黙示録講解

(第213回)


説教日:2015年7月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(42)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 黙示録の著者ヨハネは、ローマの属州であるアジア、現在の小アジア(トルコ)の西側の地域の第一の都市であったエペソにある教会の牧会者でしたが、アジアにある諸教会の中心的な指導者であり、牧会者であったと考えられます。
 けれども、この時、ヨハネは、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ローマ帝国からの迫害を受けて、パトモスという島に流刑になっていました。
 続く10節ー20節に記されていますように、そのヨハネに、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿を現してくださいました。そして、黙示録に記されていることを啓示してくださいました。黙示録に記されていることは、基本的には、アジアにある七つの教会に対してイエス・キリストが与えてくださった啓示です。
 アジアには、これら七つの教会以外にも教会がありましたが、七つの教会が選ばれています。それらはヨハネが選んだのではなく、ヨハネに黙示録に記されている啓示をお与えになったイエス・キリストがお選びになったものです。それは、これら七つの教会がほかの教会より優れているということによっていたのではなく、それぞれの教会が異なった状況に置かれていて、異なった問題や試練に直面していたことによっています。七つの教会の「七」は完全数です。アジアにある七つの教会は、アジアにあったそのほかの教会だけでなく、また、初代教会のすべての教会だけでもなく、歴史をとおして地上に存在しているすべての教会を代表的に示しています。
 その時、イエス・キリストがヨハネに現してくださった栄光の御姿そのものにつきましては、12節ー16節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 ここに出てくる「人の子のような方」は、ダニエル書7章1節ー14節に記されています、ダニエルが見た幻を背景としています。ダニエルは、まず、2節ー8節に記されています、海から4頭の獣が次々と上って来るのを見ます。そこには、

私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現れた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現れた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と記されています。
 古代オリエントの文化の中では、海はしばしば暗やみの主権を示す表象として用いられていました。聖書では、その暗やみの主権者はサタンであることが示されています。そのような意味をもった海から上って来た4頭の獣は、その暗やみの主権が生み出したこの世の国々を示す表象として用いられています。17節では、
 これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。
と説明されています。このことから「」は「」のことであるという主張もなされていますが、むしろ、この「」と「」はこの世の国々の起源の二つの面を示していると理解した方がいいと考えられます。つまり、この世の国々は暗やみの主権者の働きによって生み出されたという面をもっており、それゆえに、「」から出ており「」に属しているということです。これは、この後取り上げます、「人の子のような方」の御国が、神さまから与えられた国であり、天に属している国としての特質をもっていることと対比されます。詩篇2篇2節には、

 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

と記されています。
 ダニエルが見た幻の中では、それら4頭の獣が次々と現れてきます。それによって、この世の国々が現れては過ぎ去っていくことが示されています。それとともに、その4頭の獣のそれぞれの描写を見ますと、だんだんとその狂暴さが増していっています。これによって、歴史の経緯とともに、この世の国が次第に狂暴さを増していき、最後に、第4の獣によって、その狂暴さが頂点に達し、暗やみの主権者であるサタンの特質を最もはっきりと示すようになることが示されています。
 ダニエル書7章では、これに続いて、9節ー12節に、

 私が見ていると、
  幾つかの御座が備えられ、
  年を経た方が座に着かれた。
  その衣は雪のように白く、
  頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
  御座は火の炎、
  その車輪は燃える火で、
  火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
  幾千のものがこの方に仕え、
  幾万のものがその前に立っていた。
  さばく方が座に着き、
  幾つかの文書が開かれた。
 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。

と記されています。
 ここには、いくつか分かりにくいことがありますが、9節に出てくる「年を経た方」は、神さまを表しています。

 その衣は雪のように白く

ということは、神さまの完全な聖さを表しています。また、

 頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。

ということは、髪の毛の白さを示すことばで、神さまの知恵の豊かさを示しています。
 11節で、

 あの角が語る大きなことばの声がする

と言われているときの「あの角」は7節の後半ー8節に記されています、第4の獣に生えてくる角のことです。第4の獣にはもともと「十本の角」があります。これは第4の獣の国において立つ十人の王を示しています。そして、「その間から、もう一本の小さな角が出て来」ます。そして「その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれ」てしまいます。その「小さな角」については、

 よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。

と記されています。「人間の目のような目」は、物事を見極めて判断してゆく知的能力に優れていることを示し、「大きなことを語る口」は、そのような能力をもっている者の高ぶりを示しています。これは、第4の獣の国において立つもうひとりの王で、反キリストのことです。終わりの日に出現する反キリストは暗やみの主権者であるサタンの特質を体現するような存在です。それが「小さな角」として示されているところに、また、そのような「小さな角」に「大きなことを語る口」があると言われていることに、聖書に見られる皮肉があります。この反キリストへのさばきの執行とともに、第4の獣は最終的に滅ぼされます。
 一つ引っかかるのは、12節に、

 残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。

と記されていることが何を意味しているかということです。「残りの獣」(複数形)は、第4の獣の前に海から上ってきた3頭の獣のことです。ここでは、第4の獣がそれら3頭の獣と区別されています。その違いは、一般に、次のように理解されています。それら3頭の獣は、それぞれ、その後に出てくる獣によって滅ぼされます。そのために、もはや、ほかの国々の上に主権を振るうことはできませんが、その影響は、たとえば、思想的、文化的、社会的な遺産として残ることがあります。けれども、第4の獣は、終わりの日に、神さまの最終的なさばきによってさばかれて滅びます。そのため、その国のすべてが滅び去ってしまいます。もちろん、ほかの3頭の獣が歴史的に残した影響も、第4の獣がさばかれて滅びる、終わりの日に、滅び去ってしまいます。
 この個所が分かりにくいのは、「残りの獣」に対するさばきのことが、第4の獣に対するさばきのことの後から出てくるからです。私たちは記述の順序が時間的順序であると考えてしまいがちですので、「残りの獣」に対するさばきが第4の獣に対するさばきの後になされるという印象をもってしまいがちです。けれども、これは後から付け加えられた補足に当たるもので、「残りの獣」について、それらには第4の獣とは違った点があることを説明しています。
 このように、9節ー12節では、神さまの御座の御前で、最終的なさばきが執行されて、暗やみの主権者であるサタンの特質を最もはっきりと示すようになる第4の獣がさばかれ、滅ぼされようになることが示されています。
 これに続いて、13節ー14節には、

私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されています。
 ここでは、「人の子のような方」、すなわち、メシヤが栄光のうちに来臨されることが記されています。「人の子のような方」は「年を経た方」、すなわち、父なる神さまから「主権と光栄と国」を与えられて、父なる神さまのみこころにしたがって「諸民、諸国、諸国語の者たち」を治めるようになります。このようにして、メシヤの国の主権が確立され、永遠に続くようになります。
 黙示録1章12節ー16節で、イエス・キリストはご自身の栄光の御姿を「人の子のような方」としてお示しになりました。これによってイエス・キリストは、ご自身がダニエル書7章に示されている「人の子のような方」であられることを啓示してくださっています。これは、この時に初めて示されたことではありません。イエス・キリストは地上でメシヤとしてのお働きを遂行しておられたときに、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられました。この「人の子」はダニエル書7章に出てくる「人の子のような方」を指すものです。
 ですから、イエス・キリストがヨハネにお示しになった栄光の御姿は、私たちご自身の民のために罪の贖いの御業を遂行されるとともに、暗やみの主権者の権威を打ち砕いてしまわれるという、霊的な戦いを展開しておられるメシヤとしての御姿です。


 イエス・キリストがヨハネにご自身の栄光の御姿を示してくださったときに、最初に示されたのは、黙示録1章12節ー13節に、

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されていますように、「七つの金の燭台」でした。これについては、20節で、

