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説教日:2016年2月21日 |
2節で、 あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 と言われているときの、「心」(ここではレーバーブ、あるいは、より基本的なレーブ)は「心臓」を表すことばですが、聖書の中では、「心臓」を表す事例は少なく、多くは人格としての人の内的な性質の全体を表すために用いられています。私たちは「心」ということばは、どちらかというと情緒的な面を伝えるものと受け止めます。聖書の中では「心」は、神のかたちとして造られている人の人格の中心にあるものであり、人格の全体にかかわっています。ただ単に感情的なことにかかわるだけでなく、知性、感情・意志のすべてにかかわっています。 箴言4章23節には、 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。 と記されています。これは、神のかたちとして造られている人のいのちの現れである、人の考え方、活動の仕方、生き方など、人の人格的な活動の方向性を決定しているのは、その人の「心」であるということを示しています。そして、その心のあり方の中心にあるのは、契約の神である主、ヤハウェとの関係のあり方です。 詩篇14篇1節には、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の状態について、 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。 と記されています。これは、堕落後の人においては、その人のいのちの現れである、考え方、活動の仕方、生き方など、人の人格的な活動の方向性を決定している「心」が「神はいない」という根本原理に従って働いているということを意味しています。人は「神はいない」という根本原理に従ってあらゆることを考え、思い、行動し、生きているということです。 このように、神のかたちとして造られている人の心のあり方の中心にあるのは、契約の神である主、ヤハウェとの関係のあり方です。それで、申命記8章2節で、 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 と言われているときの、 あなたの心のうちにあるものを知るためであった ということは、その人の神である主との関係のあり方を知るためであるということになります。またそれで、この、 あなたの心のうちにあるもの ということが、ヘブル語ではこの後に出てくる、 あなたがその命令を守るかどうか と言い換えられています。この場合の「その命令」は文字通りには「彼の命令」で、2節前半で、 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。 と言われている中に出てくる「あなたの神、主」の「命令」です。この「あなたの神、主」の「主」は新改訳で太字になっていることから分かりますが、契約の神である主、ヤハウェです。そして「あなたの神、主」とは、ご自身の契約に基づいてイスラエルの民の神となってくださったヤハウェです。この2節では、40年にわたって、荒野でイスラエルの民を歩ませてくださった方、イスラエルの民を養い、訓練し育ててくださった方は「あなたの神、主」であることが示されています。 ですから、2節後半で、 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった と言われているときの「その命令」すなわち「あなたの神、主」の「命令」とは、契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約の民であるイスラエルのあり方を示してくださったものです。そして、そのイスラエルのあり方中心にあるのは、「あなたの神、主」すなわち契約の神である主、ヤハウェとの関係のあり方です。 この場合の「命令」は複数形ですが、主のすべての命令・戒めは、同じ申命記の少し前の6章5節に記されています、 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めに要約されます。そのことは、マタイの福音書22章37節ー39節に、 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 と記されているイエス・キリストの教えに示されています。この(申命記6章5節に記されています)、 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めでも、神さまは「あなたの神、主」として示されていますように、ご自身の契約に基づいてイスラエルの民の神となってくださったヤハウェです。 これらのことから、8章2節後半で、 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 と言われているときの、 あなたがその命令を守るかどうか ということは、イスラエルの民が、契約の神である主、ヤハウェを「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛するかどうか、そして、主を愛し、主を信頼して「その命令」に従うかどうかを明らかにするためということを意味しています。 2節に記されています、 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 というみことばを理解する上で、もう一つ大切なことがあります。 それは、ここで、 あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 と言われているのは、契約の神である主、ヤハウェが「知るためであった」という意味です。けれども、主はイスラエルの民のすべてを完全にご存知です。詩篇139篇15節ー16節には、 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、その一日もないうちに。 と記されています。また、ヘブル人への手紙4章13節にも、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。 と記されています。 そうしますと、申命記8章2節で、神である主がイスラエルの民を苦しみをもって試したのは、イスラエルの民がご自身の「命令を守るかどうか」、イスラエルの民の「心のうちにあるものを知るためであった」と言われていることをどのように考えたらいいのでしょうか。 まず、心に留めておきたいことは、これは、いわば擬人化された言い方、神さまを人になぞらえて表す表し方であるということです。これによって、私たちが神さまを生きた方として、ありありと知ることができるようになっています。 またこれは、神である主がヘブル人への手紙4章13節で言われているような一般的な意味ですべてのものを完全に知っておられるという意味とは少し違っています。先ほどお話ししましたように、ここでは、神さまのことが「あなたの神、主」として示されています。それで、ここでは、ご自身の契約に基づいてイスラエルの民の神となってくださり、イスラエルの民の間にご臨在してくださっている契約の神である主、ヤハウェが、イスラエルの民の「心のうちにあるものを」知ってくださるということです。 詩篇139篇15節ー16節に記されていることは、主に向かって「あなた」と呼びかけていますので、主との親しい交わりのうちにある主の契約の民の告白です。 そのように主がご自身の民のことを親しく知ってくださるということは、外から客観的に眺めるようにして見て知るようになるということではありません。先ほどお話ししましたように、契約の神である主、ヤハウェの戒めは、私たちがご自身を「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛することを求めています。けれども、それに先立って、主が私たちを愛してくださって、私たちをご自身の民としてくださっています。