黙示録講解

(第247回)


説教日:2016年5月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(28)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節には、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばが記されています。いま取り上げているのは、その最後の17節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

という約束のみことばです。
 ここでイエス・キリストはご自身の民に「隠れたマナ」と「白い石」を与えてくださると約束してくださっています。
 この「隠れたマナ」は古い契約の下において、神である主が約束の地に向かって荒野を旅していたイスラエルの民を養ってくださるために、天からマナを降らせてくださったことを背景として語られています。「隠れたマナ」は古い契約の下で主が天から降らせてくださった食べ物としてのマナの本体であられる、イエス・キリストご自身です。
 契約の神である主、ヤハウェは、アブラハム契約、すなわち、ご自身の一方的な恵みによってアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約に基づいて、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を、奴隷の状態から贖い出してくださいました。
 そして主は、イスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山の麓へと導いてくださり、そこでイスラエルの民と契約を結んでくださり、イスラエルの民を祭司の国として召してくださいました。これは、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が、主の御臨在の御前に仕える祭司の国として、主が成し遂げてくださった贖いの御業をあかしすることによって、主がアブラハムに与えてくださった、創世記12章3節に記されています、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束と、創世記22章18節記されています、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束に示されている祝福が「地上のすべての民族」に及ぶようになるためです。
 神である主は、さらに、イスラエルの民の間にご臨在してくださり、彼らが主を礼拝することを中心として主との交わりのうちに生きることをとおして、祭司の国としての使命を果たすことができるようにしてくださいました。主はこのようなことを備えてくださった上で、アブラハム契約において、アブラハムとその子孫に与えてくださると約束してくださっていたカナンの地へとイスラエルの民を導いてくださいました。
 その約束の地へと旅する途上において、神である主はイスラエルの民を、人の罪の結果、被造物世界に虚無が入ってきたことを端的に現す荒野へと導き入れて、イスラエルの民を訓練してくださいました。荒野という不毛の地においても、神である主はご自身の契約に基づいて、イスラエルの民とともにいてくださり、マナという人の経験と思いを越えた食べ物をもって彼らを養ってくださいました。これによって主は、ご自身の民がこの世でどのような状況に置かれたとしても、彼らの間にご臨在してくださり、ご自身との交わりのうちに生きることができるようにしてくださること、そして、約束の地において、ご自身との愛の交わりを完全な形で実現してくださることを、預言的に示してくださっています。
 このように、神である主は古い契約の下で、ご自身の民をご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださるために、アブラハムに約束を与えてくださり、出エジプトの贖いの御業を初めとして、荒野においてマナを降らせてくださって養ってくださったこと、そして、約束の地に導き入れてくださったことに至るまでのすべてのことを成し遂げてくださいました。
 これらすべてのことが、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして、特に、その十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、実現してくださった贖いの御業を指し示していました。そしてこれらすべてのことが、主がアブラハムに与えてくださった祝福の約束とつながっています。それで、古い契約の下にあった民族としてのイスラエルの民から見れば、異邦人であり、地の果てに住んでいるような民である私たちにも、御子イエス・キリストの血による新しい契約の祝福がもたらされました。ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。このようにして、私たちはいまこの時、ここでしているように、主の栄光の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝することを中心とした主との愛の交わりに生きています。
 これが聖書の中で、主の御臨在の御許における宴会という表象で表されている、神である主との愛の交わりです。私たちは、この交わりが終わりに日にはさらに栄光に満ちたものとして完全に実現することを福音のみことばに基づいて信じており、待ち望んでいます。この交わりの完成が、黙示録では19章6節ー9節において「小羊の婚宴」として記されています。
 このような意味をもっている「隠れたマナ」とともに、イエス・キリストが与えてくださる「白い石」は、すでに、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いに基づいて与えられた新しい契約の民の間で実現している、神である主との愛の交わりを表象的に表す宴会、さらには、終わりの日に完全な形で実現するイエス・キリストの御国における宴会に、まったくの恵みによってあずからせてくださることを保証するものです。
 これが「白い石」であるのは、これが出エジプト記28章15節ー21節に記されています、大祭司の装束の胸当てにイスラエルの12部族のそれぞれの名にしたがい12個の宝石をはめ込み、一つの宝石に12部族の一つの部族の名を刻印したことを背景としているからであると考えられます。そのことから、この「白い石」は宝石で、それを受ける人自身を表象的に表していると考えられます。
 そして、その「白い石」の白さは、黙示録では聖さと栄光を表しています。また、この「白い石」はイエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の民のすべてに与えられます。それで、この「白い石」の白さが表している聖さと栄光は、イエス・キリストの民のすべてに共通した特性です。しかも、この「白い石」は栄光の主の御臨在の御許における、主との愛の交わりを表象的に表す「宴会」にまったくの恵みによってあずかることを保証するものです。
 そうであるとしますと、この「白い石」の白さが表している聖さと栄光は、私たちイエス・キリストの民が、主であられるイエス・キリストが十字架の上でご自身の肉を裂き、血を流されたことによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって罪をきよめられるとともに、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって確立された義にあずかって神である主の御前に義と認められていること、さらには、イエス・キリストがその従順に対する報いとして栄光を受けてよみがえられたことにあずかって、イエス・キリストとともに栄光あるいのちによみがえっていることによる聖さと栄光であると考えられます。この聖さと栄光にあずかっていなければ、神である主の御臨在の御許に近づくことはできませんし、神である主との愛の交わりに生きることはできません。
 私たちはイエス・キリストにあって、父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、この「白い石」の白さが表している聖さと栄光にあずかっています。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりにあずかっています。ヨハネの手紙第一・1章3節に、