 七つの燭台は七つの教会である

と説明されています。ですから、イエス・キリストはご自身の栄光の御姿をお示しになったとき、まず、ご自身がアジアにある七つの教会の「真ん中に」「人の子のような方」としてご臨在しておられることをお示しになりました。イエス・キリストはアジアにある七つの教会の「真ん中に」ご臨在されて、一つ一つの教会の実情をすべてご存知であられるまことの牧会者として、また、この世界のすべてのことを父なる神さまのみこころにしたがって治めておられる歴史の主として、一つ一つの教会を導いてくださっておられます。そのために、それぞれの教会に対して、賞賛すべきことと悔い改めなければならないことを指摘してくださっています。ただ、スミルナにある教会とフィラデルフィヤにある教会には悔い改めなければならないことが示されてはいません。
 イエス・キリストは、このような方として、スミルナにある教会のことをつぶさに知ってくださっていました。そのことが2章9節には、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と記されています。
 スミルナはエーゲ海に面する港湾都市として繁栄していて、アジアではエペソにつぐ都市でした。しかし、スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害を受けて「苦しみと貧しさ」の中にありました。スミルナは歴史的にローマ帝国とのつながりが深く、皇帝礼拝に熱心な町でした。スミルナにある教会の信徒たちは皇帝礼拝ばかりでなく、あらゆる偶像礼拝を避けるとともに、偶像に関わる仕事なども避けていたために、「苦しみと貧しさ」の中にあったと考えられます。
 また、スミルナにある教会の信徒たちは、血肉のつながり、すなわち人種としては「ユダヤ人」であり、自分たちことを神によって選ばれた民であるとしている人々から「ののしり」を受けていました。それは、十字架につけられて殺されてしまったイエス・キリストを、神さまから遣わされた贖い主として信じており、イエス・キリストが贖い主であるとあかししていたからです。これも、スミルナにある教会の信徒たちが受けていた迫害です。
 このような、スミルナにある教会の信徒たちが受けていた迫害による「苦しみと貧しさ」や「ののしり」による辱めは、今日の時代においては、世界の至るところで見られるようになりました。前にお話ししたことがありますが、私は世界福音同盟(WEA)の宗教的な自由に関する委員会が毎週ホームページに掲載している、キリスト教徒に対する迫害に関する情報を見ていますが、新たな迫害のニュースが絶えることがありません。
 まだ20世紀が終わりに近づいていた頃に、20世紀になってからの殉教者の数は、初代教会も含めて、20世紀より前のすべての時代の殉教者の数よりも多いと言われていました。それは、さらに、20世紀の終わりから21世紀の今日までの間に劇的に増加しています。

 このような現実を前にして、しばしば、心に浮かぶのは、黙示録6章10節に記されています、

 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。

という叫びの声です。これは、9節ー10節の初めに、

私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。

と記されていますように、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」の叫びです。
 この場合の「殺された」ということばを、文字通りの意味に取って、この人々が殉教者たちだけを指していると理解するか、比喩的な意味に取って、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために」迫害を受けて苦しみを味わった人々すべてを指していると理解するか、見方が別れています。2章10節に記されています、イエス・キリストの、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というみことばは、スミルナにある教会の信徒たちのある人たちが投獄されて、殉教するようになることを受けて語られたものです。けれども、この命令と約束は、投獄される人々だけに語られたのではなく、その人々と心を一つにしてともに苦しむようになる、スミルナにある教会の信徒たちすべてに語られています。このようなことから、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」は文字通りの殉教者たちだけに限られていなくて、イエス・キリストの戒めに従って、「死に至るまで忠実で」あった人々のことであると考えられます。
 もちろん、この「人々のたましい」は完全にきよめられて主の御臨在の御許にいますから、罪が生み出す自己中心性が生み出す復讐心に駆られて、このように叫んでいるのではありません。これは、霊的な戦いにおける神である主のみこころが一日も早く実現することを求めるものですし、それによって、神である主の義が歴史の中で現されることを求めるものです。しかも、これは、地上にある主の民が迫害のために味わっている「苦しみと貧しさ」や「ののしり」による辱めを、自分たちのこととして汲み取っているための叫びでしょう。
 これに対して、続く11節には、

すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

と記されています。
 「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、

 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。

という叫びの声を上げたときの地上の状態はどのような状態であったでしょうか。それにつきましては、6章1節ー8節に記されていることをご覧になっていただきたいと思います。引用することができませんので、まとめますと、そこでは、神さまのさばきによって地上に、戦争、飢饉、疫病、獣たちによってもたらされるわざわいがやって来ることが示されています。
 それは、マタイの福音書24章7節ー12節に記されています、

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

という、終わりの日についてのイエス・キリストの教えに示されているような状態です。
 神さまのさばきによって地上に、戦争、飢饉、疫病、獣たちによってもたらされるわざわいがやって来ることが示されている黙示録6章1節ー8節には、主の民への迫害のことは出てきません。けれども、先ほどのイエス・キリストの教えが示していますように、そのような状態になるときにこそ、主の民はさまざまな試練と迫害にさらされるようになります。それは、先ほど触れましたように、いま、私たちが生きていますこの時代に、多くの主の民が経験しておられる現実です。
 「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、

 聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。

という叫びの声を上げたのは、このような地上の状態にあって主の民がさまざまな試練と迫害にさらされていることに対して、深く心を痛めてのことでしょう。そうであれば、それに対して、ヘブル人への手紙2章17節ー18節において、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

とあかしされている、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストが平然としておられるはずはありません。
 ですから、黙示録6章9節ー10節に、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

と記されていることは、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が、霊的な戦いにおける神である主のご計画がわからないために、性急に叫び声を上げたということではありません。また、これに対して、11節に、

すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

と記されていることは、霊的な戦いにおける神である主のご計画の完全な実現にはまだ時があるということが、いわば、平然と告げられたということでもありません。
 先ほど引用しました、マタイの福音書24章7節ー12節に記されています、終わりの日についてのイエス・キリストの教えに続いて、13節ー14節には、

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。これは、黙示録6章11節に記されています、

あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい

というみことばが示していることと実質的に同じことです。
 天においては、すでに地上の歩みに伴う苦しみ、痛み、悲しみなどから解放されている聖徒たちに、「もうしばらくの間」のうちに、神である主のみこころが必ず実現することを信じて、「休んでいなさい」と告げられます。地にある聖徒たちには、「最後まで耐え忍ぶ」ようにと告げられます。それも、その間に、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るようになるからです。
 私たち日本長老教会では、7月第一週を世界宣教週間としています。私たちも本主日の礼拝の牧会の祈りにおいて、心を合わせて、日本長老教会の会員で、宣教師として、また、その他の働きのために派遣されている方々のお働きのためにお祈りしました。さらに、かつて、神学生の時代に奉仕に来てくださった方々で、いまは宣教師としてのお働きについておられる先生方、またその準備をしておられる先生方のためにお祈りしました。それとともに、祈祷会において、継続的にお祈りをさせていただいています。すべて、神である主のみこころによるご計画が実現することを信じてのことです。
 終わりの日に向けて、この世の状況はますます厳しいものとなっていきます。今日では、ダニエル書7章1節ー12節に記されていました第4の獣に生えてきた「小さな角」として示されている反キリストの出現を予感させるような状況も生まれてきています。また、黙示録6章1節ー8節が示しています、戦争、飢饉、疫病、獣たちによる危害などに当たるわざわいも蔓延しつつあります。そのような中で、主の民がさまざまな試練と迫害にさらされています。
 そうではありましても、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストは、ご自身の民の苦しみと悲しみをご自身のこととして負ってくださり、とりなしてくださりつつ、なおも、地上にあって苦しみつつ、福音のみことばにしたがって歩む主の民のあかしをとおして、御許に集められるべきご自身の民を救いのうちに招き入れてくださって、霊的な戦いにおける父なる神さまのみこころを実現してくださいます。


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