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説教日:2016年7月10日 |
このことの背景となっているダビデ契約について、これまでお話ししたことを、もう少し補足して、統一王国としてのイスラエルの歴史についてお話ししたいと思います。 主が預言者ナタンをとおしてダビデに語られた約束のみことばにおいて、「あなたの身から出る世継ぎの子」と言われているのは、古い契約の枠の中では、ダビデの子たちの中でも王位を継承したソロモンを指しています。 実際に、ソロモンがソロモンの神殿と呼ばれるエルサレム神殿を建設しました。列王記第一・6章11節ー14節に、 そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成した。 と記されているとおりです。 けれども、ソロモンは真のダビデ契約に約束されている「ダビデの子」ではありませんでした。ソロモンは主の戒めに背いて、多くの外国の女性を妻とし、晩年には彼女らによって心が偶像の神々の方へと向けられました。列王記第一・11章1節ー8節には、 ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。 と記されています。 このことのために、主はソロモンに怒りを発せられ、その王国を引き裂かれました。列王記第一・11章では、続く9節ー13節に、 主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」 と記されています。 そして、より具体的なことが、28節ー39節に、 ヤロブアムは手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた。そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。そして彼らふたりだけが野原にいた。アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。というのは、彼がわたしを捨て、シドン人の神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アモン人の神ミルコムを拝み、彼の父ダビデのようには、彼は、わたしの見る目にかなうことを行わず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである。しかし、わたしは、彼の手から、王国全部は取り上げない。わたしが選び、わたしの命令とおきてとを守ったわたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておこう。しかし、わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。』」 と記されています。 これらの預言のことばのとおり、ソロモンの死後に、ソロモンの家来でソロモンが重んじていたヤロブアムが北の十部族を治めるようになります。これが北王国イスラエルです。そして、残りの2部族、具体的にはユダとベニヤミンが南王国ユダとなりました。 主がソロモンの罪に対するさばきを執行されることに関して二つの長いみことばを引用しましたが、これら二つのみことばには、三つほど注目すべきことがあります。 第一に、今お話ししましたように、これら二つのみことばは、ソロモンの罪のために、ダビデが確立し、ソロモンに受け継がれた王国は永遠に堅く立てられるどころか、彼の死後に分裂してしまうことを示しています。このことは、ソロモンが真のダビデの子ではなかったことを意味しています。 第二に、このソロモンが真のダビデの子ではなかったということは、また、ソロモンが建設した神殿も、真の意味でダビデの子が建設すると約束されていた神殿ではなかったことを意味しています。 第三に、これら二つのみことばは、ソロモンの罪のために、ダビデが確立し、ソロモンに受け継がれた王国は永遠に堅く立てられるどころか、彼の死後に分裂してしまうことになっても、主がダビデに与えられた契約に示されている約束は、取り消されていないことを示しています。 そのことは、主がソロモンに、 あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。 と語られた後に、 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。 と語られたことに表わされています。 また、同じことは、主がソロモンの家来で、後に北王国イスラエルを治めるようになるヤラブアムに、 見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。 と語られた後に、 しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。 と語られたことにも表されています。さらに主は、この後にも、 しかし、わたしは、彼の手から、王国全部は取り上げない。わたしが選び、わたしの命令とおきてとを守ったわたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておこう。しかし、わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。 と語られましたし、ヤラブアムへのみことばの最後にも、 このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。 と語っておられます。 これらの主がソロモンやヤロブアムに語られたみことばにおいては、さらに、注意したいことばが二つあります。 一つは、「・・・に免じて」ということばです。