黙示録講解

(第235回)


説教日:2016年2月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(16)


 ヨハネの黙示録2章12節ー17節に記されています、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 これまで、最後の17節に記されています、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というみことばににおいて、イエス・キリストが「勝利を得る者」に与えてくださると約束してくださっている「隠れたマナ」についてお話ししてきました。
 先主日は、「隠れたマナ」(文字通りには「隠されたマナ」)はユダヤ人の間に伝えられてきた伝承にあるような、物理的に隠されたマナのことではないということをお話ししました。
 きょうは、そのお話の中で触れました、マナが主の聖所の中心である至聖所に置かれていた契約の箱に納められていたことの意味とそれに関連することについてお話ししたいと思います。
 出エジプトの時代に主の導きによって荒野を通って約束の地に入るための旅をしていたイスラエルの民のために、主は天からマナを降らせてくださり、彼らを養ってくださいました。主はそのマナを壺に入れ、契約の箱の中に保存して、後の時代のイスラエルの民へのあかしとするように命じられました。それで、主の契約の箱の中にマナの入った壺が保存されるようになりました。
 このことは、マナが、主の契約の箱が示している主の栄光の御臨在がイスラエルの民とともにあることと関連していることを示しています。
 契約の神である主、ヤハウェは無限、永遠、不変の栄光の主です。最も聖い御使いであれ、罪がない状態の最初の人であれ、神さまによって造られたものが、無限、永遠、不変の栄光の主と直接的に触れ合うことはできません。無限、永遠、不変の栄光の主と被造物が直接的に触れ合うことをたとえるとしますと、それは、太陽と紙切れが触れ合うようなことです。そのようなことはできませんし、実際に、ありえません。ですから、無限、永遠、不変の栄光の主は、人間的な言い方(人になぞらえる言い方)をしますと、無限に身を低くされて、ご自身の民の間にご臨在してくださるのです。
 三位一体論的に言いますと、第二位格であられる御子が無限に身を低くされてこの世界にかかわってくださる「役割」を負ってくださっています。それで、創造の御業も贖いの御業も御子が遂行されました。
 聖書のみことばは、無限、永遠、不変の栄光の主がご自身の民の間にご臨在してくださることは、主がその一方的で主権的な恵みによってご自身の民に与えてくださった契約によっていることを示しています。主はそのことを幕屋という制度的な表象によって示してくださっています。
 主が幕屋を与えてくださったことの歴史的な経緯を、ごく簡単に見てみましょう。
 主は力強い御手をもって、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対する十のさばきを執行し、イスラエルの民を奴隷の状態から贖い出してくださいました。その目的について、主が紅海においてパロの軍隊を滅ぼされた時にモーセとイスラエル人が歌った歌を記している15章の13節には、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

と記されており、17節ー18節には、

 あなたは彼らを連れて行き、
 あなたご自身の山に植えられる。
 よ。御住まいのために
 あなたがお造りになった場所に。
 主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。
 はとこしえまでも統べ治められる。

と記されています。主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出されたのは、イスラエルの民をご自身の御住まいである聖所に住まわせてくださるため、主の御臨在の御前を歩むようにしてくださるためのことでした。
 それで、24章に記されていますが、主はモーセを仲保者として、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。その後、主がモーセに主の栄光の御臨在のあるシナイ山に登るように命じられましたので、モーセはシナイ山に登って行きました。
 25章からは、シナイ山に登ったモーセに、主がその栄光の御臨在の御許から語ってくださったことが記されています。
 主が最初にモーセに示してくださったのは、主の聖所を造ることでした。25章8節ー9節には、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されています。主の聖所はこの後、イスラエルの民が荒野を通って約束の地に行くようになりますので、幕屋として与えられています。そして、最初に造るように命じられたのは、聖所の中心である至聖所に置くべき契約の箱でした。
 21節後半ー22節には、

箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

と記されています。ここでは契約の箱は「あかしの箱」と呼ばれています。契約の箱はまた「神の箱」、「神の契約の箱」、「主の箱」、「主の契約の箱」とも呼ばれています。その中に納めるように命じられた、主が与えてくださる「さとし」とは、十戒が記されている二つの石の板のことです。契約の箱の上蓋である「贖いのふた」の両端には「贖いのふた」と一体となるように二つのケルビムが造られていました。二つのケルビムは羽を広げていて、互いに向き合うようになっていました。主はこの二つのケルビムの間にご臨在されて、モーセにご自身のみこころをすべて語ってくださると約束してくださいました。
 主の御臨在はエジプトを出たイスラエルの民とともにあって、彼らを導いてこられた雲の柱(夜にはその中に火があって火の柱と呼ばれています)によって示されていました。その雲の柱が二つのケルビムの間にあるようになります。
 このことは、主がご自身の民の間にご臨在してくださるのは、主の契約に基づいているということを示しています。このような意味をもっている契約の箱の中に、マナが納められるようになりました。これによって、マナが主の御臨在と切り離し難く結びついていることが示されています。荒野において主がイスラエルの民を養い育ててくださるために、人類がそれまで知らなかったマナを備えてくださったことは、どこにあっても、たとえそれが荒野であっても、主がご自身の契約に基づいてイスラエルの民とともにおられることをあかししてくださるものでした。そのことを忘れて、ただマナを食べて満腹するだけであれば、空しくマナを食べることになってしまいます。実際に、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代は、毎日マナを食べながら、試練に会うと、主が自分たちとともにいてくださることを信じることも、主に信頼することもありませんでした。


 主がご自身の民の間にご臨在してくださることの出発点は、創世記2章7節ー9節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されていることにあります。
 7節では、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と言われています。ここで神さまはご自身のことを「陶器師」の表象で啓示してくださっています。これによって、神さまが無限に身を低くされて、人とかかわってくださっていることが生き生きと表されています。それで、ここでは神さまの御名が「神である」として示されています。この「」という御名は新改訳で太字になっていて、契約の神である主の御名である「ヤハウェ」です。そして「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名は「ヤハウェは神(エローヒーム)である」ということを意味していて、ここで無限に身を低くして人にかかわってくださっておられるヤハウェは、この前の1章1節ー2章3節に記されている、天地創造の御業を遂行された神(エローヒーム)であるということを伝えています。
 続く8節ー9節では、

神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と言われています。
 ここでは、神である主がエデンに園を設けられたと言われています。それは、その中央に神である主が「いのちの木」を生えさせられたと言われていますように、神である主がそこにご臨在され、ご自身が神のかたちとしてお造りになった人を、ご自身との交わりに生きることができるようにしてくださるためでした。エデンの園は神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちている所でした。神のかたちとして造られている人にとってのいのちの本質は、神である主との愛にある交わりにあります。そして、神である主が無限に身を低くしてエデンの園にご臨在されたのは、ご自身の契約に基づくことでした。
 この契約は、神さまが天地創造の御業とともにお立てになったもので、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを包み込む契約です。この契約を「創造の契約」と呼びます。
 エレミヤ書33章25節ー26節には、

はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」

と記されています。
 この主のみことばの主旨は、主がダビデと結んでくださった契約の確かさを示してくださることにあります。そのために、主が創造の御業において「昼と夜とに契約を」結ばれたばかりか、「天と地との諸法則」をお定めになって、それ以来、真実にそれらすべてを保ってきてくださっていることに見られる主の真実さが示されています。その上で、主はその真実さをもって、ご自身がダビデに与えられた契約を必ず実現してくださるということを示しておられます。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、主が創造の御業において「昼と夜とに契約を」結ばれたばかりか、「天と地との諸法則」をお定めになって、それ以来、真実にそれらすべてを保ってきてくださっているということから汲み取ることができることです。ここでは、主が「昼と夜とに契約を」結ばれたことを、より広い視野から見て、主が「天と地との諸法則」をお定めになったことが示されています。この「天と地との諸法則」の「天と地」は、創世記1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「天と地」に当たり、神さまが創造の御業においてお造りになったすべてのもの、しかも、秩序立てられたすべてのものを指しています。これは今日のことばで言いますと、宇宙に当たります。
 このことから、神さまは創造の御業においてお造りになったこの世界のすべてのものとの間に契約をお立てになり、今日に至るまで、ご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特性を生かし、真実に保ち、導き続けてくださっているということ、そのように真実に、すべてのものにかかわり続けてくださっているということが分かります。これが造り主である神さまが創造の御業とともにお立てになった契約である「創造の契約」の宇宙論的な(この広大な宇宙のすべてのものにかかわる)広がりです。
 そして、このことを背景として、イザヤ書66章1節ー2節前半には、

 はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、
 これらすべてはわたしのものだ。
 ――の御告げ――
 わたしが目を留める者は、
 へりくだって心砕かれ、
 わたしのことばにおののく者だ。」

と記されています。1節に記されている、

 天はわたしの王座、地はわたしの足台。

という主のみことばは、やはり、擬人化された表現で、主が天と地に主権者としてご臨在しておられることを示しています。それは、先ほどお話ししましたように、主がこの広大な宇宙のすべてのものを、それぞれの特性を生かし、真実に保ち、導き続けてくださっていることに現れています。このことが示された後で、

 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。

という問いかけによって、人が建てた地上の神殿、この場合はダビデの子ソロモンが建てたエルサレム神殿が主の必要のために建てられたものではないことが示されます。ソロモンが建てた神殿は壮大なものでした。イスラエルの民はその神殿の壮大さに目が引かれて、主も神殿が壮大であり、華麗なものであるから喜んでおられると考えることがありました。しかし主の神殿は、主が無限に身を低くされてイスラエルの民の間にご臨在してくださり、彼らが主との交わりに生きることができるようにしてくださるために、その神殿に備えられた贖いの制度とともに、主が与えてくださったものです。
 今お話ししていることとかかわっていることに注目したいと思いますが、このように、主はご自身が創造の御業とともにお造りになったこの世界のすべてのものと結ばれた「創造の契約」に基づいて、この世界のご臨在されて、この世界のすべてのものを真実に支え、導いておられます。

 このように宇宙論的な広がりをもっている「創造の契約」には焦点、中心があります。それが神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人であり、人が住んでいるこの地です。
 イザヤ書45章18節には、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てた方、
 これを茫漠としたものに創造せず、
 人の住みかにこれを形造った方、
 まことに、このがこう仰せられる。
 「わたしがである。ほかにはいない。」

と記されています。ここでは、天地創造の御業を遂行された神さまが「」を「人の住みか」に形造られたと言われています。
 ところが神さまが最初に造り出された「」のことを記している創世記1章2節には、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。「」がいまだまったく「人の住みか」の体をなしていなかった時に、すでに、神の御霊がそこにご臨在しておられたというのです。その意味で、この「」は最後には「人の住みか」に形造られていきますが、初めから、神さまが御霊によってご臨在される所、その意味で、神殿としての意味をもっていました。そして、神さまがその御臨在の御許から発せられた、3節に記されている、

 光があれ。

というみことばを初めとする一連の「創造のみことば」をもって、この「」を「人の住みか」に形造っていかれました。それで、「」には、光を初めとして、澄んだ大気とその循環による潤いと乾燥、それによって育まれた多様な植物の生長と結実、さらには、それらによって育まれていく多種多様な生き物たちがあって、造り主である神さまがご臨在しておられることを映し出しています。
 神さまはこのように、ご自身の御臨在がもたらす豊かな世界であるこの「」を「人の住みか」に形造られました。そして最後には、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、人をご自身のかたちとしてお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。
 この歴史と文化を造る使命は、28節に記されている、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

というみことばだけを見ますと、この地そのものと、地と海に住む生き物たちを治めることであるように思われます。けれども、主のみことばの啓示の進展とともに、これが宇宙論的な広がりをもっていることが示されていきます。それは、詩篇8篇5節ー6節に記されています、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばによって暗に示唆されるようになります。この詩篇8篇5節ー6節が記された時点では、これに続いて、

