黙示録講解

(第243回)


説教日:2016年4月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(24)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節にはイエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばが記されています。これまで、最後の17節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されている中に出てくる「白い石」についてお話ししてきました。今日も、そのお話を続けます。
 簡単に復習しておきますと、この「白い石」は、その当時用いられていた「テセラ」という、今日の切符あるいは札に当たるものを背景として語られている可能性が高いと考えられます。テセラにはいくつかの用途がありましたが、この場合は、無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものです。そして、この場合の特別な会場とは、終わりの日に完全な形で実現する、メシアの御国における宴会です。この「宴会」はメシアであるイエス・キリストとの親しい交わりを表象的に表していて、特に、その交わりが豊かで栄光に満ちた交わりであることを示しています。このような「宴会」を「終末論的な宴会」と呼びますが、聖書の中にはいくつかの個所で示されています。黙示録の中では、黙示録19章6節ー9節に、

また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。
 「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されている「小羊の婚宴」がそれに当たります。
 「白い石」はこのような「終末論的な宴会」に無償であずかることができる特権を保証するものであるということになります。
 このこととの関連で、このお話の3回ほど前のお話で引用しました、マタイの福音書22章1節ー14節に記されています、たとえによるイエス・キリストの教えに触れておきたいと思います。そこには、

イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

と記されています。
 このイエス・キリストの教えについてはすでにお話ししていますので、今お話ししていることとの関わりで一つのことだけに触れておきます。注目したいのは、11節ー13節に記されています、

ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言った。

という教えです。
 この教えでは「婚礼の礼服を着ていない者」のことが問題となっています。
 前回この教えを取り上げたときに、『ゾンダーヴァン・イラスト入り・聖書辞典』(ZIBD, p.163)に従って、このような場合には、王がその宴会にふさわしい「礼服」をも用意するようであるということをお話ししました。これに対して、それはアウグスティヌスにまでさかのぼる推測で根拠がないという主張もあります(R.T. France, The Gospel of Matthew, NICNT, P.826)。そのような実例があったことは確認できないということです。
 ただ、このイエス・キリストの教えにおいては、通常の王子の結婚に伴う宴会とは異なっています。というのは、前もって招待状をによって招待されており、さらに、その日に送られた使いによって招かれた人々ではなく、もともとそのような招待を受けていなかった人々が招かれるようになったことを伝えているからです。
 そして、その人々が集められたときのことが、10節には、

それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

と記されています。この人々はもともと王子の婚宴に招かれる資格があると見なされていなかった人々です。そのような人々が招かれたということは、招かれるだけの資格がなかった人々がまったくの恵みによって招かれるようになったことを示しています。
 問題は、このイエス・キリストの教えに出てくる「礼服」が何かということです。ここでは、この「礼服」を着ていなければメシアの御国における祝宴にあずかることができないということが示されています。その意味において、この「礼服」はメシアの御国における祝宴にあずかることを保証している「白い石」と同じ意味をもっています。
 そればかりでなく、この「礼服」を着ていなければ「外の暗やみに」放り出され「そこで泣いて歯ぎしりする」と言われています。これは終わりの日に執行される地獄の刑罰を受けて苦しむことを表しています。このことは、この「礼服」を着ていない人が御国の民ではないことを示しています。
 注意すべきことは、通常の結婚式に伴う祝宴において、「礼服」を来てこなかったからということで、その人がその祝宴の会場に入れてもらえないということはあるかも知れません。けれども、「礼服」を来てこなかったからということで、その人が滅ぼされてしまうというようなことは考えられないことです。
 その前に記されています、もともと招待されていた人々は、王の招待をまったく無視してしまったばかりか、中には王が遣わした「しもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった」者たちもいたと言われています。古い契約の下にあるイスラエルの民と当時のユダヤ人たちが、主が遣わしてくださった預言者たちをそのように扱ったということです。その人々が滅ぼされてしまったことは理解できるとしても、「礼服」を来てこなかった人が滅ぼされてしまうというようなことは、いくらこれが王子の結婚式に伴う宴会であったとしても、普通には考えられないことです。
 この点で、このイエス・キリストのたとえによる教えで語られている婚宴は通常の婚宴とは異なっています。それで、この婚宴のために着るべき「礼服」も通常の婚宴のための「礼服」とは異なっています。
 これらのことから、この「礼服」は、契約の神である主がその一方的な恵みによって、もともとそのメシアの御国における祝宴にあずかる資格のなかった人々に与えてくださるものであるということが分かります。
 それで、もし結婚式に伴う宴会に出席するための「礼服」を宴会の主催者が用意するという習慣がなかったとしても、このたとえによるイエス・キリストの教えでは、その「礼服」は宴会の主催者である神さまが用意してくださるものであることが示されているということになります。そして、その当時、宴会の主催者が「礼服」を用意することはなかったとすれば、終わりの日に完全な形で実現する宴会は、それに参加するために必要な「礼服」も主催者である神さまが一方的な恵みによって備えてくださるものであるという点で、人が催す宴会には例がないものであるということになります。


