黙示録講解

(第241回)


説教日:2016年3月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(22)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節には、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばが記されています。その最後の17節には、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されています。
 今お話ししているのは、この約束のみことばに出てくる「白い石」のことです。この「白い石」の背景についてはいくつかのことが考えられています。その中で可能性が高いと考えられるのは、その当時用いられていた「テセラ」という切符あるいは札に当たるものが、無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものであるということです。その特別な会場とは、終わりの日に実現する、メシヤの御国におけるイエス・キリストとの親しい交わりを表象的に表している宴会であると考えられています。黙示録の中では、黙示録19章6節ー9節に記されている「小羊の婚宴」がそれに当たります。
 終わりの日に完全な形で実現する契約の神である主との交わりのことが宴会として表されているのは、その交わりの豊かさを示すためです。この終わりの日に実現する、主の栄光の御臨在の御許における宴会のことを「終末論的な宴会」と呼びます。
 今日は、今週が2016年の受難週であることを覚えつつ、この「終末論的な宴会」について、先主日にお話ししたことをさらに補足することをお話ししたいと思います。
 この「終末論的な宴会」のことは旧約聖書で預言として語られています。それは、先主日に取り上げました、イザヤ書25章6節ー9節に記されています。6節に、

 万軍のはこの山の上で万民のために、
 あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、
 髄の多いあぶらみと
 よくこされたぶどう酒の宴会を催される。

と記されていますように、その「終末論的な宴会」は「万民のため」のものです。また「この山の上で」と言われているときの「この山」は、エルサレム神殿が建てられていたシオンのことです。これは、主が設けてくださる「終末論的な宴会」は主の御臨在の御許でなされるものであることを意味しています。
 先週お話できませんでしたが、この宴会のことが、

 あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、
 髄の多いあぶらみと
 よくこされたぶどう酒の宴会

と言われていることは、その宴会の豊かさを表しています。
 「良いぶどう酒」や「よくこされたぶどう酒」がこれに当てはまることは分かります。けれども、私たちの間では肉の「あぶらみ」は健康によくないとされ、敬遠されています。しかし、それは今日の贅沢な食事に慣れている人々の間でのことで、食糧事情がそれほどよくなかった時代と社会の人々には、「あぶらみ」(脂肪)は最上の部分でした。それで、主にささげられるいけにえにおいては、全焼のいけにえはすべてを焼いて主に献げますが、そのほかのいけにえでも、その部分は主のものとされていました(レビ記3章16節b[「脂肪は全部、のものである」]ー17節を見てください)。ここでは、「万軍の」がその最上のものをもって地のすべての民の中からご自身の御臨在の御許に集ってくる人々をもてなしてくださると言われています。
 このように、主がご自身の御臨在の御許において催してくださる「終末論的な宴会」が「万民のため」のものであるということは、それが、創世記12章3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、主がアブラハムに与えてくださった約束の成就であることを意味しています。
 また、主が設けてくださる「終末論的な宴会」は主の御臨在の御許でなされるものであるということの、古い契約の下における出発点は、出エジプト記24章1節ー11節に記されています、主がエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったイスラエルの民と契約を結んでくださったときのことがあります。その時、主はイスラエルの民を代表する、モーセとアロンとアロンの子であるナダブとアビフ、そして、70人の長老たちをご自身の御臨在の御許に設けてくださった契約が結ばれたことに関連する食事(宴会)にあずからせてくださいました。
 この点についても、先主日にお話ししたことを補足しておきます。
 1節ー2節には、

主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとりのもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」

と記されています。この段階では、主によって古い契約の仲保者[王、祭司、預言者の職務をすべて兼ね備えていて、王や祭司や預言者たちの存在と働きの基盤となっている存在]として立てられているモーセだけが主の御臨在の御許に近づくことができました。
 この後、モーセはシナイ山の麓に祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげました。そして、その血の半分を祭壇に注ぎかけ、半分を、主の契約の書のみことばに聞き従うと誓約したイスラエルの民に注ぎかけました。この血についてモーセは、

 見よ。これは、これらすべてのことばに関して、があなたがたと結ばれる契約の血である。

と宣べました。
 そしてこの後のことが、9節ー11節に、

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

と記されています。
 先には、主のご臨在の御許に上っていくことが許されなかったモーセ以外の人々、アロンとその子たちとイスラエルの70人の長老たちも、この時は、主の御臨在の御許に上っていって、そこにご臨在される栄光の主の御足の辺りを仰ぎ見て、契約が結ばれたことによって成り立っている主との交わりを表す食事にあずかることができました。それはその時にほふられたいけにえの血によって祭壇とイスラエルの民がきよめられたからです。
 この時、モーセとアロンとその子たち、そしてイスラエルの70人の長老たちが主の栄光の御臨在の御許での食事にあずかったのは、そこで「和解のいけにえ」としてささげられた「雄牛」であり、これによって、そこに主との親しい交わりがあることが示されたと考えられます。


