黙示録講解

(第217回)


説教日:2015年8月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(46)


きょうも、黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に対して語られたみことばについてお話しします。
 最後の11節には、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

という、約束のみことばが記されています。
 これまで2回にわたってお話ししましたが、このような約束のみことばはアジアにある七つの教会のそれぞれに与えられています。それらをもう一度、順を追って見てみましょう。
 エペソにある教会への約束は、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というものです。
 スミルナにある教会への約束は、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

というものです。
 ペルガモにある教会への約束は、

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

というものです。
 テアテラにある教会への約束は、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。

というものです。
 サルデスにある教会への約束は

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

というものです。
 フィラデルフィヤにある教会への約束は、

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

というものです。そして、
 ラオデキヤにある教会への約束は、

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

というものです。
 先主日には、これら七つの約束のみことばは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちご自身の民のために完全な形で実現してくださる祝福を約束してくださっているということをお話ししました。またそれは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちに実現してくださることであること、それで、すでに成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちの間に実現し始めているということをお話ししました。
 きょうは、もう一つのことをお話ししたいと思います。いま引用しました、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけてくださったみことばに出てくる約束は、すべて「勝利を得る者」に与えられています。きょうはこの「勝利を得る者」についてお話しします。
 まず、ここで「勝利を得る者」と訳されていることばのことですが、このことば(ニコーン)は「勝つ」、「勝利する」、「征服する」などを意味する動詞(ニカオー)の現在分詞の単数形に定冠詞(ホ)をつけて実体化したものです。この「勝利を得る者」が単数形であるのは、これが集合名詞で「勝利を得る者」たちの共同体を表していると考えられます。
 その「勝利を得る」に当たることば(ニカオー)は、新約聖書の中では26回用いられていて、そのうちの16回が黙示録に出てきます。その他、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一に出てくるものを合わせますと、ヨハネが記した文書に23回出てくることになります。
 このことばは、一般的に、戦いにおける勝利を表していますが、新約聖書の中では、すべて霊的な戦いにおける勝利を意味しています。それで、「勝利を得る者」とは霊的な戦いにおいて「勝利を得る者」のことです。
 アジアにある七つの教会は、それぞれ異なった状況に置かれていて、さまざまな試練と課題に直面していました。スミルナにある教会のように、ローマ帝国からの迫害を受けて苦しみと貧しさのうちにある教会もありますし、いくつかの教会では、異端的な教えを奉ずる人々が入り込んできて、信徒たちを惑わしています。また、エペソにある教会のように、異端的な教えを断固退けながらも、キリストのからだである教会の本質的な特質である愛を失いつつある教会もありますし、ラオデキヤにある教会のように、この世の価値観に影響されて、主の民の本来のあり方を見失ってしまっている教会もあります。そのように、現れている形は違っていますが、すべての教会が福音のみことばをめぐる、霊的な戦いの状況にあるという点では一致しています。そして、「勝利を得る者」は霊的な戦いにおいて福音のみことばに立ち続けて「勝利を得る者」であるという点でひとまとまりをなしています。それで、「勝利を得る者」たちが一つの共同体、すなわち、キリストのからだである教会を形成していますので集合名詞で表されています。


 このような福音のみことばをめぐる霊的な戦いの状況は、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に生じました。
 けれども、霊的な戦いそのものは、人が神である主に罪を犯して、御前に堕落する前からありました。霊的な戦いは、もともと優れた御使いとして造られたサタンが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落したことから始まっています。そのサタンが最初の女性であるエバを誘惑したことも、彼女が神である主の戒めに背いて罪を犯して、御前に堕落した後に、夫アダムを神である主の戒めに背くように誘ったことも、霊的な戦いとしての意味をもっています。人もその妻も神である主を主として愛し、恐れ敬いつつ、主に従い続けていたなら、その霊的な戦いに勝利していたはずです。
 創世記3章にはサタンが「蛇」を用いてエバを誘惑して、神である主の戒めに背かせたことが記されていますが、そのことから、サタンは一度しかアダムあるいはエバを誘惑しなかったと言うことはできません。ここでは詳しいことをお話しすることはできませんが、創世記3章に記されていることは、サタンの誘惑が、サタンからしますと「成功した」ときのことであって、それ以前にも、サタンは手を変え品を替えて、アダムあるいはエバを誘惑していた可能性があります。
 いずれにしましても、霊的な戦いはもともと優れた御使いとして造られたサタンが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落したことから始まっています。
 聖書の中には、サタンの罪による堕落がどのようなことであったかについて直接的に触れているみことばはありません。ただ、そのことを映し出していることを記していると考えられるみことばが二つあります。一つはイザヤ書14章12節ー15節で、もう一つはエゼキエル書28章12節ー19節です。この二つの個所については、「スミルナにある教会へのみことば」の第27回目のお話で、詳しく説明していますので、きょうは結論的なことだけをお話しします。
 イザヤ書14章12節ー15節には、

