照)によって、地を暴虐で満たしてしまいます(創世記6章11節ー12節)。その時代において、罪による人の腐敗は極まってしまっています(6章5節ー6節)。神さまがそのような状態をそのまま放置されるとしたら、神さまの聖さが問われるような状態でした。そのために、神さまは大洪水によるさばきによって、すべての人と人に委ねられている生き物たちを滅ぼそうとされました。その意味で、それは、それまでの歴史を清算してしまう終末的なさばきでした。その際に、主とともに歩んだノアとその家族たちと、ノアとともにいる生き物たちが残されました。つまり、かろうじて「女の子孫」が残されたのです。
 大洪水によるさばきの後に、神さまはノアとその家族とノアとともにいた生き物たちとに契約を与えてくださいました。それは、その後、再び大洪水によるさばきを執行されることはないという約束です。これによって、人類の歴史が継続することが保証されています。それは「女の子孫」が暗やみの主権者とその子孫との霊的な戦いを展開する時となっています。さらに、それはやがて「女の子孫」のかしらである贖い主が来てくださって、贖いの御業を遂行し、最終的なさばきを執行され、ご自身の民の救いを完成してくださるようになる時までの歴史が保たれることを保証してくださっています。
 とはいえ、再び、洪水前の時代にように罪による人の腐敗が極まってしまい、暴虐が地に満ちるような事態になっても、終末的なさばきを執行されないという意味ではありません。それで、神さまはこの契約を守ってくださるために三つの備えをしてくださっています。その一つしか取り上げることができませんが、それは、洪水前の時代のように人類が暴力的な権力者によって統一され、人類が一つになって罪の腐敗を極めていくようにならないようにと、バベルにおいて、人を地の面に散らされたことです(創世記11章1節ー11節)。それは、洪水後の歴史において最初の権力者となったニムロデ(10章8節ー10節)の帝国が、洪水前のレメクの帝国と同じ道をたどり始めたことによっていたと考えられます。
 次に、アブラハムへの契約が与えられますが、それは、「最初の福音」と、ノアへの契約を踏まえて、それに加える形で与えられています。アブラハム契約の約束は、アブラハムの相続人としての子孫に関する約束で、突き詰めていきます地上のすべての国々はアブラハムの子孫によって祝福を受けるというものです(創世記22章18節)。これによって「女の子孫」のかしらなる方は、アブラハムの子孫として来られることが分かります。また、この方との一体において、地上のすべての国々から「女の子孫」が起こされるということも分かります。この地上のすべての国々は、バベルにおけるさばきによって地の面に散らされたことによって生まれたものです。アブラハムの子孫によって地上のすべての国々が祝福を受けるようになることは、バベルにおけるさばきに対応するものです。
 これと同じような形で、さらに、シナイ契約が与えられましたが、神である主はそれに先立って、アブラハム契約に基づいて、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民を、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。そして、イスラエルの民を地上のすべての国々ために祭司の国としての役割を果たすようにと召してくださり、そのために必要な律法を与えてくださった、シナイ契約が与えられました。イスラエルの民は祭司の国として、出エジプトの贖いの御業が主の一方的な愛と恵みによってなされたこと、また、その一方的な愛と恵みによって、罪の贖いを備えてくださっていることなどを身をもってあかしするように召されました。「女の子孫」はその贖いの恵みにあずかって主の契約の民としていただく民のことです。また、イスラエルの民が地上のすべての国々ために祭司の国として召されたのは、アブラハムの子孫によって地上のすべての国々が祝福を受けるようになるためのことです。
 そして、今お話ししている、ダビデ契約が与えられました。ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されるまことのダビデの子として来られる方は、「女の子孫」のかしらなる方として、暗やみの主権者とその子孫に対する最終的なさばきを執行される方です。
 これらは神である主の贖いの御業にかかわる古い契約です。そして、これらすべての契約を踏まえ、さらにこれらすべての契約に示されている多様で豊かな約束をすべて成就しているのが、「女の子孫」のかしらなる方として来られた贖い主、約束されていたメシアであるイエス・キリストの血による新しい契約です。詳しい説明はできませんが、この神である主の贖いの御業にかかわる古い契約と新しい契約が一般に「恵みの契約」と呼ばれる救済の契約です。これは、一般に「わざの契約」と呼ばれる創造の契約の枠の中にあります。

 私たちは旧約聖書と新約聖書に記されている神さまの啓示が終結している時代に生きています。それで、私たちは神さまの啓示が歴史的にどのような経過を経て与えられてきたかを(すべてをはっきりとというわけではありませんが)たどって、その全体像を見通すことができる立場にいます。それで、私たちは、それぞれの段階において与えられた啓示の特殊性とともに、それが全体的な流れとどのようにかかわっているか、また、お互いにどのようにつながっているかを見通すことができる立場にあります。
 これは、先ほど来お話ししているビワの木であれば、私たちは先ほどの「仮想の人」とは違って、ビワの木が種から育って、木になり、実を結ぶことを見て知っているので、種と根と芽と茎と葉と花と実が、その成長の過程の全体像とどのようにかかわっているか、また、お互いにどのようにつながっているか分かるのと同じです。
 ヘブル人への手紙1章1節で、

