![]() |
説教日:2016年2月14日 |
このことに関して、さらに考えておかなければならないことがあります。それは、アブラハムはこの時に初めて主を信じたわけではないということです。先ほどお話ししましたように、アブラハムは主、ヤハウェから召しを受けた時に、それに従って、旅立ちました。アブラハムは主から受けた召命に応えただけでなく、その時に与えられた祝福の約束を信じたのです。また、カナンの地に来た時のことを記している12章7節ー8節には、 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。 と記されています。このことは、アブラハムが主、ヤハウェを礼拝する者であることを示しています。そればかりでなく、この時、、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える という主の約束を信じたことを示しています。 そして、アブラハムは主、ヤハウェを神として礼拝することを中心とした主との交わりにあずかっていましたし、主が個人的にアブラハムのことを「あなた」と呼びかけて、語ってくださるという特権にもあずかっていました。その意味では、アブラハムはすでに主、ヤハウェとの関係が、主の1方的な恵みによって回復されていました。その意味で、アブラハムのこの時までの歩みは義を行う歩みでした。 そうであるとしますと、この15章6節において、アブラハムが主を信じたこと、すなわち、アブラハムの信仰そのものを主がアブラハムの義と認めてくださったということをどのように考えたらいいのでしょうか。 これについては、アブラハムが信じたことがアブラハムの相続人としての子孫についての主の約束のみことばであったことと関連していると考えられます。これにはいくつかのことがかかわっています。 すでにお話ししましたように、アブラハムは、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という特別な約束を与えられて召されました。それはアブラハムの使命でもありました。アブラハムはこのような召しを与えてくださった主を信じて旅立ち、カナンの地に来た時に、そこで自分に現れて、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える という約束を与えてくださった主、ヤハウェを信じて礼拝していました。これらのことは12章に記されています。 これらのことと、15章において、アブラハムが相続人としてのアブラハムの子孫についての主の約束を信じ、主を信頼したことは切り離し難くつながっています。というより、アブラハムが相続人としてのアブラハムの子孫についての主の約束を信じ、主を信頼したことはそれまでのアブラハムの歩みの頂点にあります。もちろん、それはアブラハムのそれまでの歩みの頂点ということで、ここでアブの歩みがそれ以上進まなかったという意味ではありません。この後アブラハムはさらなる高みに向かって進んでいきます。 このことを考える上で大切なことは、アブラハムが相続人としてのアブラハムの子孫についての主の約束を信じ、主を信頼した時、アブラハムが何歳であったかということです。 12章4節では、アブラハムが主から召しを受けて旅立ったのが75歳の時であったと言われています。このことは、アブラハムがカナンの地に来た時に、自分に現れてくださり、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える という約束を与えてくださった主、ヤハウェを信じて礼拝するようになった時も、ほぼ75歳の時であったと考えられます。そして、この時、アブラハムは主が自分に子孫を与えてくださることを信じたと考えられます。 そして、15章においては、3節に、 ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう というアブラハムのことばが記されています。これは、75歳の頃には主の約束のみことばに基づいて自分に子孫が与えられることを信じたアブラハムが、もう主は子孫を与えてくださらないのではないかと考えるようになっていることを示しています。それには相当の年月が経っているはずです。 このアブラハムに主が、 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 と言われ、アブラハムの子孫が天の星のようになると約束してくださいました。 これを受けて、続く16章には、サラは自分たちから子どもが生まれないことを認めて、アブラハムにサラの女奴隷のハガルによって、アブラハムの子を生むように提案しました。アブラハムはそれを受け入れて、イシマエルを生みました。16節には、イシマエルが生まれた時、アブラハムは86歳であったと記されています。 これは2人が、もはやサラからは子が生まれないことを認める1方で、アブラハムからは子が生まれることを信じたということを意味しています。それは2人が、アブラハムの子孫が天の星のようになると約束してくださった主を信じたことによっています。それで、主がアブラハムの子孫が天の星のようになると約束してくださり、アブラハムが主を信じたのは、その1年前の85歳の時であったのではないかと思われます。 そうであるとしますと、主がアブラハムの子孫が天の星のようになると約束してくださり、アブラハムが主を信じたことは、アブラハムが主からの召命を受けて旅立ち、カナンの地に来た時に、自分に現れてくださり、 あなたの子孫に、わたしはこの地を与える という約束を与えてくださった主、ヤハウェを信じて礼拝するようになったことから始まるアブラハムの歩みの頂点にあると言っても、それは、アブラハムが召命を受けてから、10年ほど後のことであったということになります。 