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説教日:2015年7月5日 |
イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を示してくださったときに、最初に示されたのは、黙示録1章12節ー13節に、 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。 と記されていますように、「七つの金の燭台」でした。これについては、20節で、 七つの燭台は七つの教会である と説明されています。ですから、イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をお示しになったとき、まず、ご自身がアジアにある七つの教会の「真ん中に」「人の子のような方」としてご臨在しておられることをお示しになりました。イエス・キリストはアジアにある七つの教会の「真ん中に」ご臨在されて、一つ一つの教会の実情をすべてご存知であられるまことの牧会者として、また、この世界のすべてのことを父なる神さまのみこころにしたがって治めておられる歴史の主として、一つ一つの教会を導いてくださっておられます。そのために、それぞれの教会に対して、賞賛すべきことと悔い改めなければならないことを指摘してくださっています。ただ、スミルナにある教会とフィラデルフィヤにある教会には悔い改めなければならないことが示されてはいません。 イエス・キリストは、このような方として、スミルナにある教会のことをつぶさに知ってくださっていました。そのことが2章9節には、 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。 と記されています。 スミルナはエーゲ海に面する港湾都市として繁栄していて、アジアではエペソにつぐ都市でした。しかし、スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害を受けて「苦しみと貧しさ」の中にありました。スミルナは歴史的にローマ帝国とのつながりが深く、皇帝礼拝に熱心な町でした。スミルナにある教会の信徒たちは皇帝礼拝ばかりでなく、あらゆる偶像礼拝を避けるとともに、偶像に関わる仕事なども避けていたために、「苦しみと貧しさ」の中にあったと考えられます。 また、スミルナにある教会の信徒たちは、血肉のつながり、すなわち人種としては「ユダヤ人」であり、自分たちことを神によって選ばれた民であるとしている人々から「ののしり」を受けていました。それは、十字架につけられて殺されてしまったイエス・キリストを、神さまから遣わされた贖い主として信じており、イエス・キリストが贖い主であるとあかししていたからです。これも、スミルナにある教会の信徒たちが受けていた迫害です。 このような、スミルナにある教会の信徒たちが受けていた迫害による「苦しみと貧しさ」や「ののしり」による辱めは、今日の時代においては、世界の至るところで見られるようになりました。前にお話ししたことがありますが、私は世界福音同盟(WEA)の宗教的な自由に関する委員会が毎週ホームページに掲載している、キリスト教徒に対する迫害に関する情報を見ていますが、新たな迫害のニュースが絶えることがありません。 まだ20世紀が終わりに近づいていた頃に、20世紀になってからの殉教者の数は、初代教会も含めて、20世紀より前のすべての時代の殉教者の数よりも多いと言われていました。それは、さらに、20世紀の終わりから21世紀の今日までの間に劇的に増加しています。 このような現実を前にして、しばしば、心に浮かぶのは、黙示録6章10節に記されています、 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。 という叫びの声です。これは、9節ー10節の初めに、 私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。 と記されていますように、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」の叫びです。 この場合の「殺された」ということばを、文字通りの意味に取って、この人々が殉教者たちだけを指していると理解するか、比喩的な意味に取って、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために」迫害を受けて苦しみを味わった人々すべてを指していると理解するか、見方が別れています。2章10節に記されています、イエス・キリストの、 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 というみことばは、スミルナにある教会の信徒たちのある人たちが投獄されて、殉教するようになることを受けて語られたものです。けれども、この命令と約束は、投獄される人々だけに語られたのではなく、その人々と心を一つにしてともに苦しむようになる、スミルナにある教会の信徒たちすべてに語られています。このようなことから、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」は文字通りの殉教者たちだけに限られていなくて、イエス・キリストの戒めに従って、「死に至るまで忠実で」あった人々のことであると考えられます。 もちろん、この「人々のたましい」は完全にきよめられて主の御臨在の御許にいますから、罪が生み出す自己中心性が生み出す復讐心に駆られて、このように叫んでいるのではありません。これは、霊的な戦いにおける神である主のみこころが一日も早く実現することを求めるものですし、それによって、神である主の義が歴史の中で現されることを求めるものです。