黙示録講解

(第246回)


説教日:2016年5月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(27)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。最後の17節には、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されています。ここでイエス・キリストは私たちご自身の民に「隠れたマナ」と「白い石」を与えてくださると約束してくださっています。これまで繰り返しお話ししてきましたので結論だけを言いますと、この「隠れたマナ」と「白い石」を与えてくださることは、19章6節ー9節において「小羊の婚宴」として記されている、終わりの日に完全な形で実現するメシアすなわちキリストの御国における宴会に無償で、すなわち、まったくの恵みによってあずからせてくださることを意味しています。
 この場合の、メシアの御国における宴会にあずかるということは、そこにご臨在される栄光の主であられるイエス・キリストとの愛に満たされた親しい交わりにあずかることを意味しています。この神である主との愛の交わりこそが、神さまが私たちに与えてくださる永遠のいのちです。神のみことばである聖書があかししている永遠のいのちは、ただ単に、時間的にいつまでも続くいのちのことではありません。大切なことはそのいのちの質です。永遠のいのちの本質は、神さまご自身との愛の交わりに生きることにあります。そして、神さまが私たちを永遠にご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださいましたので、私たちには永遠のいのちがあるのです。
 今日は、私たちが終わりの日に完全な形で実現するメシアの御国における宴会にあずかることが、神さまが創造の御業において示されたみこころに基づいており、そのみこころを実現することであるということをお話しします。


 このこととのかかわりで、ヨハネの福音書1章4節に記されています、

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

というみことばに注目したいと思います。
 ここで、

 この方にいのちがあった。

と言われていることは、私たち人間にいのちがあるということとは違います。というのは、「この方」とは、これに先立つ1節ー3節において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されている方であるからです。
 ここに記されていることについては、すでに繰り返しお話ししていますので、今お話ししていることとかかわることだけをお話しします。
 1節で、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、創世記1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初めに」に当たります。創世記1章1節の「天と地」ということばはヘブル語のメリスムスという表現の仕方で、「存在するすべてのもの」を表しています。ですから、

 初めに、神が天と地を創造した。

ということは、この世界に存在するすべてのものは神さまがお造りになったものであるということを伝えています。それで、この場合の「初めに」とは、この造られた世界の「初めに」ということです。時間はこの造られた世界の時間ですから、この世界がなければ時間もありません。時間はこの世界が造られたときに始まっています。
 また、ヨハネの福音書1章1節で、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「あった」ということばは[ギリシア語では未完了時制で表されていて]過去のある時(この場合は天地創造の「初め」)において、ずっと継続してあった、存在していたということを示しています。「ことば」は天地創造の御業が開始されたときには、すでに、存在しておられたということです。つまり「ことば」は時間を超えた方であり、永遠の存在であられます。そして、1節の最後に、

 ことばは神であった。

と記されているとおり、「ことば」は永遠の神であられます。
 さらに、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されているように、「この方」すなわち永遠の神であられる「ことば」は天地創造の御業を遂行された方です。
 後ほど取り上げることになりますが、この「ことば」は、14節で、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているイエス・キリストのことです。
 今お話ししていることとのかかわりで特に注目すべきことは、この方のことが、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることです。このことは大切なことですので、2節において、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われて、繰り返されています。ちなみに、1節の「神とともにあった」と2節の「神とともにおられた」は同じことばで表されています。
 この場合の、「」は父なる神さまのことです。そして、

 ことばは神とともにあった。

と言われているときの「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が父なる神さまの方を向いているという意味合いをもっていて、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあることを示しています。つまり、父なる神さまと「ことば」すなわち御子イエス・キリストの間には愛の交わりがあるということです。
 御子イエス・キリストが父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることは、少し後の18節に、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているみことばにおいて、イエス・キリストのことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていることによって明確に示されています。この「誰々のふところにいる」ということばは、その人と親しい関係にあること、さらに、お互いに愛し合っていることを意味しています。
 そして、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることは、「初めに」ということばが加えられることによって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛の交わりが永遠の愛の交わりであることを示しています。
 ヨハネの手紙第一・4章16節には、

 神は愛です。

と記されています。神さまの本質的な特質は「」です。神さまは永遠に存在しておられる方です。また、神さま以外に永遠に存在される方はありません。もし神さまが一位一体の神であるとしたら、神さまは永遠においては、ご自身の愛を表す相手がいないということになってしまいます。さらに、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの愛は無限、永遠、不変です。その無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることができる存在は、また、無限、永遠、不変の存在です。もし神さまが一位一体の神であるとしますと、神さまの無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めて、それと同じ愛をもって応えることができる存在はいないということになります。
 このようなわけで、もし神さまが一位一体の神であるとしますと、愛を本質的な特質としておられる神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の愛をなんの割引もなしに、そのまま表現できないし、その無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めて、同じ無限、永遠、不変の愛をもって愛してくれる相手もいないということになります。もしそうであるとしますと、これほどの孤独はありません。また、そうしますと、神さまにも欠けがあるということになります。
 けれども、ヨハネの福音書1章1節ー2節においては、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

