黙示録講解

(第251回)


説教日:2016年6月19日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(4)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、18節に記されています、

 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
 「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

というみことばにおいて、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられるということについてです。
 これまでお話ししてきましたように、この「神の子」ということばは、イエス・キリストが三位一体の第二位格である御子であられることを述べているのではありません。もちろん、イエス・キリストが三位一体の第二位格の御子であられることはみことばが明確に教えていることです。ただここでは、そのことではなく、イエス・キリストが、詩篇2篇7節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

というみことばに預言的に示されているメシアであるということを示しています。
 このことは、二つのことから支持されます。
 一つは、すでにお話ししましたことです。それは、同じテアテラにある教会へのみことばである、黙示録2章26節ー27節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

というイエス・キリストの約束が記されているということです。このイエス・キリストの約束のみことばも同じ詩篇2篇のみことばを背景として語られています。具体的には、8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されているみことばです。
 イエス・キリストがアジアにある七つの教会に語られたみことばにおいては、まず、イエス・キリストご自身がどのような方であるかが示されています。そしてそれは、その後にイエス・キリストが語っておられるみことばと深くかかわっています。言うまでもなく、そのことは、最後に語られている約束のみことばにも当てはまります。それで、テアテラにある教会に語られたみことばの冒頭の18節において、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることは、最後の部分の26節ー27節に記されている、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束と深くかかわっています。
 18節に記されている「神の子」ということばが、イエス・キリストが約束のメシアであられることを示しているということを支持するもう一つのことは、ここでイエス・キリストは、ギリシア語の順序から言いますと、ご自身のことをまず「神の子」としてお示しになり、それを(同格の形で)「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」方と説明しておられるということです。
 今日はこのことに注目してお話ししたいと思います。この(2章18節に記されている)、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような

というみことばは、1章10節ー16節に記されているみことばから取られたものです。そこには、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。これは、「クリストファニー」と呼ばれる、イエス・キリストの栄光の顕現、イエス・キリストの栄光の御姿の啓示です。2章18節に出てくる、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような

というみことばは、1章14節後半ー15節前半に出てくる、

 その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

というみことばに当たります。
 このみことばは、ダニエル書10章6節に記されているみことばを背景としてします。ダニエル書10章4節ー6節には、

 第一の月の二十四日に、私はティグリスという大きな川の岸にいた。私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。

と記されています。
 詳しい説明は省きますが、ここに出てくる「ひとりの人」はダニエルに啓示をもたらすためにやって来た御使いです。もちろん、御使いには見える形はありません。ここに記されているのは、ダニエルが見た幻の中で示された「エンジェロファニー」とも呼ばれる、御使いの栄光の顕現、御使いの栄光を幻によって表象的に啓示するものです。この御使いについての、

亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。

という描写は、そのような天的な存在に与えられている栄光を示しています。
 この御使いについては、啓示をもたらすために来た御使いであるということから、ガブリエルではないかという見方があります(参照ルカの福音書1章19節、26節)。この少し後の13節にはミカエルも出てきますが、両者はほぼ対等な御使いであるようにも思われます。その意味では、これはガブリエルである可能性があります。ただ、その場合は、ダニエル書ではすでに8章16節と9章21節にガブリエルが出てくるのに、ここではその名が明示されていないという問題が残ります。少なくとも、いわゆる「大天使」の一人であると思われます。
 ここに記されている、

 その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで

ということばが、黙示録1章14節後半ー15節前半に出てくる、

 その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

というみことばと2章18節に記されている、イエス・キリストについての「神の子」を説明する、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような

ということばの背景にあると考えられています。


 とはいえ、イエス・キリストはその御使いにたとえられているのではありません。ここにはイエス・キリストとその御使いに共通していることがあるのです。それは、両者が神である主の御臨在の栄光が満ちている天の栄光を帯びているということです。
 けれども、両者の間には違いもあります。それは、この御使いについての描写を、黙示録1章13節ー16節に記されている、

それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

というイエス・キリストの栄光の顕現の描写と比べてみますと、よく分かります。
 たとえば、このイエス・キリストの栄光の御姿については、

 顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と言われていますが、先ほどの御使いについては、

 その顔はいなずまのようであり、

と言われています。また、イエス・キリストの栄光の御姿の描写では、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く

