黙示録講解

(第239回)


説教日:2016年3月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(20)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは最後の17節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というみことばに出てくる「白い石」についてです。
 先主日には、この「白い石」の背景として考えられているいくつかのものについて、バークレーが取り上げているものを中心としてお話ししました。その際に、それらのものを背景としてしているという見方の問題点もお話ししました。それは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている私たちが、すでに受けている祝福に照らして見たときに明らかになってくる問題点でした。その意味で先主日お話ししたことは、私たちがすでにイエス・キリストの贖いの恵みによってすでに受けている祝福を再確認するものでもありました。
 先主日に取り上げました、「白い石」の背景として考えられているものの中で問題点がないと思われるのは、その当時用いられていた「テセラ」という切符あるいは札に当たるものが、無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものであるということです。このことから「白い石」はメシヤの御国に入って、イエス・キリストとの親しい交わりを享受することを保証しているとされています。具体的には、それは、黙示録19章6節ー9節に、

また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。
 「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されている「小羊の婚宴」の席に加わる特権が与えられていることを示していると考えられています。
 このことは、この「白い石」の前に「隠れたマナ」が約束されていることとのかかわりで注目に値します。
 すでにお話ししましたように「隠れたマナ」は、古い契約の下で、出エジプトの時代に、約束の地に向かって荒野を旅していたイスラエルの民を養ってくださるために、主が日々新たに与えてくださった食べ物でした。これによって主は、ご自身が、常に、イスラエルの民とともにいてくださって、真実な御手をもって彼らを支えてくださり、約束の地に導き入れてくださることを示してくださっていました。イスラエルの民は、常に、また、どのような状況にあっても、ご自身の契約に基づいて、自分たちとともにいてくださる主に信頼し、主に従って歩むように招かれていました。
 この古い契約の下で与えられたマナは、やがて来たるべきまことのマナを指し示すものでした。そして、そのまことのマナ、古い契約の下で与えられたマナが指ししていた本体は、ヨハネの福音書6章35節で、ご自身のことを、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

とあかししておられるイエス・キリストです。
 イエス・キリストはさらに、48節ー51節で、

わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

とあかしされ、53節ー58節で、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。たしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

とあかししておられます。
 この53節ー58節に記されているイエス・キリストの教えは、イエス・キリストご自身が、古い契約の下で、約束の地に向かって荒野を旅するイスラエルの民に与えられたマナの本体であることを明らかにしています。
 54節には、

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と記されています。ここで、

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。

という教えは、現在時制で表されていて、イエス・キリストの肉と血にあずかっている私たちが、すでに、永遠のいのちをもっていることを示しています。そして、これに続いて記されています、

 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

という教えは「終わりの日に」ということばがあることからも分かりますが、未来時制で記されていて、「終わりの日に」イエス・キリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民を栄光あるものとしてよみがえらせてくださることを示しています。これは、私たちがすでにイエス・キリストの死とよみがえりにあずかって新しく生まれており、永遠のいのちをもっているという祝福が「終わりの日に」完全に実現するということです。
 そして、永遠のいのちの本質は、56節ー57節に記されている、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

という教えに示されています。56節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」と言われていることが57節では「わたしを食べる者」と言い換えられています。それで、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ということは、「わたしを食べる」ということであり、イエス・キリストご自身を、贖い主であられる主として、自分の心の奥底に迎え入れることを意味しています。
 イエス・キリストを「贖い主として」受け入れるということは、これに先立って51節で、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

と言われた後に、

またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

と言われていることによっています。この場合の「わたしが与えようとする」ということは(未来時制で表されていて)、イエス・キリストの地上の生涯におけるお働きの中でやがてなされることを表しています。それは「世のいのちのための、わたしの肉です」ということばが示しているように、イエス・キリストが「世のいのちのため」に、ご自身をいけにえとしておささげになることを指しています。ですから、今日の私たちにとって「わたしを食べる」ということは、「世のいのちのため」に、ご自身をいけにえとしておささげになられたイエス・キリストを自分の心の奥底に迎え入れることを意味しています。
 54節では、

