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説教日:2016年8月14日 |
これまでこのようなことをお話ししてきましたが、今日は、このことと関連して、一つのことに触れておきたいと思います。それは、主の「御名のために」神殿を建てるということがどういうことかという疑問です。 これについては、よく知られた理解の仕方があります。それは、ソロモンが主の御名のための神殿を建てた後に、主に祈った「神殿奉献の祈り」とも言うべき祈りに出てくることばに基づいています。ソロモンの祈りは列王記第一・8章22節ー53節に記されています。その中の27節ー30節には、 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが「わたしの名をそこに置く」と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。 と記されています。 ここでソロモンは、まず、「天も、天の天も」神である主を入れることはできないと告白したうえで、まして、ソロモンが建てた神殿が主を入れることはできないと告白しています。そして、(この部分の)最後に主ご自身は、主が「お住まいになる所、天にいま」すということを示しています。これに対して、ソロモンが建てた神殿のことを、 この宮、すなわち、あなたが「わたしの名をそこに置く」と仰せられたこの所 と述べています。 これらのことから、この理解では、「主」ご自身は天にお住まいになっておられて、地にある幕屋や神殿にはお住まいにはならないとされています。そして、その代わりに、幕屋や神殿には「主」を代表する(実体化された)御名が置かれたというのです。このようにして、この理解では、「主」がこの世界を超越しておられる方であるということが強調されています。そして、これは、神がこの世界の中に住んでいて、この世界を構成しているというような、人間が陥りがちな発想を正すものであるともされています。 確かに、「主」はこの世界のすべてのものをお造りになった方ですし、今も、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる方です。「主」はこの世界が造られることがなかったとしても、永遠に無限の豊かさに満ちた方として存在しておられます。それで、「主」と「主」がお造りになったこの世界とは絶対的に区別されます。 ただ、このように言いましても、私たちには「絶対的に区別される」ということが実際にどのようなことかは分かりません。というのは、私たちにはあらゆる点で限界があるために、神さまに当てはまる無限や永遠がどのようなものであるかわからないからです。私たちが、「主」とこの世界が「区別される」と言いますと、私たちの思いあるいは考えの中では、「主」とこの世界が並列に、あるいは、上下に並べられてしまい、そのうえで区別されるというようなイメージをもってしまいます。それですと、比べることができるもの同士の間の区別、それゆえに、相対的な区別になってしまいます。 このような、被造物としての私たちの限界をわきまえた上でのことですが、「主」はあらゆる点において無限、永遠、不変であられ、ご自身がお造りになったどのようなものとも、さらには、ご自身がお造りになったこの大宇宙の全体とも、「絶対的に」区別される方です。このことを、聖書は「主」の聖さとして示しています。 これに対して、偶像はあらゆる点において限りがある人が考え出したものであり、その考えに従って人が造り出したものです。それは主がお造りなったほんの小さな生き物にも劣るものです。そのようなものを神として、「主」も多くの神々の一つとしてしまうことは、「主」の聖さを冒すことです。 イザヤ書40章18節ー20節には、「主」が預言者イザヤをとおして語られたみことばが、 あなたがたは、神をだれになぞらえ、 神をどんな似姿に似せようとするのか。 鋳物師は偶像を鋳て造り、 金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。 貧しい者は、奉納物として、 朽ちない木を選び、 巧みな細工人を捜して、 動かない偶像を据える。 と記されており、25節ー26節には、 それなのに、わたしを、だれになぞらえ、 だれと比べようとするのか」と 聖なる方は仰せられる。 目を高く上げて、 だれがこれらを創造したかを見よ。 この方は、その万象を数えて呼び出し、 一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。 この方は精力に満ち、その力は強い。 一つももれるものはない。 と記されています。 ですから、「主」が、ご自身がお造りなったこの世界を無限に超越しておられるということはとても大切なことです。 しかし、「主」ご自身は天にお住まいになっておられて、地にある幕屋や神殿にはお住まいにはならないという理解には問題もあります。 歴代誌第一・8章では、ソロモンの祈りを記している22節ー53節の前に、主がソロモンの建てた神殿にご臨在されたことが記されています。10節ー11節には、 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 と記されています。この「雲」は主の栄光の御臨在がそこにあることを表示する雲で、自然現象として生じる雲ではなく、「セオファニー」と呼ばれる主の栄光の顕現に伴う雲です。 そして、このことを受けて、続く12節ー13節には、 そのとき、ソロモンは言った。 「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。 