黙示録講解

(第233回)


説教日:2016年1月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章12節ー17節
説教題:ペルガモにある教会へのみことば(14)


 先主日は、私が北四日市キリスト教会の礼拝説教を担当させていただいたために、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。本主日は、ヨハネの黙示録からのお話を続けます。
 今取り上げているのは、2章12節ー17節に記されている、イエス・キリストがペルガモにある教会に語られたみことばです。これまで、最後の17節に、

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されているみことばに出てくる「隠れたマナ」についてお話ししてきました。
 この「隠れたマナ」の背景となっているのは、出エジプトの時代に、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出して、約束の地であるカナンに導き入れてくださる間、荒野でイスラエルの民を養ってくださるために、天からマナを降らせてくださったことです。
 エジプトを出たイスラエルの民の第一世代は、主がエジプトの地と紅海においてなされたさばきと救いの御業を自分たちのこととして体験しましたし、一つの民族が食べるのに十分な食べ物がない荒野においても、主が日ごとに与えてくださったマナを食べていましたし、渇いたときには主が岩から出してくださった水を飲みました。それなのに、イスラエルの民は主に対する不信を募らせ、試練に直面する度に、主は自分たちを荒野で滅ぼすためにエジプトから連れ出したとつぶやき、時には、主が遣わされたモーセを殺そうとさえしました。イスラエルの民が渇いた時のことを記している出エジプト記17章4節には、モーセが主に、

 私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。

と訴えたことが記されています。
 イスラエルの民の不信仰が極まったのは、主が彼らを約束の地に導き入れてくださろうとした時のことです。きょうは、この時のことを、主がマナを与えてくださったこととのかかわりでお話ししたいと思います。それによって、主が荒野を旅するイスラエルの民のためにマナを備えてくださったことの歴史的な意味を考えてみたいと思います。


 民数記13章と14章に記されていますが、イスラエルの民はパランの荒野に宿営していました。主はパランの荒野にあるカデシュ(カデシュ・バルネア)から、イスラエルの十二の部族のそれぞれの族長をカナンの地を探るためにお遣わしになりました。彼らは40日間その地を偵察して帰って来ました。そして、13章27節ー29節に記されていますが、彼らはカナンの地について報告しました。彼らはまず、

 そこにはまことに乳と蜜が流れています。

と報告しました。けれども、それに続いて、

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

と報告しています。偵察に行った族長の一人であるカレブが、そうであっても、カナンの地を占領できると言いますと、彼らはそれを否定しました。そのことが、続く32節ー33節に、

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

と記されています。
 これに続く14章1節ー4節には、

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

と記されています。
 前回まで3回にわたって、エジプトを出たイスラエルの民が紅海のほとりにおいてエジプト軍が自分たちを追いかけてくるのを見た時(出エジプト記14章)、荒野において、食べるものがなくなって飢えた時(出エジプト記16章)と水がなくて渇いた時(出エジプト記17章1節7節)、そして、主が与えてくださったマナに飽きてしまった時(民数記11章)に、主に対する不信をあらわにしてつぶやいてきたことと、主がそのようにご自身に対する不信を募らせて、繰り返しつぶやいてきたイスラエルの民に対して、忍耐深く接してくださったことをお話ししました。
 それらのつぶやきは、基本的に二つの不満を表しています。一つは、主は自分たちを荒野で滅ぼすためにエジプトの地から連れ出されたということです。出エジプトの贖いの御業は主の自分たちへの悪意からなされたものであるというのです。もう一つは、このことから派生することで、こんなことであれば、奴隷の状態であっても、エジプトにいた方がよかったとか、エジプトに帰った方がいいということです。

