黙示録黙示録2章18節ー29節に記されています、イエス・キリストがテアテラにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
冒頭の18節には、
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」
と記されています。
ここでイエス・キリストは、ご自身のことを、まず「神の子」として示してから、同格の形で、
燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような方
として説明しておられます。
イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられるということについてはすでにお話ししました。それで、結論的なことを言いますと、これは、イエス・キリストがすべてのものと、すべてのことを見通しておられ、完全に知っておられることを示しています。イエス・キリストはすべてのもの、すべてのことの見える形や見えることがらを完全に知っておられだけはでなく、人の内なる性質やそこから出てくる思いや考えのすべてをも完全に知っておられます。
私たちはこのことに、ある種の恐れを抱くのではないかと思います。それは、日本の社会の中では、今はもうほとんどないかも知れませんが、子どもに対して「お天道さまが見ている」と言って、悪いことはしてはいけないということを教えるようなこととつながっています。これは、形こそ違っていますが、いわば人類に共通したことで、刑罰への恐れとつながっています。
主がすべてのことを完全に知っておられるということから、刑罰への恐れを抱くことは、見当違いのことではありません。テアテラにある教会へのみことばにおいては、すでにお話ししましたように、このことは「イゼベルという女」とその教えに従う人々に対する、主の刑罰としてのさばきの執行とかかわっています。
このような、罪に対する刑罰への恐れをさかのぼっていきますと、最初の人アダムとその妻エバが神である主の戒めに背いて罪を犯し、御前に堕落したことから始まっています。
最初の人アダムとその妻エバが神である主の戒めに背いて罪を犯したことは創世記3章1節ー6節に、
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
と記されています。
これにはいろいろなことが関わっていますが、今お話ししていることとの関わりで、要点だけに触れておきます。
エバが、
しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と仰せになりました。
というときの「園の中央にある木」は、2章17節で、神である主が、
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
と命じておられた善悪の知識の木のことです。2章9節に記されているように、この木は神である主がエデンの園に生えさせられた木の一つで、木そのものとしては、他の木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。ただ、神である主がその木を「いのちの木」とともに「園の中央に」生えさせられたという点で、そして、神である主がこの二つの木に特別な意味を与えておられたという点で、他の木と区別されていました。
エデンの園には他に「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」(単数形で「あらゆる種類の木」を意味する)がいくらでもありましたから、善悪の知識の木から取って食べないことで人が困ることは何もありません。この木から取って食べないために努力しなければならないわけではありません。この木から取って食べないこと自体は、立派な行いであるわけではありませんし、なんの功績も生み出しません。
そのようなわけで、この木から取って食べない理由はただ、神である主がそのように命じられたからであるということだけで、他に理由はありません。人は、ただ、契約の神である主がこの木からだけは取って食べてはならないとおっしゃったから、そして、自分は契約の神である主のしもべであるから、という理由によって、その木から取って食べることはしなかったのです。それで、この善悪の知識の木から取って食べてはならないという戒めは、人がこの木を見る度に、神である主が契約の主であり、自分は主のしもべであるということを思い起こすために与えられた「恵みの手段」でした。
神のかたちとして造られている人が神である主に対して罪を犯して堕落する前の状態の世界、特に、エデンの園は、神である主の御臨在に伴う祝福に満ちた世界でした。それで、人がなすすべてのことはうまくいき、豊かな実りをもたらしました。そのような状態には、一つの危険が潜んでいます。それは人が「自分は何でもできる」というような思い、ある種の「全能感」を抱くようになることです。実際、それは悪魔が陥ってしまった危険です。神である主は人がこのような危険に陥らないようにしてくださるための「恵みの手段」として、善悪の知識の木に関する戒めを与えてくださいました。
人はこのような意味をもった契約の神である主の戒めに背いて、主に対して罪を犯し、堕落してしまいました。
*
以上は最初の人とその妻が神である主に対して罪を犯したことの中心にある問題です。
今お話ししていることとの関わりで注目したいのは、この1節ー6節に続く7節ー10節に記されていることです。そこには、
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