 暁の子、明けの明星よ。
 どうしてあなたは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
 あなたは心の中で言った。
 「私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。」
 しかし、あなたはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されています。
 これは4節にありますように「バビロンの王について」の主の糾弾みことばの一部です。けれども、ここではカナン神話に出てくる表象がいくつか用いられていて、単なる人間の王の描写を超えています。これによって、「バビロンの王」の高ぶりが、サタンの高ぶりを映し出すものであることが示されていると考えられます。
 もう一つの個所であるエゼキエル書28章12節ー17節には、

 人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。
 神である主はこう仰せられる。
 あなたは全きものの典型であった。
 知恵に満ち、美の極みであった。
 あなたは神の園、エデンにいて、
 あらゆる宝石があなたをおおっていた。
 赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、
 緑柱石、しまめのう、碧玉、
 サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。
 あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
 これらはあなたが造られた日に整えられていた。
 わたしはあなたを
 油そそがれた守護者ケルブとともに、
 神の聖なる山に置いた。
 あなたは火の石の間を歩いていた。
 あなたの行いは、
 あなたが造られた日から
 あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
 あなたの商いが繁盛すると、
 あなたのうちに暴虐が満ち、
 あなたは罪を犯した。
 そこで、わたしはあなたを汚れたものとして
 神の山から追い出し、
 守護者ケルブが
 火の石の間からあなたを消えうせさせた。
 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
 その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
 そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、
 王たちの前に見せものとした。

と記されています。
 これはツロの王のもともとの状態と、そこからの堕落のことを記しています。これも、エデン的な表象を用いて描かれていて、明らかに、実際のツロの王の描写を越えています。それで、これはサタンをモデルとしてツロの王のことを記していて、ツロの王の堕落がサタンの堕落を映し出していると考えられます。具体的には、その前半の描写から分かりますように、サタンはもともとは優れた御使いであったと考えられます。けれども、その後半の描写から分かりますように、自分に与えられた栄光のために高ぶり、罪を犯してしまったと考えられます。
 このように、サタンは優れた御使いではありましたが、被造物でしかありません。そのサタンが自分に与えられた栄光のために、神である主の御前に高ぶり、自らを神としようとする罪を犯したと考えられます。
 これは、造り主である神さまと神さまによって造られたものの間にある、絶対的な区別を否定することで、その意味で、神さまの聖さを冒すことです。神さまの聖さは神さまはお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であられることにあります。サタンはこの神さまの聖さを冒しています。そこでは、神さまは自分より優れた方であるとか自分より高いところにおられるというように、神さまと人との区別は比較できる相対的なもの、程度の問題であるとされてしまっています。これがサタンの罪の本質です。
 これがサタンの罪の本質ですが、それはまた、人の罪の本質でもあります。それで罪によって堕落してしまっている人は、罪の自己中心性に縛られてしまい、自分があたかも神であるかのようにふるまうようになります。それは特に、この世の権力者を初めとして、力ある立場にある人々に典型的に見られます。それで、ここで「バビロンの王」や「ツロの王」の高ぶりが、サタンの高ぶりを映し出すものとして描かれていると考えられます。

 このように、霊的な戦いは、優れた御使いとして造られたサタンが自分に与えられた栄光のために、神である主の御前に高ぶり、自らを神としようとする罪を犯したことから始まっています。そして、サタンにくみした御使いたちが、サタンとともに神である主に罪を犯して堕落し悪霊となって、霊的な戦いに加わっていると考えられます。
 もし、神である主がこの段階でサタンと悪霊たちをさばいて、滅ぼしてしまわれたなら、それで、この霊的な戦いは終わっていたと考えられます。また、私たちは人類の罪による堕落が、そんなに悲惨な結果をもたらしたかを知っていますので、神である主がこの段階でサタンと悪霊たちをおさばきになって、滅ぼしてしまわれたらどんなによかったことかと考えたくなります。けれども、神である主は、人がこの霊的な戦いに参与することをよしとされました。それが神さまのみこころによっていることは、はっきりしていますが、どうして神さまがそのようになさったのかについては、神学的な推論をする他はありません。
 一般的には、神である主は、人が最後までご自身に従い通すかどうかを試すために、人がサタンの誘惑に会うことをよしとされたと考えられています。けれども、とても微妙なことですが、これ(人の従順を試すこと)が神である主のみこころのすべてではなく、主のみこころはこれより広いものであり、この人の従順を試すことは、その、より広いみこころの中で意味をもっているのではないかと思われます。具体的には、神である主が人をこの霊的な戦いに参与するよう取り計らわれたのは、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとして造られている人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによっていると考えたほうがいいと思われます。
 これには考えておかなければならないことがあります。詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていますように、神さまは神のかたちとして造られている人に「万物」をご自身のみこころにしたがって治める使命を委ねられました。そして、優れた御使いとして造られたものが、それに従う御使いたちをも巻き込んで、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは、被造物世界におけるきわめて由々しい出来事です。[注] それで、神である主は神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人をこの霊的な戦いにかかわらせることをよしとされたと考えられます。
 とはいえ、5節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