とあかしされています。ともに永遠の存在であられ、あらゆる点において無限、永遠、不変であられる御父と御子の間に、無限、永遠、不変の愛による交わりがあるというのです。このことは、聖書のみことばが全体として教えている、神さまは三位一体の神であられるということを指し示す一つの重要な教えです。ただし、ここ(ヨハネの福音書1章1節ー2節)には三位一体の第一位格であられる父なる神さまと第二位格であられる御子だけが出てきますので、ここからただちに、三位一体の教理が証明されるわけではありません。
 いずれにしましても、1節ー2節においては、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

とあかしされていて、ともに永遠の存在であられ、あらゆる点において無限、永遠、不変であられる御父と御子の間に、無限、永遠、不変の愛による交わりがあるということが示されています。

 それと同時に、先ほどお話ししましたように、ここに出てくる二つの「初めに」は創世記1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初めに」に当たります。それで、ヨハネの福音書1章1節ー2節に記されているみことばは、神さまが天地創造の御業を遂行されたとき、すでに、父なる神さまと御子イエス・キリストの間に永遠の愛の交わりがあったことを示しています。
 そのことを受けて、ヨハネの福音書1章3節では、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。この世界の「すべてのものは」、「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と言われていますように一つの例外もなく、「この方によって造られた」のです。そして、「この方」すなわち御子イエス・キリストは、創造の御業を遂行されたとき、すでに、ずっと変わることなく、父なる神さまとの愛の交わりのうちに存在しておられました。
 このように、この世界の「すべてのものは」父なる神さまとの愛の交わりのうちにまったく充足しておられる永遠の「ことば」なる方、御子イエス・キリストによって造られました。このことから、天地創造の御業は、神さまがご自身の愛を外に向けて現された御業であったことが分かります。
 これらのことを踏まえますと、ヨハネの福音書1章4節で、

 この方にいのちがあった。

と言われていることの意味が理解できます。
 「この方」とは、1節で、

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

とあかしされている方、永遠に存在しておられる「ことば」であり、まことの神であられます。そして、3節で、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

とあかしされていますように、この世界のすべてのものをお造りになった方です。そのように創造の御業を遂行された方は単なる力やエネルギーではなく、生きておられる方です。そして、「この方」は何ものにも依存しないで、無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方として、ご自身で存在しておられます。その意味で、

 この方にいのちがあった。

と言うことができます。
 これに対して、私たちのいのちは、あらゆる点で支えられています。神さまがお造りになったこの地にある明るさと暖かさ、澄んだ空気と大地の潤い、そこに芽生え育つ多種多様な植物とその実である穀物と果樹、その外いろいろなものが考えられます。私たちのいのちは、神さまがお造りになったこれらすべてのものによって支えられています。もちろん、これらすべてがあれば、私たちのいのちが保持できるというのではありません。人が理想的な環境と有り余る食べ物に囲まれながら、いのちを落とすこともめずらしくありません。最終的に人のいのちそのものを支えておられる方は神さまです。神さまはご自身が備えてくださったすべてのものを用いて私たちのいのちを支えてくださっています。
 このように、

 この方にいのちがあった。

ということは、「この方」ご自身が何ものにも依存しないで、無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方として、ご自身で存在しておられることを意味しています。けれども、このことが、4節で、

 この方にいのちがあった。

と言われていることのすべてではありません。さらに言いますと、その核心にあることではありません。

 この方にいのちがあった。

と言われていることの核心は、この方が父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛による交わりのうちに存在しておられることにあります。というのは、「この方」のいのちの本質が、1節で、

 ことばは神とともにあった。

とあかしされており、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と繰り返しあかしされていること、すなわち、「この方」が父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛による交わりのうちに存在しておられることにあるからです。
 それで、3節において、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われている、「この方」が遂行された創造の御業も、それがご自身の愛といつくしみをもってなされた御業であり、ご自身の愛といつくしみを造られたものに注いでくださる御業であるのです。
 創世記1章29節ー30節には、

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

という、創造の御業において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に語られたみことばが記されています。また詩篇104篇10節ー15節には、

 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
 野のすべての獣に飲ませられます。
 野ろばも渇きをいやします。
 そのかたわらには空の鳥が住み、
 枝の間でさえずっています。
 主はその高殿から山々に水を注ぎ、
 地はあなたのみわざの実によって
 満ち足りています。
 主は家畜のために草を、
 また、人に役立つ植物を生えさせられます。
 人が地から食物を得るために。
 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
 油によるよりも顔をつややかにするために。
 また、人の心をささえる食物をも。

と記されています。神さまはお造りになったすべてのもののいのちを真実な愛といつくしみをもって支えてくださっています。そして、創造の御業と摂理の御業は、それがご自身の愛といつくしみを造られたものに注いでくださる御業であるので、「この方」のいのちの現れであるのです。

 このことを踏まえますと、4節で、

 この方にいのちがあった。

と言われていることに続いて、

 このいのちは人の光であった。

と言われていることの意味が見えてきます。
 この場合の「人の光」とは人のいのちの本質を明らかにし、悟らせてくださる「」です。また、それによって、人がそのいのちに歩むようにしてくださる「」です。同じヨハネの福音書8章12節には、

