黙示録講解

(第248回)


説教日:2016年5月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(1)


 本主日から、ヨハネの黙示録2章18節ー29節に記されています、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を始めます。きょうは、最初のお話ですので、いつものように、テアテラにある教会が置かれていた状況とそれに伴う問題についてお話ししたいと思います。
 テアテラにある教会は、黙示録に出てくるアジアにある七つの教会の一つです。この場合のアジアはローマの属州であるアジアのことで、今日の小アジア(トルコ)の西部の地域です。テアテラは今日のトルコのアクヒサルです。
 テアテラは、アジアにある七つの教会があった都市の中で、最も知られていなくて、最も重要度が低く、最も目立たな都市であるのに、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばは、七つの教会へのみことばのうち最も長くて、最も難しいものであると言われています。
 また、テアテラでは考古学的な発掘があまりなされていません。そのために、テアテラについて示されている歴史的な資料が少なく、テアテラのことは、アジアにある七つの教会のそのほかの都市ほどには分かっていません。
 テアテラはヘルムス川の支流であるリュコス川の流域の肥沃な平原にありました。
 エペソから始まる幹線道路がスミルナを経てペルガモへと北上して行きます。そして、ペルガモからは南東へと下って行くようになります。そのペルガモから約60キロメートルにテアテラがありました。テアテラからさらに南東に下って行くと、順次、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤがあります。黙示録では、このエペソからラオデキヤに至る道に沿って存在する町の順序にしたがって、アジアにある七つの教会が取り上げられています。
 歴史的には、後のテアテラに当たる地域には、紀元前3千年にはすでに人が住んでいたようです。また、ヒッタイト王国(前1680年頃ー1190年頃)では主要な町であり、リュディア王国(前7世紀ー547年)では首都でした。
 テアテラは、前3世紀初頭に、アレキサンダーの将軍であり、アレキサンダーの死後、最も広い領土を手に入れたセレウコス1世によって、首都であったペルガモに東側から侵入してくる敵に対する前哨基地としてとして設立されました。そして、マケドニアの植民政策によってマケドニア人が入植するようになってその重要性が増していきました。
 その後、セレウコス朝は前190年に、ローマとの戦いに破れてしまい衰退してしまいました。それによって、テアテラはベルガモ王国に帰属することとなりました。そして、前133年にペルガモの最後の王がテアテラをローマに移譲しましたので、テアテラはローマの領地となり、アジア州の町となりました。
 テアテラの宗教的な状況については、はっきりしたことが分かっていません。テアテラはその前に挙げられているエペソ、スミルナ、ペルガモとは違って、皇帝礼拝や、ギリシアの神々の礼拝の中心地というわけではありませんでした。
 ただ、テアテラの守護神はテリムノス(テリムヌス)という戦勝者の英雄であることが知られています。それは、テリムノスが武器である斧を肩に担いで馬に乗っている姿が、初期の硬貨に刻まれていたことに現れています。最初にテアテラに駐屯したマケドニア人の兵士たちはこのテリムノスを礼拝していたと言われていることから、テリムノスの起源はマケドニアにあるのではないかとも言われています。テリムノスは、また、プロポリスとして知られているテアテラの守護神と結びつけられていました。つまり、テリムノスはプロポリスのことであるとされていたということです。ちなみに、「プロポリス」という名前は、その神殿が町(ポリス)の前に(プロ)あったことによっています。
 テリムノスはまた、その町の先祖とされている神であるプロパテール(プロパトール「原父」)や太陽神ヘリオス(アポロ)などとも結びつけられていました。このことから、テアテラの宗教が混交主義的なもの、すなわち、いろいろな神々が入り交じっているものであったことがうかがわれます。
 軍事的には、先ほど触れましたように、首都であったペルガモに侵入してくる敵に対する前哨基地として守備隊が駐屯していました。けれども、そこは平原にあったために町は小さな丘に建てられていて、要塞を造るために適した所ではありませんでした。そのために、東側からペルガモに侵入してくる軍隊を一時的に引き止めて、その勢いをそぎ、その間にペルガモの防衛を固めるという役割を果たしていました。
 このように不利な自然の条件の中で、前哨基地としての役割を負っていたテアテラでは、迫ってくる危険と戦いに備えるためには、人としての強さに頼るほかなく、精神的な強さを養っていたと言われています。
 いわゆる「ローマの平和」と呼ばれる時代になると、軍事的に厳しかった状況も変化しました。それで、交通の要所にあったテアテラは、商業と製造業の中心都市として繁栄するようになりました。特に、染色業と毛織物の取引の中心地となっていきました。
 使徒の働き16章13節ー15節には、パウロの一行がピリピに滞在していた時のことが、