 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と記されていますので、その広がりは、地と海にすむ生き物たちのことであるように思われます。
 けれども、新約聖書において、この、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを引用している、コリント人への手紙第一・15章24節ー27節とエペソ人への手紙1章20節ー23節、そして、少し観点が違いますが、ヘブル人への手紙2章5節ー10節では、この、

 万物を彼の足の下に置かれました。

ということばで表されている、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命が宇宙論的な意味をもっているということが示されています。
 ここでは、エペソ人への手紙1章20節ー23節を見てみましょう。まず20節ー21節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。そして、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節に出てくる「あなたの敵」すなわちイエス・キリストに敵対する暗やみの勢力です。それで、エペソ人への手紙1章20節ー21節ではイエス・キリストが贖いの御業を成し遂げて栄光を受けてよみがえり、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、詩篇110篇1節に記されていることが成就していることが示されています。これによってイエス・キリストが治められる御国が確立されていることが示されています。
 そしてエペソ人への手紙1章では、続く22節ー23節に、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。22節の新改訳で、

 いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と訳されていることばは、直訳では、

 万物を彼の足の下に従わせた

となります。これは詩篇8篇6節に出てくる、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばの引用です。ですから、これは父なる神さまの右の座に着座されて、ご自身に敵対している暗やみの勢力を従わせたイエス・キリストが、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示しています。
 そして、これに続いて、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです

と言われていることは、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた、宇宙論的な広がりと意味をもっている歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストが教会に与えられていること、そして、教会は創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのからだであり、そのイエス・キリストが満ちておられる所であるということを示しています。

 このように、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は宇宙論的な広がりと意味をもっています。
 神さまが創造の御業において造り出された天と地、すなわち、神さまがお造りになった広大な宇宙が、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっています。それで、この広大な宇宙は、そこにご臨在しておられる神さまの栄光を現しています。詩篇19篇1節に、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。

と記されているとおりです。そのために、神さまの栄光がほめ讃えられ、神さまが礼拝されるべきです。このことを自覚して受け止めて、神さまに栄光を帰して神さまを礼拝するのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。
 このように、神さまがお造りになった広大な宇宙が、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっています。その中でも、神さまは創造の御業において、この「」に御霊によってご臨在されて、この「」を「人の住まい」として形造られました。神さまがお造りになった広大な宇宙を「神殿」とするなら、この「」はその中心にある「聖所」に当たることになります。そして、エデンの園はさらにその中心にある「至聖所」に当たることになります。
 とはいえ、最初に造られた状態の世界には罪の侵入がありませんでしたから、「神殿」に当たる宇宙全体と、「聖所」に当たるこの「」と「至聖所」に当たるエデンの園の間に仕切りがあったわけではありません。それらの区別はそこにご臨在される主とのかかわりの程度の違いを示しているだけです。どういうことかと言いますと、主はこの広大な宇宙にご臨在されて、お造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ支え、導いてくださっています。けれども、主がそのようにかかわってくださっているもののすべてが人格的な存在であるわけではありません。その場合は、そのかかわり方は人格的な交わりの関係ではありません。これに対して、主は神のかたちとして造られている人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっています。同じ主の御臨在であっても、それによって生み出される主とのかかわりの深さには違いがあります。
 いずれにしましても、創造の御業において神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、初めから、特別な意味において主がご臨在される所として聖別されていたエデンの園において、主を神として礼拝することを中心として、主のとの愛にある交わりに生きることをとおして、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしました。
 そのように生きる人に対して、神さまは創造の御業において、人の必要を満たしてくださる約束をしてくださっています。創世記1章29節ー30節には、

神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。」

と記されています。これによって神さまが備えてくださった食べ物は、マナのように超自然的な方法によって与えられたものではありません。けれども、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前の人にとって、このような主の備えにあずかることは主を身近に覚えるために十分であったはずです。
 このことは、私たち、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、新しく生まれ、神さまのこの上ない愛と御子イエス・キリストの恵みの深さに触れている私たちにも当てはまらないでしょうか。このことから、コリント人への手紙第一・10章31節に記されています、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

というみことばが思い出されます。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第234回)へ戻る

「黙示録講解」
(第236回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church