具体的には、 ダビデに免じて とか、 わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じて また、 わたしが選び、わたしの命令とおきてとを守ったわたしのしもべダビデに免じて ということばです。 もう一つは「・・・のために」ということばです。具体的には、 わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために ということばと、 それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。 ということばです。 これらの主がソロモンやヤロブアムに語られたみことばは、主がダビデに与えられた契約が取り消されていないことを示しています。また、このことは、主がダビデに与えられた契約に約束されているまことのダビデの子が、この後に与えられるとともに、そのまことのダビデの子が、まことの主の神殿を建設することを示しています。 ちなみに、「ダビデに免じて」あるいは「ダビデのために」ということは、この他にも出てきます。たとえば、ユダの王アビヤムが主の御前に罪を犯したことに触れている15章3節ー4節に、 彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。 と記されています。また、アッシリア軍がエルサレムを包囲した時に、主が預言者イザヤをとおしてユダの王ヒゼキヤに語られたみことばを記している列王記第二・19章34節には、 わたしはこの町を守って、これを救おう。 わたしのために、 わたしのしもべダビデのために。 と記されています。そして、続く35節ー36節には、 その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。 と記されています。 そのほかの事例もありますが、これらで十分かと思います。これらの事例は、ダビデの血肉の子であるソロモンの罪のために王国が分裂した後にも、主がダビデに与えてくださった契約を取り消されることがなかったことを示しています。そして、その後のユダ王国の歴史の中で、ダビデに与えられた契約の約束に基づいて、王たちが罪を犯した時には「ダビデに免じて」、また、人の目には絶望的と見える状況になった時には「ダビデのために」、ダビデの子が絶えてしまうことがないようにされました。 主はそのためにユダ王国には、主を信じて従う王たちを何人か起こされました。その信仰が徹底していたわけではない王たちも含めますが、先ほど触れました(主の御前に罪を犯したと言われていた)アビヤムの子であったアサ(列王記第一・15章11節)、アサの子であったヨシャパテ(列王記第一・22章43節)、ヨアシュ(列王記第二・12章2節)とその子アマツヤ(列王記第二・14章3節)さらにその子アザルヤ(15章3節)、ウジヤとその子ヨタム(15章34節)、先ほども触れましたヒゼキヤ(列王記第二・18章3節)、徹底的な「宗教改革」を行った王であるヨシヤ(列王記第二・22章2節、23章25節)などがいます。 これに対して、北王国イスラエルには、主を信じてそのみこころに従う王がほとんど出ませんでした。エリシャによって油を注がれて王となったエフーは、イゼベルとバアルに仕える者たちを滅ぼしました(列王記第二・9章1節ー10節)。この「イゼベル」という名は、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばにも出てきます。けれどもエフーは、偶像礼拝を止めたわけではありませんでした(10章28節ー31節)。 北王国イスラエルの王たちは主の戒めに背き続けて、前722年にアッシリアによって滅ぼされてしまいます。 南王国ユダには、主に従う王たちが出ましたが、その後に、背教してしまうということを繰り返し、ついには主のさばきを招き、前586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。 先ほど挙げましたヨシヤは前640年から609年の31年間ユダ王国を治めました。列王記第二・23章25節には、 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。 と記されています。ヨシヤが戦死したのは、ユダ王国がバビロンによって滅ばされる23年前のことです。 「ヨシヤが徹底した『宗教改革』を行ったのに、どうして南王国ユダは滅ぼされてしまったのか」という疑問がわいてきます。これについては、続く26節ー27節に、 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行いのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」 と記されています。マナセはヒゼキヤの子でヨシヤの祖父です。マナセは55年もの間ユダ王国を治めました。しかし、列王記第二・21章2節ー7節には、 彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行った。彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。彼は、主がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた主の宮に、祭壇を築いたのである。こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。さらに彼は、自分が造ったアシェラの彫像を宮に安置した。 と記されています。そしてこのことについて、11節には、 ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。 という主が預言者を通して語られたみことばが記されています。