と言われていますが、御使いについての描写には頭と髪の毛のことは触れられていません。
 そのようなこともありますが、より根本的なことは、ここでイエス・キリストが「人の子のような方」と言われていることにあります。イエス・キリストは「人の子のような方」であられることにおいて、御使いたちとは異なっているのです。
 「人の子のような方」のことは、ダニエル書7章13節ー14節に記されているダニエルが見た幻のうちに示されたています。そこには、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。
 ここでは過去形(完了時制)で記されています。これは「預言的過去」と呼ばれるものです。すでに起こっていることは変更できないことで、その意味での確実性をもっています。それで、将来、神である主がなさることを預言のみことばとして語る時に、それがすでに起こっていることと同じ確実性をもっていることを示すために過去形(完了時制)で表しています。
 13節では、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた。

と言われています。この「人の子のような方」ということばが、黙示録に出てくる「人の子のような方」の背景になっていて、イエス・キリストがここ(ダニエル書7章13節ー14節)で預言的に示されている「人の子のような方」であられることが示されています。
 ここに出てくる「天の雲」は自然現象としての空の雲のことではなく、契約の神である主の栄光の御臨在、すなわち、セオファニーに伴う雲のことです。ですから、

 人の子のような方が天の雲に乗って来られた

ということは、「人の子のような方」の栄光の御臨在のことを述べています。
 そして、

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

というみことばに示されているように、この「人の子のような方」は、神である主の御臨在の栄光に満ちた天におられる方ですが、先ほどの「大天使」と思われる御使いとは違う栄光の主です。

 さらに、この(繰り返しの引用になりますが)、

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。
 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

というみことばに示されていることと、初めの方で引用しました詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されているみことばとを比べてみますと、そこに共通性があることが分かります。
 ダニエル書7章14節の、

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
 彼に仕えることになった。

というみことばは、詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばと実質的に同じことを別の角度から述べています。
 それとともに、二つのみことばの間には相違点もあります。
 ダニエル書7章14節の、

 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

というみことばに示されていることは、すでに繰り返しお話ししてきました、主、ヤハウェがダビデに与えてくださった契約において示されている、主がダビデの子の王座を永遠に堅く立ててくださるという約束の成就を示しています。サムエル記第二・7章16節には、

 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

という、主がダビデに与えてくださった約束が記されています。
 これに対して、詩篇2篇9節の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばは、「と、主に油をそそがれた者」すなわちメシアに逆らって立つ「地の王たち」「治める者たち」へのさばきのことを記しています。
 このことは、ダニエル書7章14節に、

 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されていることと矛盾するわけではありません。というのは、ダニエル書7章では、この14節に先立って、詩篇2篇9節に出てくる「地の王たち」「治める者たち」へのさばきに相当することが記されているからです。
 ダニエル書7章9節ー12節には、

 私が見ていると、
  幾つかの御座が備えられ、
  年を経た方が座に着かれた。
  その衣は雪のように白く、
  頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
  御座は火の炎、
  その車輪は燃える火で、
  火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
  幾千のものがこの方に仕え、
  幾万のものがその前に立っていた。
  さばく方が座に着き、
  幾つかの文書が開かれた。
 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。

と記されています。
 詳しい説明は省きますが、ここでは、この前の2節ー8節に記されている、「四頭の大きな獣」がさばきを受けることが記されています。その「四頭の大きな獣」は、順次、「海から上がって来た」のですが、だんだんとその凶悪さが増していき、第4の獣でその凶悪さが頂点に達します。「あの角」というのは、8節に記されています、十本の角をもつ第4の獣に後から生えてきた「小さな角」のことで、それには「人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった」と言われています。
 この最も凶暴な獣に対するさばきが執行されて、その獣は滅ぼされてしまいます。残りの獣は、その主権は弱体化されてしまいますが、存在としては残されることになりました。もちろん、主が定められたときにさばきを受けることになります。
 このように、ダニエル書7章では、「海から上がって来た」「四頭の大きな獣」に対するさばきが執行されるので、その後に記されている「人の子のような方」については、