 この時も、イスラエルの民はこれらと同じつぶやきを繰り返しています。けれども、この時のつぶやきは、これ以前の時のつぶやきと同じではありません。
 というのは、主は紅海においては、その水を分けてイスラエルの民を救い、エジプト軍を滅ぼされて、ご自身がイスラエルの民とともにいてくださることを示してくださいました。また、彼らが飢えた時には天からマナを降らせてくださって彼らの飢えを満たしてくださり、主が彼らとともにいてくださることを示してくださいました。同じように、彼らが渇いた時には、岩から水を出してくださって、主が彼らとともにいてくださることを示してくださいました。しかも、主は日ごとに新たに天からマナを降らせてくださって、イスラエルの民を養い続けてくださっていました。
 そればかりではありません。主はご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださっていることを昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、イスラエルの民に示してくださっていました。そして、イスラエルの民を導いてくださっていました。出エジプト記40章36節ー38節に、

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼はの雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

と記されているとおりです。
 これらのこと以上に大切なことは、このカデシュにおける出来事は、主がイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださろうとしている時に起こったということです。
 主はアブラハムへの契約において、アブラハムの子孫にカナンの地を相続させてくださることを約束してくださっていました。創世記17章7節ー8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。結論的なことだけをいいますが、これは主が約束の地であるカナンにおいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民が、主を礼拝することを中心として、主の御前を歩み、主との交わりに生きることができるようにしてくださることを意味しています。このことは、主の契約の祝福の中心にあることです。
 すでに繰り返しお話ししてきましたが、アブラハムの信仰は、主はご自身が約束してくださったことを必ず成し遂げてくださると信じる信仰でした。ローマ人への手紙4章20節ー22節に、

彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されているとおりです。そして、アブラハムの子孫とは「アブラハムの信仰にならう人々」(16節)です。ガラテヤ人への手紙3章7節に、

 信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

と記されているとおりです。
 ですから、アブラハムに与えられた契約の祝福として与えられた約束の地に入ることは、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にとって決定的に大切なことでした。しかし、カデシュでの出来事はイスラエルの民の第一世代が、主が自分たちをアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかる者としてくださろうとしておられることを思い起こして、主を信じ、主に頼ることはありませんでした。
 イスラエルの民の第一世代が主がアブラハムに与えてくださった契約を心に留めていなかったことは、彼らが荒野で生まれた自分たちの子どもに、主が契約のしるしとして与えられた割礼を施していなかったことに、典型的に現れています。先ほど、主がアブラハムに契約を与えてくださったことを記している創世記17章7節ー8節を引用しましたが、それに続く9節ー11節には、

ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

と記されています。ところが、ヨシュア記5章1節ー9節には、ヨシュアが主のみことばに従ってイスラエルの民に割礼をほどこしたことが記されています。4節ー5節には、

ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。

と記されています。

 そのようなイスラエルの民の不信仰から出たつぶやきに対して、民数記14章6節ー9節に記されていますが、カナンの地を探ってきた12人の族長たちのうち「ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ」が、イスラエルの全会衆を説得しました。その説得は、

 私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

というもので、

 が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

ということばで結ばれています。ヨシュアとカレブは主がこれまでの行程において、主が自分たちとともにおられて、真実に自分たちを支えてくださり、導いてくださっていたことを、そして、主がアブラハムに与えてくださった契約において示された約束の地に導き入れてくださることを信じていたのです。
 ところが、続く10節には、

 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。

と記されています。
 それで主はモーセに、この民を疫病によって滅ぼしてしまい、モーセから新しい民を起こすというみこころを示されました。けれども、モーセは、主の栄光のために、イスラエルの民の咎を赦してくださるようにとりなしました。それを受けて、20節ー23節には、

わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

という主のみことばが記されています。
 22節では、イスラエルの民の第一世代のことが、

エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった

と言われています。ここで「十度もわたしを試みて」と言われているときの「十度」は文字通りの「十度」の可能性もありますが、「」が完全数の一つであることから、もう十分にという意味合いを伝えている可能性もあります。この時まで繰り返しなされてきたことで、イスラエルの民が決して主を信じようとしない民であることが十分明らかになっているということです。また、この二つの意味合いがともにある可能性もあります。
 さらに、29節ー30節には、

