黙示録講解

(第255回)


説教日:2016年7月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(8)


 今日も、ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 18節には、

 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
 「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

と記されています。ギリシア語の順序から言いますと、ここでイエス・キリストは、ご自身のことを、まず「神の子」として示してから(同格の形で)、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような方

として説明しておられます。
 ここでイエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられるのは、詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

と記されているみことばに預言的に示されているメシアであることを示しておられます。「」すなわち契約の神である主、ヤハウェが、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたのは、「」がダビデに与えられた契約すなわち「ダビデ契約」に示されている約束のことばを背景としています。具体的には、サムエル記第二・7章12節ー14節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

と記されている中の、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という約束のことばを背景としています。この場合の「」はダビデの子としてのまとまりをもっているという点で集合名詞的な「分配代名詞」でダビデの血肉の子孫である王たちそれぞれを表しています。
 ですから、詩篇2篇7節において、「」が、

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われたのは、主が「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている、ダビデの子の「王国の王座」に、ダビデの子たちが即位することを指しています。
 ダビデ契約の約束では、このダビデの子は主の御名のために主の家、すなわち主の神殿を建てると言われています[新改訳「一つの家」は「」の単数形]。そのことは、当面の成就(古い契約の枠の中での成就)としては、ダビデの血肉の子であるソロモンにおいて実現しました。しかし、すでに(先々主日に)ある程度詳しくお話ししましたように、ソロモンは晩年になって、すでに外国からめとっていた妻たちが持ち込んできていた偶像を拝むようになってしまいました。主が預言者を通して2度も警告しても、偶像礼拝を止めることはありませんでした。そのために、王国はソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂してしまいました。ソロモンはダビデ契約に約束されているまことのダビデの子ではなく、そのまことのダビデの子を指し示す「地上的なひな型」でした。
 また、ダビデ契約の約束において、主がダビデの子の「王国の王座」を「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっていることは、やはり当面の成就として、ダビデ王朝が紀元前1010年(サウル王が死んだ年)から前586年(エルサレムが陥落し、エルサレム神殿が破壊された年)までの424年間も続いたことにおいて実現しています。一つの王朝がこれほど続いたことは古代オリエントにおいては例がないことであると言われています。
 けれども、424年もの間ダビデの子たちによって継承された王座も、「永遠の王座」ではありませんでした。
 このこととの関連では、主がダビデ契約の約束の中で、

 もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

と約束してくださっていることが思い出されます。この約束は

 もし彼が罪を犯すときは

ということば[前置詞と不定詞の合成形が条件を表すことは、Gesebius,112,mmを参照]で始まっています。ダビデの血肉の子孫である王たちが主に背いて罪を犯すようになることを想定しています。
 そして、

 わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

と言われているときの「懲らしめる」と訳されていることば(ヤーカハ)は正しくするために「懲らしめる」ということを意味しています。これはまた法廷闘争において契約違反を責めることを表すのにも用いられます。イザヤ書1章18節に、

 「さあ、来たれ。論じ合おう」とは仰せられる。
 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
 雪のように白くなる。
 たとい、紅のように赤くても、
 羊の毛のようになる。

と記されているときの「論じ合おう」と訳されていることばがこのことばです。これは一方的な断罪ではなく、続く、

 たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
 雪のように白くなる。
 たとい、紅のように赤くても、
 羊の毛のようになる。

ということばから分かりますように、回復の可能性があることを示します。
 サムエル記第二・7章14節で、

 わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

と言われているときの「人の杖」の「」(シェベト)は、罰する時にも用いられますが、正しくするための訓練のためにも用いられます。羊飼いがもっている「」は羊を数えたり、迷わないように導いたり、守ったりするために用いられます。
 また、「人の子のむち」の「むち」(ネガァ)は刑罰や懲らしめのために打ち叩くこと、転じて、疫病、災害などを表します。
 このようなことばの用例から分かる、

 わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

ということばの意味合いは、主に背いて罪を犯したダビデの子たちを正しくし回復しようとされる主のみこころを示していると考えられます。
 さらに、この理解を裏付けることですが、

 もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

ということばは、その前に、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と言われていることと結びつけて理解する必要があります。そうしますと、これは、ヘブル人への手紙12章5節ー6節に引用されていますが、箴言3章11節ー12節に記されている、

 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。
 その叱責をいとうな。
 父がかわいがる子をしかるように、
 は愛する者をしかる。

