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説教日:2015年7月19日 |
このことについて私は、これは、このみことばを語ってくださっているイエス・キリストの牧会的なご配慮によっているのではないかと考えています。このことをお話しするために、まず、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばについてお話しします。 この戒めのことばは、ここでは、スミルナにある教会に語られていますが、 御霊が諸教会に言われること と言われていますように、スミルナにある教会に限らず「諸教会に」語られています。それで、このことばによって導入されているイエス・キリストの約束は、すべての教会に当てはまります。 それはアジアにある七つの教会だけでなく、アジアにある七つの教会が象徴的に表している、歴史を通して世の終わりまで存続していくすべての時代の、すべての地域にある教会に当てはまります。それで、地上に存在しているすべての教会は、先ほど引用しました、アジアにある七つの教会に語られた、七つの約束のことばに示されているすべての約束を与えられています。 次に、この、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばの背景についてお話しします。このことは、1年と2ヶ月ほど前に、2章7節に出てきます、イエス・キリストがエペソにある教会に語られたみことばとのかかわりでお話ししています。それで、ここでは、そのことをまとめておきたいと思います。このイエス・キリストの戒めのことばの背景には、イエス・キリストがたとえをもって神の国について教えられたときのみことばがあります。 マルコの福音書4章では、2節ー8節に、イエス・キリストが「種まきのたとえ」をもって人々に語られたことが記されています。それに続く9節には、 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」 と記されています。この、 聞く耳のある者は聞きなさい。 ということばと黙示録2章11節の、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 ということばは互いに似ているだけでなく、同じイエス・キリストのことばとして関連しています。 マルコの福音書4章では、さら続く10節ー12節には、 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」 と記されています。 イエス・キリストは、「いつもつき従っている人たち」と言われている弟子たちに、11節で、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われました。これは9節でイエス・キリストが、 聞く耳のある者は聞きなさい。 と言われている「聞く耳」を、神である主の恵みによって与えられて、もっていることに当たることです。弟子たちは「聞く耳」を与えられてもっているので、イエス・キリストの教えを聞いて「神の国の奥義」を悟ることができるのです。これに対して、「聞く耳」を与えられていないために、もっていない人々には、畑に蒔かれた種の話として聞こえます。ちんぷんかんぷんの話でありませんので、その人々はそれとして分かったと思っています。 12節で、イエス・キリストが、 それは、「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため」です と言われるときの「彼ら」は「聞く耳」をもっていない人々に当たります。ここでイエス・キリストが引用しておられる、 彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため というみことばは、旧約聖書のイザヤ書6章9節ー10節に記されています、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、 自分の心で悟らず、 立ち返っていやされることのないように。 という、契約の神である主、ヤハウェが預言者イザヤを遣わされた時に語られたみことばの最後の部分の引用です。 この時にイザヤが遣わされたのは、それに先立ってイザヤが幻による啓示の中で経験したことを受けています。イザヤ書6章1節ー4節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と記されています。 ここでイザヤは栄光の主の御臨在の御前に立たせられています。「セラフィム」は、「ケルビム」と同じように、主の栄光の御臨在の御前で仕えている最も聖い生き物たちです。その彼らであっても、主の栄光の御臨在の御前ではその顔を上げることはできず、ひたすら、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と叫びつつ、主の栄光を讃えています。 けれども、イザヤにとっては事情はまったく違いました。続く5節には、 そこで、私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 と記されています。イザヤは栄光の主の御臨在の御前において主の無限の聖さに触れたとき、自らの汚れを思い知らされ、直ちに、主の御前で滅ぼされてしまうことを直感して、その恐ろしさのあまり、このように叫びました。 しかし、滅びの恐怖に包まれているイザヤに、まったく思いがけないことが起こりました。6節ー7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。主の栄光の御臨在の御許に祭壇があり、そこには罪の贖いが備えられていました。主の聖所の前にある祭壇の火について、レビ記6章12節ー13節には、 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。 と記されています。 イザヤは古い契約の「地上的なひな型」である聖所と祭壇とそこでささげられる動物のいけにえが指し示していた罪の贖いの「本体」に当たることを経験しました。主の御臨在の御前で仕えている最も聖い生き物たちでさえ顔を上げることができない栄光の主の聖さに触れて、罪に汚れてしまっている自分が直ちに滅ぼされることを実感した恐怖におののいていたイザヤに、罪の贖いの恵みが示されました。 そのような経験をしたイザヤが、この主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いをあかしするために遣わされました。