先主日には希望キリスト教会との講壇交換が行われましたので、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
前回は、まず、テアテラにある教会が置かれていた状況とそれに伴う問題についてお話ししました。お話が1週開いてしまいましたので、改めて、ここに記されているイエス・キリストのみことばの背景となっていると考えられる、二つのことを振り返っておきます。
まず、注目したいのは、テアテラの宗教的な状況です。
テアテラはその前に出てくる、アルテミス神殿があったエペソや、皇帝礼拝に熱心で、皇帝礼拝の中心地でもあったスミルナ、ペルガモとは違って、皇帝礼拝や、ギリシアの神々の礼拝の中心地というわけではありませんでした。
テアテラの守護神はテリムノス(テリムヌス)という戦いの勝利者である英雄でした。テリムノスは、プロポリスとして知られているテアテラの守護神と結びつけられていました。つまり、テリムノスはプロポリスのことであるとされていたということです。テリムノスはまた、その町の先祖とされている神であるプロパテール(プロパトール「原父」)や太陽神ヘリオス(アポロ)などとも結びつけられていました。テリムノスはプロパテールのことであるとか、ヘリオスのことであるともされたのです。
これらのことから、テアテラの宗教が混交主義的なものであったことがうかがわれます。そして、このことが、ここでイエス・キリストが取り上げておられる問題がテアテラにある教会に生じてきた背景となっていると考えられます。
もう一つ振り返っておきたいのは、テアテラの経済的な状況です。テアテラは、もともとは、ローマの属州アジアの首都であったペルガモの防衛のための東側から侵入してくる敵に備える前哨基地としての意味をもっていました。けれども「ローマの平和」と呼ばれる時代になって、テアテラは軍事的な重荷から解放されていきました。もともと交通の要所にあったテアテラは、商業と製造業の中心都市として繁栄するようになり、特に、染色業と毛織物の取引の中心地となっていきました。
このことと関連して注目すべきことは、テアテラには多くの職人組合(「ギルド」)があったということです。[ある本には、「ほかのどの都市よりも多かった」とテアテラには、染色職人、毛織物職人、亜麻布職人、衣類製造職人、皮なめし職人、革細工職人、陶器師、パン職人、靴職人、さまざまな金属加工職人、奴隷売買人などの組合があったと言われています。これらの職人組合は、テアテラに限らず、どの町にもあったものですが、テアテラでは、ことに、その数が多かったと言われています。
職人組合は、それぞれの職業に従事する人々がお互いの利益を計り、お互いに助け合うために組織したものです。このような組合に加入することは強制ではありませんでしたが、ほとんどの人は組合に加入していました。職人組合は商業や工業にかかわっていただけでなく、その社会における生活の中心となっていたからです。町の区画も、それぞれの職人組合ごとに区分されていたと言われています。それで、職人組合に入らないでその仕事を続けていくことは、事実上、その職業を断念せざるをえない状況になることを意味していました。
その一方で、クリスチャンにとっては、職人組合に加入することには信仰上の問題がありました。
一つは、それぞれの職人組合は自分たちの守護神をもっていて、その神を礼拝していました。職人組合の祭りでは祝宴が設けられましたが、それは、しばしば異教の神々の神殿で行われました。それが神殿ではないところで行われたとしても、その祝宴においては守護神にいけにえがささげられました。それで、その祝宴で出される肉は偶像の神にささげられたもので、それゆえにその守護神から恵まれたものとして食べるのでした。
もう一つは、そのような祝宴は、しばしば酒宴にありがちな淫乱なものになっていきました。そして、それが祝宴の隠れた目的であったとも言われています。クリスチャンたちは、そのようなことを避けるために、その場を抜け出すことによって、あざけりと迫害を受けることにもなりました。
テアテラにある教会の信徒たちがこのような問題に直面していたことは、ここでイエス・キリストが語っておられるみことばを理解するうえで大切なことです。
20節では、イエス・キリストが、
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
というみことばをもって、テアテラにある教会の信徒たちの間にある問題を指摘しておられます。これは今お話ししました職人組合に加入することに伴う問題を背景として語られていると考えられます。
詳しいことは日を改めてお話ししますが、ここでイエス・キリストが取り上げておられる「イゼベルという女」は、「偶像の神にささげた物」を食べることも、「不品行」を行うことも、問題はないということを教えていました。職人組合の祝宴においては、「偶像の神にささげた物」を食べることと、それに伴って「不品行」を行うことがなされていました。しかし、それは、典型的なことで、「イゼベルという女」は、職人組合の祝宴のときに限られたことではなく、より一般的に、クリスチャンが「偶像の神にささげた物」を食べることや「不品行」を行うことは問題がないという一般原則に当たることを教えていたと考えられます。その理由がどういうものであったかについては、改めてお話しします。
このような教えは、特に、職人組合に加入することをめぐって厳しい立場に立たされていたテアテラにある教会の信徒たちのある人々にとっては、自分たちを窮地から救い出してくれる教えと思われたことでしょう。初めのうちは問題を感じていた人たちも、このような「イゼベルという女」の教えを受け入れ、それに従う人々が増えてゆくに従って、その教えを受け入れ、彼女に従うことに抵抗感がなくなっていったことでしょう。
あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。
というイエス・キリストのみことばは、彼女の教えを受け入れ、彼女に従う人々がテアテラにある教会である程度の勢力をもっていることをうかがわせます。また、24節において、
しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。
と言われていることも、このことをうかがわせます。
そして、21節ー23節に記されています、
わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。
というみことばは、イエス・キリストが、これを放置すれば、テアテラにある教会が危機的な状況に陥ってしまうであろうことを踏まえて、これに対処しておられることを示しています。
*
前回は、さらに、18節に、
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
と記されているみことばにおいて、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることについてお話ししました。このことについても補足しつつまとめておきましょう。
この場合の「神の子」は、イエス・キリストが三位一体にいます神の第二位格であられること、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられることを指しているのではないと考えられます。もちろん、そのことはより根本的なこととして踏まえられた上でのことですが、ここでは、26節ー27節に、
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
と記されていることとのつながりで理解されることです。