と記されています。
7節では、
このようにして、ふたりの目は開かれた。
と言われています。これは、一見すると、「蛇」の背後にあって働いているサタンがエバに、
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
と言ったこととの「あなたがたの目が開ける」ということが実現したかのように思われます。
けれども、そういうことではありません。というのは、サタンは、善悪の知識の木から取って食べるときに、「あなたがたの目が開け」ると述べています。それは、善悪の知識の木に人の目を開いて、人を「神のように」する力があるということを意味しています。
しかも、神は善悪の知識の木にそのような力があることを知っていて、人とその妻が「神のように」なってほしくないから、善悪の知識の木から取って食べてはならないと命じたのだと教えています。サタンは、神である主の戒めは神である主の人に対する悪意から出ていると教えているのです。この教えの裏には、「私の方があなたの味方ですよ」というメッセージが潜んでいます。
しかも、このサタンの説明では、善悪の知識の木の人を「神のように」する力は神のみこころに反して働くものであり、神といえども、それをどうすることもできないということになっています。
このようなおかしなことにエバが気づかなかったのは、エバ自身の中に神である主の戒めに対する根本的な誤解があったからです。エバは善悪の知識の木について、サタンに、
しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と仰せになりました。
と答えています。この、
あなたがたが死ぬといけないからだ
というエバの答えは、神である主が善悪の知識の木は人を殺す作用をする危険な木であることを知っておられて、その木から取って食べてはならないと言われたと考えていたことを示しています。
そして、
それに触れてもいけない。
ということは、神である主がおっしゃったことではなく、彼女が「そんな危険な木には触れないでおこう」と考えたことが、いつの間にか、彼女のうちで、それが神である主の戒めであったことになってしまっていることを示しています。神である主のみことばを誤解しているのに、いつの間にか、それが主のみことばであると思い込むことは、私たちの間でも起こり得ることです。
いずれにしましても、サタンは、エバが善悪の知識の木そのものが人になんらかの作用をする木であると考えていたことにつけ込んで、
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
と教えています。それは、もともとエバの考えていること(実は誤解)に基づく教えですので、エバには受け入れやすくなっています。
しかも、詳しい説明は省きますが、善悪の知識の木という名が示す「善悪を知る」ということには、「神のようになる」という意味合いがあります。それで、その木そのものに人に対して何らかの働きをする力があると考えていたエバには、サタンの言ったことが本当のことだと思われたのです。
もちろん、人が「神のようになる」ということは、後に、主がみことばをとおして啓示してくださったことに照らして見ますと、人が神である主から委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神である主のみこころにしたがいとおすことによって、それに対する報いとして神である主が与えてくださるより豊かな栄光の状態を指しています。それは、まことの人として来てくださったイエス・キリストが地上の生涯をとおして、しかも、十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、その従順に対する報いとしてお受けになった栄光において成就しています。そして、私たちが、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいているだけでなく、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活の栄光にもあずかって、「神の子ども」としていただいていることにおいて、私たちの間でも実現しています。
*
少し長い説明になってしまいましたが、創世記3章7節において、
このようにして、ふたりの目は開かれた
と言われていることは、ふたりが善悪の知識の木からとって食べたこと自体によっているのではありません。言い換えますと、善悪の知識の木に人の目を開く力があるわけではありませんし、神である主の戒めに背いて、罪を犯せば目が開かれるわけでもありません。善悪の知識の木はエデンの園に生えていた他の木と同じで、その木から取って食べることによって、お腹がいっぱいになったり、栄養が取れるというものです。
もし善悪の知識の木に人の目を開く力があったとしたら、そして、その人の内側がさらけ出されることを恥じる思いが与えられるのであるとしたら、最初に善悪の知識の木から取って食べたエバにそのようなことが起こったはずです。けれども、エバにはそのようなことは起こらず、なんの恐れも、自分を恥じることもなく、夫アダムに善悪の知識の木から取って与えています。この時には、サタンが用いた「蛇」は、そこからいなくなったわけではありません(この後、神である主のさばきの宣告を受けることになります)が、背後に退いて、エバがその役割を果たして、アダムを罪を犯すよう導いています。
みことばは、アダムが善悪の知識の木から取ったものを食べたときに、初めて、
ふたりの目は開かれた
