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説教日:2016年3月13日 |
主の御臨在の御許における宴会のことは、出エジプトの贖いの御業とのかかわりで示されています。主はモーセをお遣わしになって、エジプトの奴隷であったイスラエルの民をエジプトから贖い出してくださり、シナイ山の麓に宿営するよう導かれました。そして、ご自身がシナイ山にご臨在されて、イスラエルの民と契約を結ばれました。その契約を結ぶ儀式のことは出エジプト記24章1節ー11節に記されています。8節には、 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」 と記されています。この後、続いて主の御臨在の御許において、主が宴会を設けてくださいました。9節ー11節には、 それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。 と記されています。 ここに出てくる「モーセとアロン、ナダブとアビフ」そして「イスラエルの長老七十人」は「イスラエル人の指導者たち」と呼ばれています。彼らはイスラエルの会衆全体を代表しています。 ちなみに、アロンはモーセの兄で、「ナダブとアビフ」はアロンの長子と次男です。アロンと四人の男の子(「ナダブとアビフ」とエレアザルとイタマル)は祭司として主に仕えていました。しかし、レビ記10章1節ー2節に記されていますが、「ナダブとアビフ」は主の御前に主から命じられていない「異なった火」をささげたために、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死ん」でしまいました。 今もそうですが、その当時は食事を共にすることは親しい交わりをすることを意味していました。それによって、お互いを受け入れ合っていること、お互いに対して敬意を抱いていることなどを表明しました。この場合は、契約を結ぶことに関連してなされた食事ですので、これらのことともに、お互いが契約に同意し、心を合わせて契約を守る決意をも表しています。 ここでは、 彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。 と言われていますが、それは、 御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。 ということばによって説明されています。彼らは直接的に主の御顔を仰ぎ見たのではなく、そこにご臨在される主の足元の様子を仰ぎ見たのです。それでも、それは主の栄光の顕現(セオファニー)に触れることですので、普通ですと、滅ぼされてしまいます。けれども、この時は、 神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。 と記されています。これは、4節後半ー5節に、 そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。 と記されていますように、主の戒めに従って、「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」をささげていることによっていると考えられます。これらのいけにえの血が流されたことによってイスラエルの民の罪が贖われ、イスラエルの民は主の契約の民として聖別されたと考えられます。この場合、「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」は、それぞれ複数形で、相当数のいけにえがささげられたと考えられています。私たちにとっては、栄光の主であられる御子イエス・キリストが私たちの罪を贖うためのいけにえとなってくださっていますし、イエス・キリストが十字架の上で流された血が新しい契約の血となっています。 いずれにしましても、これらのことは、少なくとも、四つのことを示しています。第一に、主がご自身の民の間にご臨在されるのは、ご自身の民をご自身との交わりにあずからせてくださるためであるということです。第二に、神である主はご自身の契約に基づいて、契約の民の間にご臨在してくださるということです。第三に、主はご自身の民をご自身の御臨在の御許に近づけてくださるために罪の贖いのためのいけにえを備えてくださり、ご自身の民をそれにあずからせてくださるということです。そして、第四に、神である主の契約に基づく神である主との交わりは、その御臨在の御前で主とともに食事をするという表象によって示される豊かな交わりであるということです。 これらのことを、私たちの側から見ますと、私たちが主の御臨在の御前で主とともに食事をするという表象によって示される豊かな交わりにあずかるためには、私たち自身が主が備えてくださった罪の贖いにあずかって、罪をきよめられ、主の契約の民として聖別される、すなわち、主の民となる必要があるということになります。 次に新約聖書の事例を見てみましょう。 マタイの福音書8章5節ー13節には、イエス・キリストが百人隊長の信仰にお応えになって、彼のしもべの病をお癒しになったことが記されています。その時イエス・キリストは百人隊長の信仰について、 まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。 と述べておられます。これが10節に記されています。そしてこれに続いて、11節には、 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここで、 たくさんの人が東からも西からも来て、 と言われているときの「東からも西からも」ということは、世界中からということを意味しています。