黙示録講解

(第252回)


説教日:2016年7月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(5)


 先主日の礼拝説教は、小川 堅先生が担当してくださいましたので、黙示録からのお話はお休みとなりました。今日は、黙示録黙示録2章18節ー29節に記されています、イエス・キリストがテアテラにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 これまで、18節に記されている、

 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
 「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

というイエス・キリストのみことばについてお話ししてきました。
 ここでイエス・キリストは、ご自身のことを、まず「神の子」として示しておられます。そして、「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」方として説明しておられます。
 前回お話ししましたように、こここで、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような

と言われていることは、「クリストファニー」と呼ばれる、イエス・キリストの栄光の顕現のことを記している、1章10節ー16節のみことばから取られたものです。そこには、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 この中の14節後半ー15節前半に記されている、

 その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

というみことばが、2章18節で、イエス・キリストがご自身のことを、「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」方として示しておられることの基となっています。
 イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられるということは、黙示文学的な表象による表現です。前回お話ししましたように、この黙示文学的な表象による表現には旧約聖書における背景があります。それはダニエル書10章5節ー6節に記されている「エンジェロファニー」と呼ばれる御使いの栄光の顕現において、その御使いについて、

 その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで・・・あった。

と記されていることです。この御使いの栄光の顕現は、この御使いが、栄光の主の御臨在のある天に属する者としての栄光を帯びていることを表象的に表しています。
 ここに出てくる「燃えるたいまつ」とは暗やみに閉ざされて見えなくなってしまっているものを明るみに出して明らかにするものです。黙示録1章14節や2章18節でイエス・キリストがもっておられると言われている「燃える炎のような目」はそれ以上の輝きに満ちたものです。これによって、イエス・キリストがすべてのものと、すべてのことを見通しておられ、完全に知っておられることが示されています。それは、イエス・キリストがすべてのものやすべてのことの見える形や見えることを知っておられるということだけでなく、人の内なる性質やそこから出てくる思いや考えのすべてをも完全に知っておられるということを意味しています。
 このことは、イエス・キリストのアジアにある七つの教会へのみことばにおいては、それぞれの教会に対する語りかけにおいて、

 わたしは知っている

と語り出されていることに現れています。
 そして、その語りかけにおいて、イエス・キリストは、それぞれの教会の信徒たちが気づいていないことや、悟っていない意味を指摘しておられますし、賞賛されるべき点と(スミルナにある教会とフィラデルフィヤにある教会では指摘されていませんが)非難すべき点について、それらがどのような結果をもたらすかをも示しておられます。それは、アジアにある七つの教会の信徒たちの賞賛されるべき点を励ますとともに、非難すべき点を悔い改めて主に立ち返るように導いてくださり、それぞれの教会への語りかけの最後に約束してくださっている救いの完全な実現によってもたらされる祝福にあずかる者としてくださるためのことです。
 イエス・キリストの栄光の顕現のことを記している1章10節ー16節のみことばにおいて、イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられることが示されているのは、そのことが、アジアにある七つの教会のすべてにかかわっているからです。そして、そのような広い意味をもっている、イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられることが、特に、テアテラにある教会へのみことばにおいて示されていることには、特別な意味があると考えられます。
 テアテラにある教会へのみことばにおいては、イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられることは、22節ー23節に、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と記されている、さばきの執行と関わっていると考えられます。
 ここでは「預言者だと自称して」テアテラにある教会の信徒たちを「教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」、「イゼベルという女」と、「この女の子ども」と呼ばれている人々、すなわち、彼女の教えを受け入れている人々に対するさばきが執行されることが示されています。
 このことが、イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられることとつながっていることは、ここでイエス・キリストが、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と述べておられることから分かります。
 ここで、「思い」と訳されていることば(ギリシア語・ネフロス)は文字通りには「腎臓」を表すことばで、ユダヤ人の間では、人の意志や感情の源であると考えられていました。また、「」と訳されていることば(カルディア)は文字通りには「心臓」を表すことばですが、知性と感情と意志の主体としてての人間の精神活動の全体を意味しています。この二つのことばが表している意味は重なっていて、明確に区別することができません。ここでは、このような二つのことばを組み合せて、人の内面の奥底に至るまでのすべてを表していると考えられます。
 また、イエス・キリストがご自身のことを、

 わたしが人の思いと心を探る者である

と言われるのは、探ってみるけれども分からないこともあるということではなく、人の内面の奥底に至るまでのすべてをご存知であられるということを意味しています。
 このこととの関連で注目すべき、旧約聖書のみことばがありますのでそれを見てみましょう。
 エレミヤ書17章9節には、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。

と記されています。
 ここで「人の心」が「陰険」であると言われているときの「陰険な」ということば(ヘブル語・アーコーブ)は(形容詞で)「欺瞞的な」、「欺きに満ちた」ということを意味しています(K=B, vol. 1, p. 873a)。ここでは、

 だれが、それを知ることができよう。

という言い方で、「人の心」のうちにあることをだれも知ることができないということを示しています。
 ここ(エレミヤ書17章)では、このことを踏まえた上で、続く10節で、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と言われています。
 人はだれも、欺きに満ちた人の心のうちにあることを知ることができません。しかし、「」ヤハウェはそのすべてを探り、調べられる方です。これも、「」がそのすべてを完全に知っておられるということを意味しています。
 ここで、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、