というみことばが示している「」の愛とあわれみから出たものであることが分かります。
 実際に、ダビデとソロモンの後に、20人のダビデの子たちが南王国ユダの王として治めました。先々週は、その中には、不徹底な王もいましたが、主に立ち返った王たちがいたことをお話ししました[お詫び・前回(6回目のリスト)のリストの「アザルヤ」と「ウジヤ」は同じ人物の別名です]。けれども、他の王たちは主に背いて、偶像礼拝を中心とする悪を行いました。これに対して主は預言者たちを送って糾弾と警告をされたり、敵対する者を起こされたり、災害を送られたりしました(歴代誌第二・21章8節ー17節、エレミヤ書29章16節ー20節、参照・列王記第一・8章33節ー40節)。それは、主に立ち返っていたけれども、晩年に罪を犯した王でも例外ではありませんでした(歴代誌第二・16章7節ー13節)。それによって、主は南王国ユダをご自身の御許に立ち返らせようとしてくださったのです。けれども、南王国ユダはその罪のために、最後には、前586年にバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊され、民は、一部の貧しい人々を除いて、捕囚となってバビロンへ移されました。
 バビロンの捕囚としては、これに先立って、前605年に第1回の捕囚があり、597年に第2回の捕囚がありました。これらも主の懲らしめとしての意味をもっていました。主はその間に、エレミヤやハバクク、さらには第2回の捕囚によってバビロンにいたエゼキエルなどの預言者を遣わしてくださっています。
 このことは、古い契約の下で、ダビデの血肉の子孫たちが即位したことは「地上的なひな型」であったことを意味しています。神である主がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったまことのダビデの子であるメシアと、そのメシアが着座される「永遠の王座」を指し示す「地上的なひな型」であったのです。


 ダビデ契約の約束は、

 もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

ということで終わっていません。さらに続く(サムエル記第二・7章)15節ー16節には、

しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されています。ダビデ契約の約束はバビロンの捕囚で終わってはいないのです。そのことは預言者たちの預言によっても示されています。そのいくつかを見てみましょう。
 前740/39年ー690年頃に預言者として働いたと考えられるイザヤはその書(イザヤ書)9章6節において、

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、
 その名は「不思議な助言者、力ある神、
 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
 さばきと正義によってこれを堅く立て、
 これをささえる。今より、とこしえまで。
 万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

と預言しています。このイザヤの預言がダビデ契約の約束に基づいていることは、説明するまでもありません。
 また、11章1節ー10節には、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上に、の霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 はかりごとと能力の霊、
 主を知る知識とを恐れる霊である。
 この方はを恐れることを喜び、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって寄るべのない者をさばき、
 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。
 正義はその腰の帯となり、
 真実はその胴の帯となる。
 狼は子羊とともに宿り、
 ひょうは子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
 小さい子どもがこれを追っていく。
 雌牛と熊とは共に草をはみ、
 その子らは共に伏し、
 獅子も牛のようにわらを食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、そこなわない。
 を知ることが、
 海をおおう水のように、地を満たすからである。
 その日、
 エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のいこう所は栄光に輝く。

と記されています。
 1節と10節に「エッサイ」が出てきますが、これはダビデの父の名です。ここではこのダビデの父が表象的に用いられています。そして1節で、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と言われているときの「エッサイ」は木にたとえられています。今日のことばで言う「ファミリー・ツリー」のようなものでしょうか。そして「根株」と「」は、切り倒されたか、朽ちて倒れたかした木の「根株」と「」であることを表しています。イザヤの時代にはまだ存続していた南王国ユダも、ダビデの子である王たちの背教とともに腐敗していき、やがて、さばきを受けて切り倒されてしまいます。
 しかし、ここでは、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と言われています。「エッサイ」から生まれるのはダビデです。それで、これは「新しいダビデ」が与えられることを示しています。それで、これはエゼキエル書34章23節ー24節に、

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。であるわたしがこう告げる。

と記されていることに通じています。
 そして、イザヤ書11章では、続いて、

 その上に、の霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 はかりごとと能力の霊、
 主を知る知識とを恐れる霊である。

と言われていることは、この「新しいダビデ」こそが、御霊によって油を注がれたメシアであることを示しています。これは後に、42章1節において、

 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は国々に公義をもたらす。

と記されるようになる「主のしもべ」へとつながっていきます。
 11章では、さらに4節で、

 正義をもって寄るべのない者をさばき、
 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。

と言われていていて、この方が「正義」と「公正」をもって貧しく、力のない者たち、不当な扱いを受けても対処する術がない人々のために、さばきを執行されることが記されています。
 「口のむち」と「くちびるの息」とはことばのことで、さばきを宣言されることを意味しています。それは主権者のさばきの宣言ですので、それが執行されることをも意味しています。
 また、ここで「」と訳されていることば(無冠詞・エレツ)は基本的に「地」を表すことばですが、「領土」や「国」をも表します。私が調べることができる4つの英訳では「the earth」と訳されています。いずれにしましても、これはメシアの主権の及ぶ所です。そして、10節に、

 その日、
 エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のいこう所は栄光に輝く。

と記されていることに照らして見ますと、その主権はすべての民、すべての国々に及びます。
 そればかりでなく、6節ー9節に、

 狼は子羊とともに宿り、
 ひょうは子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
 小さい子どもがこれを追っていく。
 雌牛と熊とは共に草をはみ、
 その子らは共に伏し、
 獅子も牛のようにわらを食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、そこなわない。
 を知ることが、
 海をおおう水のように、地を満たすからである。

