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説教日:2016年2月7日 |
主がご自身の民の間にご臨在してくださることの出発点は、創世記2章7節ー9節に、 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。 と記されていることにあります。 7節では、 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 と言われています。ここで神さまはご自身のことを「陶器師」の表象で啓示してくださっています。これによって、神さまが無限に身を低くされて、人とかかわってくださっていることが生き生きと表されています。それで、ここでは神さまの御名が「神である主」として示されています。この「主」という御名は新改訳で太字になっていて、契約の神である主の御名である「ヤハウェ」です。そして「神である主」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名は「ヤハウェは神(エローヒーム)である」ということを意味していて、ここで無限に身を低くして人にかかわってくださっておられるヤハウェは、この前の1章1節ー2章3節に記されている、天地創造の御業を遂行された神(エローヒーム)であるということを伝えています。 続く8節ー9節では、 神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。 と言われています。 ここでは、神である主がエデンに園を設けられたと言われています。それは、その中央に神である主が「いのちの木」を生えさせられたと言われていますように、神である主がそこにご臨在され、ご自身が神のかたちとしてお造りになった人を、ご自身との交わりに生きることができるようにしてくださるためでした。エデンの園は神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちている所でした。神のかたちとして造られている人にとってのいのちの本質は、神である主との愛にある交わりにあります。そして、神である主が無限に身を低くしてエデンの園にご臨在されたのは、ご自身の契約に基づくことでした。 この契約は、神さまが天地創造の御業とともにお立てになったもので、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを包み込む契約です。この契約を「創造の契約」と呼びます。 エレミヤ書33章25節ー26節には、 主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」 と記されています。 この主のみことばの主旨は、主がダビデと結んでくださった契約の確かさを示してくださることにあります。そのために、主が創造の御業において「昼と夜とに契約を」結ばれたばかりか、「天と地との諸法則」をお定めになって、それ以来、真実にそれらすべてを保ってきてくださっていることに見られる主の真実さが示されています。その上で、主はその真実さをもって、ご自身がダビデに与えられた契約を必ず実現してくださるということを示しておられます。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、主が創造の御業において「昼と夜とに契約を」結ばれたばかりか、「天と地との諸法則」をお定めになって、それ以来、真実にそれらすべてを保ってきてくださっているということから汲み取ることができることです。ここでは、主が「昼と夜とに契約を」結ばれたことを、より広い視野から見て、主が「天と地との諸法則」をお定めになったことが示されています。この「天と地との諸法則」の「天と地」は、創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「天と地」に当たり、神さまが創造の御業においてお造りになったすべてのもの、しかも、秩序立てられたすべてのものを指しています。これは今日のことばで言いますと、宇宙に当たります。 このことから、神さまは創造の御業においてお造りになったこの世界のすべてのものとの間に契約をお立てになり、今日に至るまで、ご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特性を生かし、真実に保ち、導き続けてくださっているということ、そのように真実に、すべてのものにかかわり続けてくださっているということが分かります。これが造り主である神さまが創造の御業とともにお立てになった契約である「創造の契約」の宇宙論的な(この広大な宇宙のすべてのものにかかわる)広がりです。 そして、このことを背景として、イザヤ書66章1節ー2節前半には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 ――主の御告げ―― わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。」 と記されています。1節に記されている、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 という主のみことばは、やはり、擬人化された表現で、主が天と地に主権者としてご臨在しておられることを示しています。それは、先ほどお話ししましたように、主がこの広大な宇宙のすべてのものを、それぞれの特性を生かし、真実に保ち、導き続けてくださっていることに現れています。このことが示された後で、 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 という問いかけによって、人が建てた地上の神殿、この場合はダビデの子ソロモンが建てたエルサレム神殿が主の必要のために建てられたものではないことが示されます。ソロモンが建てた神殿は壮大なものでした。イスラエルの民はその神殿の壮大さに目が引かれて、主も神殿が壮大であり、華麗なものであるから喜んでおられると考えることがありました。しかし主の神殿は、主が無限に身を低くされてイスラエルの民の間にご臨在してくださり、彼らが主との交わりに生きることができるようにしてくださるために、その神殿に備えられた贖いの制度とともに、主が与えてくださったものです。 今お話ししていることとかかわっていることに注目したいと思いますが、このように、主はご自身が創造の御業とともにお造りになったこの世界のすべてのものと結ばれた「創造の契約」に基づいて、この世界のご臨在されて、この世界のすべてのものを真実に支え、導いておられます。 このように宇宙論的な広がりをもっている「創造の契約」には焦点、中心があります。それが神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人であり、人が住んでいるこの地です。 イザヤ書45章18節には、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てた方、 これを茫漠としたものに創造せず、 人の住みかにこれを形造った方、 まことに、この主がこう仰せられる。 「わたしが主である。ほかにはいない。」 と記されています。ここでは、天地創造の御業を遂行された神さまが「地」を「人の住みか」に形造られたと言われています。 ところが神さまが最初に造り出された「地」のことを記している創世記1章2節には、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。「地」がいまだまったく「人の住みか」の体をなしていなかった時に、すでに、神の御霊がそこにご臨在しておられたというのです。その意味で、この「地」は最後には「人の住みか」に形造られていきますが、初めから、神さまが御霊によってご臨在される所、その意味で、神殿としての意味をもっていました。そして、神さまがその御臨在の御許から発せられた、3節に記されている、 光があれ。 というみことばを初めとする一連の「創造のみことば」をもって、この「地」を「人の住みか」に形造っていかれました。それで、「地」には、光を初めとして、澄んだ大気とその循環による潤いと乾燥、それによって育まれた多様な植物の生長と結実、さらには、それらによって育まれていく多種多様な生き物たちがあって、造り主である神さまがご臨在しておられることを映し出しています。 神さまはこのように、ご自身の御臨在がもたらす豊かな世界であるこの「地」を「人の住みか」に形造られました。