と言われているときの「」(レーブ)は、(先ほどのギリシア語のカルディアと同じように)文字通りの「心臓」を表し、転じて、「内的な自己」、「気分や感情の源」、「意志」や「勇気」、「理性」や「知性」、「精神」などを表します。また、「思い」(キルヤー)は、(ギリシア語のネフロスと同じように)文字通りの「腎臓」を表し、転じて、「人の最も内側の部分」、「人の最も隠された部分」などを表します。ですから、ここに出てくる「」と「思い」は、黙示録2章23節で、イエス・キリストが、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と言われるときの「思い」と「」の組み合せと同じ組み合せです。
 さらに、エレミヤ書17章10節では、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と言われていて、「」がさばきを執行されることが記されています。それと同じように、黙示録2章22節ー23節でも、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と言われていて、イエス・キリストがさばきを執行されることが記されています。
 イエス・キリストが「人の思いと心を探る者である」こと、すなわち、イエス・キリストが人の内面の最も深く、最も秘められたことをも完全に知っておられるのは、イエス・キリストが「燃える炎のような目」をもっておられる方であるからです。


 このこととのかかわりで、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることについて、もう少し、お話ししたいと思います。
 すでに繰り返しお話ししましたように、この「神の子」ということばは、イエス・キリストが三位一体の第二位格である御子であられるということではなく、そのことは踏まえた上で、詩篇2篇7節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

というみことばに預言的に示されているメシアであるということを示しています。
 詩篇2篇においては、この7節に先立つ1節ー6節は、新改訳で3節と4節の間が1行あけて区分されていますように、1節ー3節と4節ー6節に分けることができます。
 1節ー3節には、

 なぜ国々は騒ぎ立ち、
 国民はむなしくつぶやくのか。
 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。」

と記されています。
 ここには、地の「国々」と「国民」(複数形)、そして、地の「王たち」と「治める者たち」が、

 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

ことが記されています。ここに出てくる「主に油をそそがれた者」が主が立てられる「メシア」です。
 1節で、

 国民はむなしくつぶやくのか。

と言われているときの、「つぶやくのか」と訳されていることば(ハーガー)は、詩篇1篇1節で幸いであるとされている人が、2節で、

 まことに、その人はのおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

と言われているときの「口ずさむ」と訳されていることばです。このことばは、1篇2節では、主の教えを思い巡らしつつ口ずさむことを表していますが、ここ2篇1節では、「陰謀を思い巡らす」ことを表しています(K=B, vol.1, p.237b, NIVは "plot"と訳しています)。
 また、ここ(2篇1節)で、

 なぜ国々は騒ぎ立ち、
 国民はむなしくつぶやくのか。

と言われている中に出てくる「なぜ」ということばは、疑問を表していますが、その後の「むなしく」(「つぶやくのか」)ということばと相まって、どうしてそのような空しいことをするのかという驚きをも表しています。
 そして、その空しいことがどのようなことであるかが、2節ー3節で、

 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。」

と言われています。
 このように、1節ー3節には、地の「国々」と「国民」たち、そして、地の「王たち」と「治める者たち」のこと、すなわち、地上の様子が記されています。
 このこととのかかわりで注意しておきたいことがあります。
 古代オリエントの文化の中では、広く、王たちは自分たちの国の守護神である神々を代表していると信じられていました。そして、王位にある者たちは神々によって養子として迎えられ、神々によって任命された役人として治めるとされていましたし、その意味で、神々と社会の仲介者であるとされていました(Matthews, Genesis, vol. 1, NAC, p.169)。ですから、地上の「国々」と「国民」たち、そして、その「王たち」と「治める者たち」が、

 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

ということは、人が考え出した偶像の神々を中心とした、地上の「国々」と「国民」たち、そして、その「王たち」と「治める者たち」が、

 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

ということを意味していました。
 このことから、イザヤ書44章10節ー11節に記されている、

だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

というみことばが思い起こされます。また、コリント人への手紙第一・12章2節には、

ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

と記されています。さらに、テサロニケ人への手紙第一・1章9節ー10節には、テサロニケにある教会の信徒たちのことが、

私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

と記されています。これはまた、神である主がその一方的な愛と恵みによって、私たちに対してもなしてくださったことです。

 詩篇2篇では、続く4節ー6節に、

 天の御座に着いている方は笑い、
 主はその者どもをあざけられる。
 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」

と記されています。
 1節ー3節には、地上にある王座に着いて、地上にある「国々」と「国民」たちを支配している「王たち」と「治める者たち」のことが記されていました。これに対して、4節ー6節においては、「天の御座に着いている方」のことが記されています。この方は2節において、地の「王たち」と「治める者たち」が、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
と言われているときの「」で、新改訳で太字になっていることから分かりますが、契約の神である主、ヤハウェです。この「」が「天の御座に着いている方」であられることが、103篇19節には、