同じ教えを記しているルカの福音書13章29節では「東からも西からも、また南からも北からも」と言われていて、「南からも北からも」が加えられています。これは、詩篇107篇2節ー3節に、 主に贖われた者はこのように言え。 主は彼らを敵の手から贖い、 彼らを国々から、 東から、西から、北から、南から、集められた。 と記されていることを思い起こさせます。 そして、 天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 ということは、その当時のラビたちの教えにも見られることですが、終わりの日に実現するはずのメシヤによってもたらされる祝福としての宴会を指しています。ここでは、この百人隊長によって代表的に示されている異邦人たちが、神から遣わされた贖い主であるイエス・キリストを信じる信仰により、義とされ、主の契約の民となり、終わりの日にメシヤのお働きによって実現する契約の神である主との豊かな交わりにあずかることが示されています。これに対して、 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。 というみことばは、「御国の子ら」と呼ばれながら、イエス・キリストを神から遣わされた贖い主であると信じることがないユダヤ人たちは、これにあずかることができないということを示しています。 これはユダヤ人がすべてメシヤの御国に入ることができないという意味ではありません。イエス・キリストの弟子たちはユダヤ人でした。父なる神さまがお遣わしになったイエス・キリストを贖い主であると信じることがない人は、ユダヤ人であっても、御国に入ることができないということです。 このイエス・キリストの教えは、先ほど引用しましたイザヤ書25章6節に記されていた、 万軍の主はこの山の上で万民のために、 あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、 髄の多いあぶらみと よくこされたぶどう酒の宴会を催される。 という預言のみことばを思い起こさせます。また、「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに」ということから汲み取ることができますが、さらにその奥にある、創世記12章3節に記されています、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 というアブラハムへの約束のみことばへとさかのぼることができます。 いまお話ししている「白い石」とのかかわりで注目したいのは、マタイの福音書22章1節ー14節に記されています、たとえによるイエス・キリストの教えです。そこには、 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」 と記されています。 1節に、 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。 と記されていますが、この「彼ら」とは、この前の21章28節ー44節に記されています、イエス・キリストの二つのたとえによる教えを聞いていた「祭司長たちとパリサイ人たち」です。その二つのたとえによる教えの主旨は43節に、 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。 とまとめられています。これは、先ほど引用しました、8章11節に記されていました、 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。 というイエス・キリストの教えに通じる教えです。 このイエス・キリストの教えに対する「祭司長たちとパリサイ人たち」の反応が45節ー46節に、 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。 と記されています。 これを受けて、イエス・キリストがもう一つのたとえによる教えをなさったことが、この22章1節ー14節に記されています。 2節には、 天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。 と記されています。 これは、王が自分の息子の結婚に際して設けた披露宴[ガモイ(「結婚」を表すガモスの複数形で「披露宴」、「婚宴」を表します)]ですから、とても盛大なものであったはずです。その当時の婚宴は、通常でも数日間続いたと言われています。また、王家の婚姻にかかわることですから、その国の民にとってもとても大切なものであったはずです。ところが、3節には、 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。 と記されています。このことは、王が前もって招待すべき人々に披露宴への招待を通知していたことを示しています。このように、2度にわたって招待をすることは、その当時はめずらしいことではなかったようで、2度目の招待でそれが本当の招待であると考えることもあったようです。そうであるとしますと、招かれた人々は正式な招待がなされても「来たがらなかった」わけです。これは、王の招待を断るということで、驚くべきことです。 それでも王は招待された人々に礼を尽くします。4節には、 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。「お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。』」 と記されています。とても丁寧な招待です。