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説教日:2015年8月2日 |
前回も引用しましたが、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語られたみことばにおいて約束してくださっていることを、改めて、順を追って見てみましょう。 エペソにある教会へのみことばにおける約束は、2章7節に、 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。 と記されています。 スミルナにある教会へのみことばにおける約束は、 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。 というものです。 ペルガモにある教会へのみことばにおける約束は、2章17節に、 わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。 と記されています。 テアテラにある教会へのみことばにおける約束は、2章26節ー28節に、 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。 と記されています。 サルデスにある教会へのみことばにおける約束は、3章5節に、 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。 と記されています。 フィラデルフィヤにある教会へのみことばにおける約束は、3章12節に、 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。 と記されています。 ラオデキヤにある教会へのみことばにおける約束は、3章21節に、 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 と記されています。 前回は、これらの約束について、一つのことをお話ししました。きょうは、もう一つのことをお話しします。 それは、これらすべては、終わりの日に、イエス・キリストが再臨されて、完全に実現してくださる祝福を約束してくださるものである、ということです。 これによって、イエス・キリストは、アジアにある七つの教会の信徒たちの目を、終わりの日に、ご自身が再臨されて、完全に実現してくださる祝福へと向けるように導いてくださっています。それはまた、歴史を通して存在するすべての時代のすべての教会の信徒たちの目を、そのゆえに、私たちの目を、終わりの日に、ご自身が再臨されて、完全に実現してくださる祝福へと向けるように導いてくださっています。アジアにある七つの教会は、外からやって来る迫害による試練にさらされたり、自分たち自身のうちに異端的な教えに従って福音を曲げてしまう者たちがいたり、この世の価値観に染まってしまったりというように、さまざまな問題と課題を抱えていました。そのような厳しい状況にあってもなお、終わりの日に再臨される栄光のキリストがご自身の民の救いを完全に実現してくださる約束を信じて、いま置かれているところで、まことの牧会者であられるイエス・キリストを信頼し、そのみことばに従って歩むようにと促されているのです。 このことは、ローマ人への手紙8章24節ー25節に記されている、 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 という教えを思い起こさせます。ここで、新改訳が、 この望みによって救われている と訳していることばは、いくつかの意味に理解できます。文法の上では、新改訳が「望みによって」と訳していることばに「・・・によって」ということを意味する前置詞はなく、名詞である「望み」が与格で表されています。それで、これにはいくつかの意味の可能性があります。新改訳の、 この望みによって救われている ということは、「望み」が救いの手段であることを示しています。けれども、パウロが「望み」を救いの手段と考えていることを示す事例が見当たりません。それで、これは、 この望みにあって救われている とか、 この望みにとともに救われている というように理解した方がいいと思われます。イエス・キリストは私たちを希望のうちにある者として、希望をもっている者として救ってくださったということです。そして、その希望は将来における救いの完全な実現に対する希望であり、 私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます と言われていますように、私たちの今の生き方を支えるようになります。ここに出てくる「忍耐」はあきらめて耐え忍んでいる状態ではありません。それは「熱心に待ちます」という姿勢と結びついています。この「熱心に待ちます」と訳されていることば(アペクデコマイ)は、「受け入れる」とか「迎え(入れ)る」ということを表すことば(デコマイ)に(アポとエクという)二つの強調の接頭辞をつけて強調していることばで「熱心に待つ」ことを表します。それで、ここに示されている「忍耐」は、さまざまな試練や困難な状況にありながらも、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく救いを完全に実現してくださるということを信じて、揺るぐことなく、いま委ねられている使命に生きるという、積極的な姿勢です。 ローマ人への手紙8章18節ー25節の文脈を見ますと、これに先立つ18節ー23節には、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。 ここに記されていることの根底には、神さまが創造の御業によって造り出されたこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことがあります。それは、詩篇8篇5節ー6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されていますように、神さまが神のかたちとして造られている人に「万物」をご自身のみこころにしたがって治める使命を委ねられたということです。この歴史と文化を造る使命によって、「万物」すなわち「被造物全体」が神のかたちとして造られている人と一つに結ばれています。 ところが、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、神である主に対して罪を犯した人が罪ののろいを受けるようになっただけでなく、人と一つに結ばれている「被造物全体」ものろいを受けて「虚無に服し」てしまいました。 けれども、神である主は人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、救いのご計画をお示しになりました。それが、創世記3章15節に記されている「最初の福音」です。 創世記3章には、神のかたちとして造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落した経緯が記されています。 サタンが「蛇」を用いて最初の女性であるエバを誘惑しました。彼女は神である主の戒めに背いて罪を犯した後、夫であるアダムを、神である主の戒めに背いて罪を犯すようにと誘いました。アダムは彼女の言うことに従って神である主に背いて罪を犯しました。その後、二人は罪の意識を与えられましたが、自分から罪を認め、悔い改めて神である主の御許に帰ることはできませんでした。これに対して、神である主は、サタンへのさばきの執行を宣言されました。それはサタンがエバを誘惑するために用いた「蛇」を用いてのさばきの宣言でした。それが創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています。 この時、神である主がサタンに対する最終的なさばきを執行されて、サタンを滅ぼしてしまわれるとしたら、罪によってサタンと一つになってしまっていた最初の人アダムとその妻エバもさばきを受けて滅びてしまうことになったでしょう。そうしますと、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、人を神のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったみこころは実現しないことになってしまいます。それは、霊的な戦いにおいてサタンが勝利することを意味します。 しかし、神である主は、このサタンへのさばきの宣言において、ご自身が「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンと「女との間に」「敵意」を置いてくださって、罪によって一つに結ばれてしまっているサタンと「女」との関係を断ち切ってくださると言われました。そればかりでなく、その「敵意」は一代で消えてしまうのではなく、さらに「おまえの子孫」の共同体と「女の子孫」の共同体にまで及ぶことが宣言されています。そして、「女の子孫」の「かしら」として来られる方が、「おまえ」すなわちサタンに対する最終的なさばきを執行するというみこころを示されました。