 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と記されているわけです。
 これらのことから、ダニエル書7章14節に記されていることと、詩篇2篇8節ー9節に記されていることは実質的に同じことを述べている、と言うことができます。

 このダニエルの預言的なみことばを背景として、マタイの福音書24章30節ー31節には、

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

と記されています。
 イエス・キリストは地上の生涯全体にわたってご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。それは、このダニエル書7章13節ー14節に記されています預言的な啓示のみことばに基づくことです。
 イエス・キリストがこの「人の子」という称号を用いられたのは、その当時のユダヤの社会では「メシア」という称号には政治的な意味合いで理解されていたからであったと考えられています。人々は「メシア」がその偉大な力を発揮して、敵であるローマ帝国を打ち破り、モーセ律法に基づく、理想的な国を建設し、すべての民を支配するようになると信じていました。そのような状況で、イエス・キリストがご自身のことを「メシア」と呼びますと、人々は自分たちの考えるメシアであると受け取り、自分たちの思いを実現してくれると期待します。
 けれども、そのように考えられているメシアの力は、武力など血肉の力です。その戦いも、武力など血肉の力で相手を打ち倒し屈服させるものです。イエス・キリストはそのような意味合いが染みついてしまっている「メシア」という称号を避けて、そのような意味合いのついていない「人の子」という称号をお用いになったと考えられます。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、イエス・キリストが来られたのは霊的な戦いを戦うためです。エペソ人への手紙6章12節には、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されていました。また、ヨハネの手紙第一・3章8節には、

 神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と記されています。これは、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されていることにおいて実現しています。私たちはかつて「暗やみの圧制」の下にあって罪の力に縛られ、罪がもたらす死と滅びを刈り取るべき者でした。しかも、そのことに気づくこともできない状態にありました。神さまはそのような状態にあった私たちを「愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。この「愛する御子のご支配」とは、私たちを「贖い、すなわち罪の赦し」にあずからせてくださり、神さまとの愛の交わりに生きる者としてくださる支配です。
 このように、私たちが「愛する御子のご支配の中に移して」移されていることは、暗やみの主権者からしますと、自分たちの主権が無力なものとされてしまっていることの現れです。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。暗やみの主権者の主権は、罪によって人を「一生涯死の恐怖に」よって縛り、奴隷化している主権です。しかし、御子イエス・キリストが十字架の死によって罪を贖ってくださったことによって、肉体的な死は、私たちを神さまの愛から引き離すものではなくなりました。ローマ人への手紙8章38節ー39節において、パウロが、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と述べているとおりです。
 このことにおいて、暗やみの主権者の主権は粉々に打ち砕かれてしまいます。これと一致して、先ほどのヘブル人への手紙2章14節では、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」てしまうためであったと言われていました。
 このことは、先ほど引用しました、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されていましたように、すでに始まっていますが、それが完全に実現するのは、終わりの日に、イエス・キリストご自身が再びこられて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることによっています。
 その完全な実現のことは、先ほど引用しました、マタイの福音書24章30節ー31節に、

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

と記されているイエス・キリストのみことばに示されていることです。イエス・キリストが「天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集め」てくださるのは、私たちを神さまの栄光の御臨在の御前に子として立たせてくださるためです。「天の果てから果てまで、四方から」ということばは、私たちが「どこにいても漏れることはない」ということを伝えていて、私たち一人一人が、すべて、主の御許に集められることを示しています。
 それは、イエス・キリストが「選びの民」を集めてくださることであるという点に注目しますと、エペソ人への手紙1章3節ー5節に、

神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されている神さまの永遠からのみこころを実現してくださるためにほかなりません。
 また、これと関連して思い起こされるのは、ヨハネの福音書6章39節ー40節に記されている、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えです。
 ここでは、39節の「すべての者を」、「ひとりも失うことなく」「ひとりひとりを」(「終わりの日によみがえらせる」)という父なる神さまのみこころに示されている徹底さ、そして、40節の「その人たちをひとりひとり」(「終わりの日によみがえらせます」)という御子イエス・キリストのみこころに示されている徹底さが強調されています。


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