黙示録講解

(第259回)


説教日:2016年8月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(12)


 今日もヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、冒頭の18節においてイエス・キリストは、まず、ご自身のことを「神の子」として示しておられるということです。
 この「神の子」は、「メシア詩篇」と呼ばれる、メシアを預言的に示している詩篇の一つである詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と記されているみことばを背景としています。
 というのは、テアテラにある教会へのみことばでは、最後の約束を記している26節ー27節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と記されていて、先ほど引用しました詩篇2篇7節に続く8節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されている「」のみことばが引用されているからです。
 イエス・キリストはアジアにある七つの教会のそれぞれに語られたみことばにおいて、最初に、ご自身がどのような方であるかを示してくださっていますが、それは、最後に語られている約束のみことばも含めて、それに続いて語られることと深くかかわっています。それで、このテアテラにある教会へのみことばで、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」としてお示しになっておられることが、詩篇2篇を背景としていると考えられるのです。これによってイエス・キリストは、ご自身が詩篇2篇に預言的に記されているメシアであることを示しておられます。
 詩篇2篇7節においては、「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたと記されています。これを受けてイエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたということは、ダビデ契約の約束を背景としています。ダビデ契約の核心にあることは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という「」がダビデに語られたみことばに示されています。
 このみことばにおいては、まず12節の最後において、主がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださることが約束されています。そして、13節前半において、そのダビデの「世継ぎの子」が主の御名のための「」すなわち神殿を建てるようになるということが約束されています。さらに、13節後半において、主が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださると約束されています。そして、このことを受けて14節前半においては、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という約束が記されています。この約束はダビデの「世継ぎの子」が、主が「とこしえまでも堅く立て」てくださる「王国の王座」に着座する(即位する)時のことを指しています。詩篇2篇7節においては、このダビデ契約の約束が基となって、主が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたと記されています。それでこれは、ダビデの「世継ぎの子」が、 その王国の王座に即位する時のことを指しています。
 黙示録2章18節で、ご自身のことを「神の子」として示しておられるイエス・キリストは、このダビデ契約において約束されているダビデの「世継ぎの子」の最終的な成就として来られた方でです。
 これらのことからダビデ契約の中心は、主がダビデの「世継ぎの子」の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」くださることにあるように思われます。けれども、サムエル記第二・7章1節からの流れを見ますと、主がダビデに契約を与えてくださったのは、ダビデが主がお住まいになる神殿を建設することを志したことを受けてのことです。つまり、ダビデ契約は主がご自身の民の間にお住まいになるための神殿の建設にかかわる契約なのです。そして、時を改めてお話ししますが、ご自身のことを「神の子」として示しておられるイエス・キリストは、人の手によって建てられた地上の建物としての神殿が「地上的なひな型」として指し示している、まことの神殿をお建てになられた方です。


 このことは、出エジプトの贖いの御業の目的が、主がご自身の契約の民をご自身の御臨在の御許に住まわせてくださることにあったこととつながっています。これについてはすでにお話ししましたが、今日はそれとは違うみことばを取り上げてお話しします。
 出エジプトの時代に、主が紅海の水を分けてイスラエルの民を渡らせてくださり、その水を元の状態に戻すことによってエジプトのパロの軍隊を滅ぼされたとき、モーセとイスラエルの民が「に向かって」歌った歌が出エジプト記15章1節ー18節に記されています。その中の13節には、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と記されており、17節ー18節には、

 あなたは彼らを連れて行き、
 あなたご自身の山に植えられる。
 よ。御住まいのために
 あなたがお造りになった場所に。
 主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。
 はとこしえまでも統べ治められる。

と記されています。
 13節に出てくる「聖なる御住まい」の「御住まい」と訳されていることば(ナーウェー)は、基本的に、羊を守るための囲いや、羊飼いが羊を飼う所、羊が餌を食べる所などを表しています。そこで羊は守られ、安らかに伏し、養われます(参照TWOT#1322)。そこから転じて、「居住地」、「住まい」などを表すようになりました。そこが「聖なる御住まい」というように、「聖なる」と言われているのは、そこが、主がご臨在される所として聖別されているからです。そこは、主がご自身の民の間にご臨在されて、彼らを守り、安らかに伏させ、養ってくださる所です。
 ここでは、そのような所に、主がご自身の民を「恵みをもって導」いてくださり、「御力をもって・・・伴われた」と言われています。この「伴われた」と訳されていることば(ナーハル)は、詩篇23篇2節で、