この「女の子孫」の「かしら」として来られる方こそが、人としての性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストです。 このように、「女」と「女の子孫」の共同体は、「女の子孫」の「かしら」として来られる方、御子イエス・キリストと一つに結ばれています。そして、「女」と「女の子孫」の共同体は、神である主の側に立って、霊的な戦いにおいて、「おまえ」すなわちサタンと「おまえの子孫」の共同体、サタンをかしらとする共同体と戦うようになります。このことは、「女」と「女の子孫」の共同体が神である主の民として救われるようになることを意味しています。 そればかりではありません。「女」と「女の子孫」の共同体が神である主の民として救われ、回復されることによって、創造の御業において、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、人を神のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったみこころが実現する道が開かれることになります。それは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人と一つに結ばれて「虚無に服し」ている「被造物全体」が、贖われる主の民との一体性によって回復される望みが生み出されたということをも意味しています。それで、ローマ人への手紙8章19節には、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 と記されています。それは、21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されている、神である主のご計画に基づく回復の望みがあるからです。これらのことから「神の子どもたちの現れ」が「被造物」の回復の鍵となっていることが分かります。 このように、 私たちは、この望みにあって救われているのです と言われているときの、「この望み」は、創造の御業と贖いの御業を貫いている神さまのご計画に関わる大きなみこころに根ざしている望みです。さらに、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業によって、すでに、実現し始めています。ですから、この望みは、決して失望に終わることなく、必ず、すべてが完全に実現します。 それとともに、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 と記されていることは、イエス・キリストの十字架の死によって死と滅びの中から贖い出され、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生まれ、御霊によって導かれて父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶ神の子どもたちが出現していることによって、すでに、実現し始めています。 それで、 被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている と言われているのも、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われているのも、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってそれが完全に実現するようになることを待ち望んでのことです。ですから、 私たちは、[ほかでもない]この望みにあって救われているのです と言われているときの「この望み」は、いまだ、救いが完全に実現していないために、さまざまな試練が生み出す苦しみや悲しみにうめいている私たち神の子どもたちを支えている望みです。 そのような意味を持っている神の子どもたちのうめきの典型的な事例が、スミルナにある教会の信徒たちに見られます。 スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害によって「苦しみと貧しさ」のうちにありましたし、主の選びの民であることを自任しているユダヤ人からは、にせメシヤを信じている者であるとしてののしりを受けていました。しかも、すでに「苦しみと貧しさ」のうちにあるのに、さらなる試練が襲ってきて、ある人たちが投獄されるようになるというのです。 イエス・キリストはこのような厳しい状況にあるスミルナにある教会の信徒たちに、 死に至るまで忠実でありなさい。 と命じておられます。しかし、それで終わっているのではありません。それに続いて、 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 という約束を与えてくださっています。これも、終わりの日に再臨される栄光のキリストが完全に実現してくださる祝福を約束してくださっているものです。 それとともに、スミルナにある教会の信徒たちを始めとして、すべての主の民が、すでに地上において、「いのちの冠」をいただくものとなっています。「いのちの冠」とは「いのち」という「冠」のことです。その「冠」は競技において勝利した人に与えられる「冠」です。それで、それは、 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 というイエス・キリストの戒めと約束のみことばに示されているように、地上の生涯を終えたものに与えられる「冠」を意味しています。それが私たちの間ですでに実現し始めているということ、すなわち、私たちはすでに「いのちの冠」にあずかっているということはどのようなことでしょうか。それは、私たちがすでに、御子イエス・キリストがその十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって獲得された栄光にあずかって、イエス・キリストとともによみがえっていることによっています。それは、あたかも、私たち自身が死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたかのように見なされて与えられた祝福です。このようにして、私たちはすでにイエス・キリストの一方的な恵みによって「いのちの冠」の中心にある栄光に満ちた「いのち」、すなわち、永遠のいのちを与えていただいて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。 先ほどお話ししましたように、 私たちは、この望みにあって救われているのです と言われているときの、「この望み」は、創造の御業と贖いの御業を貫いている神さまのご計画に関わる大きなみこころに根ざしている望みです。それで、この望みは、決して失望に終わることなく、必ず、すべてが完全に実現します。また、それとともに、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業によって、すでに、実現し始めています。 このことは、先ほど引用しました、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語られたみことばにおいて約束してくださっている祝福にも当てはまります。 アジアにある七つの教会のそれぞれに約束されている祝福は、すべて、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、イエス・キリストの民に与えられます。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが完全に実現してくださる祝福です。 これらの祝福がアジアにある七つの教会のそれぞれに約束されていることは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神の子どもとしていただいている主の民の救いが完成することにともなう祝福の豊かさを示しています。 そして、その豊かな祝福が完全に実現することは、先ほど取り上げましたローマ人への手紙8章19節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 と記されているときの、「神の子どもたちの現れ」が完全な形で実現することを意味しています。ですから、アジアにある七つの教会のそれぞれに約束されている祝福が神の子どもたちの間で完全に実現するときには、ローマ人への手紙8章21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されていることも、完全に実現するようになります。 このように、アジアにある七つの教会のそれぞれに約束されている祝福は、創造の御業と贖いの御業を貫いている神さまのご計画に関わる大きなみこころのうちにあり、その大きなみこころが実現するための鍵のような意味をもっています。それで、そのすべてが実現することによって、創造の御業と贖いの御業を貫いている神さまのご計画が完全に実現して、神さまの栄光が現されます。 |
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