黙示録講解

(第256回)


説教日:2016年7月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(9)


 ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 冒頭の18節には、

 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
 「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

と記されています。
 ここでイエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。これは、メシア預言とされている詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

と記されているみことばに預言的に示されているメシアであることを示しておられます。
 詩篇2篇において、「」ヤハウェが、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたのは、「ダビデ契約」と呼ばれる「」がダビデに与えられた契約の約束を背景としています。その契約において「」は、ダビデの子についての約束を与えてくださいました。サムエル記第二・7章12節ー16節には、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されています。ここで「あなたの身から出る世継ぎの子」と言われているのは単数形ですが、ダビデの王位を継承する子たちを意味する集合名詞であると考えられます。そして14節で、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と言われていることは、ダビデの子たちがダビデ契約に約束されている王として即位する時のことを述べています。それで、詩篇2篇7節において「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたのは、主が「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている、ダビデの子の「王国の王座」に、ダビデの子たちが即位することを指しています。
 また、サムエル記第二・7章13節に、

 彼はわたしの名のために一つの家を建てる

と記されているように、ダビデの子が主の御名のために家、すなわち、主の神殿を建てると約束されています。このことは、主がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださることと、ダビデの子が主の神殿を建てることが切り離し難く結びついていることを示しています。
 主が「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている「王国の王座」に着くダビデの子は、主がその中心にご臨在してくださってご自身の民を治めてくださる王国において、主のみこころを実行に移すために召され、そのために主によって油を注がれた王です。それで、この王国の中心は神である主の御臨在ですし、この王国の本質的な特質は神である主がご臨在されて、治めておられることにあります。
 それは、イスラエルが神である主に対して祭司の国となるように召されていることによっています。エジプトの奴隷の状態から贖い出されて、シナイ山の麓に宿営したイスラエルの民に対して、主がモーセをとおして語られたみことばを記している出エジプト記19章4節ー6節には、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

と記されています。
 イスラエルの王は、このような、主によって祭司の国として召された国の王として召されています。それで、イスラエルの王のあり方について記している申命記17章18節ー20節には、

彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

と記されています。イスラエルの「王国の王座に着く」王たちは、王国の中心にご臨在しておられる主を代表し、現す者として立てられています。具体的には、主のみこころにしたがって、主の民を導き、養い、育てる牧者として立てられているのです。
 ですから、主の神殿が建設されることは、祭司の国として立てられたイスラエルの本質にかかわっています。その主の神殿は一つですので、歴代の王がそれぞれ新しく神殿を建てるわけではありません。それを建設したのはダビデの後に王位を継承したソロモンでした。ダビデはそのために準備をし、主はソロモンを祝福してくださり、その王国を繁栄させてくださいました。そして、ソロモンは壮大なエルサレム神殿を建設しました。その後のダビデの子として「王国の王座に着く」王たちは、自分たちの間に御臨在してくださっている主に信頼して、主のみこころにしたがって、主の民を導き、養い、育てる牧者としての働きに携わるようにと召されていました。
 ところが、その主の神殿を建設したソロモンは、晩年になって、主がその契約に基づいてご自身の民の間にご臨在してくださっていることを否定する偶像礼拝に走ってしまいました。列王記第一・11章3節ー8節には、

彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、の目の前に悪を行い、父ダビデのようには、に従い通さなかった。当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。

と記されています。
 「アシュタロテ」はバアルの伴侶とされている女神で、豊饒の神とされていました。それで「アシュタロテ」を礼拝することには道徳的、特に性的な腐敗がともなっていました。「ミルコム」と「モレク」はともにアモン人の神と言われていますが、同じ神の異なった名です。どちらも子音字は「王」を意味しています。この神の礼拝においては自分の子どもを火で焼いていけにえとするという「忌むべき」ことが行われました(参照・列王記第二・23章10節、歴代誌第二・28章3節、33章6節)。ただし、これは一般的な理解で、火の間を通らせて子どもをささげただけであると考える学者たちもいます。「ケモシュ」はモアブの神で、列王記第二・3章27節には、モアブの王が危機に瀕して自分の王位を継承すべき長男を「ケモシュ」への全焼のいけにえとしたことが記されています。
 「エルサレムの東にある山」とはオリーブ山のことです。この時ソロモンがこの山に築いたこれらの神々の礼拝場としての「高き所」は、ヨシヤが取り壊すまで存続していました(列王記第二・23章13節)。このことは、ソロモンの背教の影響が、この時まで連綿と続いていたことを示しています。
 さらに、ヨシヤの徹底的な改革にもかかわらず、それに続くダビデの子たちは背教してしまい、主の御前に悪を行うことへと戻ってしまいました。南王国ユダの最後の王ゼデキヤのことを記している歴代誌第二・36章11節ー16節には、

ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼はその神、の目の前に悪を行い、のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、に立ち返らなかった。そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別されたの宮を汚した。彼らの父祖の神、は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

と記されています。
 ここには、主が最後までご自身の民にあわれみを示してくださって、「自分の御住まい」が彼らとともにあるようにと、預言者たちを遣わして、働きかけてくださったことが示されています。この最後の部分に記されているみことばは、エルサレムのために嘆かれたイエス・キリストのみことばを思い起こさせます。ルカの福音書13章34節ー35節には、

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。

と記されています。
 このように、ダビデの子として王位に着いた王たちの歴史はソロモンの背教から始まって、背教で終わってしまっています。
 このことは、主がダビデに、ダビデの子が主の御名のための神殿を築くと約束してくださったことがソロモンにおいて成就しているということに陰を投げ掛けることです。ソロモンは、主の御名のための家を建てるまことのダビデの子ではありませんでした。
 また、ソロモンの背教から始まって、その背教が繰り返されていき、ついには主のさばきを招いてしまうに至るダビデの血肉の子たちが着いた王国の王座は、主が「とこしえまでも堅く立てる」と約束してくださっていた王座ではありませんでした。これらは、古い契約の枠の中での「当面の成就」として、やがて成就するまことのダビデの子と、彼が建てるまことの主の神殿を指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっているものです。これによって、神である主の契約において与えられた約束のみことばは、単なることばではなく、それを実現することばであることが示されています。そして、主の約束のみことばと、その「当面の成就」が相まって、やがて、新しい契約の下で実現する「本体」を指し示しています。


 このことは、先週お話ししましたように、主が南王国ユダの滅亡を預言した預言者たちをとおして、「新しいダビデ」を与えてくださることを約束してくださっていることからも分かります。先主日は、主がイザヤをとおして与えてくださっている約束を取り上げました。今日は、エレミヤをとおして与えてくださった約束を見てみたいと思います。
 エルサレムが陥落し、エルサレム神殿が破壊され、南王国ユダが滅亡するのは前586年のことです。エレミヤは 前627年に主からの召しを受けました。それは、ヨシヤ王(前640年ー609年)の13年(エレミヤ書1章2節)のことです。その時には、マナセ(前697/6ー643/2年)の罪によって南王国ユダの滅亡が避けられなくなっていました(列王記第二・21章11節ー15節、23章26節、24章3節)。それで、エレミヤは南王国ユダの滅亡とバビロンの捕囚が避けられないことと、それゆえに主のさばきに服すべきこと、さらにその先にある、主のあわれみと主の契約の真実に基づく回復を待ち望むべきことを伝えました。
 エレミヤは南王国ユダの王たちのことを「ダビデの王座に着いている王たち」と呼んで、その罪を糾弾し、主のさばきが下されることを伝えています(13章13節、17章25節、22章2節、4節、29章16節)。そして、主のさばきによって、ダビデの王座に着く者が絶えてしまうことも預言しています(22章30節、36章30節)。これは、主がダビデに与えてくださった契約を踏まえてのことです。
 その一方で、エレミヤはエルサレム神殿が破壊され、南王国ユダが滅亡し、民はバビロンの捕囚に遭うという主のさばきですべてが終わるのではなく、その後に、回復があることを預言しています。そして、それは主の契約に示されている真実とあわれみによっていることが示されることになります。いくつかの個所を見てみましょう。
 23章1節ー8節には、

「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――の御告げ――」それゆえ、イスラエルの神、は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。――の御告げ――しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――の御告げ――
 見よ。その日が来る。
 ――の御告げ――
 その日、わたしは、
 ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
 彼は王となって治め、栄えて、
 この国に公義と正義を行う。
 その日、ユダは救われ、
 イスラエルは安らかに住む。
 その王の名は、
 『は私たちの正義』と呼ばれよう。
それゆえ、見よ、このような日が来る。――の御告げ――その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせたは生きておられる』とはもう言わないで、『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせたは生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」

と記されています。
 1節で、

 ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。

と言われているときの「牧者たち」は南王国ユダの王たちのことです。聖書においては[また、古代オリエントの文化の中では]王は牧者と呼ばれています。ユダの王たちは主から「牧場の群れ」を託されたのに、その群れを「滅ぼし散らす」者であると糾弾されています。そして、2節では、その牧者たちに対するさばきが宣告されています。このように、ダビデの血肉の子たちが治めていた王国は滅亡に至り、彼らの罪のために、民は散らされてしまいます。
 けれども、3節ー4節において、神である主は、

しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――の御告げ――

と言われて、人の目にはもはや絶望しかないと見える状況にあって、ご自身の恵みをもってお働きになることを約束してくださっています。主はご自身の民をバビロンの捕囚によって散らされた地から帰還させてくださることを約束してくださっています。そして、繁栄と平安を約束してくださっています。これは主ご自身が牧者となってご自身の民を導いてくださることを示しています。同時に、そのために、主のみこころにしたがって治める「牧者たちを立て」てくださることも約束してくださっています。
 そして、5節ー6節においては、

