黙示録講解

(第214回)


説教日:2015年7月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(43)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 スミルナはエーゲ海東岸にある港湾都市で、地中海交易の要所として繁栄していました。しかし、スミルナにあった教会の信徒たちは、9節に記されていますように「苦しみと貧しさ」のうちにありました。それは、スミルナが歴史的に古くからローマとのつながりが深く、皇帝礼拝にも熱心であったことによっていたと考えられます。
 また、繁栄していた町であるスミルナには相当数のユダヤ人がいて、ユダヤ人共同体が形成されていたようです。スミルナにある教会の信徒たちは、自分たちこそが主の選びの民であるとしていたユダヤ人たちから、ののしりを受けていました。それは、スミルナにある教会の信徒たちを含めて、クリスチャンたちが、異邦人であるローマの兵士たちの手によって十字架につけられて殺されたイエス・キリストは、神が遣わしてくださった贖い主、メシヤであると信じており、そのことをあかししていたからです。
 イエス・キリストはユダヤの最高議会にして最高法廷であるサンヘドリンにおいて、にせメシヤ、にせキリストとして断罪されました。そして、ローマ帝国に反逆を企て、民衆を扇動する者としてローマ側に引き渡され、十字架刑によって処刑されました。申命記21章23節に記されています、

 木につるされた者は、神にのろわれた者である

という教えによりますと、十字架につけられて殺されたイエス・キリストは「神にのろわれた者」であるのです。ユダヤ人たちからしますと、そのような者のことを、神がお遣わしになったメシヤであると主張することは、神を冒 することであるということになります。
 けれども、福音のみことばが一貫してあかししていますように、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、まことの人となって来てくださり、十字架におかかりになって、「神にのろわれた者」として死なれたのは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるためです。
 それでは、どうして、私たちの罪を贖ってくださるために、父なる神さまはご自身の御子を、贖い主として遣わしてくださったのでしょうか。私たちの贖い主は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストでなければならなかったのでしょうか。それとも、ほかの存在ではだめだったのでしょうか。また、そもそも、神さまは絶対的な主権者です。それで、人の罪をそのまま赦すことはできないのでしょうか。
 これらの問題につきましては、三つほどのことをお話ししたいと思います。
 第一に、絶対的な主権者である神さまが、人の罪をそのまま赦すことはできないのかということについてですが、確かに神さまは絶対的な主権者です。外から神さまを規制するものは何もありません。すべてのことを最終的に決定される方は神さまです。ローマ人への手紙11章33節ー36節には、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と記されています。また、神さまは全能の主であられ、神さまにはできないことはありません。
 けれども、神さまにできないことはないということについては、それがどのようなことであるかを、注意深く考える必要があります。
 神さまにできないことはないということは、神さまがなそうとされることは何でもおできになるという意味です。私たちの場合には、どんなにしたいと思っても、できないことがあります。それは私たちにそれをなす力がないからです。けれども、神さまには、ご自身がなそうと思われても力がないからおできにならないということがありません。また神さまは、あることをしたいと思われても、ご自身に力がないから断念されるということもありません。
 さらに、神さまはご自身の聖なる属性に反することをなそうと思われることはありません。そのような意味では、神さまにおできにならないことがあります。たとえば、「真実」は神さまの聖なる属性の一つです。それで、神さまは偽ることができません。ヘブル人への手紙6章18節には、

 神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません

と記されています。ヘブル人への手紙6章18節の文脈からしますと、このみことばは、神さまはご自身が約束されたことを反故にすることがおできにならないということを示しています。
 このこととの関連では、これまで繰り返してお話ししてきましたアブラハムの信仰の特質が思い出されます。ローマ人への手紙4章18節ー21節には、アブラハムの信仰について、

彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されています。ここでは、アブラハムは「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず」、「神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」と言われています。アブラハムは、漠然と、神さまが全能であり、神さまは何でもおできになるということを信じていたのではありません。神さまが約束してくださったことを信じたのです。アブラハムは、神さまが全能であるだけでなく、真実な方であるから、約束してくださったことを必ず実現してくださると信じました。それがアブラハムの信仰の特質です。
 また、「義」は神さまの聖なる属性の一つです。そのために、神さまは「義」に反することをなさいませんし、なすことがおできになりません。神さまは罪をきちんと清算することなしに、赦すことはできません。ですから、神さまは人の罪をそのまま赦すことはできません。神さまの御前では、人の罪も、また悪魔を初めとする悪霊たちの罪も、すべて、また、完全に、清算されなければなりません。
 第二に、私たちは自分の罪を償うことはできません。これには二つのことがかかわっています。
 一つは、ヨハネの手紙第一・1章8節に、