 は天にその王座を堅く立て、
 その王国はすべてを統べ治める。

と記されています。主、ヤハウェの王座が天にあるので、その王国の支配は「すべて」に及びます。それは、人ばかりでなく、「」がお造りになったすべてのものに及びます。また、93篇1節には、

 は、王であられ、みいつをまとっておられます。
 はまとっておられます。
 力を身に帯びておられます。
 まことに、世界は堅く建てられ、
 揺らぐことはありません。

と記されています。ここでは「」が「王であられ」、その支配は「すべて」に及ぶので、

 まことに、世界は堅く建てられ、
 揺らぐことはありません。

と告白されています。同じことが、96篇10節に、

 国々の中で言え。
 「は王である。
 まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。
 主は公正をもって国々の民をさばく。」

と記されています。さらに、実質的に同じことが、119篇89節ー91節に、

 よ。あなたのことばは、とこしえから、
 天において定まっています。
 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えたので、
 地は堅く立っています。
 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 すべては、あなたのしもべだからです。

と記されていますし、歴代誌第一・29章11節にも、

よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

というダビデの讃美のことばが記されています。
 詩篇2篇2節では、

 天の御座に着いている方は笑い、
 主はその者どもをあざけられる。

と言われています。後半の、

 主はその者どもをあざけられる。

というみことばでは、「」すなわち契約の神である主、ヤハウェが「」(アドーナーイ)と呼ばれています。これは、「」ヤハウェがすべてのもの、すべてのことを治めておられる方であることを示しています。
 このように、「」ヤハウェが「天の御座に着いて」おられる方であり、この大宇宙のすべてのもの、すべてのことを治めておられる方であるということを聞きますと、私たちは「」ヤハウェが私たちと隔絶したところにおられると感じてしまうかも知れません。
 しかし、黙示録では、イエス・キリストが「」ヤハウェであられることが示されています。そして、そのイエス・キリストは「燃える炎のような目」をもっておられる方であられて、私たちご自身の民の内側の思いも、喜びも悲しみも、痛みや苦しみも、希望も願いも、さらには、私たち自身も気づいていないような、私たちの内の最も深いところにあるものをも完全に知ってくださっています。
 このようなことは、旧約聖書にも示されています。たとえば、詩篇11篇4節には、

 は、その聖座が宮にあり、
 は、その王座が天にある。
 その目は見通し、
 そのまぶたは、人の子らを調べる。

と記されています。「」ヤハウェは「天にある」「王座」に座して治めておられます。けれども、

 その目は見通し、
 そのまぶたは、人の子らを調べる。

と言われています。このことは、「」がすべての人を完全に知っておらることを示しています。また、これは、文脈(特に、これに続く部分)から、「」がご自身の民のために救いを実現してくださり、ご自身に敵対する暗やみの主権者たちに対するさばきを執行される方であることを示しています。
 また、先ほど引用しました103篇19節には、

 は天にその王座を堅く立て、
 その王国はすべてを統べ治める。

と記されていました。しかし、それに先立って、11節ー14節には、

 天が地上はるかに高いように、
 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
 父がその子をあわれむように、
 は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。

とも記されています。

 最後に、もう一つのことに触れておきたいと思います。
 先ほどお話ししましたように、詩篇2篇1節ー3節では、地上の「国々」と「国民」たち、そして、その「王たち」と「治める者たち」のことが記されていました。また、その「王たち」と「治める者たち」は、人が考え出した偶像の神々を代表しているとされていましたし、その神々によって養子として迎えられ、神々によって任命された役人として治めるとされていました。そして、彼らはそのような者として、

 と、主に油をそそがれた者とに逆らう

と言われていました。
 これに対して、

 と、主に油をそそがれた者とに逆らう

というみことばは、「」と「主に油をそそがれた者」すなわちメシアが深く結ばれていることを示しています。そのことはまた、地の「王たち」と「治める者たち」が「と、主に油をそそがれた者とに逆ら」って、

 さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。

と言っているときに、「彼らのかせ」、「彼らの綱」というように、「彼らの」ということばを繰り返していることにも現れています。地の「王たち」と「治める者たち」にとって「」の「かせ」は、また、メシアの「かせ」でもあるのです。
 「」は「天の御座に着いている方」です。また、「主に油をそそがれた者」すなわちメシアは、「天の御座」に着いておられる「」を代表しています。そして、「」が、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

と言われるように、メシアは「」によって養子として迎えられており、「」によって任命された役人として治めます。
 これらのことは、「主に油をそそがれた者」すなわちメシアの主権が天に属する主権であることを意味しています。このことは、エペソ人への手紙1章20節ー21節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されていることにおいて、成就しています。
 このことと調和して、前回お話ししましたように、黙示録2章18節において、イエス・キリストがご自身のことを、「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」方として示しておられることは、イエス・キリストが天に属する栄光、しかも、ダニエル書10章に出てくる「大天使」と思われる御使いの栄光にまさる栄光を帯びておられるということを意味しています。イエス・キリストはこのような方として、私たちと私たちそれぞれのうちにあるすべてのことを完全に知ってくださっています。そして、私たちを御霊によって導いてくださり、父なる神さまとのいのちの交わりに生きる者としてくださっています。


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