ということを示しています。それの時までは、エバの目は開かれていませんでした。
これらのことは、善悪の知識の木に人の目を開く力があるわけではないことを示しています。
また、私たちは経験的に、ふたりが罪を犯したので、ふたりの目が開かれて良心が痛んだのではないかと感じてしまいます。けれども、先ほどのエバの事例からわかりますように、罪を犯すことが良心の痛みをもたらすのではありません。
罪を犯すことが良心の痛みをもたらすのではないことは、また、サタンの状態を見れば分かります。サタンは優れた御使いとして造られたのに、神である主に対して罪を犯した後、神である主に逆らい続けています。また、悪霊たちも、同じく御使いとして造られていながら、サタンと同じ罪を犯しています。サタンと悪霊たちは堕落しきっています。彼らのなすことの動機と目的は、神である主に逆らうことです。その意味で、サタンの堕落を「絶対的堕落」と呼びます。その彼らが良心を痛めながら主に逆らっているとは考えられません。繰り返しになりますが、先に善悪の知識の木から取って食べて、神である主に対して罪を犯したエバは、その罪によってサタンと一つになってしまっています。それで、なんら良心の痛みもなくアダムを罪へと誘っているわけです。
これらのことから、
ふたりの目は開かれた
と言われていることは、神である主がふたりの目を開いてくださったということを意味しています。それで、この場合の「開かれた」という受動態は、いわゆる「神的受動態」で、そのことをなしている主体が神である主であることを示しています。
これは、神学的に言いますと、御霊の一般恩恵に基づくお働きによって、ふたりの心が啓発されて起こったことであるということです。ローマ人への手紙2章15節には、
彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
と記されています。これは人が罪を犯したために良心が働くようになったということではなく、人が罪を犯したにもかかわらず、神である主が一般恩恵に基づいてお働きになる御霊によって、人の心を照らしてくださっているので、人のうちで良心が働くようになっているということです。
このようにして、神である主がふたりの目を開いてくださったので、ふたりは、
自分たちが裸であることを知った
と言われています。このことは、2章25節で、
人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
と言われていることと対比されます。神である主がふたりの目を開いてくださったことによって、エバは堂々とアダムと向き合うことはできなくなりました。また同じことはアダムにも起こりました。ふたりは自分のうちにあるものが相手にさらけ出されてしまうことを恥じる状態になりました。それで、3章7節後半では、
彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
と言われています。
しかし、それはお互いの間でのことです。8節には、
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
と記されています。神である主の御臨在の御前においては、「いちじくの葉をつづり合わせ」た「腰のおおい」では間に合わず、自分たちの存在自体を隠さなければなりませんでした。
10節に記されていますように、人はその状態のことを、
私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。
と述べています。もちろん、これは、そのままエバの状態でもあります。そして、これは神である主が一般恩恵に基づいて働かれる御霊の働きによって、ふたりの目を開いてくださったことによってもたらされた神である主に対する恐れです。これは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落した最初の人とその妻のうちに生じた恐れであるという点で、いわば、堕落後の人類の「根源的な恐れ」と言うべきおそれで、それは、本来、神である主の御前における恐れであり、神である主に対する恐れです。同時にそれは、神である主が御霊によって心を啓発してくださっているために与えられている恐れです。
このような恐れが堕落後の人のうちにありますので、人は神である主が自分のすべてを知っておられるということに、刑罰への恐れを感じるようになっています。7節後半で、
彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
と言われていることは、堕落後の人がこのような恐れを感じつつ、どのような工夫をするかを如実に示しています。
アダムとエバが、お互いの間で「いちじくの葉をつづり合わせ」た「腰のおおい」を着けて間に合わせている姿にこっけいさと、哀れさを感じますが、それは、堕落後の人の姿であり、かつての私たちの姿でした。
アダムとエバはこの後、神である主の御臨在の御前に立ち、審問を受けることになります。神である主が御臨在される所であったエデンの園に住んでいたアダムとエバは、神である主の御臨在から逃れることはできませんでした。しかし、堕落後の人は、詩篇14篇1節に、
愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
と記されているように、神である主の存在を否定しています。それで、自分たちが神である主の御臨在の御前に立つようになることを否定することによって、この堕落後の人類の「根源的な恐れ」をかわそうとしています。
*
