黙示録講解

(第242回)


説教日:2016年4月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(23)


 先主日は2016年の復活節でしたので、復活節に関連したお話をしました。今日は、イエス・キリストがペルガモにある教会に対して語られたみことばについてのお話に戻ります。今お話ししているのは最後の17節に記されている、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というみことばに出てくる「白い石」についてです。
 この「白い石」は、その当時用いられていた「テセラ」という切符あるいは札に当たるものを背景として語られている可能性が高いと考えられます。この場合のテセラは、無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものです。そして、その特別な会場とは、終わりの日に完全な形で実現する、メシヤの御国におけるメシヤ、すなわち、イエス・キリストとの親しい交わりを表象的に表している宴会で、一般に「終末論的な宴会」と呼ばれます。これが「宴会」を表象として表されているのは、このイエス・キリストとの交わりがとても豊かなものであることを表すためです。黙示録の中では、黙示録19章6節ー9節に記されている「小羊の婚宴」がそれに当たります。
 ちなみに、これを「終末的な宴会」というのではなく、「終末論的な宴会」というように「論」ということばをつけて呼ぶのには意味があります。もしこの宴会が終わりの日において、まったく新しいこととして催されるものであるとしたら、「終末的な宴会」と呼ぶことになります。けれども、この宴会は終わりの日において完全な形で実現するものですが、すでに、私たちの間で実現し始めています。このように、今すでに主の契約の民の間で実現し始めていて、終わりの日において完全な形において実現するものであることを表すという意味で「終末論的」という言い方をしています。
 この宴会が主の契約の民である私たちの間ですでに実現しているのは、この宴会が、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて催されるものであるからです。
 今から2千年前に、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。また、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことによって、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。
 このことに基づいて、私たちは私たちの主であられるイエス・キリストと父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされました。このイエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりはすでに私たちの間で実現しています。ローマ人への手紙8章14節ー16節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されているとおりです。
 また、前回お話ししましたように、この宴会は、主がご自身の御臨在の御許において催してくださる宴会ですが、それは主が私たちご自身の民の罪を贖うために備えてくださるいけにえの血によって結ばれた契約食事としての意味をもっています。その原型は前回お話ししました出エジプト記24章1節ー11節に記されていることですが、主がシナイ山にご臨在されて、そこでイスラエルの民と契約を結んでくださったときに、ご自身の御臨在の御許で催してくださった食事にあります。
 簡単に補足しながら振り返っておきますと、1節では、主がイスラエルの民と契約を結んでくださるに当たって、

あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとりのもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。

と言われたことが記されています。このモーセと「アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人」はイスラエルの指導者たちで、イスラエルの民全体を代表しています。そして、モーセは契約の仲保者として、イスラエルの民と主の間に立っていますので、イスラエルの民を代表する立場に立ちつつ、主を代表する立場に立っています。
 続く3節ー5節には、モーセが「のことばと、定め」を民に告げると、民がそれをみな行うと答えたこと、そして、それを受けて、モーセがシナイ山の麓に祭壇を築き、イスラエルの12部族を表す12の石の柱を立て、全焼のいけにえと和解のいけにえ(どちらも複数形)をささげたことが記されています。
 そして、続く6節ー8節には、

モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、があなたがたと結ばれる契約の血である。」

と記されています。
 このようにして、「契約の血」としてのいけにえの血によって確立された契約が結ばれたことを受けて、9節ー11節には、

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

と記されています。
 この時、モーセだけでなく、「アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人」も主の栄光の御臨在の御許に近づき、契約の食事にあずかることができたのは、「契約の血」としてのいけにえの血によって罪が贖われ、主との契約が結ばれたことによっています。また、その時に彼らが食したのは、和解のいけにえとしてほふられた「雄牛」でした。全焼のいけにえはすべてを焼いてささげてしまいますので、それを食することはありません。和解のいけにえは主との親しい交わりとしての意味をもっている契約の食事にふさわしいものでした。
 イエス・キリストが地上の生涯の最後の過越の食事の席で新しい契約の礼典としての「主の晩餐」を制定してくださったことを記しているマタイの福音書26章26節ー29節には、

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

と記されています。
 ここでイエス・キリストはご自身が十字架におかかりになって流される血を表すぶどう酒の入った杯をお取りになって、

みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

と言われました。ここで、

 これは、わたしの契約の血です。

と言われているのは、先ほどお話ししましたように、古い契約が「地上的なひな型」としての意味をもっている動物のいけにえの血によって確立されて結ばれたことを受けています。イエス・キリストは「地上的なひな型」としての意味をもっている動物のいけにえの「本体」としてご自身が十字架において血を流されて新しい契約を確立されました。そして、

 罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

と言われているとおり、ご自身の血によって罪を贖ってくださった私たち主の契約の民をご自身との契約関係に入れてくださいました。
 イエス・キリストはこれに続いて、

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

と言われました。イエス・キリストはこれによっていろいろなことを示しておられますが、今お話ししていることと関わることだけをお話ししますと、これは、終わりの日に完全な形で実現する父なる神さまの御国でイエス・キリストが再び弟子たちと食事をともにするようになるということを示しています。これが、私たちがイエス・キリストと父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかるようになることを表している食事です。
 この交わりは、すでに、私たちの間で始まっています。そのことは本主日において執り行われる聖餐式において、栄光のキリストが御霊によって私たちの間にご臨在してくださって、その御臨在の御許においてご自身が裂かれた肉と流された血にあずからせてくださるという終末論的な宴会としての意味をもっている「食事」を催してくださることにおいて実現しています。そして、イエス・キリストは、これによって示されている栄光のキリストとの親しい愛にあるいのちの交わりが、終わりの日においては完全な形において、すなわち、豊かな栄光に満ちた愛の交わりとして実現することを示してくださっています。
 このように、イエス・キリストの血による新しい契約の民としていただいている私たちは、すでに、イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりとしての「主の晩餐」にあずかっています。それと同時に、その交わりが終わりの日に完全な形で実現することが、宴会の表象によって示されています。このようなことを表すために、この宴会を「終末論的な宴会」と呼んでいます。


 黙示録2章17節においてイエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、イエス・キリストが私たちを、まったくの恵みによって、このような「終末論的な宴会」にあずからせてくださることを保証してくださるものであると考えられます。
 またイエス・キリストは、この「白い石」に先立って「隠れたマナ」を与えてくださると約束してくださっています。この「隠れたマナ」は出エジプトの時代に、主が天から降らせてくださった食べ物としてのマナの「本体」であるイエス・キリストご自身を指しています。そのことに関するイエス・キリストの教えを記しているヨハネの福音書6章47節ー51節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

と記されており、53節ー55節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

と記されています。
 このイエス・キリストの教えも「終末論的な宴会」に相当することについての教えです。私たちは今すでに、イエス・キリストが「世のいのちのための、わたしの肉」と述べておられる、ご自身が十字架の上で裂かれた肉にあずかっています。また、イエス・キリストが十字架の上で流された血にあずかっています。それと同時に、

 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と言われるように、イエス・キリストは終わりの日に私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることによって、ご自身との愛にあるいのちの交わりを栄光に満ちた交わり、すなわち、永遠のいのちにある交わりとしてくださいます。
 いずれにしましても、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、イエス・キリストが私たちを、まったくの恵みによって、「終末論的な宴会」が表象的に表している、ご自身との栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださることを保証してくださるものであると考えられます。
 それと同時に、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」は、それをイエス・キリストから与えられる人を表していると考えられます。
 このこととの関連で思い出されるのは、大祭司の胸当にイスラエルの12部族を表象的に表す宝石がはめ込まれていたことです。出エジプト記28章15節ー21節には、

あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。

と記されています。
 ここでは12の宝石を4列にして、それぞれの列に三つの宝石があるように配列されています。これら12の宝石のうちのいくつかはそれが何であるかを特定することはできません。
 またここでは、これらの宝石はイスラエルの12部族を表象的に表すものであることが示されています。けれども、どの宝石がどの部族を表すものかは示されてはいません。 このことは、これらの宝石に優劣をつけることはできなくて、それぞれが違うものであるけれども、みな主にとっては同じように大切なものであることが示されていると考えられます。
 また、今お話ししていることとの関わりで注目したいことですが、ここでは、これらの宝石がイスラエルの12部族の名と密接につながっていることが示されています。そして、一つの石に12部族の一つの名による刻印がほどこされたことが示されています。
 ここで「宝石」と訳されていることば(エベン)は基本的に「石」を表すことばです。前後関係から「宝石」を表すこともありますので、ここでは「宝石」と訳されています。このこととの関わりでは、イエス・キリストが約束してくださっている「白い石」も宝石であり、これを与えられる人がイエス・キリストにとってとても大切な存在であることを表していると考えられます。
 イスラエルの12部族を表している宝石は、それぞれ異なっています。それによって、それぞれの部族の違いが示されていますが、それぞれの価値は主にとって同じであることが示されています。これに対して、イエス・キリストが私たちに与えてくださるのは「白い石」である点で同じです。それは、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあずかって新しく生まれている主の契約の民に共通している特性を表していると考えられます。

