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説教日:2016年1月10日 |
この17節ー22節に記されていることは、先々主日にお話ししました、出エジプト記16章(全体)に記されている、マナが最初に与えられたときのことではありません。 マナが最初に与えられたときのことを振り返っておきましょう。 それがいつであったかについては、出エジプト記16章1節に、イスラエルの民は、 エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。 と記されています。イスラエルの民がエジプトを出たのが最初の月の15日でしたから、それから1ヶ月後のことです。 2節ー3節には、 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」 と記されています。イスラエルの民は主を信じないで、主は自分たちを荒野で飢え死にさせるためにエジプトの地から連れ出されたのだと言って、つぶやきました。 エジプトの地を出たイスラエルの民は、これに先立って、二つの経験をしています。 一つは、14章に記されていますが、主が紅海の水を分けて、イスラエルの民を通らせてくださり、イスラエルの民を追いかけて海に入ったパロの軍隊を滅ぼされたことです。 イスラエルの民は主がエジプトの地でなさった十のさばきがどのようなものであったかを経験しています。その主が自分たちをエジプトの地から導き出してくださったことも経験しています。そのことを経験していたイスラエルの民が、自分たちを追いかけてきたパロの軍隊を見たときのことが、14章10節ー12節に、 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」 と記されています。 イスラエルの民は、主が自分たちをエジプトの地から連れ出したのは、自分たちを荒野で死なせるためであった、こんなことであれば、エジプトで奴隷として生き長らえた方がよかったと言うのです。 主が出エジプトの贖いの御業を遂行してくださったときに、そのことの意味をモーセをとおして、イスラエルの民に明らかにしてくださっていました。それが、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づく御業であることや、主がアブラハムの子孫をご自身の御臨在の御許に住まう民としてくださるための御業であることを示してくださっていました。イスラエルの民は何も分からないままにエジプトの地を出てきたわけではありません。けれども、目の前の現実に圧倒されてしまって、主がこれまで自分たちに対して語ってくださったこと、そして、それに基づいて救いとさばきの御業を成し遂げてくださったことは、まったく、忘れ去られてしまっています。 そうではあっても、主はイスラエルの民に対して忍耐深くあられました。そして、ご自身がイスラエルの民とともにいてくださることを、迫ってきている危機をとおしてお示しくださいました。それはイスラエルの民の思いをはるかに越えたことでした。[「イスラエルの民の思いをはるかに越えたこと」と言いますと、主がマナを与えてくださったことを思い起こします。] 14章19節ー23節には、 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。 と記されています。 主の御臨在を現す雲の柱が、迫り来るエジプトの軍隊とイスラエルの民の間に立って、イスラエルの民を守ってくださっていたのです。さらに、イスラエルの民を追いかけて海に入ったエジプトの軍隊をかき乱されたので、エジプトの軍隊は海の中で自由に動くことができなくなり、元に戻った海の水によって全滅してしまいます。このことを受けて31節には、 イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。 と記されています。 エジプトを出たイスラエルの民が経験したもう一つのことは、15章23節ー25節に、 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。 と記されています。 この時も、渇きを覚えたイスラエルの民は、紅海において自分たちとともにいてくださって御業をなしてくださり、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださっている主を信じることなく、モーセにつぶやくだけでした。紅海のほとりにおいて、 民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。 と記されていたことはどうしてしまったのだろうと思いたくなります。 それでも、主はこの時も、イスラエルの民に対して忍耐深くあられました。荒野で渇くことも、イスラエルの民にとっては、初めての経験であったからということでしょう。 これらのことから、紅海のほとりにおいて、 民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。 と記されているときの、イスラエルの民の信仰は、その場限りのことで、新しい試練に遭遇したときに生きて働いていないことが感じ取れます。 もちろん、これは、私たち自身が自らのこととして顧みなければならないことでもあります。不信仰のために荒野で滅びたイスラエルの民の第一世代の者たちのことに触れているコリント人への手紙第一・10章6節には、 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。 と記されています。 エジプトを出たイスラエルの民は、すでに、紅海において主の御業を経験し、マラで渇きをいやしていただく経験をしていました。 