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説教日:2016年1月31日 |
第二に、エレミヤ書3章14節ー18節には、 背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ――わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、――主の御告げ――彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。 と記されています。 エレミヤは契約の神である主、ヤハウェに対するユダ王国の背信を糾弾し、ユダ王国へのさばきが迫って来ていることを示した預言者です。ここに記されていることは、冒頭の、 背信の子らよ。帰れ。 という、主の呼びかけのことばから分かりますが、そのように、主への背信を重ねているユダ王国の民に対する主の語りかけです。けれども、これに先立つ6節ー13節には、主に対する背信を極まらせてしまったために、前722年(あるいは723年)に、主のさばきを受け、アッシリア軍によって滅ぼされてしまった北王国イスラエルのことが取り上げられています。そして、南王国ユダは北王国イスラエルの罪と、それに対する主のさばきを見ていながら、主に立ち返ることなく背信の罪を重ねたことが記されています。11節には、 背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。 とさえ言われています。 主がこれらのみことばを語られた年代については、6節で、 ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。 と言われています。ヨシヤ王は前641/40年から609年までユダ王国を治めました。ヨシヤの治世の18年の前622年に律法の書が発見され、ヨシヤによって宗教改革がなされました。アッシリヤ軍によるサマリヤの陥落から百年後のことです。この時代には、まだ、ユダ王国の民が主に立ち返る望みがあったようです。けれども、ヨシヤの後の王たちは主に対する背信の道を突き進んでしまいます。やがて、エレミヤは主のさばきは避けられない状態になっているということを伝え、主のさばきに服して、へりくだり、主のまったくの恵みによる回復の時を待つべきことを述べ伝えるようになります。エレミヤはこれとともに、主の恵みによる回復がどのようなものであるかも預言しています。 引用しました3章14節ー18節に記されている主のみことばは、北王国イスラエルと南王国ユダが主に対する背信を重ねていることを示しつつ、主の恵みによる回復の様子を示しています。ここには、すでにアッシリア軍によって滅ぼされてしまったイスラエルがユダとともに回復されることが記されています。その意味で、これは将来における回復、やがて来たるべき主の日における回復を示しています。 今お話ししていることとの関連で注目したいのは、16節に、 その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、――主の御告げ――彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。 と記されていることです。やがて来たるべき主の日においては、主の恵みによって回復された主の契約の民は、 主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない と言われています。その理由は、続く17節で、 そのとき、エルサレムは「主の御座」と呼ばれる と言われています。やがて来たるべき主の日において回復されるエルサレム、すなわち、新しいエルサレムが「主の御座」、すなわち、主がご臨在される所となるからだというのです。つまり、「地上的なひな型」としての聖所とその中にあった主の契約の箱が主の御臨在のある所を表示していましたが、その日には、その本体が現実になるということです。「地上的なひな型」としての契約の箱はもうその役割を終えるので、主の契約の民は、 主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない と言われているのです。 これは、先ほどのユダヤ人の間で伝えられてきた伝承が伝えている、終わりの日にエレミヤあるいは御使いが隠した契約の箱が回復されるということと相容れないことです。 新約聖書は、ここでエレミヤが預言していることが、父なる神さまが遣わしてくださったメシヤであられるイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって、すでに、実現し始めており、終わりの日に完全な形で実現することを示しています。ヨハネの福音書1章14節には、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されています。これは、永遠の神のことばであられる御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことを記しています。ここで、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と言われているときの「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は「幕屋」を表すことば(スケーネー)の動詞形で、「幕屋を張る」ことを意味しています。それで、 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されていることは、「幕屋」に主の栄光の御臨在があったことの成就であることを示しています。