創世記3章に記されているみことばから、私たちが汲み取ることができるのは、神である主がアダムとエバの目を開いてくださったことの目的は、ふたりにさばきへの恐れを植え付けることではなかったということです。そのことの目的は、9節に、
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
と記されているように、ふたりのうちに自分たちが犯した罪を自覚させてくださった上で、その罪を神である主に告白するよう導いてくださるためのことでした。そのため、ふたりに、まず、神である主の御臨在の御前においては、自分たちが作り出した「いちじくの葉をつづり合わせ」た「腰のおおい」ではとても間に合わないことを、恐ろしい現実の中で痛感させてくださったのです。
それに対して、アダムは、
私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。
と答えました。「私は裸なので」ということは、自分の事情が悪いというような言い方で、自分の罪の問題から話をそらすような言い方です。これに対して、神である主は、11節に記されているように、
あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。
というように、問題の核心を突く問いかけをされました。すべてをご存知であられる主は、アダムがご自身の戒めに背いて罪を犯したことを明らかにすることもできました。しかし、そうしないで、このように問いかけられました。これによって、神である主は、自分の罪を認めて、告白するようにとアダムを諭しておられます。
けれども、アダムは、
あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。
と答えています。ヘブル語では「この女」が最初に出てきます。これだけでも、アダムがエバを糾弾してようとしていることが感じ取れます。より直訳調に訳しますと、アダムは、
あなたが私のそばに置かれたこの女、彼女が・・・
と言っています。エバを糾弾しようとする思いの強さをよりいっそう感じさせられます。アダムが最初にエバと出会ったときに、彼女について、
これこそ、今や、私の骨からの骨、
私の肉からの肉。
と言って、喜びの声を上げたことは完全に過去のこととなってしまっています。しかも、アダムは、
あなたが私のそばに置かれたこの女、彼女が・・・
と言うことによって、「こんな女を私のそばに置かれたあなたにも責任がある」ということをほのめかしています。
このようにして、アダムは自分の罪を認めて告白するどころか、自分はむしろ被害者であると主張しています。ここで大切なことは、アダムは被害者を装っているのではなく、本当に自分は被害者だと思っているということです。自分は「事実」を言っていると思っているということです。これはアダムの罪がもたらした霊的な、すなわち、神である主との関係における暗やみです。アダムはこの霊的な暗やみによって自分自身を欺いてしまっています。しかも、その暗やみのために、自分が自分を欺いていることに気づくことはできません。
これによって、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、自分の力で罪を認めて、神である主に対して告白することができないということが明らかにされています。黙示録2章18節において、ご自身のことを「燃える炎のような目を持つ」方として示しておられる主は、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人のうちある、このような霊的な暗やみもすべて知っておられます。
神である主は、まず、このことを明らかにされた上で、14節ー15節に記されている「最初の福音」を示されました。「最初の福音」はそのような霊的な暗やみに閉ざされているために、自分からは決して罪を認めて告白することがないし、告白することができない状態にある人のために示されたものです。このようにして与えられている福音のみことばにあかしされている贖い主によってのみ、人類の「根源的な恐れ」は取り去られます。その「根源的な恐れ」の原因は神である主に対する罪にあり、罪に対する刑罰としての死にあります。そうであれば、その恐れとその奥にある罪に対する刑罰としての死は、福音のみことばにあかしされている贖い主による罪の贖いによってのみ取り去られるのです。
イエス・キリストは「燃える炎のような目を持つ」方として、人の罪の暗やみをご存知であられるばかりでなく、私たちご自身の民の弱さや悲しみや苦しみをすべてご自身のこととして知ってくださっておられて、私たちのためのあわれみ深い大祭司として父なる神さまの御前に出でてくださっています。ヘブル人への手紙4章12節には、
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
と記されています。私たちはこのことに、刑罰への恐れを抱くかも知れません。しかし、この12節に続く13節ー16節には、そのことに対して神である主が私たちのために備えてくださっておられることが、
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
と記されています。私たちは「私たちの大祭司」にあって、
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
と勧められています。私たちは大胆に神である主の御臨在の御許に近づくようにと招かれているのです。
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