 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と言われていることについて言いますと、それらの「預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」語られたものはばらばらなものではなく、神さまの贖いの御業の歴史を啓示してくださっている神さまのみことばの全体像に照らして見ますと、有機的な発展のように、それぞれの段階の啓示が独自の意味をもちながら、歴史的に相互につながっていることが分かるようになります。
 ヨハネの福音書5章39節には、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。先ほど、神さまが「いろいろな方法で」語られた「多くの部分」は、神さまの贖いの御業の歴史の啓示という全体像とのかかわりで、そこに一貫性があることや相互の関係がわかるようになると言いました。その神さまの贖いの御業の歴史の啓示の全体像の核心にあって、すべてを貫いているは、イエス・キリストです。もう少し具体的に言いますと、神さまの贖いの御業の歴史の中の古い契約の下で、神さまが「預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」語ってくださった(預言として啓示してくださった)贖いの御業を、最終的に実現し完成してくださる方、すなわちメシアとしてのイエス・キリストを証言しているということです。
 先ほど、「仮想の人」にとって、種や根や芽や茎や葉や花や実はまったく別なものであるとしか思えないけれども、その種の段階から実を結ぶようになるまでの生長の過程の全体像を見た時、特に、その最終段階の実を豊かにつけている木を見た時に、すべてが時間的、歴史的につながっていることが分かるようになるということをお話ししました。このたとえで言いますと、約束されていたメシアとして来られたイエス・キリストは、その最終段階の実を豊かにつけている木に当たります。種や根や芽や茎や葉や花や実はすべて、その最終段階の実を豊かにつけている木を目指して生長してきています。そして、その種や根や芽や茎や葉や花や実に当たるのは、先ほどお話ししました古い契約の時代に与えられた、「最初の福音」としての約束から始まって、ダビデ契約に至るまでの、5つの契約と、それぞれの契約にかかわる贖いの御業とことばによる啓示です。これらすべてが、イエス・キリストを預言的に指し示しています。
 また、先ほど、神さまが与えてくださった啓示のみことばに示されている福音の真理は底の浅い薄っぺらなものでも、一面的なものでもなく、豊かな多様性をもちながら一貫しているものであると言いました。それは、約束のメシアであるイエス・キリストご自身と、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業が、豊かな多様性をもちながら一貫しているものであるからです。また、そうであるから、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を預言的にあかしするためには、古い契約の下で与えられた、「最初の福音」としての約束からダビデ契約に至るまでの5つの契約と、それぞれの契約にかかわる贖いの御業とことばによる啓示が必要だったのです。
 ヘブル人への手紙では、1節に続いて、2節前半には、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と記されています。
 1節では、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と言われていました。この場合の、「むかし」は、先ほどお話ししました「父祖たち」とのつながりから分かりますが、古い契約の下にあった時代全体を指しています。その長い時代において、「最初の福音」としての約束から始まってダビデ契約に至るまでの5つの契約と、それぞれの契約にかかわる贖いの御業とことばによる啓示が与えられました。これに対して、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「この終わりの時」(「これらの終わりの日々」)は、古い契約の下にあった時代が指し示していた成就の時代で、それがすでに来ていることを示しています。
 また、先ほど注意しましたように、1節で、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と言われているときの「預言者たち」も「多くの部分」も「いろいろな方法」も複数です。けれども、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子」はお一人です。
 もはや、古い契約の下で「預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」語られる時代は終わり、「この終わりの時」になり、古い契約の下で与えられた5つの契約と、それぞれの契約にかかわる贖いの御業とことばによる啓示によって預言的に示されていたことがすべて「御子」によって成就していることが語られるようになっています。そして、この、神さまが「御子によって」、あるいは、「御子にあって」(エン・ヒュイオー)語られることは最終的なことであり、決定的なことです。もはやそれ以上のことが新たに示される必要はありません。なぜなら、神さまが「むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られ」たことがすべて「御子によって」、あるいは、「御子にあって」成就しているからです。
 先ほど、神である主の贖いの御業の歴史の中で与えられた啓示は、ことばによる啓示だけでなく、神である主がご自身の民のために遂行された贖いの御業そのものや、民の贖いを説明すために制度化された儀式や祭りなどが、啓示としての意味をもっていたということをお話ししました。それと同じように、

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と言われているときの「御子によって」語られたということは、イエス・キリストが語られたみことばをとおしての啓示を指しているだけではありません。何よりも、ヨハネの福音書1章18節において、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

とあかしされている、イエス・キリストご自身が、人しての性質を取って来られた「ひとり子の神」として神の啓示です。ヨハネの福音書14章7節には、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 それとともに、イエス・キリストが地上でなされた御業、特に、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業が、神さまがどのような方であるかをこの上なく明確に示しています。
 このように、御子イエス・キリストご自身とその御業が、最終的にまた決定的に神を示しています。その意味で、御子イエス・キリストこそが最終的で決定的なことをお語りになる預言者です。


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