 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と記されていますように、私たちの本性は罪によって汚染されています。ここに出てくる「」は単数形で、罪の性質を表しています。また、10節に、

 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されていますように、私たちはどうしても罪を犯してしまいます。それも時々罪を犯すというのではなく、私たちの思いとことばと行いのすべてに、私たちの罪の本性の何らかの現れがあるということです。もちろん、それは私たち自身も含めて人には見えないことがあります。しかし、すべてのことを完全に知っておられる神さまは見抜いておられます。そのような状態にある私たちは、神さまの御前に、さらに罪を積み重ねる者であって、とても、自分の罪を贖うことができません。
 そればかりではありません。もう一つのことですが、私たちの罪はすべて、基本的には、私たちを神のかたちとしてお造りになった神さまに対する罪です。そして、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられます。私たち人間は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯しましたし、犯しています。それで、私たち罪の深さ、あるいは、重さは無限です。そのような私たちの罪を、神さまの義の基準に照らして、きちんと償うためには、無限の償いが必要です。ですから、有限な存在である被造物は、たとえそれが最も高い御使いであっても、私たちの罪の一つをも贖うことができません。
 このように、私たちの罪が無限に深く、無限に重いものであるので、それは永遠の刑罰に価するのです。私たちも、悪霊たちも、その罪を永遠に償いきれません。神さまはそのような私たちの罪を贖ってくださることをよしとされ、そのことを福音のみことばを通して約束してくださっています。神さまはそのために、ご自身の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストを私たちの贖い主としてお遣わしになりました。
 イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、私たちご自身の民の贖い主となられるために、人の性質を取って来てくださいました。それは、イエス・キリストが私たちが受けなければならない、私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わって受けてくださるためです。イエス・キリストは罪を除いて、私たちと同じようになられ、私たちと一つとなってくださり、私たちの代表者として、私たちが受けなければならない私たちの罪に対する刑罰をすべて、余すところなく、私たちに代わって受けてくださいました。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。先ほど、たとえ最も高い御使いでも、無限の深さと重さをもっている私たちの罪を贖うことはできないということをお話ししました。それとは別に、このことと関連してお話ししたいのですが、御使いたちには「血と肉」がありませんので、私たちと同じようになられ、私たちと一つとなってくださり、私たちの代表者となることはできません。
 また、御子イエス・キリストによる罪の贖いの完全さにつきまして、同じヘブル人への手紙の9章26節には、

 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

と記されており、10章10節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されています。また、14節には、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 これらのみことばは、私たちの罪が神さまの御前において、完全に清算され、償われていることを示しています。
 御子イエス・キリストは十字架において、ただ人が加えることができる肉体的な苦しみを味わわれただけではありません。人が十字架刑によって与えることができる肉体的な苦しみについては、医学的に説明されています。その意味では、それがどのように残酷な苦しみをもたらすものであるかが分かります。十字架の上でイエス・キリストが味わわれた苦しみはそれ以上のものです。イエス・キリストは神さまの聖なる御怒りによる刑罰のすべてを味わわれました。それは、地獄の刑罰に相当するもので、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りが余すところなくイエス・キリストに注がれたということを意味しています。これがどのようなことであるかは、私たちの想像を絶することです。
 それで、福音のみことばは、私たちの罪に対する刑罰はすでにイエス・キリストの十字架において執行されて終わっているとあかししています。私たちは、もはや、私たちの罪に対するさばきを受けることはありません。
 私たち主の民が終わりの日に受けるさばきは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰としてのさばきではなく、私たちが主の契約の民、神さまの子どもとして地上の生涯をどのように歩んだかについての評価としてのさばきです。神さまはご自身の民が御子イエス・キリストの御足の跡に従いながら歩むことによって結ばれた実を評価してくださり、後ほどお話ししますが、新しい天と新しい地へとつなげていってくださいます。
 第三に、このような仮定をすること自体が憚られることですが、話を分かりやすくするために、あえて仮定のお話をしたいと思います。もし御子が私たちの罪に対する最終的な刑罰、すなわち、地獄の刑罰を受けることはいやだとおっしゃるのに、父なる神さまが御子を私たちの贖い主としてお遣わしになったとしたら、それは横暴で、不当なことであり、神さまの義に反することです。それで、その場合には、私たちの罪のための贖いの御業そのものが不当なこととしてなされたことになり、無効なものとなってしまいます。言い換えますと、御子イエス・キリストは、私たちを愛してくださり、ご自身の意思において、私たちの贖い主となって来てくださったのです。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されています。また、ヨハネの福音書10章18節には、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と記されています。
 私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったことにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストのみこころは完全に一致しています。そして、その根底に、私たちに対する父なる神さまと御子イエス・キリストの愛があります。
 ローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。前半の(ギリシア語の原文では後半の)、