安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。

と記されています。ここでは、ルデヤが「テアテラ市の紫布の商人」であったと言われています。
 また、テアテラは多くの職人組合(「ギルド」)があったことで知られるようになりました。そこには、染色職人、毛織物職人、亜麻布職人、衣類製造職人、皮なめし職人、革細工職人、陶器師、パン職人、靴職人、さまざまな金属加工職人、奴隷売買人などの組合がありました。
 これらの職人組合は、テアテラに限らず、どの町にもあったものですが、それぞれの職業に従事する人々がお互いの利益を計り、お互いに助け合うために組織したものです。このような組合に加入することは強制されてはいませんでしたが、ほとんどの人は組合に加入していました。というのは、職人組合は商業や工業にかかわっていただけでなく、その社会における生活の中心となっていたからです。職人組合に入らないでその仕事を続けていくことは、事実上、その職業を断念せざるをえない状況になることを意味していました。
 そうではあっても、クリスチャンたちは職人組合に加入することを避けていました。それは二つの理由によっています。
 一つは、それぞれの職人組合は自分たちの守護神をもっていて、その神を礼拝していました。職人組合の祭りでは祝宴が設けられましたが、それは、しばしば異教の神々の神殿で行われました。それが神殿ではないところで行われたとしても、その祝宴においては守護神にいけにえがささげられました。それで、その祝宴で出される肉は偶像の神にささげられたもので、それゆえにその守護神から恵まれたものとして食べるのでした。
 もう一つのことは、そのような祝宴は、しばしば酔狂がもたらす淫乱なものに変質していきました。そのようなことを避けるために、その場を抜け出すことによって、あざけりと迫害を受けることにもなりました。
 テアテラにある教会の信徒たちはこのような問題に直面していたと考えられます。
 職人組合に加入しなければ、社会的に孤立し、職業の面でも不利な立場に立たされ、貧困と迫害に見舞われることになります。
 けれども、もし職人組合に加入すれば、偶像礼拝に参加し、淫行に至ってしまうであろう祝宴に参加し、偶像の神に供えられた肉を食べることになります。それによって、イエス・キリストのみを主であるとする、自らの、信仰を否定することになってしまいます。


 このような背景を念頭に置いて、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばを見ていきましょう。
 18節には、

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

と記されています。ここで、イエス・キリストはご自身のことを、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子

として示しておられます。
 ギリシア語の順序では、まず、

 神の子(ホ・ヒュイオス・トゥー・セウー)

が出てきます。そして、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような方

が同格として「神の子」を説明しています。
 この「神の子」という称号は、黙示録の中ではここだけに出てきます。イエス・キリストが「神の子」であられることは、すでにこれまで取り上げてきた黙示録の中でも示されています。
 1章5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

と記されています。
 ここではイエス・キリストのことが記されていますが、神さまのことが「ご自分の父である神」と呼ばれています。これはイエス・キリストが「神の子」であられること意味しています。
 いま私たちが取り上げています2章18節において、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」という称号を用いて示しておられるのは、先ほど触れました、テアテラの宗教的な状況が関係していると考えられています。
 テアテラでは、その守護神テリムノスは、ギリシア神話の主神ゼウスの子であるアポロのことであるとされていました。それによって、アポロ・テリムノスを祭る祭儀が生まれていました。これに対して、イエス・キリストは、まことの「神の子」はゼウスの子アポロであるとされているテリムノスではなく、ご自身こそがまことの「神の子」であられることを示しておられるということです。
 このことの可能性はあると思われますが、それとともに、もう一つのことも視野に入れておく必要があります。
 イエス・キリストがご自身のことを「神の子」という称号を用いて示しておられることは、同じイエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばを記している2章26節ー27節に、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と記されていることと結び合っています。
 ここでは二つのことが注目されます。
 一つは、イエス・キリストの、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

というみことばです。ここでも、イエス・キリストは神さまのことを「」と呼んでおられます。これは、イエス・キリストが「神の子」であられることを意味しています。
 もう一つは、このみことばの前に記されています、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばに出てくる、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばです。
 この、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばは、詩篇2篇9節に、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されているみことばの引用です。
 ここに出てくる二つのみことばの微妙な違いについては、より詳しい説明が必要ですが、それは後ほどこの個所を取り上げる時にお話しすることにします。ここではいまお話ししていることとかかわることだけに触れます。
 詩篇2篇では、この9節のみことばは、それに先立って7節ー8節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばを受けています。
 この、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばは、ヘブル人への手紙1章5節に、

神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」
またさらに、
 「わたしは彼の父となり、
 彼はわたしの子となる。」

と記されている中の前半でも引用されています。
 後半の、

 わたしは彼の父となり、
 彼はわたしの子となる。

というみことばも、実質的に、同じことを述べています。これは、サムエル記第二・7章14節に記されている、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

