黙示録講解

(第260回)


説教日:2016年9月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(13)


 先主日には、私が夏期休暇をいただいたために、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、冒頭の18節において、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることについてです。これまでお話ししたことをまとめておきますと、この「神の子」は「メシア詩篇」の一つである詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と記されているみことばを背景としています。ここには「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたと記されています。これを受けて、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。そして、これによって、イエス・キリストは、ご自身が詩篇2篇に預言的に示されているメシアであることを示しておられます。
 詩篇2篇7節に記されている、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

という「」のみことばは、ダビデ契約の約束を反映しています。ダビデ契約の約束の核心はサムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という「」がダビデに語られたみことばに示されています。
 このみことばにおいては、四つのことが約束されています。第一に、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださるということです。第二に、そのダビデの「世継ぎの子」が主の御名のための「」すなわち神殿を建てるようになるということです。第三に、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださるということです。そして、第四に、ダビデの「世継ぎの子」について、「」が、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と約束してくださっています。
 最後の、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という約束は、ダビデの「世継ぎの子」が、主が「とこしえまでも堅く立て」てくださる「王国の王座」に着座する時、王として即位する時のことを指しています。詩篇2篇7節においては、このダビデ契約の約束が基となって、「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたと記されています。それでこれは、ダビデの「世継ぎの子」が、 その王国の王座に着座する時のことを指しています。
 これらのことからダビデ契約の中心は、主がダビデの「世継ぎの子」の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」くださることにあるように思われます。それはそのとおりなのですが、ダビデ契約にはもう一つの中心があります。サムエル記第二・7章1節からの流れでは、主がダビデに契約を与えてくださったのは、ダビデが主がお住まいになる神殿を建設することを志したことを受けてのことです。つまり、ダビデ契約は主がご自身の民の間にお住まいになるための神殿の建設にかかわる契約でもあります。
 そして、ご自身のことを「神の子」として示しておられるイエス・キリストは、ダビデの血肉の「世継ぎの子」が建てた地上の建物としての神殿が「地上的なひな型」として指し示している、まことの神殿をお建てになりました。
 今日は、このこと(イエス・キリストが「神の子」すなわちまことのダビデの「世継ぎの子」として、ダビデの血肉の「世継ぎの子」が建てた地上の建物としての神殿が「地上的なひな型」として指し示しているまことの神殿をお建てになったということ)についてお話ししたいと思います。
 その前に、イエス・キリストが「神の子」としてまことの神殿をお建てになったということが、黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストのテアテラにある教会への教えとどのようにかかわっているかについて、ごく簡単に触れておきます。
 それは20節において、イエス・キリストが、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

と語っておられることにかかわっています。テアテラにある教会においては、「イゼベルという女」が自らを預言者と称して、誤った教えによって信徒たちを惑わし、「不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせて」いました。この場合の「不品行を行うこと」[「へと惑わした」と続きます](動詞ポルネウオー「不道徳な性的関係を結ぶこと」の不定詞)が霊的な意味での不品行を行うこと、すなわち、偶像礼拝をすること、あるいは、偶像礼拝と関連して「神殿娼婦」と性的な関係を結ぶことを指しているか、それとも、一般的に不道徳な性的関係を結ぶことを指しているかについては、議論の別れるところです。
 もう一つの「偶像の神にささげた物を食べること」は、イエス・キリストが彼女の教えを信徒を惑わすものとして非難しておられることから、コリント人への手紙第一・8章や10章25節ー31節に記されているパウロの教えのように一般的に市場で売られている肉についての教えではないと考えられます。その当時、一般的に市場で売られている肉の中には、偶像に供えられた肉も混じっていました。パウロは8章4節ー6節において、偶像は神としての実体のないものであり、そのようなものが、神のお造りになったよいものを汚すわけではないということを明らかにしています。そして、10章25節において、

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と教えています。黙示録2章20節でイエス・キリストが取り上げておられるのは、職業組合(ギルド)の会合における会食において、偶像礼拝がなされ、そこで「偶像の神にささげた物」を食べることにかかわる教えであったと考えられます。イエス・キリストがお建てになったまことの神殿とは、キリストのからだである教会のことで、そこに栄光の主がご臨在してくださっています。この点については、さらに、日を改めてお話しします。「イゼベルという女」は、このまことの神殿としてのキリストのからだである教会に連なる信徒たちに偶像礼拝を行わせていたのです。それで、イエス・キリストは、「神の子」すなわちまことのダビデの「世継ぎの子」としてご自身がお建てになったまことの神殿を本来のあり方に回復してくださるために、「イゼベルという女」を非難しておられると考えられます。


