黙示録講解

(第245回)


説教日:2016年4月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(26)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されている、イエス・キリストのペルガモにある教会へのみことばについてのお話を続けます。今取り上げているのは、最後の17節に記されている、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というみことばにおいて、イエス・キリストが「勝利を得る者」に与えてくださると約束してくださっている「白い石」のことです。
 この「白い石」の歴史的な背景となっているのは、その当時用いられていた「テセラ」というもので、今日の切符あるいは札に当たるものである可能性が高いと考えられます。その場合には、この「白い石」は、テセラの用途の中でも、特別な会場にただで入場できる特権を保証するものであると考えられます。そして、その特別な会場とは、終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会で、黙示録においては、19章6節ー9節において「小羊の婚宴」として記されています。
 この終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会は、契約の神である主、ヤハウェがご自身の民の間にご臨在してくださって、ご自身の民をご自身との親しい交わりに生きる者としてくださることを表象的に表すものです。
 すでにお話ししたことの再確認でもありますが、そのように「白い石」が、私たち主の契約の民を終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会にあずかる者としてくださることを保証しているものであるということは、イエス・キリストが「白い石」に先立って「隠れたマナ」を与えてくださると約束してくださっていることと密接につながっています。
 出エジプトの時代に、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民は、自分たちの間に御臨在してくださっている主の導きに従って、約束の地を目指して荒野を旅していました。イスラエルの民がいくら弱小の民であるといっても、その荒野には彼らを養うのに十分な食料がありませんでした。それで、主は天からマナを降らせてくださって、イスラエルの民を養ってくださいました。
 エジプトを出たイスラエルの第一世代は、主に対する不信を募らせて主を試み続けました。困難な状況に追い込まれる度に、主が自分たちをエジプトから導き出されたのは、自分たちを荒野で滅ぼすためであったと言って嘆き、時には、主がお遣わしになったモーセとアロンを殺そうとさえしました。
 民数記13章ー14章にはイスラエルの民の主に対する不信が極まった時のことが記されています。
 その時、主はいよいよ約束の地へとイスラエルの民を導き入れてくださろうとしておられました。モーセは主の命令に従って、カナンの地を探らせるために、イスラエルの12部族の族長たちを遣わしました。
 カナンの地を探ってきた族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、カナンの地はよい地であるが、そこに住んでいるのは強大な民で、自分たちは彼らに比べたらイナゴのようなものだと告げました。
 それを聞いたイスラエル人たちは大声で叫び、その夜を泣き明かしました。そしてモーセとアロンに、

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。

と言ってつぶやき、エジプトに帰ろうとしました。
 そのために、エジプトを出たイスラエルの第一世代は、ヨシュアとカレブを除いて、約束の地に入ることができませんでした。イスラエルの民はエジプトを出てから40年間、荒野をさまよい、その間にエジプトを出た第一世代の者たちは死に絶えました。