イザヤ書6章では、続く8節に、 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 と記されています。イザヤは、この幻による啓示の中で主が示してくださった、主が一方的な恵みによって、ご自身の民のために備えてくださっている、罪の贖いのことをあかししたいと願ったのです。 そのようにして、主の御臨在の御許から遣わされようとしているイザヤに、先ほど引用しました、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、 自分の心で悟らず、 立ち返っていやされることのないように。 というみことばが語られました。 主はこの幻による啓示を通して、イザヤであっても、主の栄光の御臨在の御前に立たせられるなら、たちどころに滅ぼされるということを、恐怖におののくほどの現実としてお示しになりました。それとともに、主がご自身の御臨在の御前に、そのような者のために罪の贖いを備えてくださっているという、驚くべき恵みもお示しになりました。さらには、この主の驚くべき恵みは、イザヤのように、自らの罪が主の御前にどのようなものであるかを真に悟ることができた者だけが受け止めることができるということもお示しになりました。 それで、自分の義が主の御前に通用するという思いをもって、自分の良さを頼みとしている者、自分の義を誇っている者には、イザヤが伝える福音は、とても受け入れられません。実際に、人々はイザヤが語る福音のみことばに心を閉ざしてしまいました。後の伝承では、イザヤは殉教したとされています。イザヤの宣教が、 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、 自分の心で悟らず、 立ち返っていやされることのないように。 というものであったのは、このような事情によっています。 これがマルコの福音書4章11節ー12節に記されています、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため」です。 というイエス・キリストの教えの背景にあります。 預言者イザヤの時代でも、イザヤが預言の形であかししていたイエス・キリストが来てくださった時代でも、生まれながらの人は、主が幻によってイザヤに示してくださった、主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いを信じることがないのです。 先ほども触れましたが、この教えでイエス・キリストは、弟子たちに、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われました。 先ほどお話ししましたイザヤの経験において、イザヤは、主の栄光の御臨在がいかに聖なるものであるかを悟りました。そして、自分自身の罪を恐れおののくほかはない現実として悟りました。そして、何よりも、主の御臨在の御許には、まったくの恵みによって贖いが備えられているということを悟りました。すべて主が幻による啓示によってイザヤに示してくださり、イザヤ自身のこととして悟らせてくださったことです。それは、イエス・キリストが、弟子たちに、 あなたがたには、神の国の奥義が知らされている と言われたのと同じように、栄光の主、ヤハウェがイザヤに知らせてくださったことです。 主、ヤハウェが幻の中でイザヤに示してくださった、主の御臨在の御許において、主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いは、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、人としての性質を取って来てくださり、私たちご自身の民のために十字架におかかりになって、私たちの罪への刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって成就しています。このことこそが「神の国の奥義」です。 主イエス・キリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちにあずからせて、新しく生まれさせてくださることによって、私たちに「聞く耳」を与えてくださいました。それで、私たちはその「神の国の奥義」を悟ることができたのです。コリント人への手紙第一・2章14節に、 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されているとおりです。 これらのことから、黙示録2章7節で、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 と言われているときの「御霊」は、栄光の主であられるイエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけてくださったときに、それを聞く人たちに働きかけてくださり、「聞く耳」を与えてくださり、イエス・キリストのみことばを理解し悟らせてくださるとともに、イエス・キリストに従って歩むように導いてくださる方です。このお働きにおいて、栄光の主であられるイエス・キリストと御霊はひとつとなられて働いておられます。 このようなことを踏まえて、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という、イエス・キリストの戒めのことばの位置についてお話ししたいと思います。 この戒めのことばは、本来、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけてくださったみことばの全体を、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊に導かれて聞いて、悟り、イエス・キリストに従うように求めているものであると考えられます。そのことは、アジアにある七つの教会のうちの後の方の四つの教会に語られたイエス・キリストのみことばにおいて、この、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばがいちばん最後に語られていることから察することができます。 先ほど触れましたように、この、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばの背景には、マルコの福音書4章2節ー9節に記されている、種まきのたとえによるイエス・キリストの教えがあります。