 イエス・キリストがまことのダビデの「世継ぎの子」として、ダビデの血肉の「世継ぎの子」が建てた地上の建物としての神殿が「地上的なひな型」として指し示しているまことの神殿をお建てになったということこととのかかわりで注目したいのは、ヨハネの福音書4章21節ー24節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 1節ー4節に記されているように、この時、イエス・キリストはサマリヤを通ってガリラヤへ行こうとしておられました。イエス・キリストはその途中のスカルという町の外にあった「ヤコブの井戸」の傍らで休んでおられました。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。
 そこにサマリヤ人の女性が水を汲みに来たので、イエス・キリストはその女性に、

 わたしに水を飲ませてください

と願いました。このことから、イエス・キリストとサマリヤ人の女性との対話が始まります。イエス・キリストは旅の途中で疲れて「ヤコブの井戸」で渇きをいやそうとしたけれども、水を汲むものがなくて困っているユダヤ人のラビとしてこの女性に出会っておられます。その点で、彼女の方が優位な立場に立ち、余裕をもってイエス・キリストとやり取りができるようにしてくださっていました。その対話の中でイエス・キリストは重大な教えを二つ語っておられます。そのうちの一つが、この21節ー24節に記されている教えです。
 これは、19節ー20節に記されているように、サマリヤ人の女性との対話の中で、サマリヤ人の女性が、

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

と言ったことに対して、イエス・キリストがお答えになったものです。彼女のことばは、「あなたはそのことをどう考えていますが」という問いかけを含んでいます。
 この時、サマリヤ人の女性がイエス・キリストに投げかけた問いかけには、歴史的な背景があります。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、ソロモン王は、その晩年に外国から迎えた妻たちが持ち込んできた偶像に仕えるようになりました。2度にわたる主の警告にもかかわらず、それを止めることがなかったため、主の警告の通り、ソロモンの死後、イスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。
 サマリヤは北王国の首都で、オムリによって建設されました。このオムリの子が、預言者エリヤを迫害したアハブで、その妻がイゼベルです。その後も、北王国イスラエルの王たちは、主の御前に偶像に仕えることから始まる、さまざまな罪を犯し続けました。そして、ついに、主のさばきを招き、紀元前722年に、アッシリアの手によって滅ぼされてしまいました。
 アッシリアは、異なった民族をともに住まわせる「民族混交政策」を採りました。それで北王国イスラエルの民は「ハラフと、ハボル、ゴザンの川のほとり、メディヤの町々」に捕らえ移されました(列王記第二・17章6節)。とはいえ、すべてのイスラエル人が移されたのではなく、残された人々もいました。また、アッシリアは帝国内のさまざまな民を連れてきて、サマリヤの町々に住まわせました(24節)。その人々は、主、ヤハウェを礼拝しながら、自分たちの国の神々にも仕えていました(29節ー33節)。
 一方、南王国ユダも、いくつかの例外的な時期がありましたが、同じように、偶像に仕えることから始まるさまざまな罪を犯して、主のさばきに会い、紀元前587年には、バビロニヤによって滅ぼされてしまい、おもだった人々はバビロンに捕らえ移されました。
 バビロンは、それぞれの民族が独自性を保つことを許す政策を採りましたので、バビロンに捕え移されたユダヤ人たちは、ユダヤ人としての独自性を保つことができました。そして、ペルシアの時代になって、ユダヤ人たちはパレスチナに帰還して、エルサレム神殿を再建することを許されるようになりました。
 ユダヤ人がエルサレム神殿を再建し始めた時、アッシリア時代に入植してすでにパレスチナに住んでいた人々を中心とする人々が協力を申し出ましたが、拒絶されました。それで、彼らは神殿建設を妨害するようになりました。
 これらの人々の中から、サマリヤ人としてのアイデンティティをもった人々が出てきたのは、紀元前4世紀後半と考えられますが、サマリアの人々がエルサレム神殿に対抗して、ゲリジム山にサマリヤ神殿を建設してからのことであるとする見方もあります。いずれにしましても、このサマリヤ神殿の建設によって、ユダヤ人とサマリヤ人の亀裂は決定的に深くなったと言われています。
 この神殿は紀元前128年にユダ王国のハスモン王朝のヨハネ・ヒルカノスによって破壊されました。サマリヤの町自体も、紀元前107年頃には、徹底的に破壊されました。
 ヨハネの福音書4章20節では、サマリヤ人の女性が、

