黙示録講解

(第250回)


説教日:2016年6月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(3)


 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 18節には、

 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
 『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

と記されています。
 これまで、ここでイエス・キリストがご自身のことを「神の子」としてお示しになっておられるときの「神の子」の意味についてお話ししました。
 これは、イエス・キリストが三位一体の第二位格の御子であられることを示しているのではありません。ここでは、そのことを踏まえてはいますが、イエス・キリストが、メシアのことを預言的に示している詩篇2篇7節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

と記されているメシアであることを示しています。
 このことは、同じイエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばを記している黙示録2章26節ー27節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束が記されていることから支持されます。このイエス・キリストの約束のみことばも、詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されていることを背景として語られています。
 先主日にも触れましたが、ここに記されているメシアの権威(私たちもそれにあずかると約束されています)がどのようなものであるかを理解するために、もう少し詩篇2篇を見てみましょう。
 2節では、

 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

と言われています。ここに出てくる「主に油をそそがれた者」がメシアです。そして、4節ー6節には、

 天の御座に着いている方は笑い、
 主はその者どもをあざけられる。
 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」

と記されています。ここには、「天の御座に着いている方」と言われている「」すなわち契約の神である主、ヤハウェが、「地の王たち」、「治める者たち」に対して、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

と告げられたことが記されています。ここに出てくる「わたしの聖なる山、シオン」とは、主の御住まいである神殿が建てられているエルサレムのシオンの丘のことです。主はそこに「わたしの王を立てた」と言われます。この王が「主に油をそそがれた者」です。このことは、主が立てられる王と、主のご臨在される神殿とのつながりを示唆しています。このつながりが、メシアの権威の特質を理解するための鍵です。
 これは、古い契約の下では、一般に、ダビデ契約と呼ばれる、主がダビデに与えてくださった契約に基づいています。主がダビデに契約を与えてくださったことは、サムエル記第二・7章5節ー16節に記されています。その中心にあることは、11節後半ー16節に記されている、主が預言者ナタンをとおして語られた、

さらにはあなたに告げる。「はあなたのために一つの家を造る。」あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

というみことばに示されています。
 これは、1節ー3節に、

王が自分の家に住み、が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。があなたとともにおられるのですから。」

と記されていることから始まっています。
 主、ヤハウェはイスラエルの民の父祖アブラハムに与えてくださった契約において約束してくださったとおり、イスラエルの民をカナンの地に導き入れてくださいました。そして、ダビデをご自身のしもべである王としてお立てになり、「周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられ」ました。それでダビデは、エジプトを出たイスラエルの民が約束の地に向かって荒野を旅する間、彼らの間にご臨在してくださり、彼らとともに歩まれ、約束の地へと導き入れてくださるために、持ち運ぶことができる幕屋を聖所として、そこにご臨在しておられた主のために、神殿を建設しようとの志をもつようになりました。


 このことの背景には、主がアブラハムに与えてくださった契約に示された約束があります。創世記17章7節ー8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。後半部分は、カナンの地において、主がアブラハムの子孫の神となられるという主の契約の祝福が実現することが示されています。主がアブラハムの子孫の神となられるということは、名目上のことではなく、実際に、主がアブラハムの子孫の間にご臨在してくださり、彼らが主を神として礼拝することを中心とした、主との交わりに生きるようになることを意味しています。
 ですから、カナンの地は、そこにおいて、主がアブラハムの子孫たちとともに住んでくださり、彼らが主の御臨在の御前に近づいて、主を神として礼拝することを中心として、主との交わりに生きることが現実になるための「約束の地」でした。約束の地を約束の地としているものは神である主の御臨在です。そこに神である主の御臨在がないのであれば、その地がどんなに豊かな地であったとしても、それは約束の地ではありません。
 そのことは、出エジプトの時代に起こったいくつかの出来事においても示されています。
 イスラエルの民は主の力強い御手によって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されました。イスラエルの民がエジプトの地を出た後、エジプトの王パロは思い直して、イスラエルの民を追撃し、紅海において追いつきました。しかし、そこで主は紅海の水を分けてイスラエルの民を渡らせてくださり、イスラエルの民を追いかけて海に入ったエジプトの軍隊を滅ぼされました。その時、モーセとイスラエルの民は、15章1節ー18節に記されている、主への讃美を歌いました。13節には、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と記されており、17節ー18節には、

 あなたは彼らを連れて行き、
 あなたご自身の山に植えられる。
 よ。御住まいのために
 あなたがお造りになった場所に。
 主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。
 はとこしえまでも統べ治められる。