 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。すでにお話ししましたように、人のいのちの本質は神である主との愛の交わりにあります。この「人の光」はそのことを明らかにし、悟らせてくださる光です。
 このことは、神さまの創造の御業が、神さまがご自身の愛といつくしみを造られたものに注いでくださる御業であることとかかわっています。創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、植物や生き物たちはすべて、その「種類にしたがって」造られたと言われています。生き物たちは、基本的に、自分たちで群れて生きています。その種類を越えた交わりがどうしても必要なわけではありません。
 けれども、1章27節に、

 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されていますように、人は「神のかたちとして」創造されています。人は生物学的には、その「種類にしたがって」造られているということになります。けれども、みことばは、人はそれ以上に「神のかたちとして」造られていると教えています。神さまは、人が創造の御業において現しておられるご自身の愛といつくしみを受け止め、愛と信頼をもって応えるものとなるようにと、人を神のかたちとしてお造りになりました。それで、人のいのちの本質は神である主との愛の交わりにあるのです。
 人が神である主との愛の交わりに生きていたことは、創世記2章において、より具体的に示されています。
 7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。ここで神である主はご自身のことを「陶器師」、陶芸家の表象で表しておられます。これによって、ご自身が限りなく身を低くして人と向き合うようにして、人を形造られたことを示してくださっています。このようにして生きるものとなった人が最初に意識したことは、自分が限りなく身を低くしてこの地に御臨在してくださっている神である主の御前にあるということでした。
 そして、8節に、

 神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されていますように、神である主は、神のかたちとして造られている人を、ご自身のご臨在される所であるエデンの園に置いてくださって、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。そして、9節に、

神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されていますように、神である主は「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」をもって人を豊かにもてなしてくださっています。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、これが神の御国における「宴会」の出発点です。
 このように、神である主は創造の御業の初めから人がご自身との豊かな愛の交わりに生きるものとしてお造りになりました。このことから、終わりの日に完全な形で実現するメシアの御国における宴会にあずかることの出発点が、神さまが創造の御業において人をご自身のかたちとしてお造りくださり、ご自身との豊かな愛の交わりに生きるものとしてくださったことにあることが分かります。

 実際には、そのように豊かないのちを与えられた人が、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、神さまとの愛の交わりを絶たれてしまい、罪と死の力に捕らえられてしまいました。
 これに対して、先ほど触れましたように、永遠の「ことば」なる御子イエス・キリストが、今から2千年前に、まことの人としての性質を取って来てくださいました。そして、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。これによって、自らの罪によって神さまに背を向けて、それと知らずに、罪の結果である死と滅びへの道を歩んでいた私たちを、神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として、回復してくださいました。
 ローマ人への手紙5章8節ー11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節にも、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 これらのこととのかかわりで、詩篇36篇8節ー9節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

 彼らはあなたの家の豊かさを
 心ゆくまで飲むでしょう。
 あなたの楽しみの流れを、
 あなたは彼らに飲ませなさいます。
 いのちの泉はあなたにあり、
 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

と記されています。ここでは、豊かないのちと光が深くかかわっていることが示されています。
 8節においては、

 彼らはあなたの家の豊かさを
 心ゆくまで飲むでしょう。
 あなたの楽しみの流れを、
 あなたは彼らに飲ませなさいます。

と記されています。
 ここでは、「あなたの家の豊かさ」ということばから分かりますように、神である主がご自身の家において、ご自身の民を豊かにもてなしてくださることが示されています。
 ここに出てくる「あなたの家」は神の家、すなわち主がご臨在される所です。古い契約の下では「地上的なひな型」としての意味をもっている建物としての神殿によって示されていました。そこは主の御臨在に伴う「豊かさ」に満ちています。主はご自身の民をその「豊かさ」にあずからせてくださいます。これは、主がご自身の御臨在の御許において「宴会」を設けてくださることを示しています。
 さらに、「あなたの楽しみの流れ」は、主の御臨在の御許から流れ出るいのちの水の川です。それが「楽しみの流れ」と言われていることは、エデンの園を思い起こさせます。ことばの上からも、ここで「楽しみ」と訳されていることばは「エデン」ということばと関連しています。
 そして、続く9節では、

 いのちの泉はあなたにあり、
 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

と言われています。
 ここで、

 いのちの泉はあなたにあり、

と言われていることは、8節に出てきた「あなたの家の豊かさ」と「あなたの楽しみの流れ」の源が主ご自身であることを示しています。これは、8節において示されている主の御臨在の御許における「宴会」における主ご自身との親しい交わりがいのちであることを意味しています。そして、

 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

ということによって、主の栄光の御臨在の光こそが真の光の源であり、(物理的な光だけでなく霊的な光も含めた)あらゆる種類の光が指し示している光の本体であることを示しています。
 これらすべてのことは、終わりの日における完成のことを記している黙示録22章1節ー5節に、

 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

と記されていることにおいて完全な形で実現します。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第245回)へ戻る

「黙示録講解」
(第247回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church