そこで私はあなたのお治めになる宮を、 あなたがとこしえにお住みになる所を 確かに建てました。」 と記されています。ここでソロモンは主の神殿のことを「あなたがとこしえにお住みになる所」と呼んでいます。これは主ご自身がソロモンが建てた神殿にお住まいになるということを示しています。 また、この神殿の「前身」とも言うべき幕屋を造ることについて、主がモーセに語られた約束のみことばが、出エジプト記25章8節ー9節に、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 と記されています。 わたしは彼らの中に住む。 というみことばは、主ご自身がイスラエルの民の中に住んでくださるということを意味しています。幕屋も主ご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために主が備えてくださったものです。 そして、そのことが現実となったことが、幕屋が完成した時のことを記している、出エジプト記40章34節ー38節には、 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。 と記されています。 「主」はあらゆる点において無限、永遠、不変であられ、ご自身がお造りになったどのようなものとも「絶対的に」区別される方です。けれども、聖書のみことばは、「主」がその無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、ご自身がお造りになったこの世界にご臨在される方でもあることを示しています。 これまでお話ししてきたことは、主が幕屋や神殿にご臨在されるということでした。しかしこれは、主がご臨在されるためには幕屋や神殿が必要であるという意味ではありません。主はご自身のみこころにしたがって、いつでも、また、どこにでもご臨在することがおできになります。幕屋や神殿は主の必要を満たすためのものではなく、人のために主が備えてくださったものです。 このこととの関連で、先ほど引用しました歴代誌第一・8章12節に記されている、 主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。 というソロモンのことばに注目したいと思います。 ここで言われている、 主は、暗やみの中に住む ということは、他にもありますが、申命記4章11節ー12節に、 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 と記されていることを受けています。これは、エジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民がシナイ山の麓に宿営した時に、主がシナイ山にご臨在されて、御臨在の御許から直接イスラエルの民に語りかけて、十戒の戒めを示されたことを、モーセが回想して語っているものです。 ここで、 山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。 と言われているのは、「セオファニー」と呼ばれる主の栄光の顕現に伴う現象のことです。それで、これは自然現象ではなく、そこに神である主がご臨在されたことを表示するものです。 これと同じことが5章22節には、 これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。 と記されています。 ところが、民は主の御声を聞くことの恐ろしさ満たされてしまいました。同じ5章の25節には「部族のすべてのかしらたちと長老たち」がモーセに、 今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。 と言ったことが記されています。それで、彼らは、モーセが自分たちに代わって主のみことばを聞いて、それを自分たちに伝えてほしいと願いました。それで、モーセは主のみことばに従って、主がご臨在されるシナイ山に登って行きました。そのことが、出エジプト記20章21節には、 そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。 と記されています。ここでも主のご臨在が「暗やみ」を伴っていることが示されています。 そのほか、詩篇97篇2節には、 雲と暗やみが主を取り囲み、 義とさばきが御座の基である。 と記されています。 これらの個所で「暗やみ」と訳されていることば(アラーフェル)は「濃い闇」、「深い闇」を意味しています。この「暗やみ」はそこに主の栄光の御臨在があることを表示していますが、同時に、人が主の栄光の御臨在を直接的に見て、滅ぼされてしまうことがないように、主の栄光の御臨在を隠しているものでもあります。先ほどイスラエルの民の「部族のすべてのかしらたちと長老たち」がモーセに語ったことばを引用しました。そのことばは、主の栄光の御臨在がこの「暗やみ」に隠されているとしても、主の栄光の御臨在に接することは滅びを実感させるほど恐ろしいことであるということを示しています。 その恐ろしさは自分の滅びを実感させる恐ろしさです。そして、そのような滅びは、人が造り主である神さまに対して犯した罪がもたらすものです。ローマ人への手紙6章23節には、 罪から来る報酬は死です。 と記されています。すべての人は罪の本性をもつ者として生まれてきて、実際に、神である主に対して罪を犯してしまいます。その中心には、造り主である神さまを神としないことにあります。ローマ人への手紙1章22節ー23節には、その現実が、 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。