 黙示録の中では「白い」ことが「聖さ」や「栄光」や「権威」を表しています。
 そのことを示しているいくつかの事例を見てみましょう。
 3章4節ー5節には、

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

と記されています。
 ここでは、「白い衣」を着ることが衣を汚すことと対比されていますので「白い」ことは聖さを表しています。
 これと関連して、7章9節には、

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

と記されています。
 そしてこの「白い衣」を着た人々のことが、13節ー14節に、

長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

と記されています。「その衣」の白さはイエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いによって罪がきよめられたことによっています。
 少し戻りますが、4章には天における神さまの栄光の御臨在のことが記されていますが、4節には、

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

と記されています。ここにも「白い衣」が出てきますが、これは聖さとともに、この「白い衣」を着ている「二十四人の長老たち」が頭に「金の冠」をかぶって神さまの御座の回りにある「二十四の座」に着いているということから、権威と栄光とも関わっていると考えられます。その当時の文化の中では、なんらかの権威ある立場の人々が白いローブをまとっていました。
 また、19章11節ー14節には、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った

と記されています。
 ここには、さばきを執行されるために再臨される栄光のキリストのことが記されています。栄光のキリストは「白い馬」に乗って来られます。「その頭には多くの王冠があって」栄光のキリストの権威と栄光が示されています。そして、この方に付き従う「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って」います。この場合も、「」いことは聖さとともに栄光と権威を表しています。
 神さまの栄光と権威との関わりで注目したいのは、終わりの日における最後のさばきについて記している20章11節に、

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

と記されていることです。ここでは栄光の主が最後のさばきを執行されるために着座される御座が「大きな白い御座」(単数形)と呼ばれています。ちなみに、ここでは「そこに着座しておられる方」がどなたであるかは示されていません。22章3節では、この「御座」が「神と小羊との御座」(単数形)と呼ばれています。新約聖書の中では、父なる神さまがおさばきになること(マタイの福音書6章14節ー15節、18章35節、ルカの福音書18章7節ー8節、ローマ人への手紙2章5節、14章10節ー12節、コリント人への手紙第一・5章13節、黙示録16章7節、18章20節)とともに、御子イエス・キリストがともにさばきを執行される方として示されています(マタイの福音書7章22節ー23節、25章31節ー46節、コリント人への手紙第二・5章10節)。
 けれども、これは父なる神さまとイエス・キリストが同じ立場に立ってさばきを執行されるという意味ではありません。
 このことに関して、いくつかみことばを引用しておきましょう。
 ヨハネの福音書5章22節には、

 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

というイエス・キリストの教えが記されています(同じことは27節にも記されています)。そして、30節には、

わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 また、使徒の働き17章31節には、パウロがアテネの人々に、

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。

とあかししたことが記されています。
 最後に、ローマ人への手紙2章16節を見てみましょう。そこには、

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。

と記されています。
 これらのみことばは、父なる神さまが御子イエス・キリストによってさばきを執行されることを示しています。言い換えますと、イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって、さばきを執行されるということです。このことを踏まえた上であれば、父なる神さまがさばきを執行されると言うことも、御子イエス・キリストがさばきを執行されると言うこともできます。この点においても、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つです。
 話が少しそれてしまいましたが、イエス・キリストが私たちに与えてくださる「白い石」は、私たち主の契約の民すべてに共通して与えられる特性を表しています。それは、黙示録の中で「白い」ことが表している聖さと栄光と権威を表していると考えられます。この場合は、「白い石」がまったくの恵みによって与えられるものですから、それが表している特性である聖さと栄光と権威もまったくの恵みによって与えられるものです。
 私たち主の契約の民に栄光が与えられることは、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって新しく生まれており、終わりの日に栄光のからだによみがえることから分かります。
 私たちが権威を与えられることは、エペソ人への手紙2章4章ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていることから分かります。また、黙示録においても、20章4節に、

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。

と記されており、22章5節にも、

 彼らは永遠に王である。

と記されています。
 「白い石」は、私たち主の契約の民すべてに共通して与えられる特性を表しているからといって、それで、私たちそれぞれの特質が消えてしまうという意味ではありません。私たちそれぞれが主にとって独自の意味をもっている存在であることは、改めてお話ししますが、その「白い石」について、

 その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されていることに示されています。


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