申命記7章6節ー8節に、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されているとおりです。 8章2節では、この主が、イスラエルの民の「心のうちにあるものを」知ってくださるというのです。それは、主がその愛をもって、また、その贖いの恵みによって、イスラエルの民をご自身の聖さにあずからせてくださり、さらにご自身との深く豊かな交わりに生きるものとしてくださるためです。ご自身の民の中に罪があることが明らかになった場合でも、主はその恵みとあわれみによって、ご自身の民がその罪を自覚し、悔い改めて、ご自身の贖いの恵みにあずかるように導いてくださいます。詩篇103篇3節ー4節には、 主は、あなたのすべての咎を赦し、 あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 と記されており、11節ー14節には、 天が地上はるかに高いように、 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。 東が西から遠く離れているように、 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。 父がその子をあわれむように、 主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。 と記されています。 そのために、主はイスラエルの民を苦しみに会わせ、彼らを試されました。それはイスラエルの民の益のためです。詩篇119篇67節には、 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。 しかし今は、あなたのことばを守ります。 と記されています。また71節には、 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました。 と記されています。それで、75節には、 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、 あなたが真実をもって私を悩まされたこととを 知っています。 と記されています。 新約聖書にも同じような教えが記されています。 ヘブル人への手紙12章4節ー8節には、 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。 主の懲らしめを軽んじてはならない。 主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。 と記されており、11節には、 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 と記されています。 また、ローマ人への手紙5章1節ー5節には、 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 と記されています。 主が私たちには計り知れないみこころによって、私たちご自身の民を試練に会わせられるのは、ご自身の愛に基づくことです。それは、私たちを御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者としてくださるという永遠からのみこころを実現してくださるためです。ローマ人への手紙8章28節ー29節に、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と記されているとおりです。 実際に、その子イサクをささげるように命じられたアブラハムや、想像を絶する災いと苦しみに見舞われたヨブに見られるように、神である主はご自身の民に与えられる試練をとおして、その人を一段と成長させてくださり、ご自身をさらに深く知るもの、ご自身とのさらに深く豊かな交わりに生きる者としてくださいます。 これらのことを踏まえますと、申命記8章2節で、 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 と言われていて、続く3節ー4節において、 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせた で終わらないで、さらに、 あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と言われていることが理解できます。 荒野のイスラエルの第一世代は、荒野において飢えるという主がお与えになった試練の中で、主に対する不信を募らせました。それでも主は、マナをお与えになって彼らを飢えから救い出してくださり、ご自身が彼らとともにいてくださることをありありと示してくださいました。それによって主は、彼らが荒野の中でさまざまな試練を経験するときに、主がともにいてくださることを信じ、主に信頼して歩むように招いてくださっていたのです。 黙示録12章6節には、新約の教会を表象的に表している「女」が、サタンを表象的に表している「大きな赤い竜」の迫害から逃れたことが、 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。 と記されています。 また、7節ー12節には、「竜」とその使いたちが天での戦いに敗れて地に投げ落とされたことが記されています。これを受けて、続く13節ー14節には、 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。 と記されています。 ここでは、「荒野」のことが「女」にとって「自分の場所である」と言われており、6節では「神によって備えられた場所」であると言われています。私たちイエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民は、この「荒野」において、「地上に投げ落とされた」「竜」とその使いたちとの霊的な戦いを戦うように召されています。私たち新しい契約の民は、「荒野」においてさまざまな試みを受けることになります。しかし、主はこの「荒野」においての歩みを続ける私たちご自身の民に「隠れたマナ」を与えてくださると約束してくださっています。これによって、古い契約の下で荒野のイスラエルに与えられたマナの本体である栄光のキリストご自身が私たちとともにいてくださることを約束してくださっています。そして栄光のキリストは、この「荒野」において私たちが経験する試みがもたらす苦しみをとおして、私たちがご自身のかたちに似た者となるように養い育ててくださいます。 また、この「荒野」における歩みは、いつまでも続くものではありません。これらのみことばに出てくる「一時と二時と半時」はダニエル書7章25節と12章7節に出てくる期間を受けています。そして「一時と二時と半時」が3年半を表し、ひと月を30日としますと、それは「千二百六十日」になります。黙示録では、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められてから世の終わりまでの期間を示す黙示文学的な表象です。 終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、私たちをすべての点においてご自身のみかたちに造り変えてくださいます。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 先ほど引用しましたローマ人への手紙5章1節ー4節においては、私たち主の契約の民は、この希望のうちある者として、患難をも喜んでいると言われていました。私たちは「荒野」において、まことのマナである主イエス・キリストの血と肉にあずかり、主との豊かないのちの交わりのうちを歩んでいます。栄光のキリストはこの「荒野」において、私たちを御霊によって、ご自身の栄光の御姿に似た者に造り変えてくださっています。コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されているとおりです。 |
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