 この前お話ししたときには、このことの背景となっていると考えられることとして、出エジプト記24章1節ー11節に記されています、シナイにおいて、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったときに催してくださった、主の御臨在の御許における食事のことを取り上げました。
 この時に主がご自身の民と契約を結んでくださったことに伴う、主の御臨在の御許における食事は、「終末論的な宴会」の原型であると考えられます。そして、これは、主の栄光の御臨在の御許で主とともに食事をするという表象によって示される豊かな交わりにあずかることは、主がご自身の民と結んでくださった契約に基づくものであることを示しています。しかも、この主との契約にあずかって主の民となるためには、「契約の血」と呼ばれる、主が備えてくださったいけにえの血による罪の贖いにあずかって、罪をきよめられる必要があるということが示されています。
 主がシナイにおいてイスラエルの民と契約を結んでくださったことは、古い契約の下における「地上的なひな型」としての意味をもっていました。その時に結ばれた契約の土台となっていた「契約の血」は全焼のいけにえと和解のいけにえとしてささげられた動物の血でした。その「地上的なひな型」としての動物の血の「本体」、「本物の模型」としての動物の血が指し示していた「本物」は、永遠の神の御子イエス・キリストが十字架の上で流された血です。イエス・キリストが地上の生涯の最後に守られた過越の食事の席でのことを記しているルカの福音書22章19節ー20節には、

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

と記されています。イエス・キリストはご自身が十字架の上で流された血によって「新しい契約」を結んでくださいました。
 私たちはイエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉にあずかることによってイエス・キリストと一つに結ばれています。そして、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって罪を完全に贖っていただいています。これによって、私たちは「新しい契約」の祝福としての、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかっています。この神さまとの愛にある交わりが永遠のいのちの本質ですし、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりに生きることが永遠のいのちの現れです。そして、この父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりが完全な形で実現することが、終末論的な宴会、黙示録においては「小羊の婚宴」によって示されています。
 このことから、先ほどの先ほどの、イエス・キリストのたとえによる教え出てくる王子の婚宴における「礼服」は、それを着ている人が、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって罪を完全に贖っていただいて、罪をきよめていただいていることを表す表象としての意味をもっていると考えられます。黙示録7章9節には、

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

と記されています。この「白い衣」を着た人々のことが、14節ー15節で、

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

と説明されています。

 先ほどの、イエス・キリストのたとえによる教え出てくる王子の婚宴に招かれた人々が着ている「礼服」のもう一つの背景となっていると考えられるみことばがあります。それは、イザヤ書61章10節に記されています、

 わたしはによって大いに楽しみ、
 わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
 主がわたしに、救いの衣を着せ、
 正義の外套をまとわせ、
 花婿のように栄冠をかぶらせ、
 花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

というみことばです。
 終わりの日に完全な形で実現するメシアの御国における主との栄光に満ちた豊かな交わりを表す宴会に招かれている人々が着る「礼服」は契約の神である主、ヤハウェが着せてくださるもので、ここでは、

 主がわたしに、救いの衣を着せ、
 正義の外套をまとわせ、
 花婿のように栄冠をかぶらせ、
 花嫁のように宝玉で飾ってくださる

と言われています。その「礼服」を着ることは、ここでは、「救いの衣」を着ることとだけでなく「正義の外套」をまとうことですが、さらに、それだけでもなく「栄冠」をかぶり、「宝玉」で飾ることでもあります。契約の神である主、ヤハウェが「救いの衣を着せ」てくださるだけでなく、これらすべてのことをなしてくださると言われています。
 これは、この前の1節ー9節に記されていること、特に、1節ー3節に記されていることを受けています。その1節ー3節には、