 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されているとおりです。この交わりこそが、イエス・キリストにある永遠のいのちの本質です。

          *
 黙示録2章17節には、この「白い石」について、さらに、

 その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されています。
 ここでは、この「白い石」には「新しい名が書かれている」と言われています。この「新しい名」については、それが神さまあるいはイエス・キリストの御名であるという見方と、その「新しい名」を与えられた人の名であるという見方があります。
 これが神さまあるいはイエス・キリストの御名であるという見方のおもな根拠は、二つあります。
 一つは消極的なことで、この見方を否定する人々の言い分が必ずしも成り立たないことを示すものです。
 ここでは、この「新しい名」について、「それを受ける者のほかはだれも知らない」と言われています。この場合、「新しい名」も「それを受ける者」も単数形で表されています。ことから、この「新しい名」はその名を受けるそれぞれの人の名である理解されることがあります。けれども、この単数形を集合名詞として理解すれば、そのように理解しなくてもよくなります。その場合には、これは、主の民すべては神あるいはキリストの「新しい名」を知っているけれども、主の民ではない人々はそれを知らないという意味になります。
 それで、この「新しい名」は「それを受ける者のほかはだれも知らない」名であるということから、ただちに、それは「新しい名」を与えられた人の名であると結論づけることはできません。
 このことは、そのとおりですが、これは消極的なことで、積極的な根拠ではありません。つまり、だからといって、この「新しい名」はその名を与えられた人の名ではないと言うこともできないのです。
 もう一つは、積極的なことです。黙示録では「新しい名」がこの個所だけでなく、3章12節にも出てきて、そこではイエス・キリストの御名を指しているといういうことです。
 確かに、3章12節には、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

と記されていて、「新しい名」はイエス・キリストの御名を指しています。それで、2章17節に出てくる「新しい名」もイエス・キリストの御名であるというのです。
 けれども、これには問題があります。
 一つは、3章12節においてイエス・キリストの民に記されるのはイエス・キリストの「新しい名」だけでなく、父なる神さまの御名と「新しいエルサレムの名」も記されると言われています。これに対して、2章17節には、

 その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されていて、「新しい名」だけが出てくきます。このことから、この2章17節に記されていることと3章12節に記されていることは、関連していると考えられますが、同じことを述べているわけではないと考えられます。
 もう一つは、3章12節においては、いくつかの名が出てきますが、そのすべてがどの名であるかが明示されています。このことから、もし、2章17節の「新しい名」がその名を与えられた人の名ではなく、イエス・キリストの御名であるとしたら、そこでも「わたしの新しい名」と言われていたと考えられます。
 さらに、「新しい名」が出てくる順序に注目してみますと、最初にこのことばが出てくる2章17節では、その「新しい名」がだれの名であるかが明示されていません。ところが、その後の3章12節では「わたしの新しい名」と言われていて、その「新しい名」がイエス・キリストの御名であることが明示されています。もし、この順序が逆で、2章17節で「新しい名」がイエス・キリストの御名であることが明示されていて、その後に記されている3章12節で「新しい名」がだれの名であるかが明示されていないとしたら、後に出てくる「新しい名」もイエス・キリストの御名である可能性を考える必要がありますが、黙示録2章と3章ではそうなっていません。
 このようなことから、2章17節おいて、