 主がイスラエルの民と契約を結んでくださったことに触れているヘブル人への手紙9章18節ー22節には、

したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されています。
 これは、基本的に、出エジプト記24章1節ー11節に記されている、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったときのことに触れていますが、それによって成り立っている主とイスラエルの民との契約関係のあり方に関してさらに示された、罪とその汚れのきよめに関する規定をも視野に入れています。というのは、ここに出てきます「幕屋と礼拝のすべての器具」は、契約が結ばれた後に、シナイ山の主の御臨在の御許に上っていったモーセに示された、主がご臨在される聖所にかかわるものだからです。
 ちなみに、ヘブル人への手紙9章19節では、主がイスラエルの民と契約を結んでくださったときにささげられたいけにえが「子牛とやぎ」と言われていますが、出エジプト記24章5節では、

 彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛をにささげた。

と言われています。出エジプト記24章5節では、何が全焼のいけにえとしてささげられたかが示されてはいません。後に与えられるいけにえに関する規定(レビ記1章)では、全焼のいけにえとしては、雄牛のほかに「子羊またはやぎ」(10節)、さらには「山鳩または家鳩のひな」(14節)でもよいことになっています。また、出エジプト記24章5節では「和解のいけにえとして雄牛をにささげた」と記されています。ここで「雄牛」と訳されていることば(パル)は「雄牛」とともに、「若い雄牛」を表すこともあります(K&B, Vol.2, p.960b))ヘブル人への手紙9章19節で「子牛とやぎ」と言われているときの「子牛」と訳されていることば(モスコス)は「若い雄牛」を表しています。
 このように、主がイスラエルの民と結んでくださった契約に基づく主とイスラエルの民の関係は、主がイスラエルの民のために備えてくださったいけにえの血によって、イスラエルの民とイスラエルの民が主の戒めに従って造った聖所とその器具がきよめられ、主のものとして聖別されることによって成り立っています。ヘブル人への手紙の著者は9章22節で、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と述べています。
 ヘブル人への手紙9章では、これらのことは18節で「初めの契約」と呼ばれている古い契約の下にある「地上的なひな型」としての聖所である幕屋と、それにあずかる「地上的なひな型」としてのイスラエルの民のことであるということが踏まえられています。それで、これに続く23節ー24節において、

ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

と記されています。ここでは、地上の聖所のことが「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」と言われており、より一般的に「天にあるものにかたどったもの」と言われています。そして、この「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」は動物の血によってきよめられたけれども「本物の模型」が指し示している「天にあるもの自体」、すなわち栄光の主の御臨在がある「天そのもの」は「これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」と言われています。言うまでもなく、「これよりもさらにすぐれたいけにえ」とは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになったイエス・キリストのことです。
 このイエス・キリストのことは、ヘブル人への手紙では、すでに、これより前の7章24節ー27節において、

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

と記されていますし、8章1節ー2節においても、

以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

と記されています。
 また、この9章23節ー24節の後においても、さらに説明が続いていて、10章1節ー4節には、

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されています。
 モーセをとおして与えられた律法の規定に従って動物のいけにえが繰り返しささげられました。ここで言われているささげものは、

 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と言われていますように、「雄牛とやぎ」です。そして、その前に、

 かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

と言われていることから分かりますが、年に一度、「大贖罪の日」(ヨーム・キップール)と呼ばれる日(第7の月の10日[過越の小羊が用意された日である第一の月の10日から半年後])にささげられた「雄牛とやぎ」で、罪のためのいけにえとしてささげられました(レビ記16章3節、7節)。「雄牛」は大祭司アロン自身の罪のためのいけにえとしてほふられ(11節)、「やぎ」は民の罪のためのいけにえとしてほふられました(15節ー16節)。アロンはそれらのいけにえの血を携えて聖所の奥の至聖所に入って、「自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いを」しました(17節)。
 このことが毎年繰り返して行われたことを受けて、ヘブル人への手紙10章3節では、

 かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

と言われています。そして、そのことが、

 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

ということを示していると言われています。つまり、古い契約の下で造られた聖所が「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」であったのと同じく、そこでささげられた「雄牛とやぎ」も「本物の模型にすぎない」ささげものでした。
 これに対して、イエス・キリストのことが10章10節ー14節に、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 永遠の神の御子であられるイエス・キリストは私たちのための罪のためにいけにえとなられ、十字架においてご自身をおささげになりました。
 レビ記の規定では、動物のいけにえをささげる人は、そのいけにえの動物がほふられる前に、その動物の頭に手を置くことになっていました(レビ記1章4節[全焼のいけにえ]、3章1節、8節、13節[以上、和解のいけにえ]、4章4節、15節、29節、33節[以上、罪のためのいけにえ])。代表的にレビ記1章4節を見てみますと、そこには、