この場合、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 と訳されている部分は、「この方の栄光」が「恵みとまことに満ちて」いたことを伝えていると考えられます。[注] ここでは、古い契約の下において「地上的なひな型」として造られた幕屋とそこに栄光の主の御臨在があったことが示されています。 [注]ここで「この方」と訳されているのは、「満ちている」ということば(形容詞・プレーレース)が男性形であることによっています。これに対して、「栄光」ということば(ドクサ)は女性形です。けれども、この「満ちている」ということば(プレーレース)は、通常、不変化詞として用いられますので、女性形の名詞である「栄光」をも修飾します。それで、これは文脈から判断することになりますが、ここでは「この方の栄光」のことを示していると考えられます。 イエス・キリストによって、幕屋とそこにあった契約の箱が示していたことは成就しています。そればかりでなく、契約の箱の中にあった「マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板」も、イエス・キリストにおいて成就しています。 ごく簡単に説明いたしますと、マナの本体が、ヨハネの福音書6章35節で、ご自身のことを、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 とあかししておられるイエス・キリストであることは、すでにお話ししてきました。 「芽を出したアロンの杖」のことは民数記17章に記されています。これは、その前の16章に記されている、コラ、ダタンとアビラム(兄弟)、そして、オンが共謀して、モーセとアロンに逆らって立った時のことを受けています。主はモーセに命じて、イスラエルの十二部則のそれぞれの族長から1本ずつ杖を取り、契約の箱の前に置くようにしました。そして、主が選んだ人の杖が芽を出すと言われました。翌日、アロンの杖が「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んで」いました。このようにして、「芽を出したアロンの杖」は、主がアロンとその子らが祭司であることの正当性を主があかししてくださったことを示しています。 アロンとその子らは「地上的なひな型」としての地上の幕屋で仕えた祭司でした。イエス・キリストはその本体である天にある聖所で大祭司としてお働きになっておられます。ヘブル人への手紙8章1節bー2節に、 私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。 と記されているとおりです。私たちはイエス・キリストにあって、イエス・キリストを大祭司としていただく祭司となっています。ペテロの手紙第一・2章4節ー5節には、 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 と記されています。 「契約の二つの板」は、古代オリエントの契約についての考え方に従って、「契約文書」を二つ作成して、契約の当事者双方の神殿の聖所に安置したことを反映しています。主とイスラエルの聖所は同じ幕屋にありましたから、契約の箱には「契約の二つの板」が置かれていたと考えられます。これらには十戒の十の戒めが記されていました。そして、十戒の十の戒めはモーセ律法全体を集約したものです。イエス・キリストが律法を成就されたことについては、マタイの福音書5章17節ー18節に記されている、イエス・キリストの教えを引用しておきましょう。そこには、 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 と記されています。 ユダヤ人の間に伝えられてきた伝承において、契約の箱の中にあったマナの入った壺がエレミヤあるいは御使いによって隠されたということが、黙示録2章17節に出てくる「隠れたマナ」の背景となっているという見方の第三の問題は、その伝承が、出エジプトの時代に神である主が与えてくださって、アロンが主の命令に従って集めて壺に入れ、契約の箱の中に保存していたマナの回復を伝えているということです。その伝承を伝えてきたユダヤ人には、マナはマナの本体である約束のメシヤを指し示しているという発想がありません。 先主日に取り上げましたが、ヨハネの福音書6章30節ー31節には、ユダヤ人たちがイエス・キリストに、 それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。 と問いかけたことが記されています。このユダヤ人たちの問いかけは、終わりの日に、メシヤが来て、再び、天からの食べ物としてのマナを与えてくださるようになるという、やはり、ユダヤ人の間に受け継がれてきていた、伝承を反映していると考えられます。この場合、このマナは、出エジプトの時代に主が天から降らせてくださったマナに相当するものです。 このことは少し分かりにくいかも知れませんが、ユダヤ人たちはイエス・キリストが約束のメシヤであることを信じていません。まして、イエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを信じてはいません。そして、この栄光の主が十字架におかかりになって、主の契約の民の罪を完全に贖ってくださったことを信じてはいません。それで、ユダヤ人たちは古い契約の下にあります。そのため、ヘブル人への手紙8章13節に、 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。 と記されていることや、9章9節ー10節に、 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。 