 その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されていときの「新しい名」は、その名を与えられた人の名のことであると考えられます。
 この場合、「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名」と言われているからといっても、その「新しい名」を与えてくださったイエス・キリストご自身も知らないということではありません。もちろん、イエス・キリストはその「新しい名」を与えてくださった方として、その名を知っておられます。あるいは、ここで、その「新しい名」を受けた人が、その名をほかの人に知らせてはいけないと戒められているわけでもありません。そもそも、ここではそのようなことは想定されてはいません。「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名」がどのようなことを意味しているかは、後ほどお話しします。

          *
 ここで、イエス・キリストがご自身の民に新しい名を与えてくださるということの背景となっているのは、イザヤ書62章1節ー5節に記されているみことばであると考えられます。
 そこには、

 シオンのために、わたしは黙っていない。
 エルサレムのために、黙りこまない。
 その義が朝日のように光を放ち、
 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
 そのとき、国々はあなたの義を見、
 すべての王があなたの栄光を見る。
 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。
 あなたはの手にある輝かしい冠となり、
 あなたの神の手のひらにある
 王のかぶり物となる。
 あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、
 あなたの国はもう、
 「荒れ果てている」とは言われない。
 かえって、あなたは
 「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、
 あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
 の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。
 若い男が若い女をめとるように、
 あなたの子らはあなたをめとり、
 花婿が花嫁を喜ぶように、
 あなたの神はあなたを喜ぶ。

と記されています。
 この個所につきましては、イエス・キリストのペルガモにある教会へのみことばについての第24回目のお話の中で、王子の婚宴に招かれた人々が着るべき礼服とのかかわりで取り上げています。
 今日はいまお話ししている「新しい名」に関連することだけを取り上げます。
 ここで語っておられる方は、この前の章の61章1節ー3節において、

 神である主の霊が、わたしの上にある。
 はわたしに油をそそぎ、
 貧しい者に良い知らせを伝え、
 心の傷ついた者をいやすために、
 わたしを遣わされた。
 捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
 の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
 すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの悲しむ者たちに、
 灰の代わりに頭の飾りを、
 悲しみの代わりに喜びの油を、
 憂いの心の代わりに賛美の外套を
 着けさせるためである。
 彼らは、義の樫の木、
 栄光を現すの植木と呼ばれよう。

と語っておられる、神である主の御霊によって油を注がれた方、すなわち、ご自身の民のために贖いの御業を遂行されるメシヤであると考えられます。
 この方は、52章13節ー53章12節に記されています、一般に「主のしもべの第4の歌」と呼ばれるみことばに出てくる「苦難のしもべ」です。すでに繰り返しお話ししたことですので説明を省きますが、その最初(52章13節)と最後(53章12節)において、この方は栄光の主であられることが示されています。この「苦難のしもべ」は、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、預言的に示しています。
 62章に戻りますが、私たちが注目している「新しい名」のことは、2節で、

 そのとき、国々はあなたの義を見、
 すべての王があなたの栄光を見る。
 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

と言われている中に出てきます。
 これは1節で、

 シオンのために、わたしは黙っていない。
 エルサレムのために、黙りこまない。
 その義が朝日のように光を放ち、
 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

と言われていることを受けています。
 ここでは、語っておられる方であるメシヤは、「シオン」と「エルサレム」によって表されているご自身の民の救いが実現するまでは、そのお働きをやめることはないということを示しておられます。
 そして、2節で、

 そのとき、国々はあなたの義を見、
 すべての王があなたの栄光を見る。

と言われていますように、この方によってもたらされる救いが実現するときには、「国々」と「すべての王」たちが、主がご自身の民にお与えになる「」と「栄光」を目の当たりにするようになると言われています。主の民は公に義と認められ、栄光を与えられるようになるというのです。そして、その時に、

 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

と言われています。
 聖書の中では「」は、その名をもつものの本質的な特質や状態や使命などを表すものです。それで、「新しい名」とは、この方が遂行される贖いの御業によって主の民が義と認められ、栄光を与えられた者として新しくされ、新しい特質や状態や使命をもつようになることを意味しています。
 そして、ここでは、

 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

と言われていますように、その「新しい名」は主、ヤハウェが名付けられると言われています。
 聖書では、名を付けることは、その名を与えられたものに対して権威を発揮することを意味しています。これによって、名を付ける者が主権者として、名をつけられたものとかかわるようになります。
 イザヤ書43章1節ー2節には、

 だが、今、ヤコブよ。
 あなたを造り出した方、はこう仰せられる。
 イスラエルよ。
 あなたを形造った方、はこう仰せられる。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたはわたしのもの。
 あなたが水の中を過ぎるときも、
 わたしはあなたとともにおり、
 川を渡るときも、あなたは押し流されない。
 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、
 炎はあなたに燃えつかない。

