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説教日:2016年4月3日 |
黙示録2章17節においてイエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、イエス・キリストが私たちを、まったくの恵みによって、このような「終末論的な宴会」にあずからせてくださることを保証してくださるものであると考えられます。 またイエス・キリストは、この「白い石」に先立って「隠れたマナ」を与えてくださると約束してくださっています。この「隠れたマナ」は出エジプトの時代に、主が天から降らせてくださった食べ物としてのマナの「本体」であるイエス・キリストご自身を指しています。そのことに関するイエス・キリストの教えを記しているヨハネの福音書6章47節ー51節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 と記されており、53節ー55節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 と記されています。 このイエス・キリストの教えも「終末論的な宴会」に相当することについての教えです。私たちは今すでに、イエス・キリストが「世のいのちのための、わたしの肉」と述べておられる、ご自身が十字架の上で裂かれた肉にあずかっています。また、イエス・キリストが十字架の上で流された血にあずかっています。それと同時に、 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 と言われるように、イエス・キリストは終わりの日に私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることによって、ご自身との愛にあるいのちの交わりを栄光に満ちた交わり、すなわち、永遠のいのちにある交わりとしてくださいます。 いずれにしましても、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、イエス・キリストが私たちを、まったくの恵みによって、「終末論的な宴会」が表象的に表している、ご自身との栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださることを保証してくださるものであると考えられます。 それと同時に、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、それをイエス・キリストから与えられる人を表していると考えられます。 このこととの関連で思い出されるのは、大祭司の胸当にイスラエルの12部族を表象的に表す宝石がはめ込まれていたことです。出エジプト記28章15節ー21節には、 あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。 と記されています。 ここでは12の宝石を4列にして、それぞれの列に三つの宝石があるように配列されています。これら12の宝石のうちのいくつかはそれが何であるかを特定することはできません。 またここでは、これらの宝石はイスラエルの12部族を表象的に表すものであることが示されています。けれども、どの宝石がどの部族を表すものかは示されてはいません。 このことは、これらの宝石に優劣をつけることはできなくて、それぞれが違うものであるけれども、みな主にとっては同じように大切なものであることが示されていると考えられます。 また、今お話ししていることとの関わりで注目したいことですが、ここでは、これらの宝石がイスラエルの12部族の名と密接につながっていることが示されています。そして、一つの石に12部族の一つの名による刻印がほどこされたことが示されています。 ここで「宝石」と訳されていることば(エベン)は基本的に「石」を表すことばです。前後関係から「宝石」を表すこともありますので、ここでは「宝石」と訳されています。このこととの関わりでは、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」も宝石であり、これを与えられる人がイエス・キリストにとってとても大切な存在であることを表していると考えられます。 イスラエルの12部族を表している宝石は、それぞれ異なっています。それによって、それぞれの部族の違いが示されていますが、それぞれの価値は主にとって同じであることが示されています。これに対して、イエス・キリストが私たちに与えてくださるのは「白い石」である点で同じです。それは、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあずかって新しく生まれている主の契約の民に共通している特性を表していると考えられます。 黙示録の中では「白い」ことが「聖さ」や「栄光」や「権威」を表しています。 そのことを示しているいくつかの事例を見てみましょう。 3章4節ー5節には、 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。 と記されています。 ここでは、「白い衣」を着ることが衣を汚すことと対比されていますので「白い」ことは聖さを表しています。 これと関連して、7章9節には、 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。 と記されています。 そしてこの「白い衣」を着た人々のことが、13節ー14節に、 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」 と記されています。「その衣」の白さはイエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いによって罪がきよめられたことによっています。 少し戻りますが、4章には天における神さまの栄光の御臨在のことが記されていますが、4節には、 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。 と記されています。ここにも「白い衣」が出てきますが、これは聖さとともに、この「白い衣」を着ている「二十四人の長老たち」が頭に「金の冠」をかぶって神さまの御座の回りにある「二十四の座」に着いているということから、権威と栄光とも関わっていると考えられます。その当時の文化の中では、なんらかの権威ある立場の人々が白いローブをまとっていました。 また、19章11節ー14節には、 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った と記されています。 ここには、さばきを執行されるために再臨される栄光のキリストのことが記されています。栄光のキリストは「白い馬」に乗って来られます。「その頭には多くの王冠があって」栄光のキリストの権威と栄光が示されています。そして、この方に付き従う「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って」います。この場合も、「白」いことは聖さとともに栄光と権威を表しています。 神さまの栄光と権威との関わりで注目したいのは、終わりの日における最後のさばきについて記している20章11節に、 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 と記されていることです。ここでは栄光の主が最後のさばきを執行されるために着座される御座が「大きな白い御座」(単数形)と呼ばれています。ちなみに、ここでは「そこに着座しておられる方」がどなたであるかは示されていません。22章3節では、この「御座」が「神と小羊との御座」(単数形)と呼ばれています。新約聖書の中では、父なる神さまがおさばきになること(マタイの福音書6章14節ー15節、18章35節、ルカの福音書18章7節ー8節、ローマ人への手紙2章5節、14章10節ー12節、コリント人への手紙第一・5章13節、黙示録16章7節、18章20節)とともに、御子イエス・キリストがともにさばきを執行される方として示されています(マタイの福音書7章22節ー23節、25章31節ー46節、コリント人への手紙第二・5章10節)。 けれども、これは父なる神さまとイエス・キリストが同じ立場に立ってさばきを執行されるという意味ではありません。 このことに関して、いくつかみことばを引用しておきましょう。 ヨハネの福音書5章22節には、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。 というイエス・キリストの教えが記されています(同じことは27節にも記されています)。そして、30節には、 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。 と記されています。 また、使徒の働き17章31節には、パウロがアテネの人々に、 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。 とあかししたことが記されています。 最後に、ローマ人への手紙2章16節を見てみましょう。そこには、 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。 と記されています。 これらのみことばは、父なる神さまが御子イエス・キリストによってさばきを執行されることを示しています。言い換えますと、イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって、さばきを執行されるということです。このことを踏まえた上であれば、父なる神さまがさばきを執行されると言うことも、御子イエス・キリストがさばきを執行されると言うこともできます。この点においても、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つです。 話が少しそれてしまいましたが、イエス・キリストが私たちに与えてくださる「白い石」は、私たち主の契約の民すべてに共通して与えられる特性を表しています。それは、黙示録の中で「白い」ことが表している聖さと栄光と権威を表していると考えられます。この場合は、「白い石」がまったくの恵みによって与えられるものですから、それが表している特性である聖さと栄光と権威もまったくの恵みによって与えられるものです。 私たち主の契約の民に栄光が与えられることは、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって新しく生まれており、終わりの日に栄光のからだによみがえることから分かります。 私たちが権威を与えられることは、エペソ人への手紙2章4章ー6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されていることから分かります。また、黙示録においても、20章4節に、 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。 と記されており、22章5節にも、 彼らは永遠に王である。 と記されています。 「白い石」は、私たち主の契約の民すべてに共通して与えられる特性を表しているからといって、それで、私たちそれぞれの特質が消えてしまうという意味ではありません。私たちそれぞれが主にとって独自の意味をもっている存在であることは、改めてお話ししますが、その「白い石」について、 その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。 と記されていることに示されています。 |
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