 見よ。その日が来る。
 ――の御告げ――
 その日、わたしは、
 ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
 彼は王となって治め、栄えて、
 この国に公義と正義を行う。
 その日、ユダは救われ、
 イスラエルは安らかに住む。
 その王の名は、
 「は私たちの正義」と呼ばれよう。

と言われていていて、ダビデ契約の約束が実現することが示されています。
 これは、前回引用しました、イザヤ書11章1節ー5節に、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上に、の霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 はかりごとと能力の霊、
 主を知る知識とを恐れる霊である。
 この方はを恐れることを喜び、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって寄るべのない者をさばき、
 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。
 正義はその腰の帯となり、
 真実はその胴の帯となる。

と記されていることと実質的に同じことを述べています。
 このエレミヤの預言で注目されるのは、6節の後半に、

 その王の名は、
 「は私たちの正義」と呼ばれよう。

と記されていることです。
 ダビデ王朝の最後の王はゼデキヤです。そのゼデキヤという名の意味は「ヤハウェは私の正義」(K=B,p.1007)です。ところが、先ほど引用しました、歴代誌第二・36章11節ー16節に記されていましたように、ゼデキヤは主の御前に悪を行っただけでなく、主があわれみをもって遣わしてくださった預言者たちを辱めては退けると言う罪を繰り返しました。そのために、主の御怒りを積み上げるようになり、南王国ユダは滅亡するに至ります。ゼデキヤはその名が意味していることとは正反対の王でした。
 これに対して、エレミヤはやがて主がダビデのために起こしてくださる「正しい若枝」(新改訳の「一つの」は、これが単数形であることによっています)は、まことの「は私たちの正義」という御名の王であること、それゆえに、まことのダビデの子であることを示しています。

 エレミヤ書においては30章ー33章において、特に、将来における回復が預言的に示されています。ブルッグマンはこの30章ー33章に「慰めの書」という表題を付けています(Brueggemann, A Commentary on Jeremiah, p.264)。
 今お話ししていることとのかかわりで、その中の(中途半端な区切りになりますが)30章8節ー11節前半に注目したいと思います。そこには、

その日になると、――万軍のの御告げ――わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。
 わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。
 ――の御告げ――
 イスラエルよ。おののくな。
 見よ。わたしが、あなたを遠くから、
 あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。
 ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、
 おびえさせる者はだれもいない。
 わたしがあなたとともにいて、
 ――の御告げ――
 あなたを救うからだ。

と記されています。
 ここでも、主がご自身の民を捕囚の地から帰還させてくださることが預言的に約束されています。それは、人のよさや力にはよらないで、ひとえに主のあわれみと恵みによることです。というのは、

 その日になると、――万軍のの御告げ――わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く

と言われているように、主の民は「首のくびき」と「なわめ」に拘束されていてどうすることもできない状態にあるからです。
 これに対して、主は、ご自身が、

 彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く

と約束してくださっています。そして、

 他国人は二度と彼らを奴隷にしない。

という約束によって、まったき解放が実現することが示されています。これは、私たちの間では、ガラテヤ人への手紙5章1節に、

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

と記されているように、私たちが神の子どもの自由へと解放されていることにおいて実現しています。
 とはいえ、主の民がもはや「他国人」に仕えることはないということは消極的なことです。これには積極的な面があります。それが、続く、

 彼らは彼らの神、と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。

という約束によって示されています。ここには、

 わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデ

が出てきます。これは、イザヤ書11章1節に預言的に示されていた「新しいダビデ」で、ダビデ契約に約束されている永遠の王座に着くまことのダビデの子のことです。
 そして、この「新しいダビデ」に仕えることは、契約の神である主、ヤハウェに仕えることと切り離すことができないこととしてつながっています。
 このことは、最終的には、ヨハネの福音書10章30節に記されているように、

 わたしと父とは一つです。

とあかししておられるイエス・キリストにおいて実現しています。また、イエス・キリストは14章6節ー7節において、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。

ともあかししておられます。
 イエス・キリストは、「新しいダビデ」、まことのダビデの子孫として来られて、ご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、ご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光をうけて死者の中からよみがえられました。私たちはこのイエス・キリストを知ることなしに、父なる神さまを知ることはできません。また、そのイエス・キリストによって示された愛を知ることなしに、父なる神さまの愛を知ることはできません。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死も死者の中からのよみがえりも、イエス・キリストが私たちを愛して、私たちのために成し遂げてくださったことですが、それは、また、父なる神さまが私たちを愛して、イエス・キリストをとおして、私たちのために成し遂げてくださったことだからです。


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