黙示録講解

(第244回)


説教日:2016年4月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(25)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは、最後の17節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されている中に出てくる「白い石」のことです。
 きょうは、これまでお話ししたことを、もう少し補足するお話をします。まず、これまでお話ししたことの基本的なことを簡単にまとめてから、お話を進めていきます。
 この「白い石」の背景となっていることについてはいろいろな見方があります。その中でも可能性が高いと考えられるのは、その当時用いられていた「テセラ」というもので、今日の切符あるいは札に当たるものです。それはいくつかのことのために用いられましたが、この「白い石」は、特別な会場にただで入場できる特権を保証するものに当たると考えられます。そして、その特別な会場とは、終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会です。この宴会は、契約の神である主、ヤハウェがご自身の一方的な恵みによってご自身の民としてくださった人々の間にご臨在してくださって、その人々をご自身との親しい交わりに生きるものとしてくださっていることを表象的に表すものです。その交わりが宴会という表象で表されているのは、豊かで栄光に満ちた交わりであることを示しています。
 この宴会は、黙示録においては、19章6節ー9節において「小羊の婚宴」として記されています。
 この宴会の原型は、出エジプト記24章1節ー11節に記されている、シナイにおいて、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったときに、ご自身の御臨在の御許において催してくださった食事です。24章5節ー11節には、

それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛をにささげた。モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、があなたがたと結ばれる契約の血である。」それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

と記されています。
 この食事は契約が結ばれたことに伴う食事で、その当時においては、一般的なことでした。これによって、契約関係に入った者たちの間に友好関係があることが示されています。主はこれをお用いになって、イスラエルの民がご自身の栄光の御臨在の御許において、ご自身との豊かな交わりにあずかることは、ご自身がイスラエルの民と結んでくださった契約に基づくものであることを示しておられます。さらに主は、これに先立って、イスラエルの民が主との契約関係に入って主の民となるためには、「契約の血」としての意味をもつ、主が備えてくださったいけにえの血による罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただく必要があるということを示しておられます。
 古い契約の時代に結ばれた契約の土台となっていた「契約の血」は全焼のいけにえと和解のいけにえとしてささげられた動物の血でした。それは永遠の神の御子イエス・キリストが十字架の上で流された血を指し示す「地上的なひな型」でした。
 マタイの福音書26章26節ー29節には、

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

と記されています。イエス・キリストが十字架の上で流された血は、イエス・キリストの「契約の血」であり、「罪を赦すために多くの人のために流され」たものです。
 こここに記されているのは、イエス・キリストが地上の生涯の最後に守られた過越の祭りの食事の席でのことです。過越の祭りは出エジプトの時代に、主がイスラエルの民を奴隷として搾取していたエジプトを最終的におさばきになって、イスラエルの民を奴隷の状態から贖い出してくださったことを覚えるために主が定められたものです。出エジプト記12章に記されていますが、主はイスラエルの民に、この月を最初の月として、その14日の夕暮れに、過越の小羊をほふって、6節ー7節に記されていますように、

その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

と命じられました。そして、12節ー13節、さらに、29節ー32節に記されていますように、その夜、主が「人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子」を打たれた時、イスラエルの民のいる家の門柱とかもいにに塗られている過越の小羊の血をご覧になって、その家を通り越されました。そこではすでにさばきが執行されていると見なされたのです。また、その夜、エジプトの王、パロは、イスラエルの民がエジプトの地を出て行くように命じました。このようにして、イスラエルの民は過越の小羊の血によってエジプトの奴隷の状態から贖い出されました。
 24節ー27節には、

あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが「この儀式はどういう意味ですか」と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。「それはへの過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。」

と記されています。
 古い契約の下では、子々孫々、すでに主が成し遂げてくださった出エジプトの贖いの御業を思い起こすようにと命じられていました。そのために、過越の儀式が定められ、過越の夜がどのようなことであったかが子どもたちに語りつがれていきました。
 イエス・キリストは古い契約の下で主が遂行してくださった出エジプトの贖いの御業が「地上的なひな型」として指し示していた、まことの過越を実現されました。イエス・キリストは「地上的なひな型」としての過越の小羊の「本体」として十字架におかかりになってその肉を裂かれ、血を流されました。その血は「罪を赦すために多くの人のために流され」たものとして、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださった血ですし、ご自身の「契約の血」として、私たちをご自身の契約としてくださり、ご自身との豊かないのちの交わりにあずからせてくださるための血です。


