黙示録講解

(第257回)


説教日:2016年8月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(10)


 今日も、ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、冒頭の18節において、イエス・キリストがご自身のことを、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子

として示しておられるときの「神の子」についてです。
 これは、メシア預言である詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

と記されているみことばを背景として語られています。そして、イエス・キリストが詩篇2篇に預言的に記されているメシアであることを示しています。
 詩篇2篇において、「」ヤハウェが、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたということは、サムエル記第二・7章12節ー14節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と記されている、主、ヤハウェがダビデに与えられた契約、すなわち、ダビデ契約の約束を背景としています。
 以前お話ししたことの復習となりますが、ダビデ契約は、主がダビデをとおして統一王国としてのイスラエルを堅く立ててくださり、イスラエルの民に平安を与えてくださったことを受けて、ダビデが主の御名のための神殿、すなわち、主がイスラエルの民の間にご臨在されるための神殿を建設しようと志したときに、主が与えてくださった契約です。
 主の御臨在がイスラエルの民とともにあるということこそは、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことの目的です。そのことは、これも先主日からの、繰り返しの引用になりますが、出エジプト記19章4節ー6節に記されている、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

という契約の神である主、ヤハウェのみことばに明確に示されています。イスラエルは主の御臨在の御前に立つ「祭司の王国、聖なる国民となる」ために召されていたのです。
 ここでは、イスラエルが「祭司の王国」となるのは、

 すべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる

ことによっていると言われています。これは、イスラエルの民が「すべての国々の民」とは区別されて主の宝の民となるということを意味しています。それは、また、主にとってとても大切な民となるということとともに、主の贖いの御業のご計画のために選ばれた民であるということを意味しています。主はその理由として、

 全世界はわたしのものであるから。

と述べておられます。主は「すべての国々の民」をお造りになった方であり、「すべての国々の民」の究極的な所有者です。もし、人が主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、「すべての国々の民」は主を神として礼拝し、主との愛にある交わりに生きる、主の宝の民であったはずです。人が主に対して罪を犯すことがなかったとしても、人としての限界はありましたから、人々は一定の地域において主を神として礼拝することを中心として、共同体を形成して生活していたことでしょう。そして、その一つ一つが主にとって宝の民でありつつ、その全体も宝の民であったはずです。しかし、実際には、人は主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、「すべての国々の民」は主を神として礼拝することはなくなってしまいました。
 そのような状態にある「すべての国々の民の中にあって」イスラエルの民は主の宝の民として選ばれました。それは、「すべての国々の民」に対する主の贖いの御業のご計画の実現のためです。そのイスラエルの民が「祭司の王国」となるということは、主がイスラエルの民をとおして、主に対して罪を犯し、主の御前に堕落してしまっている民が、どのようにして主との本来の関係に回復していただけるのかを示してくださるためのことであったのです。
 これは、歴史的にさらにさかのぼっていきますと、創世記12章1節ー3節に記されていますが、主がアブラハムを召してくださったときに、アブラハムに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束を実現してくださるためのことです。
 このことのために、主はエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を、一方的な愛と恵みをもって、奴隷の状態から贖い出してくださり、ご自身の宝の民としてくださいました。主はそのためにイスラエルの民を奴隷として虐げていたエジプトに対してさばきを執行されました。その最終的なさばきとして、エジプトの地にあるすべてのいのちあるものの初子を打ったとき、イスラエルの民のためには、過越の小羊を備えてくださり、その過越の小羊がイスラエルの民の初子の身代わりになって血を流すことによって、イスラエルの民の初子はそのさばきを免れました。主はそのようにしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。このことは、「すべての国々の民」に対する神である主の贖いの御業のご計画の中にあったのです。
 このようにして、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民は主がご臨在されるようになるシナイ山の麓に導かれて来て、そこに宿営しました。そして、シナイ山にご臨在された主がイスラエルの民と契約を結んでくださり、イスラエルは主の御臨在の御前に立って、主を礼拝することを中心として、主との親しい交わりに生きることにおいて、主に仕える祭司の国となりました。主がイスラエルの民と契約を結んでくださったことが出エジプト記24章1節ー11節に記されています。
 注目すべきことは、その際にも、「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえとして雄牛」がささげられ、その血によって民がきよめられる必要があることが示されました。
 そして、出エジプト記では、続く12節ー18節に記されているように、主との契約が結ばれた直後に、主はモーセにご自身がご臨在されるシナイ山に登って御許に来るように命令され、モーセはシナイ山に登っていきました。そして、25章ー31章には、そこで、主がイスラエルの民の間にご臨在されるために必要なことを示してくださったことが記されています。
 その時、主が最初に示してくださったのは、主がそこにご臨在されるための聖所としての幕屋をどのように造るかということでした。25章8節ー9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されているとおりです。
 そして、その幕屋について最初に示してくださったのは、続く10節ー22節に記されている、幕屋の中でも、主がご臨在される至聖所に置かれる契約の箱でした。その部分の最後の22節には、

わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と記されています。
 これに続く(25章)23節ー27章において、幕屋のそのほかの用具とそれにかかわる戒めのことが示されています。そして、その後の28章1節ー31章11節においては、幕屋で祭司として仕えるアロンとその子らの聖別(特に、そのための祭司の装束)と任職とその努めのこと、幕屋とその用具の聖別のこと、さらに、幕屋とその用具を造る者たちのことなどが記されています。その中で注目したいのは、アロンとその子らの聖別と任職についての戒めの最後の部分である29章44節ー46節に記されている、

わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、である。

という主の約束のみことばです。このみことばには、イスラエルが主の御臨在の御前で主に仕える祭司の国として召されていることが如実に示されています。
 この幕屋においても、アロンとその子らが祭司として主の御臨在の御許で仕えるために聖別されるためには、聖所の前に備えられている祭壇において、「罪のためのいけにえ」として雄牛をささげ、「への全焼のいけにえ」として雄羊をささげました(出エジプト記29章10節ー18節)。
 また、29章38節ー39節には、イスラエルの民全体のためにささげられるいけにえのことが、

祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。

と記されています。
 このようにして、「すべての国々の民の中にあって」主の宝の民として選ばれ、祭司の国として召されたイスラエルの民をとおして、人が主の栄光の御臨在の御許に近づいて主を礼拝し、主との交わりのうちに生きるようになるためには、罪の贖いのための血が流されなければならないことが示されています。
 そして、最後の戒めとして31章12節ー17節には、

 主はモーセに告げて仰せられた。
 「あなたはイスラエル人に告げて言え。
 あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別するであることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それはが六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」

と記されていて、主の安息日を守るべきことが記されています。
 安息日に関する戒めは、すでに、十戒の第4戒を記している20章8節ー11節に、詳しく記されていました。それがここで改めて記されていることには意味があります。それは、主がご臨在される幕屋は、主の御前で主の契約の民であるイスラエルが主を礼拝するために与えられたものであるということにかかわっています。そのことは、祭司がそこで主に仕えることにおいて、いわば、代表的に示されています。けれども、それは祭司たちだけのことではなく、祭司の国となるように召されているイスラエルの民全体にかかわっています。そのようにして主を礼拝するために、イスラエルの民は安息日を守るよう戒められているのです。
 このこととのかかわりで注目したいのは13節後半ー14節前半に記されている、

これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別するであることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。

というみことばです。イスラエルの民は安息日を守ること、安息日に主の御前に礼拝することにおいて、主の民として聖別されていることを現すとともに、「あなたがたが知るためのものなのである」と言われているように、そのことを自覚していくのです。


 このように、契約の神である主、ヤハウェの御臨在の御前において仕える祭司の国であることは、イスラエルの民の存在の本質にかかわることです。そして、その中心に主がご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださることがあります。
 主の御臨在は、エジプトを出たイスラエルの民が約束の地に向かって旅する間は、幕屋にありました。それは幕屋が運ぶことができる聖所であったからです。しかし、主が約束の地であるカナンにおいてダビデをとおして王国を確立してくださり、イスラエルの民に平安を与えられたことによって、イスラエルの民はその地に定住するようになりました。もはや、主の聖所はイスラエルの民とともに移動する必要はなくなりました。それで、ダビデは主の神殿建設を志したのです。
 しかし、主はダビデに与えられた契約において、ご自身のために神殿を建てるのはダビデではなく、ダビデの子であることをお示しになりました。そのことが先ほど引用しましたサムエル記第二・7章12節ー13節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と記されています。ここで主は、ご自身がダビデの子の王国の王座を確立してくださることと、そのダビデの子が主の御名のために神殿を建設するということを約束してくださいました。
 この場合の「あなたの身から出る世継ぎの子」は集合名詞的にダビデの王座を継承するダビデの子たちを指しています。
 そして14節には、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という主のみことばが記されています。これは、主が「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている、ダビデの子の「王国の王座」に、ダビデの子たちが即位する時のことを述べています。それで、詩篇2篇7節において「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたのも、ダビデの子たちがダビデの王座を継承する王として即位する時のことを述べています。
 ここにはダビデの王位を継承するダビデの子たちの集合体があります。そして、聖書においては、そのような集合体には「かしら」があります。そのかしらは一見するとダビデであるように思われます。けれども、ダビデはダビデの子たちには属してはいません。また、ダビデ契約において示されているダビデの子の重大な使命は、主の御名のために神殿を建てることにあります。それで、ダビデの子たちのかしらは、主の御名のために神殿を建てる者であると考えられます。しかし、ダビデは主の御名のための神殿を建設することを志しましたが、それは許されませんでした。その理由は歴代誌第一・22章8節に記されている、

あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。

という主がダビデに語られたみことばに示されています。
 そうしますと、ダビデの子のかしらは、エルサレム神殿を建てたソロモンであるように思われます。けれども、これまで繰り返しお話ししてきましたように、ソロモンは晩年になって、外国からめとっていた妻たちが持ち込んできていた偶像を礼拝するようになってしまいました。それは、ソロモンが建てた主の神殿の意味を否定することです。主の神殿は、主がご自身の契約に基づいてイスラエルの民の間にご臨在されるため、そして、イスラエルの民が主の御前に仕える祭司の国として、主を礼拝するために建てられました。ソロモンは主の御前に仕える祭司の国として召されているイスラエルの存在の本質を否定してしまっていたのです。このことのために、ソロモンは主の聖なる御怒りを引き起こし、イスラエルが北王国イスラエルと南王国ユダに分裂するようになってしまいます。
 ソロモンは、主がダビデに、ダビデの子の王国の王座をとこしえに堅く建ててくださると約束してくださった、そのダビデの子であるどころか、ダビデの王座の存在を危うくしてしまいました。それでも、ダビデの王座が残されたのは、主のあわれみと、主がダビデに与えてくださった契約を守ってくださった主の真実によっています。列王記第一・11章11節ー13節に、

それゆえ、はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」

と記されているとおりです。
 これまでお話ししてきたことから分かりますが、ダビデの子たちのかしらである方は、主が、

彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と約束してくださった「王国の王座」に着く方です。また、主の御名のために家を建てる方として、その御国の民が「すべての国々の民の中にあって」主の宝の民となり、「すべての国々の民」のために主の御前に祭司の国となるように召されている使命を果たすように治める方です。そして、その方によって、主がアブラハムに与えられた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束は実現します。
 このような方であるダビデの子たちのかしらは、主のあわれみと、主がダビデに与えてくださった契約を守ってくださった主の真実によって残されたダビデの王座を受け継いで南王国ユダの王となったダビデの子たちの中にはいませんでした。

 その方は、すでにお話ししましたようにました、イザヤ書11章1節ー10節に預言的に示されていて、1節において、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

とあかしされている「新しいダビデ」です。
 この方は、また、南王国ユダの滅亡が避けられないことを預言し、実際に、それが現実になった時代にこの方が与えられることを預言したエレミヤが記したエレミヤ書23章5節ー6節に預言的に示されている、主がダビデのために起こされる「正しい若枝」と呼ばれている方ですし、30章8節ー11節において、主がご自身の民のために立ててくださると約束してくださっている「彼らの王ダビデ」と呼ばれている方です。
 主がこの方を立ててくださるのは、ダビデ契約の約束によっています。そして、それはさかのぼっていきますと、主がアブラハムに与えられた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束によっています。
 エレミヤは、その約束の確かさについても預言しています。
 エレミヤ書33章19節ー22節には、

エレミヤに次のようなのことばがあった。「はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」

と記されています。
 ここで主が「わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約」と言われる契約は、これまでお話ししてきたダビデ契約のことです。それはダビデの血肉の王たちが受け継いできた地上のダビデの王座が主のさばきによって滅ぼされてしまった後にも無効になってしまうわけではないことが示されています。その確かさは、主が天地創造の御業において昼と夜とに契約を結ばれて、真実に「昼と夜とが定まった時に来」るようにしてくださっているのと同じ真実さをもって、ダビデ契約の約束を実現してくださると言われていることにあります。
 主は、「とこしえまでも堅く立てる」と約束してくださっている「王国の王座」に着くダビデの子が絶えることがないと約束してくださっているだけではありません。主に仕える「レビ人の祭司たち」も絶えることがないと約束してくださっています。
 ここで主が「わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約」と呼ばれている契約は、民数記25章10節ー13節に記されていますが、「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハス」に与えられた、

見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。

という契約のことであると考えられています。あるいは、それ以前に、主がイスラエルを祭司の国として召してくださり、イスラエルと契約を結んでくださったことと、レビ族に属するアロンとその子らを祭司としてくださったことであるとも考えられます。
 いずれにしましても、ここには、主がとこしえに確立してくださる王座に着くダビデの子が絶えることがないということと、主に仕える祭司が絶えることがないということがともに約束されているのは、主がとこしえに確立してくださる王座に着くダビデの子が主の御名のために神殿を建てるという、ダビデ契約の約束に基づいています。そのダビデの子が建てる主の神殿において、主の御前に仕える祭司が絶えてしまうとしたら、その神殿が建てられた意味もなくなってしまいます。そうなってしまうと、主の契約の民が「すべての国々の民の中にあって」主の宝の民となり、「すべての国々の民」のために主の御前に祭司の国となるように召されている使命を果たすこともできなくなってしまいます。
 けれども、ここで主は「新しいダビデ」によって、主の契約の民が「すべての国々の民の中にあって」主の宝の民となり、「すべての国々の民」のために主の御前に祭司の国となるように召されている使命を果たすようになることが確かに実現すると約束してくださっています。
 このことは、まことのダビデの子、「新しいダビデ」として来てくださったイエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちにおいて実現しています。ペテロの手紙第一・2章5節には、

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

と記されており、9節には、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

と記されています。私たちも「すべての国々の民の中にあって」主の宝の民として選ばれ、祭司の国として召されています。それは、私たち自身が、御子イエス・キリストの血によって立てられた新しい契約による主の民として、主の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝することを中心として、主のとの交わりに生きることにおいて、主が備えてくださっている罪の贖いがどのようなものであるかをあかしするためです。


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