と記されていること、さらには、10章14節に、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されており、このことを受けて、18節に、 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 と記されていることは受け入れることがありません。 それはどういうことを意味しているかと言いますと、ユダヤ教においては、今はエルサレムにあるシオンの丘にはイスラム教のモスクが建っていますので、そこに主の神殿を建設することができません。けれども、原理的には、それで、条件さえ整えば、再び、シオンの丘に神殿を建てて、モーセ律法に規定されているいけにえをささげるようになります。それが、メシヤが来て神殿を回復し、契約の箱を回復するという伝承の意味しているところです。その神殿は人が建設する建物としての神殿です。 それで、神殿の至聖所に置かれる契約の箱も人の手によって造られるものです。 あるいは、仮に、先ほどの伝承において回復されるとされている契約の箱であるとしますと、エレミヤあるいは御使いが隠して、主が奇跡的に保存してくださっているとされるソロモンの建てた神殿にあった契約の箱です。その中にある、壺にはいっているマナも、ソロモンが建てたエルサレム神殿にあったものです。 このことに現れていますように、クリスチャンとユダヤ教徒の方々は、同じヘブル語聖書を正典としているために、同じ用語を用いていますが、それが何を意味しているかについては根本的な違いがあります。 私たちクリスチャンはヘブル語聖書を旧約聖書としており、それをイエス・キリストの使徒たちに与えられた福音のみことばを記している新約聖書の光の下に理解しています。これに対してユダヤ教徒の方々は、ヘブル語聖書(私たちにとっては旧約聖書)をラビたちの教えに従って理解しています。そのために、同じヘブル語聖書に出てくる用語を用いていますが、それが何を意味しているかについては根本的な違いが生じています。 具体的な内容の上からは、その違いは、ひとえに、新約聖書に記されているイエス・キリストがどなたであるかについての理解の違いによっています。 私たちクリスチャンは、新約聖書のみことばに基づいて、イエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の主であられ、旧約聖書において、ご自身をヤハウェとしてお示しになった主であられると信じて告白しています。そして、父なる神さまがこの栄光の主をご自身の民の贖い主としてお遣わしになられたこと、そして、御子イエス・キリストがその十字架の死によってご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを信じて告白しています。そして、このようにして、旧約聖書に記されている神さまの契約とその約束はすべて、御子イエス・キリストにおいて成就しており、すでに、私たちの間で実現し始めていると信じて告白しています。 しかし、ユダヤ教徒の方々は、イエス・キリストをメシヤとして認めることはなく、今なお約束のメシヤを待ち望んでいます。[注] [注]近年、ラビたちの文献を初めとして、その当時のユダヤ教の文献についての研究が盛んになりました。そのことが聖書学の発展に大きな貢献をしていることは確かなことです。けれども、これまで触れてきましたような、イエス・キリストに対する理解の根本的な違いを踏まえないままに、ラビたちの教えを新約聖書に読み込んだり、逆に、新約聖書の教えをラビたちの教えに読み込んだりしないように気をつける必要があります。 今お話ししていますマナについて言いますと、黙示録2章17節に出てくる「隠れたマナ」の背景に、ユダヤ人の間に伝えられてきた伝承において、契約の箱の中にあったマナの入った壺がエレミヤあるいは御使いによって隠されたということがあると考えることはできないということになります。 ヨハネの福音書6章49節ー51節に記されていますように、イエス・キリストは、そのような伝承を受け継いできたユダヤ人たちに、 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 と教えられました。さらに、53節ー55節に記されていますように、この教えに戸惑っているユダヤ人たちに、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 と教えられました。 すると、60節に記されていますように、イエス・キリストの弟子となっていたはずの人々の多くが、 これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。 と言って、66節に記されていますように、イエス・キリストの許を去って行きました。この人々は、イエス・キリストが、マナはご自身を指し示していると教えてくださっても、それを理解することができませんでした。 35節で、イエス・キリストは、 わたしがいのちのパンです。 と教えておられます。それは、40節に、 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と記されていますように、イエス・キリストが私たちご自身の民を罪と罪の結果である死と滅びの中から贖い出し、復活の栄光にあずからせてくださって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるからです。言い換えますと、イエス・キリストは私たちを永遠のいのちに生かしてくださる「いのちのパン」なのです。 |
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