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。

と言われていました。これと同じことが47節では、

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

と言われています。新改訳では、54節は「永遠のいのちを持っています」となっており、47節では「永遠のいのちを持ちます」となっていて、違っている(47節は将来のことの)ように見えますが、二つはまったく同じことば(エケイ・ゾーエーン・アイオーニオン)です。イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストの肉を食べ、イエス・キリストの血を飲むことであり、ご自身をいけにえとしておささげになられたイエス・キリストを、自分の心の最も深い所に迎え入れることです。
 もちろん、それは私たちの力でできることではありません。ここでは説明されてはいませんが、それは、イエス・キリストが御霊によって私たちをご自身と一つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださることによっています。そして、イエス・キリストが御霊によって、あるいは、同じことですが、イエス・キリストの御霊が私たちの心の奥底に宿ってくださることによっています。
 この場合の「心」は箴言4章23節に、

 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
 いのちの泉はこれからわく。

と記されているように、私たちのいのちの現れとしての考え方や感じ方や生き方を決定する働きをしています。この「心」をイエス・キリストがきよめてくださり、御霊によって、主と隣人への愛のうちを歩むよう導いてくださるのです。
 このこととの関連で思い起こされるのは、ヨハネの福音書7章38節に記されています、

 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

というイエス・キリストの教えです。続く39節では、

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と説明されています。
 このようなことを踏まえた上で、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

というみことばを読みますと、十字架におかかりになって死なれて、栄光あるいのちによみがえってくださったイエス・キリストを信じている私たちが私たちそれぞれのうちにいてくださるとともに、私たちもイエス・キリストのうちにあることが分かります。そして、これが永遠のいのちの本質であり、私たちはすでに永遠のいのちのをもっています。
 私たちがイエス・キリストのうちにあり、イエス・キリストが私たちのうちにいてくださるという、永遠のいのちの本質が私たちの現実となっているということが、変わることなく根底にあって、それが終わりの日に完全な形で実現するようになります。これが主イエス・キリストから「隠れたマナ」を与えていただいている私たちに起こっていることであり、終わりの日に起こることです。
 その終わりの日における完全な実現のことが黙示録では「小羊の婚宴」の席に加わることとして描かれています。そうであるとしますと、「白い石」がこの「小羊の婚宴」の席に加わる特権を与えられていることを保証しているものであるという見方は、「白い石」が「隠れたマナ」とつながっているものとして理解していることになります。このことは、この見方を支持する根拠となります。


 この見方とのかかわりで注目すべきであると思われることが、もう一つあります。
 イエス・キリストがペルガモにある教会の信徒たちに「隠れたマナ」を与えてくださると約束してくださっていることの背景には、ペルガモにある教会の信徒たちが置かれていた状況があります。
 2章13節には、

わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。

というイエス・キリストのみことばが記されています。
 これは、ペルガモがローマの属州アジアにおいて、生きている皇帝を礼拝するための神殿を建設した最初の都市であって、皇帝礼拝の中心地であったことによっていると考えられます。その当時、アジア州のような地方の都市は、ローマに対する忠誠を示すためにこぞって、皇帝礼拝のための神殿を建設し、「神殿の清掃者」という意味の「ネオーコロス」という称号を得ようとしていました。それで、皇帝礼拝はローマへの忠誠を示すための政治的な意味合いをもったものでした。ローマもこれを利用して、ローマ市民は年に一度、皇帝を祭る神殿に詣でて、皇帝の像に香をたき、「カイザルは主である」と告白するべきことが法律によって定められました。
 ペルガモはこの皇帝礼拝に熱心な町でしたから、この町に住むクリスチャンたちは迫害を受け、そのための苦しみと貧しさの中にありました。そのような中で、イエス・キリストが「わたしの忠実な証人」とあかししておられるアンテパスが殺害されました。それでも、ペルガモにある教会の信徒たちのイエス・キリストに対する信仰は揺らぐことはありませんでした。13節に、

しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と記されているとおりです。
 しかし、そのペルガモにある教会に別の道から危険が迫ってきていました。そのことが14節ー16節に、

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と記されています。
 最後の16節において、イエス・キリストが、

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と警告しておられるように、これはとても深刻な問題でした。
 ペルガモにある教会には「ニコライ派の教えを奉じている人々」がいて、信徒たちを惑わしていました。その教えは「偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた」「バラムの教え」の現代版であると言われています。ニコライ派の教えは「偶像の神にささげた物を食べさせ」、おもに偶像礼拝と関連する「不品行を行わせ」るものでした。
 そこではいろいろな理屈が考えられていました。考えられる理屈としては、ニコライ派の教えが後に盛んになるグノーシスの走りであるとしますと、クリスチャンは神によってきよめられたものであるから、この世の不品行によって汚されるわけがないという考え方です。さらに考えられることとしては、皇帝礼拝は宗教的なものではなく、政治的なものであって、人々もローマ市民の義務として行っているだけであるというような考え方があります。もし聖書の教えをこじつけたのであれば、まだ神を信じていない人たちと交わるためには、その人たちの所まで降りていって、その人たちとの交わりを深めなければならないとか、偶像などは人の手によって造り出されたもので、神としての実体がないものだから、それに香をたいたところで、こちらが何かの影響を受けるわけではないというような理屈が考えられます。
 いずれにしましても、ニコライ派の教えは、偶像礼拝、特に、皇帝礼拝を拒否したためにさまざまな形の迫害を受けて苦しみ、貧しさの中に追いやられていたペルガモにある教会の信徒たちにとっては誘惑でした。それが教会に蔓延することになりますと、教会が福音の本質を失ってしまいます。それで、イエス・キリストはペルガモにある教会の信徒たちが、そのような教えを放置していたことに気づき、それを悔い改めて、そのような教えを退けるように求めておられます。もし、信徒たちがそうしないのであれば、イエス・キリストご自身がこられて、御口の剣をもって、ニコライ派の教えを説く人々と戦われると警告しておられます。
 もしニコライ派の人々の教えが、偶像にささげられた肉のことを取り扱っている、コリント人への手紙第一・10章25節ー26節aに記されています、

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

という教えであったとしたら、イエス・キリストが問題とされることはなかったことでしょう。
 ニコライ派の人々が「偶像の神にささげた物を食べさせ」たということは、その当時において盛んであった偶像にかかわる祭りにおいて設けられた祝宴において無料で振る舞われた「偶像の神にささげた物」であったと考えられます。
 そのようなことに触れていると思われるみことばもあります。コリント人への手紙第一・8章10節ー11節には、

知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。

と記されています。「偶像の宮で食事をしている」人はクリスチャンです。その人は、4節に記されている、

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

という教えを盾に取って、偶像には実体がないのだから、偶像に供えた肉を、偶像を祭る宮で食べたとしても、それで汚れるわけではないというような理屈をもって、偶像にかかわる祭りの祝宴に参加していると考えられます。
 ちなみに、パウロはこのような理屈が通らないことを、10章19節ー21節で、

私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

と述べています。確かに、パウロが言うように、偶像そのものは人の手によって造られたもので、単なる物体と同じです。けれども、ここでパウロは、そのようなものを用いて人を縛りつけ、支配している悪霊たちが働いているということを指摘しています。
 いずれにしましても、ペルガモにある教会の信徒たちは、その当時の社会で一般的に行われていた偶像にかかわる祭りにおいて設けられた祝宴において無料で振る舞われた「偶像の神にささげた物」を食べることや、不品行、特に、それらの祭りと関連して行われている不品行を避けるように求められています。
 それは、基本的に、偶像礼拝、特に、皇帝礼拝を中心とする偶像礼拝を避けることを求めることです。それがローマ帝国でどのようなことをもたらすことになるかは、黙示録13章15節ー17節に、