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった

ということは、イエス・キリストが私たちを愛して、私たちのためにいのちを捨ててくださったことです。これは、すでに私たちのためにイエス・キリストがなしてくださったことです。そして、後半の、

 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます

ということは、父なる神さまの私たちに対する愛が、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださってから2千年後の、今も、私たちに対して示されているということです。ギリシア語の原文では、このことが先に出てきて強調されています。
 いまお話していることとのかかわりで注目したいのは、このみことばにおいて、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことに表されたイエス・キリストの愛は、父なる神さまの私たちに対する愛の現れであることが示されている、ということです。ですから、どこかで言われるように、父なる神さまは厳しい神であってなかなか罪人を赦そうとなさらないけれども、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、父なる神さまをなだめすかして、私たちの罪が赦されるようにしてくださったということは、福音のみことばが示していることではありません。ヨハネの福音書3章16節に、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されていますように、父なる神さまが私たちを愛してくださって御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。また、ローマ人への手紙8章32節にも、

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

と記されています。


 私たちは福音のみことばにあかしされているこれらのことを、生まれながらの自分の力によって悟ったのではありません。イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえった者としてくださり、福音のみことばのあかしを理解し悟るように導いてくださったことによっています。コリント人への手紙第一・2章14節に、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されているとおりです。
 黙示録2章9節に出てくるユダヤ人たちは、ローマ人たちによって十字架につけられて「神にのろわれた者」として処刑されたイエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを理解することができませんでした。また、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストの十字架の死によってしか、自分たちの罪が神さまの御前に完全に清算されることがないということも、また、そのような自分たちの罪の深刻さも、理解することができませんでした。それで、十字架につけられて殺されたイエス・キリストは神さまが遣わしてくださった贖い主であることを信じていたスミルナにある教会の信徒たちをののしっていたのです。
 迫害を受けて「苦しみと貧しさ」のうちにあり、ののしりを受けていたスミルナにある教会の信徒たちは、教会のかしらであられるイエス・キリストが、

 しかしあなたは実際は富んでいる

とあかししておられるように、神さまの御前に「富んで」いました。もちろん、
 これはいわゆる「繁栄の福音」が言うような、物質的な豊かさのことではありません。また、組織としての教会の大きさのことでもありません。スミルナにある教会はアジアにある三つの教会のうちで最も弱小の教会であったと考えられます。
 さらには、物質的には貧しいけれども心が豊かであるというような、この世において一般的に考えられている「心の豊かさ」ということとも違います。この世において一般的に考えられている「心の豊かさ」は、神さまとの関係における豊かさであるわけではありません。造り主である神との関係は罪によって絶たれたままでありつつ、貧しさの中にあっても、心豊かに生活することはありえます。それは、神学的には、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、心が啓発されているためのことです。それで、それは心理的な豊かさと言うべきもので、神さまとの関係における豊かさ、すなわち、霊的な豊かさではありません。
 ここでイエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちのことを、