その教えにおいても、イエス・キリストは、その教えの最後に、 聞く耳のある者は聞きなさい。 と語っておられます。 そして、黙示録2章ー3章に出てくる、 御霊が諸教会に言われること とは、すべての教会に当てはまることを意味しています。これは、祝福の約束だけでなく、イエス・キリストが語りかけておられるすべてのことが、すべての教会に当てはまるということを意味しています。 このように、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばは、本来、イエス・キリストの語りかけのことばの最後に置かれて、イエス・キリストが語りかけておられることすべてを、御霊に導いていただいて、聞いて、悟り、イエス・キリストに従うように求めているものであると考えられます。 そうであるとしますと、最初に取り上げられている三つの教会への語りかけにおいて、「勝利を得る者」に対して与えられている祝福の約束の前に、この戒めのことばが語られているのはどうしてなのでしょうか。 それは、先ほど言いましたように、イエス・キリストの牧会的なご配慮によることとおもわれます。そして、これには、おそらく、最初の三つの教会の「3」という数字が完全数であることにもかかわっているのではないかと思います。 このことを理解するために、最初に取り上げられている三つの教会に語られたイエス・キリストのみことばに従って、それら三つの教会の状況について見てみましょう。 エペソにある教会へのみことばでは、いくつかの賞賛すべきことがあるとともに、 あなたは初めの愛から離れてしまった。 と言われていて、キリストのからだである教会にとって致命的な問題が指摘されています。そして、悔い改めるように求められています。その問題は、それに続いて、 もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と警告されているほど、深刻なものです。「初めの愛から離れてしまった」ままであるなら、教会が教会としての意味をもたなくなってしまうということです。 また、スミルナにある教会へのみことばでは、スミルナにある教会の信徒たちが迫害によってもたらされた「苦しみと貧しさ」のうちにありました。そればかりではなく、すでにそのような状態にある信徒たちに、悪魔の働きによって、さらなる試練が襲ってくることが告げられています。そして、 死に至るまで忠実でありなさい。 と戒められています。スミルナにある教会の信徒たちにとって、そのような厳しい事態にさらされて、自分たちはどうなってしまうのだろうかという思いはぬぐいきれなかったはずです。 さらに、2章12節ー17節に記されています、ペルガモにある教会へのみことばでは、14節ー15節に、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と記されていますように、「バラムの教え」、「ニコライ派の教え」などの異端的なに従っている人々が教会の中にいることが示されています。その点は、そのような教えを退けたエペソにある教会とは違っています。そのような教会の現実を受けて16節に、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 という戒めが記されています。ペルガモにある教会では、異端的な教えが持ち込まれて、福音のみことばの真理が危険にさらされていました。それも、また、真理のみことばの土台の上に建てられているキリストのからだである教会にとって、きわめて深刻な状態です。 このように、これら三つの教会が置かれている状況はとても厳しく、深刻なものです。人の目から見ますと、そのような状態に置かれている教会は、ほんとうに大丈夫なのだろうかと心配になります。 イエス・キリストはこれら三つの教会が置かれている状況の厳しさと問題の深刻さを、よくご存知であられ、深いあわれみといつくしみを注いでおられます。それで、ご自身が語っておられることの中でも、特に、最後に語られている、ご自身が終わりの日に必ず完成してくださる祝福についての約束にこそ目を留めるようにと促してくださっていると考えられます。そして「この世」、「この時代」に属する人々の目にはまったく隠されているためにその人々が理解することができない、その祝福の約束の豊かさと確かさを、御霊によって悟るべきこと、そして、やはり、御霊のお働きによって信じて歩むべきことを示してくださったと考えられます。 そして、これら三つの教会へのみことばにおいて、このことが十分に示された(「3」は完全数です)後は、先ほど触れましたように、このように聞く姿勢が、イエス・キリストが語られたみことばのすべてを聞くときの姿勢であることを示してくださっていると考えられます。 もちろん、これは黙示録に記されていることが、一度読まれて終わりというものではないことを前提としています。 これによって、キリストのからだである教会であるすべての教会は、これらアジアにある七つの教会に語られたイエス・キリストのみことばのすべてを、御霊に導かれて聞いて、悟るように、そして、イエス・キリストに従うように促されています。そして、特に、直面している状況の厳しさ、問題の深刻さの中にあっても、主であられるイエス・キリストの約束のことばに目を留め、真実な悔い改めをもって、また、信仰の勇気と希望をもって、主の御足の跡を踏みながら歩むようにと促されています。 [注] その見方では、 彼[ヨハネ]は七つの手紙を書き進む間に、約束はその性格上、手紙の中心部分の勧告と密接な関係を持っているのに気づいた。そこで彼は、二番目のスミルナ宛の手紙では約来[約束]を勧告に続けて先ず一度記し(2・10)、次いで「耳を持っている者」云々を当初予定していた順序通りに述べた上で、最後に内容的には10節の勧告と同じ約束を勝利者に向けて書いている。ここでは勝利者への約束と「耳を持っている者」云々との順序の逆転に至る過渡的な段階を確認できる。さらに、逆転の始まる四番目のティアティラ宛の手紙では・・・(後略) と説明されています(佐竹 明『ヨハネの黙示録』上巻112頁)。 この説明では、ヨハネは初めのうちは、イエス・キリストが七つの教会のそれぞれに語られたみことばにおいて「約束はその性格上、手紙の中心部分の勧告と密接な関係を持っている」ということに気づいていなかったとされています。 具体的に見てみますと、最初に取り上げられているエペソにある教会へのみことばでは、ヨハネはまだそのことに気づいていないことになっています。