 神である主の霊が、わたしの上にある。
 はわたしに油をそそぎ、
 貧しい者に良い知らせを伝え、
 心の傷ついた者をいやすために、
 わたしを遣わされた。
 捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
 の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
 すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの悲しむ者たちに、
 灰の代わりに頭の飾りを、
 悲しみの代わりに喜びの油を、
 憂いの心の代わりに賛美の外套を
 着けさせるためである。
 彼らは、義の樫の木、
 栄光を現すの植木と呼ばれよう。

と記されています。
 新改訳の1節で、

 神である主の霊が、わたしの上にある。

と訳されているときの「神である主」という御名(アドナーイ・ヤハウェ)は文字通りには「ヤハウェなる主権者」で、契約の神である主、ヤハウェが主権者であることを示しています。
 ここ1節では、まず、

 神である主の霊が、わたしの上にある。
 はわたしに油をそそぎ、

と言われていて、その主権者であるヤハウェの御霊が「わたし」と述べておられる方の上にあること、すなわち、「」(ヤハウェ)がこの方を御霊によって油を注がれたことが示されています。この御霊によって油を注がれた方こそが旧約聖書をとおして約束されているメシア(「油注がれた方」)です。
 これに続いて、「」(ヤハウェ)がこの方を「遣わされた」ことが主動詞によって記されています。その目的が、[次の1ー6の]六つの不定詞構文で示されています。具体的には、

 1 貧しい者に良い知らせを伝え、
 2 心の傷ついた者をいやし、
 3 捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
 4 の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
 5 すべての悲しむ者を慰め、
 6 シオンの悲しむ者たちに、
  灰の代わりに頭の飾りを、
  悲しみの代わりに喜びの油を、
  憂いの心の代わりに賛美の外套を
  着けさせるため

と述べられています。
 これらすべてのことは、この御霊によって油を注がれた方が御霊の導きと力によって成し遂げられることです。
 そして、これに続いて、この方のお働きにあずかった「シオン」の人々すなわち主の契約の民のことが、

 彼らは、義の樫の木、
 栄光を現すの植木と呼ばれよう。

と記されています。
 「樫の木」は深く根を張って力強いことを表すために用いられていると考えられます。その特質は「」ですが、それは御霊によって油を注がれた方のお働きによってもたらされた「」です。そのことは、この主の契約の民のことが、続いて、「栄光を現すの植木」と呼ばれると記されていることからも分かります。主がご自身の栄光を現すために彼らを、「シオン」すなわちご自身の御臨在の御前に植えられたのです。「シオン」にはエルサレムがあり、その中心には契約の神である主、ヤハウェがご臨在される主の聖所のある神殿がありました。それによって、主がご自身の契約の民の間にご臨在されることが示されていました。彼らはこの主の御臨在の御前に植えられ、「」において、しっかりと根を張り、確固たる者となると言われています。
 さらに、それは、彼らは、神さまが御霊によって油を注がれた方によって成し遂げてくださった救いの御業にあずかって、福音を聞き、癒され、解放され、自由になり、慰めを受け、新たに造り変えられて、喜びと讃美にあふれる者とされていることに現れてきます。このことをとおして、神である主の恵みとまことに満ちた栄光が讃えられます。だれよりもまず彼らが、神である主の恵みとまことに満ちた栄光を讃えるのです。
 このことは、約束のメシア、約束の贖い主として来てくださった神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められてほどなく、ガリラヤにおいて福音を宣べ伝えられた時のことを記しているルカの福音書4章16節ー21節には、

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
 「わたしの上に主の御霊がおられる。
 主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
 わたしに油をそそがれたのだから。
 主はわたしを遣わされた。
 捕らわれ人には赦免を、
 盲人には目の開かれることを告げるために。
 しいたげられている人々を自由にし、
 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

と記されています。

 イザヤ書61章に戻りますが、このような、御霊によって油を注がれた方の御業にあずかった主の契約の民が、10節において、

 わたしはによって大いに楽しみ、
 わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
 主がわたしに、救いの衣を着せ、
 正義の外套をまとわせ、
 花婿のように栄冠をかぶらせ、
 花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

と述べています。
 ここには、終わりの日に完全な形で実現するメシアの御国における宴会のことは明確に示されてはいません。しかし、それを示唆することがあります。それは、最後に、