その間、アブラハムには子どもが生まれないという現実が押し迫ってきていましたし、アブラハムもその現実を認めざるをえない状態になってしまっていました。アブラハムがそのような状態になるのを待っておられてということでしょう、主はアブラハムにアブラハムから、相続人としての子が生まれることと、アブラハムの子孫が天の星のようになるということを約束してくださいました。そして、アブラハムはその約束を信じ、約束してくださった主を信頼したのです。主はこのことをアブラハムの義であると認めてくださいました。ですから、この時、アブラハムの義と認められたアブラハムの信仰は、この時に至るまでのアブラハムの歩みの頂点としての意味をもった信仰であり、しかも、アブラハムに与えられた、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を伴う召命に基づいて、あるいは、その召命に関連して与えられた、アブラハムの子孫に関する約束を信じた信仰でした。 これらのことを踏まえて、そのアブラハムの信仰について15章6節に記されている、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 ということを理解する必要があります。このみことばはアブラハムの、主、ヤハウェとの関係のあり方を示すものです。それで、このみことばは、また、アブラハムの子孫の、主、ヤハウェとの関係のあり方を示すものです。言い換えますと、アブラハムの子孫とは、このようなアブラハムの子孫に関する主の約束を信じて義と認められたアブラハムの子孫であるということです。それで、アブラハムの子孫とはアブラハムと同じように、アブラハムに与えてくださった祝福の約束を信じる信仰によって義と認められる者たちなのです。そして、このことを示すために、アブラハムの生涯の歩みの中で、ここで初めて、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されていると考えられます。 また、主がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束に示されている祝福は、アブラハムの血肉の子孫に限定されるものではありませんでした。 このようなことから、ガラテヤ人への手紙3章6節ー8節には、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。 と記されています。また、29節には、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。 主がアブラハムに契約を与えてくださったことは創世記17章に記されています。 1節に、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。 と記されていますように、主がアブラハムと契約を結んでくださったのは、アブラハムが99歳の時でした。主がアブラハムを召してくださってから、24年後のことであり、アブラハムに相続人としての子を与えてくださり、その子孫が天の星のようになると約束してくださってから、おそらく、14年後のこと、そして、イシマエルが生まれてから13年後のことです。 4節ー5節には、 わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 と記されています。 ここでは、主がアブラハムと契約を結んでくださるに当たって、彼の名をそれまでの「アブラム」から「多くの国民の父」ということを意味する「アブラハム」に変えてくださったことが記されています。このことは、12章3節に記されています、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という主の約束との関連で理解されます。つまり、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるようになるのは、アブラハムが「多くの国民の父」となることによっているということです。言い換えますと、「地上のすべての民族」はここで「多くの国民の父」となると言われているアブラハムの子孫となることによって、祝福を受けるようになるということです。 そして、7節ー8節には、主がアブラハムに語られた、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 というみことばが記されています。 ここで主はアブラハムだけでなく、アブラハムの子孫とも契約を結んでくださっています。そして、その目的は、ご自身がアブラハムの神、またアブラハムの子孫の神となられることと、アブラハムとアブラハムの子孫にカナンの地をお与えになるためであることを示してくださっています。 これによって、アブラハムに与えられた契約に約束されたカナンの地が、アブラハムとアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産となりました。また、この主の契約のみことばは、主が約束してくださったカナンの地は、そこで、 わたしは、彼らの神となる。 という約束が実現するための地であることも示されています。 この後、主はアブラハムに契約のしるしとして割礼をお与えになりました。これも、詳しい説明を省きますが、アブラハムの子孫に関連しています。 これらのことを受けて、15節ー16節には、 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 と記されています。 アブラハムはにわかには信じられないで、それはイシマエルのことではないかと応じます。