そのエペソにある教会へのみことばでは、2章2節ー3節と6節に記されている「賞賛すべきこと」を続けるとともに、4節ー5節に記されている「初めの愛から離れてしまった」ことを悔い改めるようにという「中心部分の勧告」と、 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。 という約束が「密接な関係を持っている」ことに気づいていないために、その勧告と約束をつなげないで、その勧告と約束の間に、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばを置いてしまっている、つまり、その勧告と約束を分断しているということです。 また、この説明では、ヨハネは七つの教会へのみことばを記している途中で、「約束はその性格上、手紙の中心部分の勧告と密接な関係を持っている」ことに気づいたとされています。それで、4番目に取り上げられているテアテラにある教会へのみことばからは、「当初予定していた順序」、すなわち、先に、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばを記し、次に、約束を記すという順序を、逆転させたとされています。 さらに、この説明では、「スミルナ宛の手紙では約来[約束]を勧告に続けて先ず一度記し(2・10)」たと言われています。これは、2章10節で、 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。 という「勧告」に続けて、 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 という約束を「先ず一度記し」たということです。そして、その後で「当初予定していた順序通りに」つまり、2章7節のエペソにある教会へのみことばに見られる順序と同じように、先に、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばを記し、「最後に内容的には10節の勧告[の中に出てくる「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」という約束]と同じ」、 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。 という「約束を勝利者に向けて書いている」というのです。そして、このことにおいて「順序の逆転に至る過渡的な段階を確認できる」とされています。 これらのことから分かりますが、この説明では、ヨハネはスミルナにある教会へのみことばを記しながら、「約束はその性格上、手紙の中心部分の勧告と密接な関係を持っているのに気づいた」あるいは、少なくとも、気づき始めたとされています。 ところが、そのスミルナにある教会へのみことばの後に語られているペルガモにある教会へのみことばにおいては「順序の逆転」が「過渡的な段階」としてさえ起こっていません。 ペルガモにある教会へのみことばにおける「中心部分の勧告」は、14節ー15節に、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と記されていますように、「バラムの教え」、「ニコライ派の教え」などの異端的な教えに従っている人々がいるということにかかわることです。それで、12節において、イエス・キリストはご自身のことを「鋭い、両刃の剣を持つ方」、霊的な戦いを遂行しておられる方として示しておられます。そのような教会の現実を受けて16節に、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 という「中心部分の勧告」が記されています。これは、17節に記されています、 わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。 という「約束」と「密接な関係を持って」います。けれども17節では、この約束の前に、 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 という戒めのことばが置かれています。 先ほど引用しました説明に沿って言いますと、せっかく、スミルナにある教会へのみことばを記しながら、順序を逆転した方がいいということに気づいたのに、その次のペルガモにある教会へのみことばを記した時にはそれを無視してしまったということになります。 また、先ほど引用しました説明には「当初予定していた順序」ということばが出てきます。これはヨハネが、前もって、どのように黙示録を記すかの構想をもっていたことを意味しています。そのヨハネが、構想を練っている時には、イエス・キリストの約束が「中心部分の勧告と密接な関係を持っていること」に気づくことがなく、イエス・キリストの語りかけの部分の二つ目のスミルナにある教会への語りかけを記していて、ようやく気づいたということも、にわかには信じ難いことです。そのことは、私たちでも、そこに記されていることを注意深く読めば気がつくことです。 これに対して、私たちがそのことに気がつくのは、私たちがすでにどこかでそのような説明に接しているからである、という反論がなされることでしょう。そのとおりなのかも知れません。仮にそうであっても、ヨハネがスミルナにある教会へのみことばを記している時に、そのことに気づいたのであれば、あるいは、気づき始めたのであっても、私たちがすぐに気づくのと同じで、すぐにそのことは、ヨハネにとって明白なこととなったはずです。やはり、その次のペルガモにある教会へのみことばにおいて、それが反映していないことはおかしなことです。 また、ヨハネがこの部分を記している途中にそのことに気づいたとしましょう。その可能性までも否定することはできません。聖書の著者たちが霊感されていたということは、著者たちがあれこれと思い巡らしながら考えたことを否定するものではありません。そのように考えながら理解を深めていく過程に御霊が働いてくださったということです。ここでの問題は、ヨハネはどうして、そのことに気づいた時に、そして、その後には一貫して「順序を逆転させている」のに、すでに記したものは修正しなかったのか、ということです。ちなみに、黙示録が記されたと考えられるパピルスに記されたものを書き直す方法は、いくつかありました(『新約聖書文献学・パピルスの話』神田盾夫著作集3、341頁には、三つほど、その方法が上げられています)。 |
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