 振り返ってみますと、創世記12章1節ー3節に記されているとおり、神である主はご自身の一方的な恵みによってイスラエル人の父祖アブラハムを召してくださり、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福を約束してくださいました。結論だけをお話ししますが、これは、「地上のすべての民族」はアブラハムの霊的な子孫となることによって祝福を受けるようになるということを意味しています。そして、この場合の祝福は、神である主との本来の関係へと回復されるようになること、それによって、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを意味しています。
 そして、主はこの召しに基づいてアブラハムと契約を結んでくださいました。その契約は創世記17章7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。ここで、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と言われていることは、神である主の契約の祝福の中心にあることです。これによって、契約の神である主、ヤハウェがアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださり、彼らの間にご臨在してくださることが示されています。そして、このことはさらに、彼らが主、ヤハウェの民となり、主との愛にあるいのちの交わりに生きる者となることを意味しています。
 さらに、この主の契約においては、カナンの地がアブラハムとアブラハムの子孫とに「永遠の所有として」与えられることが示されています。それは、その前に示されている、神である主がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださり、彼らの間にご臨在してくださり、彼らが主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることが、カナンの地において実現することを意味しています。実際に、イスラエルの民がカナンの地に定着するようになってから、シオンの丘にあるエルサレムに、ダビデの子ソロモンによって主の神殿が建設されました。
 そして、出エジプト記2章23節ー24節には、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されています。
 出エジプトの贖いの御業は、神さまがアブラハムに与えられ、その子イサクに受け継がせてくださり、さらにその子ヤコブに受け継がせてくださった契約に基づいて成し遂げられたものです。そうであるとしますと、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されたことは、目的ではありませんでした。その贖いの御業の目的は、イスラエルの民が約束の地に入って、そこで、自分たちの間にご臨在してくださる神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることにありました。
 ただし、カナンの地は古い契約の下での「地上的なひな型」であり、そこに建てられた主の神殿も「地上的なひな型」であり、やがて、主が約束のメシヤをとおして与えてくださる「本体」を指し示し、約束するものでした。
 エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民は、人は自らの罪とその結果である死と滅びの力に捕らえられていて、自分の力では自分を救うことができないことを「地上的なひな型」としてあかしする存在でした。そして、神である主は、そのような奴隷の状態にあるイスラエルの民を、あえて愛してくださり、アブラハムに与えてくださった契約に基づいて、奴隷の状態から贖い出してくださいました。申命記7章7節ー8節に、

があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されているとおりです。
 これらのことから、アブラハムの子孫として、主がアブラハムに与えてくださった契約の祝福を受け継いでいるイスラエルの民は、エジプトという強大な帝国の主権の下から、奴隷の状態にあった自分たちを贖い出してくださった神である主が、必ず、約束の地であるカナンにも導き入れてくださることを信じるはずでした。繰り返しお話ししていますように、アブラハムの信仰は、神である主はご自身の契約において約束してくださったことを、必ず実現してくださるということを信じる信仰でした。
 しかし、エジプトを出たイスラエルの第一世代は、神である主が父祖アブラハムに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福に示されているような、地上のすべての民族を包み込む神である主の遠大なみこころをわきまえていませんでした。彼らは「神とは自分の願いをかなえてくれるものである」という、自らの罪の暗やみに閉ざされてしまっている状態にあるすべての人が考える神のイメージをもっていたとしか思われません。それで、困難な状況がやってくる度に、こんなはずではなかったとして、神である主への不信を募らせてしまったと考えられます。
 それは、一つには、彼らも地上のほかの民族と同じく、自らの罪の暗やみに閉ざされてしまっていたからです。また、もう一つには、長いことエジプトの奴隷の状態にあったために、エジプトの神々についての発想に影響されていたからです。彼らがエジプトの神々についての発想に影響されていたことは、後に彼らが金の子牛を造って、それを契約の神である主、ヤハウェであると呼んだことから分かります。エジプトでは牛の神もありました。
 このエジプトを出たイスラエルの第一世代の状態はかつての私たちの姿を示しています。私たちは彼らを見下すことはできません。人としての資質から言えば、私たちも彼らと同じです。どこに違いがあるかといえば、彼らは「地上的なひな型」としての意味をもっている出エジプトの贖いの御業にあずかっているだけでしたが、私たちはその本体である御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっているということにあります。
 ですから、私たちは自らの人間としての資質を誇ることはできません。使徒としてあれほどの働きをしたパウロでさえ、コリント人への手紙第一・15章10節で、

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

と告白しています。これは神さまの恵みそのものを告白しているのであって、それほどの恵みを受けた自分は優れていると言っているのではありません。ですから、パウロはガラテヤ人への手紙6章14節において、

私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

と述べています。
 古い契約の下にあったイスラエルの民の中にも、アブラハムのように、「地上的なひな型」として示されたことをとおして、その「地上的なひな型」が指し示す神である主とその恵みを信じ、主がご自身の契約において約束してくださったこと、示してくださったことを必ず実現してくださると信じるようになった人々がいました。もちろん、その人々も、神である主の恵みによって主を信じる信仰を与えられた人々です。