と記されています。
 1節では、主、ヤハウェがイスラエルの名を呼んでくださって、イスラエルがご自身のもの、ご自身の民であることを示してくださっています。そして、続く2節では、「たとえ火の中、水の中でも」ということばを思い出させる言い方で、ご自身の民がどのような状況にあっても、主がともにいてくださり、保護し、導いてくださることが示されています。
 62章2節で、

 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

と言われていることは、主、ヤハウェが、メシヤの働きによってお救いになり、義とお認めになり、栄光をお与えになられたご自身の民を新しい特質、新しい状態、新しい使命をもつ者として受け入れていくださり、かかわってくださっていることが示されています。
 それで、この「新しい名」は主の民と主との関係が、主が成し遂げてくださった贖いの御業によって、新しいものとなったことを示しています。このようにして、主、ヤハウェとご自身の契約の民の関係は、義と栄光に満ちた、新しい関係となります。
 そのことは、続く3節で、

 あなたはの手にある輝かしい冠となり、
 あなたの神の手のひらにある
 王のかぶり物となる。

と言われていることに表されています。
 ここに出てくる「輝かしい冠」や「王のかぶり物」は、それがとても高価で貴重なものであることを示すとともに、それが「王冠」の表象であることから、主権者であられる神、すなわち、主、ヤハウェの栄光を表示するものであると考えられます。ここでは、「あなた」と呼ばれている主の契約の民が、主、ヤハウェの栄光を映し出すものであると言われています。
 また、これが「の手にある」、「神の手のひらにある」ということは、神である主、ヤハウェご自身がこれを大切に保持し、守っておられることを示しています。
 そして、このことは、最後には、5節で、

 若い男が若い女をめとるように、
 あなたの子らはあなたをめとり、
 花婿が花嫁を喜ぶように、
 あなたの神はあなたを喜ぶ。

と言われていることへと至ります。
 ちょうど、

 花婿が花嫁を喜ぶように、

主はご自身の民をお喜びになるというのです。
 このことは、黙示録21章1節ー2節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

と記されていることにおいて、さらには、続く3節ー4節に、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されていることにおいて、最終的に成就します。

           *
 これまでお話ししたことは、神である主の民としての契約共同体全体にかかわることです。主の契約の民全体が主が成し遂げられた贖いの御業にあずかって、主との新しい関係に入り、主から「新しい名」をもって呼ばれるようになるということです。
 これに対して、黙示録2章17節において、

 また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されているときの「新しい名」は「それを受ける者のほかはだれも知らない」と言われています。このことは、イエス・キリストが私たちご自身の民の一人一人に、独自の「新しい名」を与えてくださることを意味しています。
 イエス・キリストは私たちを十字架の上で流された血をもって罪とその結果である死の力から贖い出してくださったばかりでなく、ご自身が栄光をお受になって死者のかからよみがえられたことにもあずからせてくださって、栄光ある者として新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちをご自身の民として、御前に立たせてくださいました。さらに私たちは、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えていただいています。
 けれども、それによって、私たち一人一人の人格的な特性が失われてしまっているわけではありませんし、それぞれに与えられている賜物が均一化してしまっているわけでもありません。また、私たちそれぞれの成長の段階も異なっています。さらに、私たちは終わりの日に罪をまったくきよめられて、栄光のからだによみがえり、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者になります。しかしそれで、私たちそれぞれに固有の特質が失われて、均一化してしまうわけではありません。
 ヨハネの福音書10章1節ー18節には、イエス・キリストがご自身を羊の牧者にたとえて教えておられることが記されています。3節後半ー4節で、イエス・キリストは牧者のことを、

彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

と述べておられます。ここで「自分の羊をその名で呼んで」は、それぞれの羊の名を呼ぶことを表しています。その当時の牧者たちは自分の羊1頭1頭に名をつけて呼んでいたようです。
 イエス・キリストはご自身の血をもって贖ってくださった、私たち一人一人をつぶさにご存知であられます。私たちそれぞれにふさわしい「新しい名」を与えてくださり、その名をもってそれぞれを呼んでくださいます。そして、私たちそれぞれの人格的な特質をきよめてくださるとともに、その特質を生かしてくださって、ご自身の栄光のかたちに似た者となるように、養い育ててくださいます。それも、私たちをご自身との愛の交わりのうちに歩ませてくださることをとおしてのことです。


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