この婚宴のために王がどれほど心を注いできたかがうかがわれますし、招待した人々に心から祝っていただきたいと思っていることがうかがわれます。 これは神である主が、古い契約の下では、ご自身の契約の民であるイスラエルに、預言者たちをお遣わしになったことや、イエス・キリストの時代には、この前のたとえに出てきますバプテスマのヨハネが遣わされたことを指しています。 それに対する招かれた人々の応答が5節ー6節に、 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。 と記されています。彼らは王が遣わした「王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった」と言われています。これは、その当時の考え方からしますと、しもべたちを遣わした王に恥をかかせ、反逆することを意味しています。 これによって、イエス・キリストは、自分たちこそがメシヤの御国の民であり、王子の婚宴に招待されるべき者であると考えている人々、その中心に「祭司長たちとパリサイ人たち」がいるのですが、その人々がメシヤの御国における王子の婚宴に対してこのようなことをするようになるということを教えておられます。 それで、7節には、 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 と記されています。 これは自分たちこそがメシヤの御国の民であると考えている人々、特に、このたとえを聞いている「祭司長たちとパリサイ人たち」への警告です。イエス・キリストは彼らに自分たちの現実を知ってほしいと願っておられます。 それでも王は息子の結婚の祝いを催します。8節ー9節には、 そのとき、王はしもべたちに言った。「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。 と記されています。これはもともと招かれた人々の住んでいる町とは違う所に住んでいる人々で、もともとは招かれていなかった人々のことです。しかも、ここでは「良い人でも悪い人でも」と言われています。そこには、「祭司長たちとパリサイ人たち」からしますと、とてもメシヤの御国の民とは言えないとされる人々も含まれています。それは21章に記されています二つのたとえのうち最初のたとえに出てくる「取税人や遊女たち」(31節ー32節)や、次のたとえに出てくる「神の国の実を結ぶ国民」(43節)のことです。この「神の国の実を結ぶ国民」は後にイエス・キリストがその十字架の血によって贖い出されるご自身の民、すなわち、キリストのからだである教会を指し示すものと考えられています。その人々は王の招待を受けて王子の婚宴にやって来ました。 ところが、イエス・キリストの教えはこれで終わってはいません。11節ー13節には、 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言った。 と記されています。 ここでは「婚礼の礼服を着ていない者」のことが問題となっています。私たちはこの人は貧しくて「礼服」をもっていなかったのではないかと考えたくなります。けれども、このような宴会においては、それを主催する人、この場合は、王がその宴会にふさわしい「礼服」をも用意するようです(ZIBD, p.163)。この場合もそうであったことは、この人以外のすべての人々が「礼服」を着ていたことから分かります。この人は王が「礼服」を用意してくれたことを余計なおせっかいとしてしまっています。 12節には、王がこの人に、 あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。 と言ったことが記されています。新改訳には訳し出されていませんが、ここには「友よ」という呼びかけのことばがあります。王がへりくだって丁寧に対応していることがうかがえます。それでも、この人は王の問いかけを無視してしまいます。 この教えで注目したいのは「礼服」とは何かということです。これについてはいろいろな見方がありますが、結論的なことだけをお話しします。ここでは、この「礼服」を着ていなければメシヤの御国における祝宴にあずかることができないということが示されています。そればかりでなく、この「礼服」を着ていなければ「外の暗やみに」放り出され「そこで泣いて歯ぎしりする」と言われています。これは終わりの日におけるさばきにおいて、地獄の刑罰を受けて苦しむことを表しています。このことは、この「礼服」を着ていない人が御国の民ではなかったことを示しています。 このことから、これには、先ほど出エジプト記24章1節ー11節に記されています、シナイにおいて主の契約が結ばれた記事についてのお話の中でお話ししました、主の御臨在の御前で主とともに食事をするという表象によって示される豊かな交わりにあずかるためには、主が備えてくださった罪の贖いにあずかって、罪をきよめられ、主の民となる必要があるということが当てはまると考えられます。 そうしますと、この王が用意してくれた「礼服」は、黙示録7章9節に、 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。 と記されており、14節ー17節で、 彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」 と説明されている人々が着ている「白い衣」に相当するものであると考えられます。 このことが「白い石」とどのようにかかわっているかにつきましては、「白い」ということが共通していることによっていますが、日を改めてお話しします。 |
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