と記されていることは、メシアの主権が及ぶところでは、

 を知ることが、
 海をおおう水のように、地を満たす

ようになり、人の世界だけでなく、被造物世界がその本来のあり方に回復されることが示されています。
 これは、引用はしませんが、同じように自然界の回復のことを記している35章を経て、65章17節ー25節に、

 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
 先の事は思い出されず、心に上ることもない。
 だから、わたしの創造するものを、
 いついつまでも楽しみ喜べ。
 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
 その民を楽しみとする。
 わたしはエルサレムを喜び、
 わたしの民を楽しむ。
 そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
 寿命の満ちない老人もない。
 百歳で死ぬ者は若かったとされ、
 百歳にならないで死ぬ者は、
 のろわれた者とされる。
 彼らは家を建てて住み、
 ぶどう畑を作って、その実を食べる。
 彼らが建てて他人が住むことはなく、
 彼らが植えて他人が食べることはない。
 わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、
 わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を
 存分に用いることができるからだ。
 彼らはむだに労することもなく、
 子を産んで、突然その子が死ぬこともない。
 彼らはに祝福された者のすえであり、
 その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、
 彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
 狼と子羊は共に草をはみ、
 獅子は牛のように、わらを食い、
 蛇は、ちりをその食べ物とし、
 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、そこなわない」
 とは仰せられる。

と記されている、新天新地の創造の預言へとつながっていきます。
 ここに至るまでのイザヤの預言には、先ほど触れました42章1節以下に記されている「主のしもべ」としてのメシアについての4つの預言、特に、その最後の52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべ」についての第4の預言があり、「主のしもべ」が受ける苦難が主の民の罪の贖いのための苦しみであることが示されています。
 今お話ししていることとのかかわりで一つだけ注釈しておきますと、冒頭の52章13節には、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と記されていて、「主のしもべ」がこの上なく高められること、従ってその主権がすべてに及ぶようになることが示されています。これが「主のしもべ」についての第4の預言の主題です。そして、このことが実現するのは、53章1節ー12節にあかしされている、「主のしもべ」が主の民の罪の贖いのためにご自身のいのちを注ぎ出されることをとおしてのことであることが示されています。最後の53章12節には、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されていて、「主のしもべ」が復活の栄光を受けることと、その後も、ご自身の民のためにお働きになることが示されています。したがって、その主権は永遠の主権です。
 先ほど引用しました65章17節ー25節に記されている、新しい天と新しい地の創造は、「主のしもべ」がそのいのちを注ぎ出されてご自身の民のために成し遂げられた贖いの御業に基づいて遂行されます。また、「主のしもべ」の主権が永遠の主権であり、すべてのものに及ぶということは、この方がその新しい天と新しい地を治めるということを意味しています。そして、この方の主権者としてのお働きは、

 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

ということに要約されます。

 イザヤの預言のことが長くなってしまいましたが、
 これらの預言が、イエス・キリストにおいて成就していることが新約聖書に記されています。
 黙示録では、5章1節ー5節に、

また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。

と記されています。5節では、イエス・キリストのことが「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」と呼ばれています。このイエス・キリストは6節では「ほふられたと見える小羊」と言われています。
 また、22章16節にも、

わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストのことが「ダビデの根」また(ダビデの)「子孫」と呼ばれています。
 これら二つのみことばに出てくる「ダビデの根」ということばは、先ほど引用しましたイザヤ書11章の10節に、

 その日、
 エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、

と言われているときの「エッサイの根」という言い方を受けていると考えられます。イザヤ書11章では10節の「エッサイの根」は、1節で、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と言われている「新しいダビデ」すなわちメシアを指していると考えられます。それで、黙示録に出てくる「ダビデの根」も、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている、まことのダビデの子であることを示しています。ちなみに、「ダビデの根」の「」と訳されていることば(リザ)には「」の他に「(根から出た)若枝」という意味もあります。ただし、この「ダビデの根」という言い方の元となっているイザヤ書11章10節でエッサイの根」と言われているときの「根」と訳されていることば(ショーレシュ)には、「(根から出た)若枝」という意味はありません。
 黙示録5章5節に出てくる「巻き物」が何であるかについては、いくつかの見方があります。結論的には、神さまの贖いの御業のご計画が記されている巻物であると考えられます。
 「巻き物」には「七つの封印」がしてあります。その封印を解くことができる方が「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」であるイエス・キリストです。ここではそのイエス・キリストが「巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者」であるとされています。
 「ほふられたと見える小羊」であるイエス・キリストは、イザヤが預言していたとおり、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたことによって、その主権がすべてのものに及ぶ方となられました。それで、イエス・キリストはその封印を解いて「巻き物」に記されていることを見て知ることができる方であるだけではありません。黙示録では「ほふられたと見える小羊」が封印を解く度に、救いとさばきの御業が展開しています。ですから、イエス・キリストはその巻き物に記されている贖いの御業にかかわる神さまのみこころを実行に移すことができる方であり、最終的には、新しい天と新しい地を再創造されるようになる歴史の主であられます。


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