黙示録講解

(第238回)


説教日:2016年2月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(19)


 今日も、ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今取り上げているのは、最後の17節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というみことばです。
 これまで、イエス・キリストが霊的な戦いにおいて「勝利を得る者」に与えてくださると約束してくださっている「隠れたマナ」についてお話ししてきました。今日は、それに続いて、

 また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と約束されている「白い石」についてお話しします。
 この「白い石」が何を意味しているかについては、いろいろな説があります。それはこの「白い石」の背景になっているものが何であるかについていろいろな考え方があることによっています。
 この背景になっていると考えられているものについての比較的詳しい説明はバークレーの注解書(『ヨハネの黙示録』上、125ー128頁)に見られます。少し長い説明もありますが、なるべく簡潔にそれらを紹介しつつ、私のコメントもお話ししたいと思います。取り上げる順序はバークレーに従います。
 これからいろいろな見方を紹介し、批判的なことをお話ししますが、それは、私たち主の契約の民がすでにあずかっている主の恵みについて再確認するためのことでもあります。そのことを念頭に置きながらお話を進めていきたいと思います。


 第一に、ラビの伝説では、マナと一緒に尊い石が天から降ってきたと言われています。それで、この「白い石」は神の民に対する神の尊い贈り物であるとされています。
 これについては、すでに、マナについてのユダヤ人の伝説についてお話ししたことが当てはまります。マナと一緒に貴重な石が天から降ってきたということは、みことばの根拠がありません。また、マナと一緒に貴重な石が降ってきたのであれば、人々はマナよりも宝石となる石の方に心が引きつけられていたことでしょう。主はご自身の民の日ごとの必要を満たしてくださることによって、常に変わることのない主の真実な御臨在をお示しくださり、主の民が日ごとに主に信頼して歩むように導いてくださっています。それが、宝石となる石が天から降ってくるというようなことであれば、そのような特別なものを期待して待ち望むというような信仰の姿勢が生み出されることでしょう。ですから、マナと一緒に貴重な石が天から降ってきたという伝説は、マナが与えられた意味を増し加えるどころか、それを割引し、歪めるものです。
 これに先立って「隠れたマナ」のことをお話しになったイエス・キリストがここで、そのようなものを背景として「白い石」のことを語っておられるとは思われません。
 第二は、今の子どもたちが針金を通したビーズを使って数を数えるように、昔の人は石を使ってそうしたということが背景になっているという見方です。これはクリスチャンが忠実な者の数に数えられているという意味に解釈できるというのです。
 この見方は、私が調べられる限りでのことですが、他の注解者たちが触れていないものです。それは他の注解者たちがこの見方を取り上げるほどのものではないと判断しているからです。
 ここには「白い石」がつながれて、あるいは、つながれてではないとしても、数えられるために用いられるということを示すものはありません。また、仮にもしこれが、「白い石」の意味することであるとすれば、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と戒められていたスミルナにある教会への約束の中で語られたほうがよかったのではないかと思われます。
 黙示録では、主の契約の民は確かに数えられています。しかし、それは「いのちの書」に登録されているという形においてです。
 地からの獣のことを記している13章8節に、

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

と記されていますし、終わりの日におけるさばきのことを記している20章15節に、

 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

と記されています。また、新しいエルサレムのことを記している21章27節には、

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

と記されています。
 これに対して、もし「白い石」は「忠実な者の数に数えられ」る者たちだけを数えるためのものだというのであれば、そもそも、このイエス・キリストの約束において、それが「勝利を得る者に」与えられると約束されているときの「勝利を得る者」には、「忠実な者の数に数えられ」ない者たちは含まれていないということになってしまいます。けれども、私たち主の契約の民はすべて霊的な戦いにおいて、主であられるイエス・キリストの勝利にあずかって「勝利を得る者」となります。ローマ人への手紙8章37節ー39節に、

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と記されているのは、一部のいわゆる「エリート・クリスチャン」(そのような存在がいるわけではありませんが)にだけ当てはまることではありません。霊的な戦いにおける勝利は父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みによることであって、私たちすべてがそれにあずかっていますエペソ人への手紙2章4節ー6節にも、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 第三に、その当時の裁判において判決を下すときに、陪審員が黒い石と白い石を用いたことが背景となっているという見方があります。黒い石は有罪を示し、白い石は無罪を示していました。このことは、クリスチャンがイエス・キリストの御業によって神の御前に無罪となり義と認められることを意味するというのです。
 石が裁判において用いられていたことは聖書にも記録があります。ここで用いられている「白い石」の「」ということば(プセーフォス)は、ここに2回出てきますが、その他では使徒の働き26章10節に出てくるだけです。そこには、パウロがかつての自分のことを、

祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。

とあかししていることが記されています。この「」が「」ということば(プセーフォス)です。ただしここでは色のことは出てきません。ここでは、「投じる」という動詞(カタフェロー)が、取り扱われている人の益とならないように投票するという意味合いを伝えています。
 この理解には問題があります。私たちイエス・キリストの民は、イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださったことによって、すでに、罪を贖っていただいています。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義にあずかって、すでに、神さまの御前に義と認められています。それで、天の法廷における私たちに対する最終的な裁判はすでに終わっていますし、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰も執行されて終わっています。
 ところが、イエス・キリストの、

 また、彼に白い石を与える。

という約束は未来時制で記されています。これが私たち主の民が無罪とされ義と認められることを意味しているとすると、私たちに対する、主の御前における裁判がまだ終わっていない、したがって、私たちはまだ神さまの御前において無罪とされていないし、義と認められてもいないということになってしまいます。

 第四の見方は、「白い石」はその当時使われていた「テセラ」に当たるというものです。テセラはラテン語(tessera)ですが、英語にもなっています。テセラは、バークレーのことばを引用しますと、「木、金属、石などでできている小型の板で、その上に文字が書いてあった。大抵の場合、テセラをもつ者は何かの権利、特権を与えられていた」と言われています。そして、注目すべきものとして三種類のテセラが取り上げられています。
 一つは、裕福なローマ人の大邸宅には被護民がいて生活を支えられていました。被護民として日ごとに無償で食料や金銭の支給を受ける権利を照明するためにテセラが交付されることがありました。それで、「白い石」は、クリスチャンたちが無償で与えられるいのちの賜物を受ける権利をもっていることを示していると言うのです。
 けれども、これには、先ほどお話ししたのと同じ問題があります。私たち主の民は、すでに、いのちの賜物を与えられてもっています。さらに言いますと、私たちは被護民どころか、イエス・キリストを長子とする神の家族に養子として迎え入れていただいて、神の子どもとしての身分と特権を与えられてもっています。
 二つ目は、古代社会における最大の名誉は競技に優勝することでした。競技に優勝した人々の中でも特に傑出した人たちは、競技の主催者からテセラを与えられ、それ以後すっと、無料で、公共の展覧会、競技場、演技場に入場できました。それで、クリスチャンは受賞したキリストの競技者として、主の名誉と栄光にあずかることができるというのです。
 これがバークレーの説明ですが、これにも、いくらかの問題があります。それは、このテセラは、すでに勝利者に与えられており、与えられた人々は、すでに、その特権を行使しているということです。けれども、先ほどお話ししましたように、

 また、彼に白い石を与える。

という約束は未来時制で記されています。それは、この前の「隠れたマナ」の約束と同じように、すでに実現し始めているということを含んでいますが、その強調点は終わりの日における完成のほうにあります。
 これには別の説明もあります。それは、このテセラが無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものであるということに注目します。そして、この「白い石」はメシヤの御国に入ることと、イエス・キリストとの親しい交わりを享受することを保証しているというのです。また、このこととのかかわりで、黙示録19章9節に、

 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されている「小羊の婚宴」の席にも加わることが許されていることが示されているとも言われています。この説明ですと、「白い石」によって示されている祝福は、すでに実現し始めているということを含んでいますが、その強調点は終わりの日における完成のほうにあるということになります。
 テセラについての三つ目のことは、ローマにおいては剣闘士は倒れるまで戦わなければならなかったが、優れた剣闘士で特別に輝かしい栄誉を受け、人気を集めてきた人たちは、歳を取ってからの戦いを免除され、名誉ある者として引退することを許されました。その人たちにはラテン語のスペクタトゥスの略語であるSPという文字を記したテセラが与えられました。それで、クリスチャンはキリストの闘士として人生の戦いにおいて勇気が実証されたとき、キリストが与えられる名誉ある休息に入ることが許されるというのです。
 これには少し問題があります。確かに、14章13節には、

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

と記されています。そして、6章9節ー11節に、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

と記されていることに照らして見ますと、先ほど引用しました14章13節に記されていることは殉教者たちに当てはまりす。けれども、その14章13節に記されていることは、その前の、9節ー11節に、