 パウロはイエス・キリストが定めてくださった聖餐について、コリント人への手紙第一・11章23節ー26節において、

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と記しています。
 ここには、イエス・キリストが

 わたしを覚えて、これを行いなさい。

と命じられたことが記されています。そして、これを受けて、パウロは、

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と記しています。私たちは聖餐を行う度に、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせ」ているというのです。このことは、イエス・キリストが、

 わたしを覚えて、これを行いなさい。

と言われるときの、イエス・キリストを覚えるということは、私たちの罪を贖ってくださり、私たちをご自身とのいのちの交わりに生きるものとしてくださるために十字架におかかりになって、そのからだを裂かれ、血を流されたイエス・キリストを覚えることであるということを意味しています。

 このことには、これが記されているコリント人への手紙第一・11章の流れの中で見ると見えてくる、もう一つの意味があります。
 いまお話ししていることは23節ー26節に記されていますが、その前の部分の17節ー22節には、

ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

と記されています。
 ここでパウロはコリントにある教会の信徒たちの間に分裂があり、ともに集まって食事をする時には、

めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。

という現実を示しています。そして、そのようなことが、「神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめ」ることであると言って糾弾しています。
 このことを受けて、パウロは、先ほど引用しました、主が与えてくださった聖餐に関わる戒めを記しています。このことを踏まえますと、イエス・キリストが、

 わたしを覚えて、これを行いなさい。

と言われたことのもう一つの意味が見えてきます。
 先ほどお話ししましたように、聖餐において、イエス・キリストを覚えるということは、私たちの罪を贖ってくださり、私たちをご自身とのいのちの交わりに生きる者としてくださるために十字架におかかりになって、そのからだを裂かれ、血を流されたイエス・キリストを覚えることです。これは最も基本的なことです。
 それとともに、ここでパウロがさらに言おうとしているのは、そのようにして、私たちを愛して私たちの罪を贖い、私たちをご自身とのいのちの交わりに生きる者としてくださるために、ご自身の肉を裂き、血を流してくださったイエス・キリストを覚えて、その裂かれた肉と流された血にあずかっている者が「神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめ」るようなことをしているとしたら、真の意味で、イエス・キリストを覚えているとは言えないということです。
 どうしてそうなるかと言いますと、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかって罪を贖われている者は、イエス・キリストの復活のいのちにもあずかって、新しく生まれているからです。そして、そのようにして、イエス・キリストと一つに結ばれて新しく生まれている者のいのち、すなわち、永遠のいのちの本質的な特質は愛だからです。イエス・キリストを覚えることは、日々、自分の十字架を負って、イエス・キリストの御足の跡を踏みながら、愛をうちを歩む歩みとつながっています。
 ヨハネの福音書13章34節ー35節には、

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

というイエス・キリストの「新しい戒め」が記されています。これは、イエス・キリストが地上の生涯で最後に守られた過越の食事の席で与えられた戒めです。
 また、ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。

 コリント人への手紙第一・11章23節ー26節に記されていることに戻りますが、ここで、

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と言われていることは、過越の祭りにおいて、

それはへの過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。

というように、出エジプトの贖いの御業が、子々孫々、語り伝えられたことに当たります。
 また、ここで、

 主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と言われていることは、これ(聖餐)が終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださる時まで続けられることを示しています。けれどもそれは、終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださる時に、ただ終わってしまうということではありません。
 先に引用しましたマタイの福音書26章29節に記されている、

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、終わりの日に再び来られるイエス・キリストは、ご自身が主として治められる神の国において、私たちご自身の民とともに新しく食事をされるようになります。それは、終わりの日に完全な形で実現する御国における宴会によって表象的に示されている、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの豊かないのちの交わりに生きるようになることを指しています。
 その日には、

 主の死を告げ知らせる

ことはなくなります。なぜなら、その日には、御子イエス・キリストがご自身の民の罪の贖いのために十字架におかかりになって、ご自身の肉を裂き、血を流されたことを告げ知らされる必要のある人がいないからです。
 また、いま、地上にある私たちは、イエス・キリストがご自身の民の罪の贖いのために十字架におかかりになって、ご自身の肉を裂き、血を流されたことを知っていながら、しばしば、そのことを忘れてしまったかのように歩んでしまうことがあります。私たちはそのことに言い知れない悲しみを覚えますし、苦しみます。この点では、パウロも、ローマ人への手紙7章15節で、