 花婿のように栄冠をかぶらせ、
 花嫁のように宝玉で飾ってくださる

と言われていることです。これは婚姻(結婚式)における服装を思わせます。また、このことを踏まえますと、最初の、

 わたしはによって大いに楽しみ、
 わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。

ということばも、結婚における楽しみであり喜びであると考えられます。
 とはいえ、この婚姻がだれとだれの婚姻であるかということは、ここには示されてはいません。けれども、この61章は次の11節で終わっていますが、それに続く62章1節ー5節には、

 シオンのために、わたしは黙っていない。
 エルサレムのために、黙りこまない。
 その義が朝日のように光を放ち、
 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
 そのとき、国々はあなたの義を見、
 すべての王があなたの栄光を見る。
 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。
 あなたはの手にある輝かしい冠となり、
 あなたの神の手のひらにある
 王のかぶり物となる。
 あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、
 あなたの国はもう、
 「荒れ果てている」とは言われない。
 かえって、あなたは
 「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、
 あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
 の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。
 若い男が若い女をめとるように、
 あなたの子らはあなたをめとり、
 花婿が花嫁を喜ぶように、
 あなたの神はあなたを喜ぶ。

と記されています。
 2節後半で、

 あなたは、
 の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

と言われていることは、黙示録2章17節に出てくる「白い石」に「新しい名が書かれている」と言われていることと関わっています。
 けれども、そのことは日を改めてお話しすることとしまして、ここでは、これまでお話ししてきたことと関わることだけをお話しします。
 これは「シオン」すなわちシオンにある町「エルサレム」の回復のことを預言しています。
 この場合の「シオン」は、先ほど引用しました61章3節に、

 シオンの悲しむ者たちに、
 灰の代わりに頭の飾りを、
 悲しみの代わりに喜びの油を、
 憂いの心の代わりに賛美の外套を
 着けさせるためである。
 彼らは、義の樫の木、
 栄光を現すの植木と呼ばれよう。

と記されている「シオン」で、御霊によって油を注がれた方の御業にあずかって、新しく造り変えられた主の契約の民を表しています。
 この「シオン」(「エルサレム」)について、62章4節では、

 かえって、あなたは
 「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、
 あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
 の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。

と言われており、最後に、

 花婿が花嫁を喜ぶように、
 あなたの神はあなたを喜ぶ。

と言われています。このことは、契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約の民を花嫁として迎えてくださることを示唆しています。それで、この前の61章10節において、

 わたしはによって大いに楽しみ、
 わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
 主がわたしに、救いの衣を着せ、
 正義の外套をまとわせ、
 花婿のように栄冠をかぶらせ、
 花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

と記されていることも、主、ヤハウェがご自身の契約の民を花嫁として迎えてくださることを示唆していると考えられます。 このことを念頭に置いて考えますと、ここで、

 わたしはによって大いに楽しみ、
 わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。

と言われているときの「によって」ということばは「にあって」と訳した方がいいと思われます。この場合の前置詞(ベ)は基本的には「・・・にあって」を表しますが、「・・・によって」とも訳すことができます。微妙なことですが、「にあって」ということは、契約の神である主と一つに結び合わされていることが中心になって、何よりもまず主ご自身を神である主を喜ぶという意味合いがあります。これが結婚関係という表象によって神である主との交わりが示されていることの主旨でしょう。そして、そのような主との関係にあって、先ほど触れましたように、福音を聞き、癒され、解放され、自由になり、慰めを受け、新たに造り変えられて、喜びと讃美にあふれる者とされているわけです。
 いずれにしましても、このことと調和して、聖書の中では、主と主の契約の民の関係が夫とその妻の関係で表されています。
 たとえば、同じイザヤ書54章5節ー8節には、

 あなたの夫はあなたを造った者、
 その名は万軍の
 あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、
 全地の神と呼ばれている。
 は、あなたを、
 夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、
 若い時の妻をどうして見捨てられようか」
 とあなたの神は仰せられる。 「わたしはほんのしばらくの間、
 あなたを見捨てたが、
 大きなあわれみをもって、あなたを集める。
 怒りがあふれて、ほんのしばらく、
 わたしの顔をあなたから隠したが、
 永遠に変わらぬ愛をもって、
 あなたをあわれむ」と
 あなたを贖うは仰せられる。

と記されています。
 また、契約の神である主、ヤハウェがエルサレムについて語られたみことばを記しているエゼキエル書16章8節には、

わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ――そして、あなたはわたしのものとなった。

と記されています。
 そのほか、エレミヤ書2章1節ー3節、ホセア書2章16節ー20節、エペソ人への手紙5章31節ー32節などを見てください。


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