そのイスラエルの民が、飢えるようになったときに、主を信頼して主を待ち望むことなく、つぶやいたのです。 それでも主は、イスラエルの民に対して忍耐深くあられました。そして、すでに繰り返しお話ししてきましたように、人の経験を越えた食べ物であるマナを備えてくださって、イスラエルの民を養ってくださいました。 繰り返しになりますが、先ほど引用しました詩篇78篇12節ー22節に、 それなのに、彼らはなおも神に罪を犯し、 砂漠で、いと高き方に逆らった。 彼らは欲するままに食べ物を求め、 心のうちで神を試みた。 そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。 「神は荒野の中で食事を備えることができようか。 確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て 流れがあふれた。 だが、神は、パンをも与えることができようか。 ご自分の民に肉を備えることができようか。」 それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。 火はヤコブに向かって燃え上がり、 怒りもまた、イスラエルに向かって立ち上った。 これは、彼らが神を信ぜず、 御救いに信頼しなかったからである。 と記されていることは、この最初にマナが与えられた時のことではありません。というのは、詩篇78篇12節ー22節に記されていることは、神である主が岩から大量の水を流れ出るようにしてくださって、イスラエルの民の渇きをいやしてくださった後のことであるからです。 神である主が岩から大量の水を流れ出るようにしてくださったことは、出エジプト記では、最初にマナが与えられたことが記されている16章に続く17章1節ー7節に、 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。 と記されています。 このレフィディムでの出来事につきましては、すでにいくつかのことをお話ししたことがありますが、中心にある一つのことに触れておきましょう。 イスラエルの民は、これまで、主が、エジプトの地で力強い御腕をもってエジプトにさばきを下し、紅海ではパロの軍隊を滅ぼして、自分たちを救い出してくださったことを経験しています。さらには、彼らが飢えたときには、主は、マナを与えてくださって、真実に支えてくださいました。それでも、ここで、主の真実さに対する不信をあらわにしています。 このような、イスラエルの民の不信仰に対しては、主のさばきが執行されることが予想されます。実際、5節には、主がモーセに、 民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。 と言われたことが記されています。このことは、そこで、正式なさばきが執行されることを示しています。「あなたがナイルを打ったあの杖」は、言うまでもなく、モーセが、エジプトの地に対する主のさばきを執行するために用いた「杖」です。 その、主のさばきを執行するために用いられる「杖」によって打たれなければならないのは、不信仰からモーセを告発し、主を試みているイスラエルの民です。ところが、続く6節には、主が、 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。 と言われたことが記されています。 主ご自身が、「ホレブの岩の上」にお立ちになって、主のさばきを執行するモーセの前に立たれるというのです。 モーセが主のさばきを執行するための「杖」で「ホレブの岩」を打ったとき、打たれたのは、その「岩」の上に立っておられた主ご自身でした。主が、本来は、イスラエルの民が受けなければならないさばきを、ご自身の身に負ってくださったのです。それによって、その「岩」から水が出て、イスラエルの民はそれを飲みました。 このことは、主の贖いの御業に関する啓示の全体の流れから見ますと、やがて、御子イエス・キリストにおいて成就する贖いを指し示すものでした。イエス・キリストは、私たちの罪に対するさばきをご自身の身に負ってくださって、十字架にかかってくださいました。これによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から救い出してくださいました。先ほど触れましたコリント人への手紙第一・10章では、4節に、 その岩とはキリストです。 と記されています。 今お話ししていることとのかかわりでもう一つ注意したいのは、出エジプト記17章7節に、この時、イスラエルの民が、 主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みた と記されていることです。イスラエルの民は、主が自分たちの間にご臨在してくださっておられること自体を疑っています。これまでは、主が自分たちの間にご臨在しておられることは信じていたのですが、主は自分たちを荒野で死なせるために自分たちをエジプトから連れ出したのではないかと疑っていました。 これ以後、イスラエルの民の不信仰には、この二つの不信が重なるようにして現れてきます。 詩篇78篇12節ー22節に記されていることは、これらのことのさらに後に起こったことです。それは、先主日に取り上げました、民数記11章(全体)に記されている出来事です。 民数記11章4節ー9節には、 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。 と記されています。 イスラエルの民は一緒にエジプトを出てきた外国人たちに扇動され、欲望に駆られて、主が天から降らせてくださっているマナには飽き飽きしたから、肉や魚や、もっとみずみずしく、刺激のある野菜を食べたいと言って、大声で泣き叫びました。