と記されています。これは、出エジプトの贖いの御業の目的が、イスラエルの民を主の御臨在の御前に住まわせてくださることにあることを示しています。
 このようにして、イスラエルの民は、主がご臨在されるシナイ山の麓に宿営しました。主はそこでイスラエルの民と契約を結んでくださいました。
 主、ヤハウェとの契約が結ばれた時、モーセは主の命令に従って、主がご臨在されるシナイ山に登っていきました。シナイ山で主がモーセに最初に示してくださったことは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために聖所を、主が示されるとおりに造ることでした。出エジプト記25章8節ー9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されているとおりです。そして、主は幕屋をどのように造るかを示してくださったのですが、まず最初に示してくださったのは契約の箱をどのように造るかということでした。その契約の箱には主がその後、シナイ山で与えてくださる、十戒を記した2枚の石の板を収めることになります。そして、「贖いのふた」と呼ばれる契約の箱の上蓋の両端に「贖いのふた」の一部として、二つの金のケルビムを互いに向き合って、「贖いのふた」に向かうように造るように命じられます。ケルビムはそこに主の栄光の御臨在があることを表示しつつ、主の聖さを守る生き物です。(25章)22節には、

わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と記されています。これらのことは、主がご自身の契約に基づいてイスラエルの民の間にご臨在してくださり、イスラエルの民が主を礼拝することを中心として、主との交わりに生きるようになるための備えです。
 さらに、32章に記されていますが、イスラエルの民は、シナイ山に登ったモーセの帰りが遅いと感じたとき、アロンに自分たちをエジプトから連れ上ってくれた神を造ってくれるよう求めました。それでアロンは金の子牛を造り、イスラエルの民はそれを主、ヤハウェであるとして「全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供え」ました。
 この出来事の後いろいろなことが起こり、とても大切なことがいくつか示されることになりますが、今お話ししていることとのかかわりで注目したいことだけを取り上げます。
 33章1節ー3節に記されていますが、このことを受けて主は、イスラエルの民を「乳と蜜の流れる地」である約束の地に行かせてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民の中にあっては約束の地に上っていかれないとモーセに言われました。そして、その理由として、

あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

と言われました。これは、主ご自身は約束の地に上って行かれないけれども、イスラエルの民には「乳と蜜の流れる地」を与えてくださるということを意味しています。これに対して、モーセは、15節に記されていますように、

 もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

と主に祈りました。モーセは、主がともにいてくださらない「乳と蜜の流れる地」に行くよりは、主がご臨在されるシナイ山のある荒野にいるべきであるというモーセの理解を表しています。

 このように、主がアブラハムに約束してくださったカナンの地は、そこにおいて、主がアブラハムの子孫たちとともに住んでくださり、彼らが主の御臨在の御前に近づいて、主を神として礼拝することを中心として、主との交わりに生きることが現実になるための「約束の地」でした。
 ですから、サムエル記第二・7章1節ー3節に記されていますように、ダビデが主の聖所としての神殿の建設を志したことは、このような主のみこころにかなっているはずのことでした。それで、預言者ナタンは、ダビデに、

 さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。があなたとともにおられるのですから。

と答えたのです。
 1節に、

 王が自分の家に住み、が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、

と記されていますように、主はダビデを「周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられ」ました。それは主がダビデによって統一王国を確立されたということです。ダビデは約束の地であるカナンの地が名実ともに自分たちのものとなって、イスラエルの民がカナンの地に定住するようになったのであれば、イスラエルの民の間にご臨在される主の聖所もそれにふさわしく、いわば「可動式」の幕屋ではなく、神殿でなければならないと考えたわけです。
 ところが主はナタンをとおして、主の神殿建設にかかわるご自身のみこころを示されました。主がナタンをとおしてダビデに語られたみことばの中心となっていることは、先ほども引用しました、11節後半ー16節に、

さらにはあなたに告げる。「はあなたのために一つの家を造る。」あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されています。
 主はダビデに、

わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と言われました。主はダビデの王座を受け継ぐ子の王国を確立してくださり、その子によって主の家としての神殿を建ててくださると約束してくださいました。そして、主がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださる時、主は「彼にとって父となり、彼は」主にとって子となると約束してくださいました。
 このことは、このことについて最初にお話ししたときに触れましたが、古い契約の下で当面の成就として、ダビデ王朝が古代オリエントでは異例なほど長く続いたということに現れています。その中でも、やがて来るべきメシアを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっている成就としては、ダビデの子ソロモンにおいて成就しています。主はソロモンを栄えさせてくださり、ソロモンは壮大なエルサレム神殿を建設しました。
 さらに、これに続いて、

もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されていることからも分かりますように、ダビデの子である王が罪を犯すこともあることが示されています。それはソロモンがその晩年に偶像礼拝の罪を犯すようになってしまったことや、そのために、イスラエルが北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した後、ダビデ王朝が治めた南王国ユダの王たちが背教してしまうことに現れています。主が語られたみことばでは、それにもかかわらず、ダビデの家とダビデの王国の王座は「とこしえまでも堅く立つ」と約束されています。
 ここには契約ということばは出てきません。けれども、この時に主がダビデと契約を結ばれたことは、たとえば、詩篇89篇3節ー4節に、

 「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、
 わたしのしもべダビデに誓っている。
 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、
 おまえの王座を代々限りなく建てる。」