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

と記されています。これは、これからささげられるいけにえが自分の身代わりになるということと、自分の罪がそのいけにえに移されるということを象徴的に表すことです。そのように、私たちの罪はすべてイエス・キリストに負わされ、イエス・キリストは私たちに代わって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって、いのちの血を注ぎ出されました。
 これによって、古い契約の下で年ごとに繰り返されていた、「大贖罪の日」に大祭司が罪のためのいけにえの血を携えて地上の聖所の奥の至聖所に入っていって、自分とその家族とイスラエルの全会衆のために罪を贖うことが「地上的なひな型」として指し示していたことが成就しました。それによって、「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」とそこで繰り返しささげられていた動物のいけにえはその「地上的なひな型」としての役割を終えました。
 十字架におかかりになったイエス・キリストが息を引き取られたときに、このことをあかしするような出来事が起こりました。マタイの福音書27章50節ー51節には、

そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

と記されています。主の神殿の聖所においては、前の部分である聖所とその奥にある至聖所が、主の栄光の御臨在があることを表しつつ主の栄光の聖さを守っているケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られていました。そして、いまお話ししましたように、その至聖所には、年に一度、大贖罪の日に大祭司がいけにえの血を携えて入ることができました。イエス・キリストの十字架の死によって、その仕切りの垂れ幕が「上から下まで真っ二つに裂けた」のです。これが、古い契約の下で「地上的なひな型」として造られた聖所が果たした最後の役割でした。これによって、御子イエス・キリストの十字架の死によって私たち主の民の罪は完全に贖われたので、私たちが主の栄光の御臨在の御許に近づくことを妨げるものはなくなったということがあかしされています。
 ヨハネの福音書16章4節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストはご自身の民が父なる神さまの御臨在の御許に近づいていって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるための道となられました。
 このことが、ヘブル人への手紙10章19節ー22節に、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。

 先ほど引用しましたヘブル人への手紙9章18節ー22節には、

したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されていました。
 ここで「初めの契約」と呼ばれているのは、モーセを仲保者とする古い契約のことです。その契約が結ばれたのは全焼のいけにえと和解のいけにえの血によるものでした。20節に引用されている、

 これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である

というモーセのことばは、イエス・キリストが地上の生涯における最後の過越の食事の席で弟子たちに語られた、主の晩餐にかかわるみことばを思い起こさせます。マタイの福音書26章27節ー29節には、

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

と記されています。イエス・キリストは十字架の上で、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、いのちの血を流されました。そして、その血によって新しい契約を確立してくださいました。これが過越の食事の席でのイエス・キリストの教えであったことは、イエス・キリストが過越の小羊として十字架におかかりになったことを意味しています。コリント人への手紙第一・5章7節に、

 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた

と記されているとおりです。
 出エジプトの時代に、主はイスラエルの民を奴隷として搾取していたエジプトに対して十のさばきを執行されました。その十番目のさばきは「人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を」打つというものでした(12章12節)。それはエジプトの地にいたイスラエル人にも当てはまることでした。しかし、主はイスラエル人のために特別な備えを示してくださいました。それは最初の月の10日に家族ごとに「傷のない一歳の雄」の羊を取っておいて、14日の夕方にそれをほふり、その肉を「火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べ」るということですが、その際に、「羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに」その羊の血をつけるように命じられました。12節ー13節には、

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしはである。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

と記されています。過越の小羊はその家の中にいるすべての初子の身代わりになってさばきを受け、いのちの血を流したのです。古い契約の下では、過越も年ごとに守られてきました。この過越の小羊が「地上的なひな型」として指し示していたまことの過越の小羊がイエス・キリストでした。イエス・キリストが十字架の上で流されたいのちの血は、出エジプトの贖いの御業の中心にある過越の小羊の血の成就でありつつ、主が私たちご自身の民と結んでくださった新しい契約の血でした。
 また、過越の夜には、過越のいけにえとしてほふられた小羊の肉を食べました。それは、過越のいけにえとしてほふられた小羊によってもたらされた贖いにあずかることを意味しています。そのようにして、私たち主の民も、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかっています。それは新しい契約の下にある私たちの間の現実となっています。
 それとともに、イエス・キリストは過越の食事の席で、

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

と言われました。それは、このようにして、すでに私たちの現実となっていること、すなわち、私たちの間に御霊によって御臨在してくださっている栄光のキリストとの親しく、豊かな交わりが、御国においてさらに豊かな愛と栄光における交わりとして完成することを意味しています。それがこれまでお話ししてきました「終末論的な宴会」によって示されています。


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