18節に記されていますが、主はモーセをとおして、 あなたがたが泣いて、「ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった」と、主につぶやいて言った と述べておられますし、20節では、 あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、「なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう」と言った と述べておられます。イスラエルの民は、そのような欲望に駆られてしまっているために、主が成し遂げてくださった出エジプトの贖いの御業そのものを否定し、エジプトにいた方がよかったとまで言っています。 それでも、主はイスラエルの民に対して忍耐深くあられました。そして、大量のうずらを与えてくださいました。けれども、それでイスラエルの民は自分たちが欲望に駆られて主をないがしろにしたことを悔い改めて、主を信頼するようになったのではありませんでした。なおも欲望に駆られたまま、食べきれないほどのうずらを集めて食べ始めました。主が与えてくださったもので自分の激しい欲望を満たそうとしていたのです。32節には、 民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。 と記されています。 主がマナを与えてくださったときの「その日の分を」という戒めに示されている、日ごとに主に信頼するという信仰のあり方はすっかり忘れ去られてしまっています。これほど大量のうずらを与えてくださった主は、日ごとに自分たちの必要を満たしてくださることができる方であるから、主に信頼すべきであったと思い直して、悔い改めることはありませんでした。 そのために、主の御怒りが燃え上がりました。33節に、 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。 と記されています。 詩篇78篇17節ー22節には、このときのことが記されています。けれども、それで終わっていません。続く23節ー25節には、 しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、 食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、 天の穀物を彼らに与えられた。 それで人々は御使いのパンを食べた。 神は飽きるほど食物を送られた。 と記されています。 主はあの時イスラエルの民に怒りを燃やされ、さばきを執行されました。しかし、主はそれでマナを降らせてくださることを止められたわけではありません。その後も、真実にマナをもってイスラエルの民を養い続けてくださいました。 イスラエルの民の不信仰に驚く以上に、主のあわれみの深さに打たれます。 ここでは、マナが「天の穀物」と呼ばれており「御使いのパン」と呼ばれています。この場合の「御使い」と訳されていることば(アッビーリーム)は「力強い者たち」を意味しています。この場合は、「天の穀物」との関連で考えますと、この「力強い者たち」は天に属している存在です。それで、「御使いたち」である可能性があります。七十人訳では「御使いたち」となっています。 マナが「天の穀物」であり「御使いのパン」であることとの関連で、先ほど触れましたコリント人への手紙第一・10章に記されていることを見てみたいと思います。1節ー4節には、 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 と記されています。 4節では、出エジプトの時代に、主が岩から流れ出るようにされた水のことが「御霊の飲み物」と呼ばれており、3節では、主が天から降らせてくださったマナのことが「御霊の食べ物」と呼ばれています。これは、その水やマナが御霊のお働きによって与えられたもので、その起源が天にあり、天に属するものであることを意味しています。 それで、岩から流れ出た水も天から降ってきたマナも、単にからだの渇きと飢えをいやすだけのものではなく、それ以上の意味をもっています。最終的には、神さまが備えてくださった贖い主であるイエス・キリストが与えてくださるいのちの水やいのちのパン、さらには、主の民のいのちの主であられるイエス・キリストご自身を指し示すものでした。ヨハネの福音書6章35節には、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 というイエス・キリストの教えが記されています。 わたしがいのちのパンです。 という教えは、「エゴー・エイミ・・・」という強調形で表されていて、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。それとともに、契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、私たち主の民にとってどのような方であるか、この場合は、私たちにとっての「いのちのパン」であられることを示しています。そして、ヨハネの福音書6章の流れの中では、イエス・キリストご自身がマナの本体であられることが示されています。 マナにかかわるこのような意味は、御霊のお働きにらなければ悟ることができません。コリント人への手紙第一・2章14節に、 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです と記されているとおりです。この意味で、マナには「生まれながらの人間」から、また、常に主に対する不信をもって主を試み続けていたイスラエルの民から隠されている意味があります。 |
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