 申命記2章14節には、

カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。が彼らについて誓われたとおりであった。

と記されています。
 「カデシュ・バルネア」は、そこからモーセが主の命令を受けて、最初に、カナンの地を探らせるために、イスラエルの12部族の族長たちを遣わした所です。

カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。

というみことばから、民数記13章ー14章に記されている、主がイスラエルの民を約束の地カナンへ導き入れてくださろうとしたのは、彼らをエジプトから贖い出してくださってから2年後のことであったと考えられます。そして、その後の38年は、イスラエルの民がおそらく「カデシュ・バルネア」の辺りをさまよいつつ、荒野で過ごした期間であったと考えられます。
 イスラエルの民は、主が彼らをエジプトの奴隷の状態から解放してくださり、荒野に導き入れてくださってから間もなくマナによって養われています。それで、彼らはエジプトを出てから2年ほどの間、日ごとに、また、安息日の前の日には2日分与えられるマナによって養われていながら、主に対する不信を募らせていき、いよいよ、主が約束してくださっていたカナンの地へ導き入れてくださる時になって、その不信を極まらせてしまったということになります。彼らにとって、主が荒野という不毛の地で、マナという人の経験を越えた食べ物をもって養ってくださったことは、自分たちのお腹を満たすだけのことでした。彼らはそのことに表されている主の真実さを汲み取り、主への信頼を深めていくことはありませんでした。
 このことを踏まえて、イエス・キリストは、ヨハネの福音書6章48節ー50節において、

わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

と教えられて、ご自身が古い契約の下で神である主が天から降らせてくださったマナの本体であることをお示しになりました。その意味で、イエス・キリストご自身が、黙示録2章17節においてイエス・キリストが与えてくださると約束してくださっている「隠れたマナ」です。イエス・キリストはご自身を「隠れたマナ」として与えてくださいます。
 ヨハネの福音書6章では、イエス・キリストが、さらに、53節ー54節において、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と教えておられます。これによって、ご自身が十字架において裂かれた肉と流された血に信仰によってあずかる者は「永遠のいのち」をもっているということを示しておられます。この場合の「持っています」は現在時制で表されていて、常に変わらない事実を示しています。そればかりでなく、イエス・キリストは、

 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と約束しておられます。もちろん、これは「終わりの日に」ということですので、未来時制で表されています。そして、この場合の「わたしは」は強調形で、それはほかならぬイエス・キリストご自身がなさることであるということを示しています。これは、私たちが今すでに「永遠のいのち」をもっていることが、終わりの日に、完全に実現することを意味しています。
 そして、そのことは、続いて、56節で、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

と教えられているように、イエス・キリストが十字架において裂かれた肉と流された血に、信仰によって、あずかっている私たちが、御霊のお働きによって、イエス・キリストと一つに結ばれていることによっています。
 これは後ほど15章5節において、イエス・キリストが、

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

とお教えになったときに用いておられるたとえで言いますと、ぶどうの木の枝がぶどうの木とつながっているように、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされていて、枝がぶどうの木のいのちによって生きているように、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって生きているということです。
 私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださるのは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによっています。そして私たちが、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかるのは信仰によっています。
 より詳しく言いますと、最も基本的なことは、イエス・キリストが十字架の上でご自身の肉を裂かれ、血を流されたことによって贖いの御業が成し遂げられたことです。これは、今から2千年前にイエス・キリストが成し遂げられたことで、すでに終わっています。このことは、人が信じるとか信じないということにかかわりなく、いわば、客観的に、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げられた御業です。
 このことがあって、そしてこのことに基づいて、神さまは御霊によって私たちご自身の民それぞれに働きかけてくださいます。
 まず、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちそれぞれをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださいました。それで、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれました。これは御霊が私たちを新しく生まれさせてくださったということ、すなわち御霊のお働きであって、「生まれ変わる」ということで一般に考えられている「心を入れ替える」とか「生まれ変わったつもりになってやり直す」というような、私たちの決意とは違います。
 そして、私たちは御霊のお働きによって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたので、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じるようになりました。
 このようなことがあって、御霊によって、イエス・キリストが私たちのうちにとどまってくださるようになり、私たちも御霊によって、イエス・キリストのうちにとどまるようになりました。
 そのことが、ローマ人への手紙8章9節ー10節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と記されています。
 ここで、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