 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。

と言われているときの「伴われます」です。このことばは、基本的に、途方に暮れて困っている人、案内を必要としている人を導くこととか、小さな者や弱い者に配慮して導くことなどを意味しています。また、羊飼いの場合には、小さな羊などを腕に抱いて連れていくことを表します(参照TWOT#1312)。
 17節の「御住まい」は一つのことば(名詞)ではなく、文字通りには「あなたがお住まいになるために(「あなたがお造りになった場所」と続く)」という不定詞句を「御住まいのために」と訳したものです。ここでは、主が「御住まいのために」「お造りになった場所」は、その後に出てくる、主の「御手が堅く建てた聖所」のことです。また、それは、

 あなたは彼らを連れて行き、
 あなたご自身の山に植えられる。

と言われているときの「ご自身の山」のことです。
 ここで「植えられる」(「植える」)ということばは、植物を植えることを意味していますが、比喩的に、そこに定住させてくださることを意味しています。旧約聖書ではしばしばイスラエルがぶどうの木に譬えられています。詩篇80篇8節には、

 あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、
 国々を追い出して、それを植えられました。

と記されています(そのほか、イザヤ書5章1節ー7節、エレミヤ書2章21節、12章10節、エゼキエル書17章6節などを見てください)。
 主がイスラエルをご自身のご臨在される山に植えられるということは、一時的なこととしては、エジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民が主のご臨在されるシナイ山の麓に宿営したことにおいて、そして、出エジプト記19章5節ー6節に記されているように、そこで主がイスラエルの民を祭司の国として召してくださり、24章1節ー11節に記されているように、ご自身の契約を与えてくださったことにおいて、さらには、25章8節に、

 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

と記されている約束とともに、主の聖所としての幕屋を与えてくださり、40章34節ー38節に記されているように、実際に、そこにご臨在されたことにおいて実現しています。けれども、それはまだ「植える」ということばが表している定住している状態ではありません。それで、このこと(主がイスラエルをご自身の山に植えられるということ)が実現するのは、主がイスラエルを約束の地であるカナンに導き入れてくださってからのことです。
 そして、それは、これまでお話ししてきました、ダビデ契約において、主がダビデの「身から出る世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださると、その「王国の王座」に着座するダビデの子が主の御名のために神殿を建設するようになることにおいて実現するようになります。また最終的には、イエス・キリストが人の手によらないまことの神殿をお建てになることにおいて成就するようになります。

 紅海のほとりにおいてモーセとイスラエルの民が歌った歌を記している出エジプト記15章13節と17節では、主が贖われた民をご自身のご臨在される所へと、御力をもって、また配慮と細心の注意を払って導き入れてくださり、そこに住まわせてくださると言われています。
 けれども、先ほど引用しました、モーセとイスラエルの民の歌で、モーセとともに、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と歌った出エジプトの第一世代の人々は、試練に遭う度に、主に対する不信を募らせては、主を試み続けました。そのために、彼らは約束の地に入って、主の御臨在の御前に住まうことはできませんでした。
 彼らは、試練に遭う度に、主がその一方的な愛と恵みによって成し遂げてくださった出エジプトの贖いの御業のことさえも、主が荒野で自分たちを滅ぼすためになされたこと、すなわち、主の悪意から出たことではないだろうかと疑い続けました。その代表的な事例をいくつか見てみましょう。
 その最初の事例は、出エジプト記14章に記されていますが、イスラエルの民が主の導きに従って、紅海の海辺に宿営していたときに、イスラエルを去らせてしまったことを後悔したパロの軍隊が追撃してきました。これを知ったイスラエルの民はモーセに、

エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。

と言いました(11節[民のモーセに対する非難のことばは12節にも続きます])。これは、直接的に主を非難することばではなく、モーセに対する非難のことばですが、その当時の発想からしますと、モーセをお遣わしになった主への非難のことばです。
 しかし、主は、そのような不信に陥ったイスラエルの民に対する御怒りを示すことはありませんでした。先ほども触れましたように、紅海の水を分けて、イスラエルの民を通らせてくださり、その水を戻してパロの軍隊を滅ぼされました。これによって、主は改めてご自身がイスラエルの民とともにおられることを示してくださったと考えられます。またこれ以来、パロの軍隊がイスラエルに手を出すことはなくなりました。
 イスラエルの民はこのような経験をしていたにもかかわらず、16章に記されていますが、シンの荒野に入ったとき、そこが荒野で十分な食べ物がなかったために、モーセとアロンに向かって、

エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちはの手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。

と言ってつぶやきました(3節)。
 彼らはエジプトの地と紅海においてなされた主の御業を目の当たりにして経験していたのですが、その主を信頼して待ち望むことはありませんでした。それでも、なお、主は天からマナを降らせてくださってイスラエルの民を養ってくださるようにしてくださいました。しかも、主はイスラエルの民が約束の地であるカナンに入るまで、毎日絶えることなく、また、安息日の前の日には2日分のママナを与えてくださいました。イスラエルの民はこのような意味をもっているマナを、日ごとに食べて、養われていました。
 それでも、イスラエルの民は17章1節ー7節に記されているように、レフィディムに宿営したとき、水がなくて渇いたために、モーセにつぶやいて、

いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。

と言いました(3節)。
 主はこの時もなお、5節ー6節に記されているように、モーセに、

民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。

と命令され、「ホレブの岩」から水を出してくださって、民の渇きを癒してくださいました。
 すでに何回かお話ししたことがありますが、この時、さばかれなければならないのは、これまでエジプトの地と紅海と荒野において、主の御業に接して、主がイスラエルの民とともにいてくださることを示してくださっていたにもかかわらず、出エジプトの贖いの御業は自分たちを滅ぼすためになされたのではないかと言い続けるイスラエルの民です。けれども、主は、ご自身がその「ホレブの岩」の上に立たれ、モーセが「ナイルを打ったあの杖」すなわち、主がモーセをとおして、エジプトに対する主のさばきを執行されたときに用いられた杖をもって、その「」を打つようにされました。その杖に打たれたのは、その「」の上にご臨在されて、その「」と一つになっておられた主ご自身です。このようにして、主はさばきを執行する杖でご自身が打たれることによって、イスラエルの民の渇きが癒されるようにしてくださいました。
 これらの事例は、イスラエルの民がシナイ山の麓に宿営するようになる前に起こっています。これらの事例において、イスラエルの民はエジプトにおける主の御業を自分たちにかかわることとして目の当たりにしていながら、主に対する不信を表し続けました。これに対して主は、その都度、彼らに対して忍耐深くあられ、必要な恵みの備えをお与えくださり、教え諭すようにして、ご自身が彼らとともにいてくださることを示し続けてくださいました。そして、イスラエルの民をシナイ山の麓にまで導いてくださり、イスラエルの民を祭司の国として召してくださり、イスラエルと契約を結んでくださいました。このことに、先ほどお話ししました、15章13節と17節で歌われていること、すなわち、主が贖われた民をご自身のご臨在される所へと、御力をもって、また配慮と細心の注意を払って導き入れてくださり、そこに住まわせてくださるということには、主の深い忍耐とあわれみがともなっていたことを感じないではいられません。
 しかし、イスラエルの民は、主のそのような忍耐とあわれみに気づくことがなかったようです。彼らはさらに主に対する不信を抱き続けました。その不信が最終的に極まったのは、民数記13章ー14章に記されていますが、主がいよいよイスラエルの民を約束の地であるカナンに入らせてくださろうとされた時でした。その時、主はイスラエルの12部族のかしらたちを遣わして、その地を探らせました。その地を探って帰って来た者たちは、ヨシュアとカレブを除いて、その地の民が強大な民で、自分たちはそこに入ることはできないと主張しました。それを聞いたイスラエルの民は、モーセとアロンにつぶやいて、

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。

と言いました(14章2節ー3節)。このとき、イスラエルの民はあからさまに出エジプトの贖いの御業は「」の悪意からなされたことであると述べています。そして、エジプトに帰ろうとしているイスラエルの民に、主を信じてその地に入るよう説得したヨシュアとカレブを石で撃ち殺そうとしました(10節)。
 このことに対して、主はモーセに、イスラエルの民をここで滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。これに対してモーセは、エジプトを初めとするこの地の民の間で主の栄光が侮られることがないように、また、主の恵みによってイスラエルの民を赦してくださるようとりなしました。
 パロは紅海での出来事以来、イスラエルに手を出すことはありませんでしたが、当然、諜報機関にイスラエルを監視させていたはずです。また、エジプトの動向が自分たちに深くかかわっているとして、エジプトに注目している民たちも、不思議な形でエジプトを出たイスラエルのことを監視していたはずです。
 主はモーセのとりなしを受け入れてくださいましたが、ヨシュアとカレブを除く、出エジプトをしたイスラエルの民の第一世代の者たちは、約束の地に入ることができないと宣言されました。これによって、いわゆる「荒野の40年」が始まりました。

 主がイスラエルをご自分の民としてくださったことには意味があります。その根底にあることが、申命記7章6節ー8節に、

あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。あなたの神、は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されています。
 主がイスラエルを選んでご自分の民とされたのは、イスラエルが主にとって役に立つからではありません。主はそのような実利的な意味では、イスラエルばかりでなく、どのような民をも必要としてはおられません。しかも、イスラエルは諸国の民の中でも最も数が少ない民でしたし、エジプトという強大な帝国の奴隷となっていました。ですから、主がそのようなイスラエルをご自身の宝の民とされたのは、イスラエルの側に何か主を引きつけるところがあったからではありません。ただ主がその一方的な愛をもってイスラエルを愛されたのと、イスラエルの父祖たち、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を守られたからです。
 また、主がアブラハム、イサク、ヤコブに契約を与えてくださったことも、主の一方的な恵みによることでした。
 創世記17章7節ー8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