これは、ほかならぬ、私たち自身の現実でもありました。 このような人の現実に対して、主はモーセをとおして幕屋を与えてくださり、ダビデ契約においては、ダビデの子が主の御名のための神殿を建てると約束してくださいました。 主が与えてくださった幕屋と神殿には、主がご臨在される所として聖別されていた至聖所がありました。そこには契約の箱があり、その上蓋である「贖いの蓋」の両端に「贖いの蓋」と一体に造られたケルビムがありました。ケルビムは主の栄光の御臨在を表示し、その聖さを守っている生き物です。そして、二つのケルビムの間には、先ほど触れました、主の栄光の御臨在を表示する雲がありました。それらがあった至聖所の前には聖所があり、その聖所と至聖所全体と、聖所と至聖所の間がケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。 これによって、主の栄光の御臨在が主の契約の民であるイスラエルの民の間にあるけれども、イスラエルの民はそのままでは主の栄光の御臨在の御許に近づくことができないということ、もし、そのままで神である主の栄光の御臨在の御許に近づこうとするなら、主の聖さを冒す者として、滅ぼされてしまうということが示されていました。 先ほど触れました、主の栄光の御臨在がシナイ山にあり、主は暗やみの中から語ってくださいましたが、そのことがイスラエルの民には自分たちの滅びを実感させるほどの恐怖をもたらすものであったということは、このような人の現実を示しています。それと同時に、その時は、主が暗やみによってご自身の栄光の御臨在を隠してくださっていたので、イスラエルの民は滅ぼされることがなかったということも示しています。 それと同じように、幕屋と神殿において主の栄光のご臨在がある至聖所と聖所の全体がケルビムが織り出された垂れ幕で仕切られていたこと、そして、至聖所と聖所の間もケルビムが織り出された垂れ幕で仕切られていたことは、人が主の栄光のご臨在に直接的に接することができないようなっていたことをも意味しています。それは、罪ある状態の人が罪があるままで栄光のご臨在に接して、主の聖さを冒し、滅ぼされることがないように配慮され、守られていたということです。 そればかりではありません。主はケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていた聖所と至聖所からなる幕屋の前に、祭壇を備えてくださり、毎日、子羊を朝と夕に1頭ずつを、オリーブ油を混ぜた小麦粉とともに、全焼のいけにえとしてささげて、イスラエルの民全体のための罪の贖いがなされるようにしてくださっていました(出エジプト記29章38節ー43節)。また、その時々に応じてさまざまなささげものがなされることが示されていました。すべて、主の民の罪の贖いときよめにによる主との交わりの回復のためのことです。 そして、年に一度だけ、一般に「大贖罪の日」と呼ばれる贖いの日に、大祭司が山羊の血を携えて至聖所に入り、その血を贖いの蓋の上と贖いの蓋の前に振りかけて、イスラエルの民の罪のために贖いをしました(レビ記16章6節ー34節[11節ー14節に記されているように、大祭司はそれに先立って、雄牛をささげて、自分自身と自分の家族のために罪の贖いをしました])。 このように、幕屋と神殿においては、そこに主の栄光の御臨在があって、主がイスラエルの民の間に住んでくださるということが示されるとともに、そこにご臨在される主の御前に近づいて、主を礼拝するためには、礼拝する者の罪の贖いがなされなければならないことが示されていました。しかも、そのようなことが示されていた幕屋と神殿は、「地上的なひな型」として、やがて主が真の意味での罪の贖いを備えてくださるということも示していました。 これらのことは、主の栄光の御臨在の御許には罪の贖いのための備えがあるということをあかししています。主はただそこにご臨在してくださっていただけではありませんでした。ご自身の民がご自身の御臨在の御許に近づいて、ご自身を礼拝することを中心としたいのちの交わりに生きることができるようにしてくださるためにご臨在してくださっていたのです。言い換えますと、主はご自身の民をご自身の御臨在の御許に住まわせてくださるために、贖いの御業を成し遂げてくださる方として、ご臨在してくださっていたということです。 そして、そのような意味をもった主の御臨在は、それが主の契約の箱の上蓋の両端のケルビムの間に雲があったことが示しているように、主の契約に基づくことでした。 これらのことが、ダビデの子が主の御名のための神殿を建設するということとかかわっています。「ヤハウェ」という主の御名は、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名が短縮され、3人称化された御名です。この御名は、主ご自身が永遠に存在される方であられるとともに、主が歴史をとおして変わることなく、ご自身の契約に対して真実であり、契約において約束してくださったことを必ず実現してくださる方であることを示しています。主はこのような御名の方として、ご自身の民の間にご臨在してくださるのです。そして、このことが、主の神殿が主の御名のための神殿であることの核心にあります。 このことは、十字架にかかって私たちの罪をすべて完全に贖ってくださったイエス・キリストにおいて私たちの間の現実になっています。ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。 と記されています。 |
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