と記されていることから分かります。

 サムエル記第二・7章には、主の神殿を建設するのがダビデではなく、ダビデの子であることの理由は示されてはいません。そのことは、歴代誌第一・22章7節ー10節に記されています、ダビデがその子ソロモンに語ったことばに示されています。ダビデは、

わが子よ。私は、わが神、の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。ある時、私に次のようなのことばがあった。「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしにとって子となり、わたしは彼にとって父となる。わたしはイスラエルの上に彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

と述べています。
 ダビデが主の神殿を建てることができなかったのは、ダビデが「多くの血を流し、大きな戦いをしてきた」からでした。それによって、イスラエルの統一王国が確立されたのですが、そのために働いたダビデは、主がご臨在される神殿を建ててはならないと言われています。そして、ダビデの子ソロモンが主の御名のために神殿を建てるようになることが示されました。「ソロモン」(シェローモー)という名は「平和」を意味するシャロームに関連する名で、おそらく、「平和の人」(TWOT, #2401i)、「平和を好む」(ZIBD, p.1377)を意味しています。ソロモンの名の「平和の人」という意味に合わせて言いますと、ダビデはその生涯において「戦いの人」であったために、主がご臨在される神殿を建てることができなかったということになります。ちなみに「ダビデ」という名の意味については、はっきりしたことが分かっていません。
 このように、主がダビデに与えてくださった契約においては、主がダビデの王座を永遠に確立してくださることだけが約束されているのではなく、その王座に就くダビデの子が、主がご臨在される神殿を建てることが約束されています。
 そして、主の神殿を建てるダビデの子は「平和の人」であるということも示されています。そして、聖書は人にとっての真の平和、平安は何よりもまず、ご自身の契約に基づいてご臨在してくださる主を礼拝することを中心とした主との愛の交わりにあることを示しています。契約の神である主、ヤハウェがご臨在してくださるための聖所は、それが幕屋であれ神殿であれ、主がご自身の民をご自身との交わりに生きる者としてくださるためにあります。
 このことから、主の聖所の前には祭壇があって、そこで罪の贖いのためのいけにえがささげられていたことの意味が了解されます。主と私たちを隔てていたのは、私たちが主に対して犯した罪です。それは本来私たちが償うべきものですが、その私たち自身が罪に汚れていて罪を犯す者ですので、私たちには決して償うことはできません。また、それを何らかの手段によって贖おうと思っても、私たちの罪は、無限、永遠、不変の栄光の主に対して犯したものですので、無限の重さをもっていて、いかなる被造物をもってしても贖うことはできません。それで、古い契約の下にあった地上の聖所の前でささげられていた動物のいけにえには、人の罪を贖う力はありません。それはやがて神さまが備えてくださる贖い主による罪の贖いを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていました。
 それで、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられるご自身の御子を、私たちのための贖い主として立ててくださって、その十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。
 これらのことは、主が永遠に確立してくださるダビデの子の王国とその王座、すなわちその主権がどのようなものであるかを示しています。それは、契約の神である主、ヤハウェに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、死と滅びの力に捕らえられてしまっている人を、死と滅びから贖い出し、神である主の御臨在の御前に近づいて、主を神として礼拝することを中心とした主との愛の交わりに生きる者としてくださるようにと、愛によって働く主権です。
 実際に、ダビデの子として来てくださり、ダビデに約束された永遠の王座に着座された御子イエス・キリストは、ヨハネの福音書10章18節に記されていますように、ご自身の権威について、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と言明しておられます。御子イエス・キリストはご自身の権威を働かせて、十字架におかかりになり、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それによって、私たちを神である主との愛による交わりに生きる者としてくださいいました。
 そして、私たち主の民が、この主であられるイエス・キリストの権威にあずかるということは、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神である主との愛の交わりに生きることから始まります。そして、神である主との愛の交わりに生きる者として、人々が神である主との愛の交わりに生きるようになるために、愛をもって、イエス・キリストをあかしすることをとおして実現します。なぜなら、イエス・キリストの権威はそのように愛によって働く権威であるからです。
 そして、私たちは、そのように愛によって働く権威にあずかることによって初めて、霊的な戦いを戦うことができます。
 黙示録12章7節ー10節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
  「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

と記されています。
 ここに示されていますように、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられたことによって「私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れ」て、サタンが天における霊的な戦いに敗北しています。そして、11節には、これにあずかって、サタンとの霊的な戦いに勝利した兄弟たちのことが、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

とあかしされています。
 私たちも、この「兄弟たち」と同じ霊的な戦いを戦う権威を委ねられています。同じ黙示録2章26節ー27節に記されている、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

というイエス・キリストの約束に示されている権威も、このような霊的な戦いを戦うための愛によって働く権威です。
 このこととの関連では、愛によって働く権威を受けている私たち主の民のことが、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

と言われていることに疑問が湧いてくることでしょう。これについては、改めてお話しすることにしますが、これが霊的な戦いについての表象的な表現であることを踏まえれば、納得できるようになると思います。


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