また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

と記されています。
 これは11節に、

 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。

と記されています、地から上ってきた獣の働きを示すものです。この地から上ってきた獣はこの後は「にせ預言者」と呼ばれています。そして「剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣」とは、13章1節に、

 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

と記されています、海から上ってきた獣です。地から上ってきた獣は人々に、この海から上ってきた獣の像を造らせ、「その獣の像を拝まない者をみな殺させ」ました。そして、すべての人にその獣の刻印を受けさせました。その刻印をもっていない人には売り買いができないようにしてしまいました。
 これは終わりの日に登場する反キリストの王国において頂点に達する、初代教会の時代から世の終わりまで連綿と続く獣の王国の描写ですが、それは黙示録が記された当時では、ローマ帝国において起こっていくことです。
 偶像にかかわる祭りにおいて設けられた祝宴において無料で振る舞われた「偶像の神にささげた物」を食べることを避けることは、ただ単に、ただで振る舞われたご馳走を食べられなかったということではありません。それは、その当時の、皇帝礼拝を中心とする偶像を祭る神殿で行われる祭りによって、さまざまな社会的な関係が成り立っている社会では、迫害を受けることになり、そのような社会的な関係から締め出されてしまう危険を伴うことでもありました。それで、偶像礼拝と、特にそれに関連する不品行を避けることは、大きな犠牲を伴うことでした。そのことが、偶像にかかわる祭りにおいて設けられた祝宴において無料で振る舞われた「偶像の神にささげた物」を食べることを避けることによって代表的に示されるとすれば、そのことで、迫害の苦しみに会い、さまざまな社会的な損失をこうむることになります。
 そして、実際に、迫害による苦しみと貧しさの中にあってなお「偶像の神にささげた物」を食べることを避けていたペルガモにある教会の信徒たちは、その点で妥協してもよいと教えるニコライ派の教えを退けるよう求められました。それはペルガモにある教会の信徒たちにとっては、損失に見えるかも知れませんが、この世におけることであり、一時的なものでしかありません。ペルガモにある教会の信徒たちには、すでに、「隠れたマナ」が与えられており、それにあずかっているとともに、終わりの日には、その祝福の完全な実現である「小羊の婚宴」の席に加わる特権が与えられているのです。
 これがペルガモにある教会の信徒たちに「隠れたマナ」が与えられる約束の社会的な背景であり、「隠れたマナ」が与えられることが「小羊の婚宴」において、頂点に至るとしますと、「白い石」が与えられることがその「小羊の婚宴」の席に加わる特権が与えられていることを保証するものであるという見方には意味があると考えられるわけです。
 「小羊の婚宴」にあずかるということは、「婚宴」とはいつか終わるものであるということから、一時的なことのように思われます。けれども、「小羊の婚宴」はそのような一時的なものではありません。[注]先ほどお話ししましたように「小羊の婚宴」は、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

というイエス・キリストの教えに示されている、イエス・キリストと私たちの間に、御霊によって生み出されている祝福としての、いのちの交わりが完全に実現することを意味しています。そして、これが永遠のいのちの本質ですが、このイエス・キリストとのいのちの交わりは、永遠のいのちの本質ですので、どこかで終わってしまうのではありません。むしろ、この交わりは常に新たないのちの祝福をもたらし、さらに深められていくものです。

[注]日を改めてお話ししますが、終わりの日における、主と私たち主の契約の民との交わりの完成を表す祝宴はいくつかの表象で表されていて、それが永遠に続く交わりであることを示しています。

 今日お話ししました、「白い石」はその当時用いられていた「テセラ」という切符あるいは札に当たるもので、無償で、メシヤの御国に入って、イエス・キリストとの親しい交わりを享受することを保証しているという考え方は一つの可能性です。これには、これと矛盾するものではありませんが、もう一つのことが考えられます。それにつきましては、改めてお話しします。


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