私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

と言っていますが、「この山」はゲリジム山のことです。サマリヤ人の女性は、イエス・キリストに、主を礼拝する場所としてふさわしいのは、サマリヤ神殿があったゲリジム山なのか、それとも、エルサレム神殿があるシオンの丘であるのかと、いわば「本山」に関する問いかけをしたのです。

 この問いかけは、申命記12章1節ー5節に、

これは、あなたの父祖の神、が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行わなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

と記されており、10節ー14節に、

あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたがに誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただがあなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

と記されているように、契約の神である主が、ご自身の民のために礼拝する場所をお選びになっておられるということを背景としています。
 この「本山」にかかわる問題は、先ほどお話ししましたような歴史的ないきさつからしますと、ユダヤ人とサマリヤ人の間の反目を集約する問題です。また、サマリヤ人は旧約聖書全体を正典として受け入れていたのではなく、「サマリヤ5書」と呼ばれる「モーセ5書」のサマリヤ版を正典としていました。それで、主がシオンの丘を選ばれたということは認めていませんでした。また、5書の最後の書である申命記11章29節には、

あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。

と記されています。これは「」の契約にかかわる祝福とのろいで、その祝福の中心は主がご自身の民の間にご臨在してくださることにあります。それで、サマリヤ人からすればゲリジム山に「」の神殿があることには聖書的(「サマリヤ5書に基づく」)根拠があるということになります。サマリヤ人の女性の、

私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

という問いかけにはこのような背景があります。彼女がそのような神学的な意味を、具体的に、どれだけ理解していたかはわかりませんが、少なくとも、礼拝すべき場所はゲリジム山であるという「父祖たち」伝来の教えは知っていました。
 彼女がこの問いかけをする前に、イエス・キリストに、

 先生。あなたは預言者だと思います。

と言っていることに注目しますと、この時、このサマリヤ人の女性は、イエス・キリストを試していたのではないかと思われます。彼女には、真の預言者であれば、礼拝すべき場所はゲリジム山であると言うはずだという、サマリヤ人としての「判断規準」があったはずです。それで、もしイエス・キリストが、礼拝すべき場所はエルサレム神殿のあるシオンの丘であるとお答えになっていたら、この女性は、イエス・キリストは自分たちサマリヤ人を否定するユダヤ人であり、主の祝福が置かれたゲリジム山を否定するにせ預言者であるとして、イエス・キリストに心を閉ざしていたことでしょう。
 しかし、このサマリヤ人の女性は、彼女が考えていなかったばかりか、ほかのサマリヤ人たちも、また、イエス・キリストの弟子たちを含めたユダヤ人たちも思いもよらなかった教えに接することになります。それが、

あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

というイエス・キリストの教えです。
 ユダヤ人にとって神である主を礼拝すべき所はエルサレムのシオンの丘であり、サマリヤ人にとってそれはゲリジム山です。それで、そのどちらかが本物であるということになります。しかし、イエス・キリストは、神である主を礼拝すべき場所は、ゲリジム山であれシオンの丘であれ、そのような地上のどこか特定の場所に固定されてはいないということをお話しになりました。

 そうしますと、先ほど引用しました申命記12章1節ー5節や10節ー14節に記されている「あなたがたの神、が、御名を住まわせるために選ぶ場所」において礼拝するようにという戒めはどうなってしまうのでしょうか。それに対する答えは、この女性には語られてはいません。しかし、私たちとしましては、二つのことからそれを考えることができます。
 一つは、より根本的なことです。
 詩篇139篇7節ー10節では、