また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

と記されていることと対比されています。9節ー12節に記されていることは「獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受け」ている者すべてのことです。それとの対比で語られている、

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

という、13節に記されていることばも「主にあって死ぬ死者」すべてに当てはまると考えられます。「主にあって死ぬ死者」とは主イエス・キリストの贖いの恵みにあずかってイエス・キリストの民となり、イエス・キリストに従い、最後までイエス・キリストの民として歩んだ死者のことです。その中にはもちろん殉教者たちも含まれますが、その生涯をとおしてイエス・キリストを主として信じて、イエス・キリストの民として歩む聖徒たちすべてが含まれています。
 このようなことから、剣闘士の中でも特に優れた剣闘士としての功績を積み上げ、その栄誉を受け、人々から認められた人たちだけに与えられるテセラを「白い石」の背景と考えることには問題があります。
 また、引退した剣闘士はもうそれ以上、剣闘士としては働きません。けれども、私たち主の民は新しい天と新しい地において引退生活に入るのではありません。マタイの福音書25章14節ー30節には、主人がそのしもべたちにそれぞれの能力に応じて、タラントを預けて旅に出て、帰って来てからその清算をするというたとえが記されています。そこでは、帰って来た主人が、忠実なしもべたちすべてに、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

と語っています。地上で主のしもべとして仕えた主の民に対して、終わりの日に、主はその働きを評価してくださり、さらに豊かに仕える者としてくださいます。
 さらに、ヘブル人への手紙2章5節には、

 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

と記されています。この「後の世」とは、終わりの日に栄光のキリストが再臨され、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地のことです。そして、続く6節ー10節には、この「後の世」を治めるようになるのは、神さまが天地創造の御業において神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになった人で、イエス・キリストの苦難と栄光にあずかっている主の民であることが示されています。
 以上が、三つの種類のテセラのことです。
 バークレーが挙げている「白い石」の背景と考えられているものの第五は、昔の人が特別にめでたい日を「白い日」と呼んだということです。それで、クリスチャンはイエス・キリストによって人生に喜びと幸福とを見出し、しかもその喜びをだれも取り去ることはできないというのです(ヨハネの福音書16章22節)。
 これに問題があることはすぐに分かります。これも私が調べられる限りの注解者たちは、この見方を取り上げてはいません。ここでは、「白い石」と「白い日」が何かこじつけのように結び合わせられています。クリスチャンはイエス・キリストによって人生に喜びと幸福とを見出し、しかもその喜びをだれも取り去ることはできないということは、ごく全般的なことです。けれども「白い石」はその中でも、何か特別な祝福を示していると考えられます。

 第六のものは、バークレーが最も適切なものとしているものです。それで、彼のことばを引用しておきましょう。彼は、
昔は魔よけ、守り札を身につける習慣が広く行きわたっていた。この守り札は、金や銀などの貴金属や、ダイヤモンドのような宝石でできている場合もあったが、大抵は普通の小石で、その上に神聖な名が書いてあった。この神の名を知っていれば、その神をある程度自由にすることができたし、困ったときには助けを求め、悪魔を追放させることができると考えていた。この守り札に書き込まれている名前が、それをもっている人以外にだれも知らない場合には、二倍の効き目があると思われていた。そこでヨハネはおそらくつぎのようにいっているのではないだろうか。「異教徒の人たちは――あなたがたも以前はそうしていたのだが――迷信的な文字を書いた魔よけ札、守り札を身につけて、それで安全だと思っている。でもあなたがたはそんなことをする必要がない。あなたがたはただ一人のまことの神の名を知っているから、生きている間も、死んでからも安全に守られている」。異教徒は迷信的な守り札を信じ、クリスチャンは神の名に信頼を置くのである。
と説明しています。
 バークレーは、これが「白い石」の最も適切な背景であるとしています。イエス・キリストはこのことを背景として、ペルガモにある教会の信徒たちに、