しかも、これは、地上にある主の民が迫害のために味わっている「苦しみと貧しさ」や「ののしり」による辱めを、自分たちのこととして汲み取っているための叫びでしょう。 これに対して、続く11節には、 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。 と記されています。 「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。 という叫びの声を上げたときの地上の状態はどのような状態であったでしょうか。それにつきましては、6章1節ー8節に記されていることをご覧になっていただきたいと思います。引用することができませんので、まとめますと、そこでは、神さまのさばきによって地上に、戦争、飢饉、疫病、獣たちによってもたらされるわざわいがやって来ることが示されています。 それは、マタイの福音書24章7節ー12節に記されています、 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 という、終わりの日についてのイエス・キリストの教えに示されているような状態です。 神さまのさばきによって地上に、戦争、飢饉、疫病、獣たちによってもたらされるわざわいがやって来ることが示されている黙示録6章1節ー8節には、主の民への迫害のことは出てきません。けれども、先ほどのイエス・キリストの教えが示していますように、そのような状態になるときにこそ、主の民はさまざまな試練と迫害にさらされるようになります。それは、先ほど触れましたように、いま、私たちが生きていますこの時代に、多くの主の民が経験しておられる現実です。 「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。 という叫びの声を上げたのは、このような地上の状態にあって主の民がさまざまな試練と迫害にさらされていることに対して、深く心を痛めてのことでしょう。そうであれば、それに対して、ヘブル人への手紙2章17節ー18節において、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 とあかしされている、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストが平然としておられるはずはありません。 ですから、黙示録6章9節ー10節に、 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 と記されていることは、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、霊的な戦いにおける神である主のご計画がわからないために、性急に叫び声を上げたということではありません。また、これに対して、11節に、 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。 と記されていることは、霊的な戦いにおける神である主のご計画の完全な実現にはまだ時があるということが、いわば、平然と告げられたということでもありません。 先ほど引用しました、マタイの福音書24章7節ー12節に記されています、終わりの日についてのイエス・キリストの教えに続いて、13節ー14節には、 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と記されています。これは、黙示録6章11節に記されています、 あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい というみことばが示していることと実質的に同じことです。 天においては、すでに地上の歩みに伴う苦しみ、痛み、悲しみなどから解放されている聖徒たちに、「もうしばらくの間」のうちに、神である主のみこころが必ず実現することを信じて、「休んでいなさい」と告げられます。地にある聖徒たちには、「最後まで耐え忍ぶ」ようにと告げられます。それも、その間に、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るようになるからです。 私たち日本長老教会では、7月第一週を世界宣教週間としています。私たちも本主日の礼拝の牧会の祈りにおいて、心を合わせて、日本長老教会の会員で、宣教師として、また、その他の働きのために派遣されている方々のお働きのためにお祈りしました。さらに、かつて、神学生の時代に奉仕に来てくださった方々で、いまは宣教師としてのお働きについておられる先生方、またその準備をしておられる先生方のためにお祈りしました。それとともに、祈祷会において、継続的にお祈りをさせていただいています。すべて、神である主のみこころによるご計画が実現することを信じてのことです。 終わりの日に向けて、この世の状況はますます厳しいものとなっていきます。今日では、ダニエル書7章1節ー12節に記されていました第4の獣に生えてきた「小さな角」として示されている反キリストの出現を予感させるような状況も生まれてきています。また、黙示録6章1節ー8節が示しています、戦争、飢饉、疫病、獣たちによる危害などに当たるわざわいも蔓延しつつあります。そのような中で、主の民がさまざまな試練と迫害にさらされています。 そうではありましても、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストは、ご自身の民の苦しみと悲しみをご自身のこととして負ってくださり、とりなしてくださりつつ、なおも、地上にあって苦しみつつ、福音のみことばにしたがって歩む主の民のあかしをとおして、御許に集められるべきご自身の民を救いのうちに招き入れてくださって、霊的な戦いにおける父なる神さまのみこころを実現してくださいます。 |
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