 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕らえます。

と告白されています。
 「」はこの世界をお造りになった方です。それで、「」の御霊はこの世界のどこにでも、ご自身がよしとされる所にご臨在されます。そして、私たちをご自身との交わりの中に生かしてくださいます。
 イザヤ書66章1節ー2節には、これと同じことが、別の面から記されています。そこには、

 はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、
 これらすべてはわたしのものだ。
 ――の御告げ――
 わたしが目を留める者は、
 へりくだって心砕かれ、
 わたしのことばにおののく者だ。

と記されています。
 詩篇139篇7節ー10節では、天と地をお造りになった「」は、ご自身がよしとされるなら、この世界のどこにでもご臨在されることが示されていました。このイザヤ書66章1節、2節では、天と地をお造りになった「」は、天と地を一つの全体として見て、その全体にご臨在しておられるということが示されています。この二つのことは、常に真実です。それは、「」があらゆる点において無限な方であり、したがって、その存在において無限な方であるからです。私たちは「無限」ということばを使っていますが、「無限」であることがどのようなことであるかは分かりません。ただそれをこの世界や自分たちとの関係で考えることができるだけです。それには、私たち有限なものからすると矛盾すると思われる二つの面があります。一つは、「」がこの世界の造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であり、この世界を無限に超越した方であるということです。もう一つは「」がこの造られた世界のどこにでもおられるということすなわち「神の遍在」です。
 神さまの遍在と御臨在は密接につながっていますが、区別されます。御臨在は健在の特殊な面で、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の契約に基づいて、ご自身との契約関係にあるものに対して真実であられること、特に、ご自身の民とともに住まわれ、ともに歩んでくださることを意味しています。
 ですから、神さまがご臨在される場所は、この世界の特定の場所に限定されてはいません。それで、神のかたちとして造られている人は、本来、神さまがお造りになったこの世界のどこにおいても、神さまのご臨在の御前に立って神さまを礼拝することができます。

 もう一つのことは、より特殊なことで、神のかたちとして造られている人が契約の神である主、ヤハウェに対して、罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって生じたことです。それが、先ほどの「あなたがたの神、が、御名を住まわせるために選ぶ場所」において礼拝するようにという申命記12章の戒めとかかわっています。
 古い契約の下で、「」がご自身の御名を置いてくださる場所として特定の場所をお選びになったのは、そこに建てられる神殿を「地上的なひな型」、「視聴覚教材」として用いてくださるためです。それによって、「」は、罪を犯して堕落してしまっている人間がそのままで、聖なる「」のご臨在の御前に立つことはできないということと、「」のご臨在の御前に近づくためには、「」ご自身がその一方的な愛によって備えてくださる贖いの恵みにあずかって、罪を聖められていなくてはならないことを教えてくださいました。
 これらのことを教える「地上的なひな型」は、「」のみことばにしたがって建てられた神殿しかありません。「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間が考える神殿は、突き詰めていくと、神と人は「持ちつ持たれつ」であるということを示しています。人が神に仕えると神はそれに報いてくれるというのです。そのようなものは、人の罪を曖昧にし、「」の聖さを損なうものであるばかりでなく、神さまが備えてくださる贖いの恵みを見失わせてしまうものです。「」が一方的な恵みによって、罪の贖いを備えてくださるということは、人の思いを越えたことです。

 古い契約の下で建てられた神殿が「地上的なひな型」として示していることのすべては、人の性質を取って来てくださって、十字架の上で私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださり、3日目に死者の中からよみがえってくださった、御子イエス・キリストにおいて成就しています。繰り返しの引用になりますが、ヘブル人への手紙10章1節には、古い契約の下での律法のさまざまな規定について、

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

と記されています。これに対して新しい契約の下での罪の贖いのことが、10節に、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されており、14節に、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。そして、これに基づいて19節ー20節には、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と言われているとおりです。
 ですから、もはや、「あなたがたの神、が、御名を住まわせるために選ぶ場所」という特定の場所に建てられていた、「」が一方的な恵みによって、罪の贖いを備えてくださることを表示するための「地上的なひな型」としての神殿は、その役割を終えています。イエス・キリストは、ご自身がこれらのことを成し遂げられる方として、ヨハネの福音書4章21節において、サマリヤ人の女性に、

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

と教えられ、23節ー24節において、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

と教えられました。


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