この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。

と記されており、34節には、

あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。

と記されています。この時は、イスラエルの民がエジプトを出てから、2年ほど経っていましたから、イスラエルの民の第一世代はこの時からさらに38年荒野をさまようことになります。このことは、最初の2年間も、イスラエルの民の第一世代がさまよっていた期間でしかなかったということになります。それは、主が繰り返し、イスラエルの民とともにいてくださることを示してくださった期間ですが、イスラエルの民の第一世代はともにいてくださる主を信じることなく、主のみこころを踏みにじってしまった期間でした。イスラエルの民は主の御前にありながら、あるいは、主の御前をさまよってしまっていました。
 このことから、私たちは主は侮られるような方ではないことを心に刻みます。ガラテヤ人への手紙6章7節には、

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

と記されています。
 そうであっても、私たちはいたずらに神さまを恐れてはなりません。確かに、私たちも自らのうちに罪の本性を宿していて、繰り返し罪を犯してしまう者です。けれども、そのような私たちをご存知であられ、私たちのために御子をもお遣わしくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださった父なる神さまの愛と恵みを信じて、その都度、御許に近づくことが父なる神さまのみこころです。主の御臨在の御許には御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく、罪の贖いが備えられていて、罪を悔い改めて告白する時、主はその罪を赦してくださいますし、私たちをきよめてくださって、新しい歩みを始めさせてくださいます。この父なる神さまのみこころに従うことは、主に悪意があるとして主への不信を募らせて、つぶやくこととはまったく違います。
 ローマ人への手紙11章22節には、これら二つの面が、

見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

と記されています。

 このようにして、エジプトを出てきたイスラエルの民の第一世代は「四十年の間」荒野をさまようようになりました。けれども、主はその「四十年の間」も天からマナを降らせてくださって、彼らとその子らを養い続けてくださいました。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、エジプトを出てきたイスラエルの民の第一世代は、その生涯の最後までマナを食べ続けたということです。しかも、それは主が日々新たに天から降らせてくださったものです。けれども、彼らにとって主がマナを与えてくださっていることは自分たちの空腹を満たすこと以上の意味をもってはいませんでした。
 主が荒野を旅するイスラエルの民をマナをもって養い続けてくださったのは、ただ、彼らの生存を維持してくださるためのことではありませんでした。主が生存を維持してくださったという点は、ヨシュアとカレブも、そのほかのイスラエルの民の第一世代も同じです。両者の違いは、そのほかのイスラエルの民の第一世代が、荒野をさまようだけであったのに対し、ヨシュアとカレブは、主がアブラハムに与えてくださった契約において約束してくださった祝福を信じて、約束の地に向かって歩み続けたことにあります。主はマナをもって、そのようなヨシュアとカレブの歩みを支えてくださいました。主は日々新たにマナを与えてくださることによって、日々新たに、ご自身が彼らとともにいてくださることを示してくださっていました。それによって、ヨシュアとカレブの信仰を支え、信仰に基づく歩みを支えてくださっていたのです。
 もちろん、ヨシュアとカレブも、イスラエルの民の第一世代に属しており、彼らとともに、荒野の40年を過ごしました。その意味では、ヨシュアとカレブも荒野をさまよい続けていたように見えます。けれども、ヨシュアとカレブは、その荒野の40年の歩みの中で主に対する信仰を失うことはありませんでした。実際、二人は主の約束のとおり、カナンの地に入ります。
 特に、ヨシュアはモーセの後継者として、イスラエルの民の第二世代を、主がアブラハムに与えてくださった契約に基づいて与えてくださる約束の地へと導き入れる役割を担うことになります。
 カレブのことは余り知られていませんので、もう少し見てみましょう。カレブはヘブロンを相続地として与えられます。ヨシュア記14章13節ー14節に、

それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、に従い通したからである。

と記されているとおりです。
 とはいえ、カレブはただヘブロンを手に入れたのではありません。14章10節で、カレブはヨシュアに、

今、ご覧のとおり、がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

と述べています。この「四十五年間」は、荒野の40年とカナンの地に入ってからの5年と思われます。この時カレブはすでに85歳になっていました。それでも、12節に、

どうか今、があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。が私とともにいてくだされば、が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。

と記されており、15章14節に、

カレブは、その所[ヘブロン]からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。

と記されているように、主を信じてアナクの三人の子と戦ってヘブロンを相続地として持つようになりました。このことから、カレブの主に対する信仰は、45年前のカデシュでの出来事の時から一貫して変わっていないことが分かります。
 このように、主が荒野においてマナを与えてくださったことは、主がアブラハムの子孫をアブラハムに与えてくださった契約に基づいて約束の地に導き入れてくださるということを離れて理解することはできません。そのことを離れては、マナを与えてくださったことは、ただ単に、生存を支えてくださる食べ物を与えてくださったというだけのことになってしまいます。

 黙示録2章17節に記されている、

 わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。

というイエス・キリストのみことばも、このことを踏まえて理解する必要があります。
 これまでお話ししてきましたように、荒野においてイスラエルの民に与えられたマナは、主がアブラハムに与えてくださった契約において約束してくださったカナンの地に入ることを離れては、それが与えられた真の意味を理解することはできません。
 それと同じように、イエス・キリストが与えてくださる「隠れたマナ」を受けることは、古い契約の下でのカナンの地の本体である「まことの約束の地」、すなわち、終わりの日にイエス・キリストが栄光のうちに再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地を相続地として受け継ぐことと切り離して理解することができません。言い換えますと、イエス・キリストが私たちに「隠れたマナ」を与えてくださるということは、私たちに新しい天と新しい地をまことの相続地として受け継がせてくださるということをも意味しているのです。
 また、荒野においてイスラエルの民に与えられたマナは、やがて、主が与えてくださるまことの食べ物を指し示すものであって、それ自体が、まことの天からの食べ物ではありません。
 ヨハネの福音書6章には、イエス・キリストが、少年がもっていた「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」をお用いになって、男たちだけで5千人ほどの人々を養われたことが記されています。この時人々はイエス・キリストを王としようとしていましたが、イエス・キリストは人々から離れて山に退かれ、さらに、湖の対岸に渡って行かれました。人々はイエス・キリストを探して、小舟に乗って湖の対岸にまでやって来てイエス・キリストにお会いします。その時のイエス・キリストと人々とのやり取りを記している26節ー33節には、

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

と記されています。
 イエス・キリストは、人々がご自身を探し求めているのは「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」であるということを指摘しておられます。それは、イスラエルの民の第一世代がマナを食べながら、ただ単に、食欲を満たしていただけであったのと同じです。イエス・キリストはただお腹を満たすだけの食べ物ではなく、メシヤとして父なる神さまから遣わされたイエス・キリストがお与えになる「永遠のいのちに至る食物」を受け取るようにと教えられました。
 すると人々は、自分たちが信じることができるように、イエス・キリストに彼らの父祖たちが荒野で食べたマナに匹敵する、あるいは、それ以上のものを与えるよう要求しました。
 これに対してイエス・キリストは、主が荒野において、モーセをとおして、父祖たちにお与えになったマナは、まことの天から与えられた食べ物ではなかったと教えられました。そして、父なる神さまが御許からお遣わしになったイエス・キリストご自身がまことの「天からのパン」であり「いのちのパン」であることをお示しになりました。マナはこの「いのちのパン」を指し示す「地上的なひな型」でした。そして、この「いのちのパン」こそが、イエス・キリストが与えてくださる「隠れたマナ」です。
 少し後の、48節ー50節には、

わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この「いのちのパン」であられるイエス・キリストご自身によって生きるいのちは、新しい天と新しい地において、栄光の主の御臨在の御前で、主を礼拝することを中心とした主との交わりに生きるいのちです。


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