ここでは、イエス・キリストが「勝利を得る者」(単数形で集合名詞)に「諸国の民を支配する権威」を与えてくださることとのかかわりで、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われています。この場合の「彼」は「勝利を得る者」のことです。それで、これは私たち主の契約の民すべてに当てはまります。そして、この「彼」のことを指して、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われているのですが、このことば自体は、詩篇2篇9節に、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
焼き物の器のように粉々にする。
と記されているみことばの引用です。
そして、詩篇2篇では、この9節のみことばは、それに先立って7節ー8節に記されている、
わたしは主の定めについて語ろう。
主はわたしに言われた。
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
というみことばを受けています。8節に、
わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
と記されているみことばにおいて約束されていることは、黙示録2章26節でイエス・キリストが、
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
と約束してくださっていることに相当することです。
そして、詩篇2篇7節に、
わたしは主の定めについて語ろう。
主はわたしに言われた。
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
と記されているときの、
あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
というみことばは、契約の神である主、ヤハウェのみことばです。これは、主から「国々」を「ゆずりとして」として与えられ、「地をその果て果てまで」「所有として」与えられた者が、王として即位するときに主の養子として迎え入れられるということを意味しています。そして、黙示録2章27節では、はっきりと記されてるわけではありませんが、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われている「彼」、すなわち、「勝利を得る者」である私たち主の契約の民にも、
あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
というみことばが当てはまると考えられます。
*
このことは新約聖書のいくつかの個所からわかりますが、その一つである、エペソ人への手紙を見てみましょう。
1章3節ー6節には、
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
と記されています。ここでは、神さまが永遠からのみこころにおいて、
私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と言われています。またここでは、御子イエス・キリストにある神さまの愛と恵みが示されています。
そして、そのことの実現を記している個所の一つである2章4節ー7節には、
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
と記されています。ここでも、イエス・キリストにある神さまの愛と恵みが強調されています。またここで、
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
と言われているときの、
ともによみがえらせ
ということは、「キリスト・イエス」と「ともによみがえらせ」ということであり、
ともに天の所にすわらせてくださいました。
ということも、「キリスト・イエス」と「ともに天の所にすわらせてくださいました」ということです。
このことは、まず、父なる神さまが御子イエス・キリストに対してなしてくださったことであり、それに私たちをあずからせてくださったということを意味しています。
父なる神さまが御子イエス・キリストになしてくださったことについては、1章20節ー21節に、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
と記されています。20節では、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて
と言われていますが、「その全能の力」と訳されていることばは関係代名詞で、その前の19節で、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
と言われているときの「神の全能の力の働き」を指しています。ここで「全能の力」と訳されている部分は、力を表す二つのことば(クラトスとイスキュウス)を重ねて強調することによって表されています。そして、その「働き」も「活動力」を表すことばです。ここ19節では、そのような神さまの「全能の力の働き」が「私たち信じる者に働く」ということが示されています。そして、二〇節では、神さまは、その「私たち信じる者に働く」ご自身の「全能の力」を、
キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて
くださったと言われています。
ですから、ここでの主旨は、1章20節ー21節に記されています、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
という、神さまがイエス・キリストに対してなされたこと自体にあるのではなく、このように神さまがイエス・キリストのうちに働かせてくださった「神の全能の力の働き」が「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」であるということを示してくださることにあります。それで、このことは、2章4節ー7節に、
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
と記されていることへとつながっていくわけです。ちなみに、ここで、
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
と言われているときの「天の所に」と訳されていることば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、1章20節で、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
と言われているときの「天上において」と訳されていることばと同じことばです。もちろん、同じく「天上において」権威の座に坐る者としていただいていると言っても、そこには違いがあります。イエス・キリストはメシヤとして、ご自身が十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころを完全に成し遂げられたことへの報いとして栄光をお受けになって、父なる神さまの右の座に着座しておられます。私たちはただイエス・キリストにある父なる神さまの恵みによって、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いとイエス・キリストの栄光へのよみがえりにあずかって、「天上において」権威の座に坐っている者としていただいています。