そして最後には、創世記1章26節ー28節に、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、人をご自身のかたちとしてお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。 この歴史と文化を造る使命は、28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 というみことばだけを見ますと、この地そのものと、地と海に住む生き物たちを治めることであるように思われます。けれども、主のみことばの啓示の進展とともに、これが宇宙論的な広がりをもっていることが示されていきます。それは、詩篇8篇5節ー6節に記されています、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばによって暗に示唆されるようになります。この詩篇8篇5節ー6節が記された時点では、これに続いて、 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 と記されていますので、その広がりは、地と海にすむ生き物たちのことであるように思われます。 けれども、新約聖書において、この、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばを引用している、コリント人への手紙第一・15章24節ー27節とエペソ人への手紙1章20節ー23節、そして、少し観点が違いますが、ヘブル人への手紙2章5節ー10節では、この、 万物を彼の足の下に置かれました。 ということばで表されている、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命が宇宙論的な意味をもっているということが示されています。 ここでは、エペソ人への手紙1章20節ー23節を見てみましょう。まず20節ー21節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されています。イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることの成就です。そして、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節に出てくる「あなたの敵」すなわちイエス・キリストに敵対する暗やみの勢力です。それで、エペソ人への手紙1章20節ー21節ではイエス・キリストが贖いの御業を成し遂げて栄光を受けてよみがえり、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、詩篇110篇1節に記されていることが成就していることが示されています。これによってイエス・キリストが治められる御国が確立されていることが示されています。 そしてエペソ人への手紙1章では、続く22節ー23節に、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。22節の新改訳で、 いっさいのものをキリストの足の下に従わせ と訳されていることばは、直訳では、 万物を彼の足の下に従わせた となります。これは詩篇8篇6節に出てくる、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばの引用です。ですから、これは父なる神さまの右の座に着座されて、ご自身に敵対している暗やみの勢力を従わせたイエス・キリストが、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示しています。 そして、これに続いて、 いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです と言われていることは、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた、宇宙論的な広がりと意味をもっている歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストが教会に与えられていること、そして、教会は創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのからだであり、そのイエス・キリストが満ちておられる所であるということを示しています。 このように、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は宇宙論的な広がりと意味をもっています。 神さまが創造の御業において造り出された天と地、すなわち、神さまがお造りになった広大な宇宙が、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっています。それで、この広大な宇宙は、そこにご臨在しておられる神さまの栄光を現しています。詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されているとおりです。そのために、神さまの栄光がほめ讃えられ、神さまが礼拝されるべきです。このことを自覚して受け止めて、神さまに栄光を帰して神さまを礼拝するのは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。 このように、神さまがお造りになった広大な宇宙が、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっています。その中でも、神さまは創造の御業において、この「地」に御霊によってご臨在されて、この「地」を「人の住まい」として形造られました。神さまがお造りになった広大な宇宙を「神殿」とするなら、この「地」はその中心にある「聖所」に当たることになります。そして、エデンの園はさらにその中心にある「至聖所」に当たることになります。 とはいえ、最初に造られた状態の世界には罪の侵入がありませんでしたから、「神殿」に当たる宇宙全体と、「聖所」に当たるこの「地」と「至聖所」に当たるエデンの園の間に仕切りがあったわけではありません。それらの区別はそこにご臨在される主とのかかわりの程度の違いを示しているだけです。どういうことかと言いますと、主はこの広大な宇宙にご臨在されて、お造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ支え、導いてくださっています。けれども、主がそのようにかかわってくださっているもののすべてが人格的な存在であるわけではありません。その場合は、そのかかわり方は人格的な交わりの関係ではありません。これに対して、主は神のかたちとして造られている人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっています。同じ主の御臨在であっても、それによって生み出される主とのかかわりの深さには違いがあります。 いずれにしましても、創造の御業において神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、初めから、特別な意味において主がご臨在される所として聖別されていたエデンの園において、主を神として礼拝することを中心として、主のとの愛にある交わりに生きることをとおして、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしました。 そのように生きる人に対して、神さまは創造の御業において、人の必要を満たしてくださる約束をしてくださっています。創世記1章29節ー30節には、 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。」 と記されています。これによって神さまが備えてくださった食べ物は、マナのように超自然的な方法によって与えられたものではありません。けれども、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前の人にとって、このような主の備えにあずかることは主を身近に覚えるために十分であったはずです。 このことは、私たち、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、新しく生まれ、神さまのこの上ない愛と御子イエス・キリストの恵みの深さに触れている私たちにも当てはまらないでしょうか。このことから、コリント人への手紙第一・10章31節に記されています、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 というみことばが思い出されます。 |
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