ここでは「エモリ人」はカナンの地の民全般を表すために用いられていると考えられます(創世記15章16節、48章22節、ヨシュア記24章15節)。そして、マナセがなした偶像礼拝は、異邦人たちの忌むべきものよりも悪いものであったと言われています。 創世記15章16節には主がアブラハムに語られた、 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 というみことばが記されています。出エジプトとカナン侵入の時代に、イスラエルの民がカナンの地の民を追い出したことは、カナンの地の民の「咎」が満ちたことに対するさばきとしての意味をもっていました。ここでは、時代が違いますので単純な比較はできませんが、それでも「彼以前にいたエモリ人」という言い方によって、マナセの罪がそのような「エモリ人」の罪よりも悪いものであったということ、そして、そのために、南王国ユダの民も、約束の地として主の御臨在のあるカナンの地から追い出されるようになる、ということを示唆していると考えられます。 さらに、16節には、 マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。 と記されています。 このようなマナセの罪は、21章20節で、 その父マナセが行ったように、主の目の前に悪を行った。 と言われていますように、その子アモンに受け継がれましたが、ヨシヤが徹底的に取り除いたかに見えました。けれども、ヨシヤの後に続く王たちはすべて「主の目の前に悪を行った」と記されています[23章32節(エホアハズ)、37節(エホヤキム)、24章9節(エホヤキン)、19節(ゼデキヤ)]。 私たちはここで、「ヨシヤが徹底した『宗教改革』を行ったのに、どうして南王国ユダは滅ぼされてしまったのか」と問うべきではなく、「南王国ユダは、せっかくヨシヤが徹底した『宗教改革』を行ったのに、どうしてそれを覆してしまったのか」と問うべきなのでしょう。 主に立ち返る王がほとんどいなかったために、滅びへの道を突き進んでしまった北王国イスラエルの罪と、主がご自身に立ち返る王たちを起こしてくださったのに、その度にそれを覆し続けてきた南王国ユダの罪は、主の御前には、どちらが重いのでしょうか。どちらも、生まれながらの人、すなわち、血肉の限界を示しています。 私たちとしましては、私たちも生まれながらの本性において、彼らと同じであると言うほかはありません。このような北王国イスラエルと南王国ユダの歴史に、自分たちの罪の現実が映し出されていると感じるほかはありません。それと同時に、父なる神さまは、そのように深い私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を、ダビデ契約に約束されたまことのダビデの子として遣わしてくださったことを心に刻みたいと思います。 ダビデ王朝は前1010年(サウル王が死んだ年)から前586年(エルサレムが陥落した年)までの424年ほど続きました。一つの王朝がこれほど続いたことは古代オリエントにおいては例がないことであると言われています。それよりはるかに長く続いた帝国はありますが、謀反や外からの敵によって、王家が滅ぼされ、王朝が代わることがありました。しかも、南王国ユダの場合は、北にアッシリア、後にバビロン、南にエジプトというように、巨大な帝国の狭間にある小さな王国におけることです。先ほども触れましたように、みことばは神である主が、ご自身の直接的な介入によって、アッシリアの手から、ダビデの王座を守ってくださったことも示しています。 けれども、そのようにして424年もの間、絶えることなく継承されたダビデ家の王座も、「永遠の王座」ではありませんでした。このことは、古い契約の下で、ダビデの血肉の子孫たちが即位したことは「地上的なひな型」であったことを意味しています。神である主がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったまことのダビデの子であるメシアと、そのメシアが着座される「永遠の王座」を指し示す「地上的なひな型」であったのです。 新約聖書はそのメシア(油を注がれた者)すなわちキリスト(油を注がれた者)は永遠の神の御子であるということと、そのメシアが着座される王座は、父なる神さまの右の座であり、父なる神さまのご臨在される天にあるということを示しています。 ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節には、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されています。また、10章12節ー14節にも、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。 これらのみことばにおいては、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって、私たち新しい契約の民の罪を完全に贖ってくださったことが示されています。 10章14節に出てくる「永遠に全うされた」ということばは、私たちの罪をきよめてくださって、私たちが天にある神さまの栄光の御臨在の御前に近づいて、神さまとの愛の交わりに生きることができるようにしてくださったということを意味しています。これこそが、主の栄光の御臨在のある神殿が建設されることの核心にあることです。御子イエス・キリストは天にある父なる神さまの右の座という永遠の王座に着座された方であり、栄光の主がご臨在されるまことの神殿を建設された方です。この御子イエス・キリストにおいてダビデ契約の約束は実現しています。 |
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