というみことばの引用です。このサムエル記第二・7章14節に記されているみことばは、これに先立つ12節ー13節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と記されているみことばを受けています。これらは、神さまがダビデに与えてくださった契約のみことばです。神さまはこの契約においてダビデの子の王国を確立してくださり、「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっています。これは、ダビデの子が神さまが確立してくださる永遠の王座に着座して治めるようになることを意味しています。
 14節では、このことを受けて、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と言われています。このことは、ダビデの子が、神さまが確立してくださる永遠の王座に着座して治める王として即位する時に実現することです。
 それで、同じヘブル人への手紙1章5節の前半で引用されている詩篇2篇7節の、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばも、ダビデの子が神さまが確立してくださる永遠の王座に着座して治める王として即位する時のことを指していると考えられます。
 古い契約の下で立てられた、ダビデの血肉の子孫である王の場合には、その王としての即位において、いわば、養子として「神の子」となることを指しています。これは神さまによって任命され、油注がれた王としての働きをすることにかかわっていることです。言うまでもなく、その王が神になるわけではありません。

 そして、この神さまがダビデに与えてくださった契約に示されている約束を最終的に成就しておられるのは、ご自身が本来の意味において「神の子」であられるイエス・キリストです。イエス・キリストは永遠の神の御子であられます。その永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、神である主がダビデに約束してくださった永遠の王座に即位されて主に油注がれた王として治めるようになりました。
 そのことは、使徒の働き2章に記されています、聖霊降臨節の日に、ペテロがそこに居合わせた人々に語ったことばにおいてあかしされています。使徒の働き2章29節ー35節には、

兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
 「主は私の主に言われた。
 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

と記されています。ペテロは、ダビデについて、

 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。

と述べています。これは先ほど引用しましたサムエル記第二・7章12節ー13節に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

という、神さまがダビデに与えてくださった約束のみことばのことを述べているものです。
 そしてペテロは、

 神はこのイエスをよみがえらせました。

とあかししてから、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
 「主は私の主に言われた。
 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

と述べています。このペテロのあかしのことばからいくつかのことがわかります。
 第一に、神さまがダビデに約束してくださった永遠の王座は、ここで「神の右」と言われている、天にある父なる神さまの右の座のことであるということです。神さまがダビデに約束してくださった永遠の王座は、地上のどこかにあるものではありません。
 第二に、イエス・キリストは死者の中からよみがえられてから、天に上られて、その父なる神さまの右の座に着座されたということです。このことから、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのは、単に、元の状態に生き返ったということではなく、天において父なる神さまの右の座に着座されるのにふさわしい栄光によみがえられたのだということが分かります。
 第三に、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが私たちご自身の民を治めてくださるのは、「御父から約束された聖霊を受けて」私たちに注いでくださったことによっているということです。イエス・キリストはこの御霊によって私たちに働きかけてくださり、私たちを治めてくださいます。
 このイエス・キリストが注いでくださった御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。
 具体的には、御霊は私たちを栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと結び合わせてくださって、私たちをイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださいました。それによって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。それで、私たちは御霊のお働きによって心が照らされ、福音のみことばにあかしされている十字架におかかりになって死んでくださったイエス・キリストを信じることができるようになりました。それで、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認めていただき、神さまの子ども(養子)としていただいています。いまは、御霊に導いていただいて、父なる神さまと兄弟姉妹たちを愛する愛のうちを歩むことをとおして、御子イエス・キリストの栄光のみかたちに造り変えていただいています。
 これらすべてのことは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが御霊によって私たちに対してなしてくださっていることです。イエス・キリストはこのようにして、私たちご自身の民を治めてくださっています。
 このように、神さまがダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子が永遠の王座に着座するということは、最終的に、ご自身神の御子であられ、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて成就しています。
 黙示録2章26節ー27節において、栄光のキリストが、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と約束してくださっていることは、イエス・キリストご自身が詩篇2篇に記されているダビデに約束された永遠の王座に着座されたことに、私たちをもあずからせてくださるということです。ちょうど、イエス・キリストが天に上って父なる神さまの右の座に着座されるために、それにふさわしい栄光によみがえられたように、私たちイエス・キリストの民も、イエス・キリストのよみがえりにあずかって、それにふさわしい栄光によみがえっているのです。エペソ人への手紙2章3節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。

 これらのことから、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」という称号を用いて示しておられるのは、イエス・キリストが永遠の神の御子であられるということではなく、そのことは踏まえたうえで、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されて、父なる神さまのみこころにしたがってすべてのことを治められる主として即位された方であられることを示してくださるためであると考えられます。この方は、御霊によって私たちご自身の民を生かしてくださり、導いてくださっておられます。このことは、「神の子」であられるイエス・キリストが、私たちご自身の民を地上にありながら天に属する者として生かしてくださり、導いてくださっていることを意味しています。そして、このことは、すでにお話ししましたような困難な問題に直面しているテアテラにある教会の信徒たちにとって大切な意味をもっていると考えられます。これにつきましては、さらに、日を改めてお話しします。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第247回)へ戻る

「黙示録講解」
(第249回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church