また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と約束してくださったと理解しているのです。
 しかし、この理解にはいくつか問題があります。
 まず何よりも、この「白い石」を与えられると約束されているペルガモにある教会の信徒たちを初めとして、私たち主の契約の民は、すでに、偶像やおまじないの類いの空しさを知っています。ですから、ことさらに異邦人が魔よけや守り札をもっていることが持ち出される必要がありません。そのようなものと対比されなくても、主イエス・キリストが永遠に自分たちとともにおられて、父なる神さまの子どもとしての歩みをこの世においても、来たるべき新しい天と新しい地においても支えてくださり、導いてくださることを信じています。
 私たちが住んでいる日本の社会でも、人々が「お守り」を身につけ、お札をあちこちに貼り付けています。私たちもそのようなものに慣れ親しんできたものです。そのような日本の社会において、新しく主を信じるようになった人、あるいは、信じてあまり年月が経っていない人に、造り主である神さまを信じていない人々がお守りを身につけたり、お札をあちこちに貼っているけれども、あなたがたはには「白い石」が与えられているというようなことを言うとしますと、それを聞いた、信じたばかりの人は、「白い石」とはイエス・キリストが与えてくださるお守り札のようなものではないかと考えないでしょうか。魔よけや守り札との対比で「白い石」が与えられることが語られることには、無用な誤解を生み出しかねない危険があります。
 また、ペルガモにある教会の信徒たちにとって問題となっていたのは魔よけや守り札を身につける習慣ではなく、皇帝礼拝を中心とする偶像礼拝のことです。それが職業上の組合の交わりの要となっている社会にあって迫害による苦しみと貧しさの源となっていたことです。その意味でも、魔よけ、守り札を身につける習慣との対比で、イエス・キリストの御手の守りが語られることはポイントがずれています。
 さらに、すでに繰り返しお話ししていますが、イエス・キリストの、

 また、彼に白い石を与える。

という約束は未来時制で記されていて、すでに実現し始めているということを含んでいますが、その強調点は終わりの日における完成のほうにあります。そして、終わりの日における完成とは新しい天と新しい地におけることです。そこでは、21章3節ー4節に、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されているとおり、もはや暗やみの主権者の働きはありませんし、死も悲しみも叫びもありません。それで、そのようなものから守られるべき必要はありません。言い換えますと、魔よけや守り札を身につける習慣との対比で示されるような主の保護も必要ないということです。
 最後に、このバークレーの説明では、

 この守り札に書き込まれている名前が、それをもっている人以外にだれも知らない場合には、二倍の効き目があると思われていた。

とか、

 あなたがたはただ一人のまことの神の名を知っているから、生きている間も、死んでからも安全に守られている

と言われています。このことは、

また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というイエス・キリストの約束に出てくる、「新しい名」は神の御名であるということになっていると考えられます。
 確かに、イエス・キリストがフィラデルフィヤにある教会の信徒たちに与えてくださった約束を記している3章12節には、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

と記されています。
 けれども、この2章17節に記されているペルガモにある教会の信徒たちに与えられた約束に出てくる「新しい名」は、

 それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名

と言われていますように、「それを受ける者」の名です。もしそれが神の御名であれば、フィラデルフィヤにある教会の信徒たちに与えられた約束において「わたしの神の御名」、「わたしの新しい名」と記されているのと同じように、それと分かるように記されているはずです。また、もしそれが神の御名であれば、神の子どもたちはみなそれを知っていると考えられます。少なくとも、バークレーが述べている魔よけ札や守り札に記されている神の名は、その札を持っている者が知っている名であることになっています。
 このように、この「白い石」の背景に、その当時の人々の間に、魔よけ札や守り札を身につける習慣があったという見方は、退けられるべきものです。
 「白い石」の背景となっているものとして考えられているこれらのものは、バークレーが挙げている二つを除いて、他の注解者たちも挙げているものです。これらの他にも、考えられているものがあります。これらのものに限って言いますと、問題を指摘しなかったのは、第四の見方が取り上げている三つの種類のテセラのうちの、二つ目に取り上げたものが、テセラが無償で特別な会場に入場できる特権を保証するものであるということに注目していることです。そして、この「白い石」はメシヤの御国に入ることと、イエス・キリストとの親しい交わりを享受することを保証しているという見方です。このことは、

 また、彼に白い石を与える。

という約束は未来時制で記されていて、すでに実現し始めているということを含んでいますが、その強調点は終わりの日における完成のほうにあるということと合致します。
 ただ、これが「白い石」が示すことであるかどうかについては、もう少し考えなければなりません。特に、黙示録の中で「白い石」の「白い」ということばがどのようなことを意味しているかということや、それに「新しい名」記されているということがどのようなことかを、聖書全体の光の下で理解する必要があります。
 初めにお話ししましたように、私たちはこれらの見方の問題点を理解するだけでなく、というより、それ以上に、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている私たちが、すでに、どのような恵みと祝福を受けているかを心に刻みたいと思います。そして、主イエス・キリストがそのすべてを完全に実現してくださる終わりの日を待ち望みたいと思います。


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