これは、イエス・キリストが黙示録2章26節ー27節において、
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
と約束してくださっていることが、すでに、私たちの間で実現し始めているということを意味しています。逆に言いますと、黙示録2章26節ー27節に記されていることは、エペソ人への手紙2章4節ー7節に記されていることが完全に実現するときのことです。
このことについては、一つの疑問が湧いてくることでしょう。それは、私たち主の契約の民が「諸国の民を支配する権威」を与えられているということが、すでに実現し始めていると、どうして言えるのかということです。
これにつきましては、改めて、お話しすることにします。差し当たってお話ししたいのは、イエス・キリストが、
わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
と述べておられるときの、イエス・キリストが父なる神さまから受けている「支配の権威」は、この世の権力機構の頂点に立つことに現れてくる権威ではないということです。
イエス・キリストが父なる神さまから受けている「支配の権威」がどのようなものであるかは、イエス・キリストをとおして示されています。それは、主であられるイエス・キリストが、私たちご自身の民を愛してくださり、私たちを死と滅びから救い出し、永遠のいのちに生かしてくださるために十字架におかかりになったことに、最もはっきりと現されています。その権威は、福音のみことばにあかしされている贖いの御業に基づく愛によって働く権威です。それで、主の契約共同体としての教会では、福音のみことばの真理に基づき、お互いの間と人々への愛に生きることによって、キリストのからだとして建て上げられていく中で発揮される権威です。
これが、「諸国の民を支配する権威」であるということや、それについて、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われていることがどのようなことであるかということについては、改めてお話しします。
*
ここで改めて、エペソ人への手紙1章20節ー21節に記されている、父なる神さまが御子イエス・キリストに対してなされたことに注目したいと思います。そこには、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
と記されています。ここでは、父なる神さまがイエス・キリストを、
死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ
られたと言われています。これは、詩篇110篇1節に、
主は、私の主に仰せられる。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」
と記されていることの成就です。それで、エペソ人への手紙1章20節ー21節において、父なる神さまがイエス・キリストを、
死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
と言われているときの「すべての支配、権威、権力、主権」は、契約の神である主、ヤハウェがお立てになったメシヤに敵対する存在です。エペソ人への手紙の中では、6章12節において、
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
と記されています。
このことばからも、私たち主の民が戦うべき戦いは霊的な戦いであって、血肉の力に基づいて成り立っているこの世の権力機構の頂点に立とうとして、血肉の力で戦うものではないことが分かります。またそれで、主の民にはそのような意味での「諸国の民を支配する権威」が授けられているわけではないことも分かります。
また、私たちの戦いが「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」であるのは、私たちが「キリスト・イエス」と「ともに天の所にすわらせて」いただいているからです。
ここに出てくる最初の二つである「主権」(アルケー)と「力」(エクスースィア)は1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」の最初の二つと同じことばで表されています。また、「天にいるもろもろの悪霊」と言われているときの「天に」と訳されていることば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、1章20節で「天上において」と訳されており、2章6節で「天の所に」と訳されていることばです。けれども、1章20節ー21節では、イエス・キリストは、これら、「天に」あってご自身に敵対して働く「すべての支配、権威、権力、主権」より「はるか上に」(フペラノー)着座しておられると言われています。言うまでもなく、それは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座しておられることによっています。
もちろん、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く[直訳・「すべての名のはるか上に」]
と言われていますように、やがて完全な形で「天の所に」座するようになる私たち主の契約の民の「はるか上に」着座しておられるということでもあります。
このことを踏まえた上でのことですが、テアテラにある教会の信徒たちを初めとして、私たち主の契約の民は、この方が十字架におかかりになって、ご自身の民の罪を完全に贖ってくださったことにあずかっているだけではありません。この方が栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことと「天上において」父なる神さまの右の座に着座しておられることにもあずかっています。そして、そのことに現れている父なる神さまの愛と、御子イエス・キリストにある恵みに包まれている者として、
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
と言われている、霊的な戦いを戦うよう召されています。
これまでお話ししてきましたように、テアテラにある教会の信徒たちは、社会的にまた経済的に厳しい状況に置かれていました。しかし、それは人の目に見える状況です。テアテラにある教会の信徒たちは、そのような厳しい状況にあって、霊的な戦いを戦うようにと召されています。
それで、彼らを召しておられるイエス・キリストは、彼らに、ご自身を「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身が彼らのために、十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座して、救いとさばきの御業を遂行しておられる主であられることを示しておられます。そのうえで、彼らがご自身を信じ、信頼して、歩み続けるようにと招いておられます。テアテラにある教会の信徒たちは、そのように、イエス・キリストに信頼し、イエス・キリストに従って歩むことをとおして、霊的な戦いに勝利する者となります。それは、言い換えますと、私たちご自身の民を愛して、そのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったイエス・キリストの御足の跡を踏みながら、福音のみことばの真理に基づき、お互いの間と人々への愛に生きることによって、霊的な戦いに勝利するということです。
このことは、今この時代を生きている私たちにも当てはまります。
|