と言われていることは、原文のギリシア語では、実際に、「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられることを踏まえている言い方です。ここでは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられることが、私たちが「キリストの御霊」をもっていることと同じこととされており、さらに、「キリスト」が私たちのうちにおられることと同じこととされています。
 ローマ人への手紙8章では、さらにこれに続く11節において、

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と言われています。ここでも、実際に、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」が私たちのうちに住んでおられることが踏まえられています。そして、「神の御霊」が「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言い換えられています。そしてここでは、父なる神さまがご自身の御霊によって、私たちをイエス・キリストのよみがえりにあずからせてくださって、終わりの日に、栄光のからだによみがえらせてくださることが示されています。
 このことは、先主日も引用しました、ヨハネの手紙第一・3章2節に記されている、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

というみことばに示されていることが実現することです。
 先主日にお話ししましたように、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって死者の中からよみがえることによって、「私たちはキリストに似た者」になります。それは、創造の御業において人が神のかたちとしての栄光にあって、エデンの園にご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていた状態より、さらに豊かな栄光にあって、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを意味しています。
 これが終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会によって表象的に示されている神である主との愛にあるいのちの交わりです。それは「隠れたマナ」である栄光のキリストと御霊によって一つに結び合わされることによってもたらされる、祝福が完全に実現することです。
 そして、この「隠れたマナ」とともに、イエス・キリストが与えてくださる「白い石」の白さが表象的に表していることは、私たちが終わりの日に、栄光のキリストの御姿に似た者として造り変えていただくことによる栄光です。終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会にあずかることを保証するのは、この栄光のキリストの御姿に似た者としての栄光です。すでにお話ししましたように、黙示録においては「白いこと」は栄光ともかかわっています。
 ローマ人への手紙8章では、この神さまとの愛にあるいのちの交わりが御霊によってすでに私たちの現実となっていることが示されています。8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているとおりです。
 創造の御業において神のかたちとして造られた最初の人アダムとその妻エバは神さまのことを「アバ、父」と呼ぶことはできませんでした。なぜなら、父なる神さまのことを「アバ、父」と呼ぶことは御子イエス・キリストだけの特権であるからです。その特権は御使いたちにも与えられてはいません。そして、ヘブル人への手紙2章7節では、詩篇8篇5節の七十人訳を引用して、

 あなたは、彼[人]を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし

と言われています。このことからも、神のかたちとして造られた人は、罪を犯して堕落する前の状態にあったとしても、父なる神さまのことを「アバ、父」と呼ぶことはできなかったことが分かります。
 私たちは栄光のキリストの復活の栄光にあずかることによって、「子としてくださる御霊」によって導かれて、神さまのことを「アバ、父」と呼ぶ特権を与えられています。ただし、私たちは養子として神の家族に迎え入れていただいた「神の子どもです」。その当時のローマ社会においては、養子も実子と同じ特権にあずかっていたようです。
 繰り返しになりますが、これらすべてのことは、神さまが私たちを愛してくださり、イエス・キリストによって贖いの御業を成し遂げてくださり、ただ恵みによって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださったことによって私たちの現実となっています。すでに、私たちをこのような祝福と特権にあずからせてくださっている父なる神さまは、必ず、ご自身が約束してくださっているとおり、ご自身とのとの愛にあるいのちの交わりを、終わりの日に完全に実現してくださいます。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第244回)へ戻る

「黙示録講解」
(第246回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church