これに対して19節には、 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」 と記されています。 このようにして、アブラハムの相続人としてのアブラハムの子孫は、アブラハムとサラが自分たちの考えによって、また、自分たちのおぜん立てによってアブラハムの身から出る子を設けようとして生まれた子ではなく、主の約束によって「不妊の女」であったサラから生まれた「約束の子」であることが示されました。そして、実際に、アブラハムが百歳、サラが90歳の時に、イサクが生まれました。アブラハムは、主がイシマエルではなく、サラから生まれるイサクがアブラハムに与えられた契約を継承するアブラハムの子であることを示してくださった時、主を信じました。それについて、ローマ人への手紙4章19節ー22節には、 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と記されています。このみことばは、イサクの誕生の約束が与えられる(おそらく)14年前のことを記している15章6節に、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されているアブラハムの信仰が生きている信仰であり、14年ほどの時を経てなお深められていったことを示しています。 このアブラハムの信仰は、22章に記されています、アブラハムに与えられた、約束の子イサクを全焼のいけにえとして主に献げるよう命じられたことをとおして与えられた試練をとおして、さらに深められることになります。 主はアブラハムに与えられた契約において、カナンの地をアブラハムとアブラハムの子孫に相続財産として与えてくださり、そこで、 わたしは、彼らの神となる。 という主の契約の祝福を実現してくださることを示してくださいました。そして出エジプトの時代には、この契約に基づいて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。それで、先主日も引用しましたが、出エジプト記15章13節には、 あなたが贖われたこの民を、 あなたは恵みをもって導き、 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。 と記されており、17節ー18節には、 あなたは彼らを連れて行き、 あなたご自身の山に植えられる。 主よ。御住まいのために あなたがお造りになった場所に。 主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。 主はとこしえまでも統べ治められる。 と記されています。主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出されたのは、イスラエルの民をご自身の御住まいである聖所に住まわせてくださるため、主の御臨在の御前を歩むようにしてくださるためのことでした。 その際に、主は、エジプトを出たイスラエルの民が荒野を通って約束の地に入るように導かれ、その荒野においてイスラエルの民を訓練されました。彼らが渇いた時には、岩から水を出されて、彼らの渇きをいやされ、彼らが飢えた時には、天からマナを降らせてくださって、彼らを養ってくださいました。 これによって、契約の神である主、ヤハウェは、たとえそれが荒野のような不毛の地であったとしても、ご自身がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、イスラエルの民とともにいてくださり、彼らを支え、導いてくださって、ご自身の御臨在の御前を歩ませてくださり、約束の地に導き入れてくださることを示してくださいました。主は日々新たに与えてくださるマナによって、このことを日々新たに示してくださっていました。イスラエルの民は荒野において経験するさまざまな試練の中で、主が自分たちとともにいてくださることを信じ、主に信頼するようにと招かれていたのです。 これまでお話ししてきたこととのかかわりで考えますと、その信仰はアブラハムの信仰に倣う信仰であるはずです。それは、主がアブラハムに与えてくださった、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を伴う使命に基づいて与えられたアブラハムへの契約を主が自分たちの間に実現してくださることを信じる信仰です。そして、そのようにして、自分たちが主の恵みによって約束の地に導き入れていただき、そこで、 わたしは、彼らの神となる。 という主の契約の祝福が実現することこそが、主がアブラハムに与えてくださった、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を実現してくださることにつながっていることを信じる信仰です。 そして、主が荒野を旅するイスラエルの民を養うために天から降らせてくださったマナは本来、このように主がアブラハムに与えてくださった契約に基づいて主を信じ、主を信頼して、約束の地に向かって進んでいくイスラエルの民を養い、その旅路を支えてくださるものでした。 ですから、イエス・キリストがこのマナの本体である「隠れたマナ」を、私たちに与えてくださるということは、私たちが「荒野」にたとえられる(黙示録12章14節)地上の歩みを主イエス・キリストを信じ、主を信頼して歩む時に、イエス・キリストがその1方的な恵みによって私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともに歩んでくださって、私たちを、必ず、約束してくださった新しい天と新しい地における主との交わりの完成へと導き入れてくださるということを意味しています。 |
![]() |
||