 しかしあなたは実際は富んでいる

とあかししておられるのは霊的な豊かさのことで、神さまの御前における豊かさ、神さまとの関係を中心とした豊かさのことです。それは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊がスミルナにある教会の信徒たちのうちに生み出してくださっている愛のうちに生きる豊かさです。
 もちろん、スミルナにある教会の信徒たちは、迫害を受けて「苦しみと貧しさ」のうちにあり、ののしりを受けている状態にありながら、愛のうちを歩み続けていたという意味で、心が豊かでした。けれども、その愛はイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を完全に贖っていただき、神さまの御前に義と認めていただくとともに、子としての身分を与えていただいていることによって生み出される愛です。言い換えますと、御霊のお働きによって、イエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに罪の自己中心性に縛られていた古い自分に死に、イエス・キリストとともによみがえって、新しく生まれている神の子どもとして、御霊に導かれて歩むことによって生まれてくる愛です。それは、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に包まれて、神さまを礼拝することを中心として、神さまと、イエス・キリストにある兄弟姉妹たちを愛する愛のうちを歩むことに現れてきます。

 先主日は、日本長老教会の世界宣教週間にちなんで、お話ししたこともありまして、触れることができませんでしたが、この数週間新約聖書、特に、パウロの手紙において、「肉」と「御霊」が対比されて用いられていることの意味についてお話ししてきました。その場合の「肉」は肉体のことではなく、「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしている動因を指しています。これに対して、「御霊」は、先ほどお話ししました、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のことで、「来たるべき世」、「来たるべき時代」(あるいは「新しい世」、「新しい時代」)を特徴づけ、動かしている動因を指しています。
 この区別に従って言いますと、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちのことを、

 しかしあなたは実際は富んでいる

とあかししておられる霊的な豊かさは、この御霊に導かれて歩むことによる豊かさです。
 御霊はスミルナにある教会の信徒たちを導いて、愛のうちを歩ませてくださることによって、スミルナにある教会の信徒たちが「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属していることを明らかにしてくださいます。 この「来たるべき世」、「来たるべき時代」は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりとともに、すでに、歴史の現実になっています。それは、終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されることによって完成します。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。その新しい天と新しい地を特徴づけ、その歴史を導かれるのは、やはり、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。
 イエス・キリストは、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

と語りかけておられます。これによってイエス・キリストは、「苦しみと貧しさ」のうちにあり、ののしりを受けていながら、なおも、愛のうちを歩んでいたスミルナにある教会の信徒たちを、悪魔がさらに試そうとしていることを示しておられます。
 ここには投獄のことが出てきます。その当時の投獄は処刑されるのを待つための投獄か、裁判を受けるために拘束されることを意味していました。そのどちらも、死に至る可能性があります。悪魔の狙いは、まず、スミルナにある教会の信徒たちの「ある人たち」を投獄することによって、スミルナにある教会の信徒たちを恐怖心によって縛ることにあります。それで、イエス・キリストは、まず、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

と語りかけておられます。悪魔は、スミルナにある教会の信徒たちを恐怖心によって縛ることによって、彼らのうちに、神さまに対する不信感を生み出したり、自分が投獄されることを恐れて、投獄されている人々との間に距離を置くようになる人たちを生み出そうとしています。そのようにして、それまで「苦しみと貧しさ」のうちにあり、ののしりを受けていながら、なおも、愛のうちを歩んでいたスミルナにある教会の信徒たちの間に主への不信感を生みだし、お互いの間の愛の交わりに亀裂を生じさせようとしています。
 けれども、スミルナにある教会の信徒たちがそのような試練に遭うことをお許しになった主イエス・キリストは、そのことをとおして、スミルナにある教会の信徒たちが「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属していることを、それまでよりさらに鮮明に示してくださろうとしておられます。
 ですから、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というイエス・キリストの戒めと約束は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊に導いていただいて、愛のうちを歩み続けるようにと教え、諭してくださっているものです。
 このようにして御霊に導いて歩むことは、スミルナにある教会の信徒たちにおいてであれ、今日の私たちにおいてであれ、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属している者たちの歩みとして、必ず、新しい天と新しい地において完成します。
 先ほどお話ししましたように、主が福音のみことばにおいて示してくださり、約束してくださっていることは必ず実現すると信じることが、アブラハムの信仰の特質であり、アブラハムの霊的な子孫である私たちの信仰の特質です。私たちは、私たちが地上において、神の子どもとして御霊に導いていただいて愛のうちを歩むことが、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造ることであり、それが新しい天と新しい地につながっていって完成することを契約の神である主の約束として、必ず実現することを信じています。


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