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。

と戸惑いを示しつつ告白し、24節では、

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

と嘆いています。
 けれども、その日には、私たちの罪が完全にきよめられて、私たちはイエス・キリストの栄光の御姿に似た者に造り変えられます。ピリピ人への手紙3章20節ー21節に、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されているとおりです。また、ヨハネの手紙第一・3章2節にも、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 それで、その日には、私たちは、イエス・キリストが私たちのために十字架におかかりになったことを、思いにおいても、ことばにおいても、行いにおいても、無にしてしまうようなことはしなくなります。その意味でも、私たちの苦しみや悲しみは取り除かれます。

 ここで、改めて、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

 しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されていることに注目したいと思います。
 これは、終わりの日になって、突然、すなわち、それまでなかったことがまったく新しく起こるということではありません。なぜなら、私たちはすでにイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいており、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことにあずかって、新しく生まれているからです。
 そればかりでなく、私たちはイエス・キリストが十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義にあずかって、神さまの御前に義と認めていただいています。ローマ人への手紙5章18節ー19節に、

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

と記されているとおりです。ここでは、一人の人アダムの違反すなわち不従順によって、すべての人が罪に定められていることと、一人の人イエス・キリストの義の行為、すなわち従順によって、すべての人が義と認められていることが対比されています。私たちはイエス・キリストの従順にあずかって義と認められています。
 また、義と認められた私たちは子としての身分をも与えていただいて、父なる神さまとの親しい交わりに生きています。ローマ人への手紙5章1節には、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と記されていますし、8章14節ー16節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されています。
 このように、私たちはすでに、御霊によって導いていただいて、「アバ、父」と呼びかけることができるほどの近さと親しさにおいて、父なる神さまとのいのちの交わりにあって生きています。
 その私たちの状態が、コリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。
 いまお話ししていることと関わることだけを取り上げます。ここで、新改訳が、

 鏡のように主の栄光を反映させながら、

と訳していることば(新共同訳も同様)は、また、

 鏡の中にあるように主の栄光を見ながら、

とも訳されています[口語訳、新アメリカ標準訳(NASB)、新欽定訳(NKJV)、新改定標準訳(NRSV)]。
 後者の、

 鏡の中にあるように主の栄光を見ながら、

という訳であれば、これは、私たちが間接的に主の栄光を見ていることを示しています。それは、一般的には、私たちが福音のみことばにあかしされている主イエス・キリストの栄光を見ていることを指していると考えられています。そして、このことは先ほど引用しました、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

 そのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る

と記されていること、すなわち、その日に私たちはイエス・キリストの栄光の御姿を直接的に見るということと対比されます。どちらも、イエス・キリストの栄光の御姿を見るという点で共通しています。その意味で、おそらく、この理解の方がいいのではないかと思われますが、断定はできません。
 いずれにしましても、コリント人への手紙第二・3章18節では、私たちは「御霊なる主の働き」によって、

 栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

と言われています。これは、いま、私たちが「主と同じかたちに姿を変えられ」つつあることを示しています。ですから、私たちが「主と同じかたちに姿を変えられ」ることは、すでに、始まっています。そして、それは、ヨハネの手紙第一・3章2節において、

しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と言われていることにおいて完成します。
 ここでは、終わりの日に、栄光のキリストが現れる時、私たちが栄光のキリストの「ありのままの姿を見る」と言われています。それは、私たちがなんの意味もなく栄光のキリストの御姿を見るということではありません。これは、顔と顔とを合わせるようにして栄光のキリストと向き合うこと、すなわち、栄光のキリストとの親しい交わりにおいてその御姿を見るということです。
 そして、私たちが御霊のお働きによって「キリストに似た者となる」ことは、それによって、栄光のキリストとの親しい交わりに生きるのにふさわしい栄光をもつ者となることを意味しています。
 また、これが、少し前にお話ししました、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」の白さが表象的に表している聖さと栄光をもつことです。
 これらのことは、私たちがいますでに、御霊に導いていただいて、「アバ、父」と呼びかけることができるほどの近さと親しさにおいて、父なる神さまとのいのちの交わりに生きていることが、終わりの日において完全な形で実現することを示しています。そして、これは終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会、黙示録19章6節ー9節に記されている「小羊の婚宴」という表象で表されている祝福にあずかることほかなりません。


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