という神である主のみことばが記されています。これはすべて主の約束です。アブラハムにはこの約束を信じて主を待ち望むことのほかは何も求められてはいません。
 確かに、続く9節以下には、アブラハムとその家の者と、その男子の子孫は割礼を受けるようにと戒められています。割礼は、主がご自身の一方的な恵みによって与えてくださった契約によって、彼らとその家族をご自身の民としてくださったことと、主がご自身の契約に対して真実を尽くしてくださることを見える形で示してくださり、保証してくださるものです。それで、これは主が備えてくださった恵みの手段です。アブラハムとその子孫にとっては、主がご自身の契約によって約束してくださったことを実現してくださることを信じて受けるものですし、これによって、自分たちと家族が主の契約のうちに入れていただいていることを信じて、主の契約の民として歩むことを支えてくれるものです。
 7節には、主がアブラハムに契約を与えてくださった目的が、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と記されています。ここに約束されている、主がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださるということは、主がアブラハムとアブラハムの子孫の間にご臨在してくださって、アブラハムとアブラハムの子孫をご自身を礼拝することを中心として、ご自身とのいのちの交わりに生きる者としてくださるということを意味しています。
 そのようなことはどこにも示されていないのではないかと問われるかも知れません。しかし、それは主の契約の祝福には一つのことの裏表の関係にある二つの面があることによっています。それが要約的に示されているのはレビ記26章11節ー12節です。そこには、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されています。ここでは、主がイスラエルの民の間に住まわれることと、主がイスラエルの民の神となられ(イスラエルが主の民とな)ることが一つの祝福の裏表であることが示されています。
 ですから、創世記17章7節において、主がアブラハムに言われた、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる

ということは、主がアブラハムとアブラハムの子孫の間にご臨在してくださって、アブラハムとアブラハムの子孫をご自身を礼拝することを中心として、ご自身とのいのちの交わりに生きる者としてくださるということをともなっているのです。
 8節においては、主がカナンの地をアブラハムとアブラハムの子孫に与えてくださると約束してくださっています。それは、その約束の地で、主がアブラハムとアブラハムの子孫の間にご臨在してくださって、アブラハムとアブラハムの子孫をご自身を礼拝することを中心として、ご自身とのいのちの交わりに生きる者としてくださることを、具体的に実現してくださるためです。このことは、最後に、カナンの地を与えてくださることとのかかわりで、

 わたしは、彼らの神となる。

と言われていることから分かります。
 紅海の岸辺において、出エジプトの第一世代の人々はモーセとともに、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と歌いました。ここに歌われていることは、主がアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブと受け継がせてくださった契約に約束されていることが実現しようとしているということです。
 出エジプトの第一世代の人々は、エジプトと紅海において主の驚くべき御業に接した時には、主の約束を信じたのに、ひとたび試練がやってくると、主がアブラハムに与えてくださった契約のことはそっちのけにになってしまい、主が約束を実現してくださるために成し遂げられた出エジプトの贖いの御業も、主の悪意から出ているとしか思えなくなってしまっていました。けれども、それは出エジプトの第一世代の人々だけのことではありません。私たちも含めて、自らのうちに罪の性質を宿している人の現実です。
 主はご自身に対して不信を募らせ続ける出エジプトの第一世代の民に、深い忍耐とあわれみを示し続けられました。けれども、それには、動物のいけにえの血による古い契約の下にあるための限界がありました。ヘブル人への手紙10章4節に、

 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されているとおりです。ここに出てくる「雄牛とやぎの血」は1節からの流れから分かりますが、一般に「大贖罪の日」と呼ばれる「贖罪の日」(ヨーム・キップール/ヨーム・ハキップリーム)において大祭司が、年に一度、至聖所に入った時に携えていった罪のためのいけにえの雄牛と罪のためのいけにえのやぎの血です。雄牛の血は自分とその家族のための贖いをするためで、やぎの血はイスラエルの民のための贖いをするためのものです。
 これに対して、私たちは御子イエス・キリストが十字架において流された血による新しい契約の民としていただいています。ヘブル人への手紙10章10節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されており、14節には、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、私たちは人間としての本質においては、出エジプトの第一世代の人々と同じであると告白しないではいられません。
 けれども、私たちのためには永遠の神の御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による完全な罪の贖いが備えられています。また、私たちはイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義を、イエス・キリストを信じる信仰によって受け取らせていただいています。
 さらに私たちは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からのよみがえられたことにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしていただいています。そして、御霊によって、父なる神さまに向かって「アバ父」と呼ぶことができる親しさを与えられて、主の御臨在の御前に住まう者としていただいています。


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