と記されていることは、七十人訳では、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、

となっていて、これがヘブル人への手紙2章7節に引用されています。それで、人は初めから御使いたちをも治めるものではなかったと考えられます。

[注]これはサタンが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、被造物がそののろいを受けて、虚無に服したということではありません。それは、被造物が御使いの支配に委ねられたことはありませんし、委ねられることもない(ヘブル人への手紙2章5節ー10節)からです。
 被造物は神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命によって、人と結び合わされています。それで、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、被造物たちが虚無に服してしまいました(創世記3章17節)。そして、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって主の契約の民が贖われて神である主との関係が回復されたことによって、被造物も虚無の下から解放されて回復されることになります(ローマ人への手紙8章19節ー21節)。

 一介の被造物でしかないサタンは、直接的に、神である主と霊的な戦いをすることはできません。サタンは創造の御業において現された神である主のご計画の実現を阻止するという形によってしか、霊的な戦いを戦うことはできません。それで、神である主から「万物」を治める使命を委ねられている人を、霊的な戦いにおいて、自分たちの陣営に引き入れて、神である主に背かせることによって、創造の御業において現されている神である主のみこころ、すなわち、神のかたちとして造られている人が、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神さまの栄光がさらに豊かに現されるようになるというみこころが実現することを阻止しようとしたと考えられます。このことが、神である主が神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を、サタンとの霊的な戦いに参加することをよしとされたことに関わっていると考えられます。
 神である主のみこころは、「万物」を治める使命を委ねられている人が、暗やみの主権者であるサタンとの霊的な戦いに参与して、主こそが神であられ、礼拝し従うべき主であられることのあかしを立てつつ、神である主から委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしていくことにあったのではないかと思われます。先ほど触れましたように、サタンは一度だけ最初の人アダムとその妻エバを誘惑したのではなく、機会がある度にふたりを誘惑したと考えられます。人がそのようなサタンの誘惑にあってもなお神である主のみこころに従いとおすかどうかを試すことというより、人がそのようなサタンの誘惑を受けながらもなお、主こそが神であられ、礼拝し従うべき主であられることのあかしを立てつつ、神である主から委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしていくことが、人に対する神である主のみこころの中心であったということです。そのことがなされていきますと、結果的に、人は神である主のみこころに従いとおしたことになります。さらには、そのようにして立てられたあかしをお用いになって、サタンとその軍勢をおさばきになることが、神である主のみこころであったとも考えられます。
 そして、このことは、新約聖書において啓示されるようになる神さまのみこころへの出発点、あるいは伏線となっていると考えられます。その神さまのみこころとは、コリント人への手紙第一・6章3節に記されている、

 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。

というみことばに示されています。これは、先ほども触れましたが、アジアにある七つの教会のそれぞれに約束されている祝福のように、終わりに日に再臨される栄光のキリストによって完全に実現するようになる祝福として、主の民が栄光化されて、イエス・キリストとともに御座について治めるようになるときのことを示しています。
 ここで、

 私たちは御使いをもさばくべき者だ

と言われているときの「御使い」たち(複数形)がどの御使いを指しているかについては、見方が3つほどに別れています。そのうちの可能性が高い二つの見方のうちの一つは、この「御使い」たちは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている御使いたちのことで、それゆえに、終わりの日にさばかれ、滅ぼされる御使いたちのことであるという見方です。もう一つの見方は、そのように堕落してしまっている御使いたちと、堕落していない御使いたちの両方を指しているという見方です。
 このどちらの見方にも、それぞれ言い分がありまして、どちらとも言い難いところですが、おそらく、後の方の、堕落してしまった御使いたちばかりでなく、神である主に忠実に仕え続けている御使いたちをも指しているという見方のほうが可能性が高いと思われます。というのは、もし、この、

 私たちは御使いをもさばくべき者だ

ということばが堕落してしまった御使いたちをさばくことだけを述べているとしたら、「御使い」という、それ自体としては堕落していない御使いを指すことばを用いないで、「サタン(と悪霊たち)をさばくべき者」と言われていたであろうと思われるからです。
 また、この、

 私たちは御使いをもさばくべき者だ

ということばは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかって、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んで、イエス・キリストとともに栄光を受けてよみがえり、イエス・キリストとともに天に座する者となっているっている主の民が、終わりの日に、そのからだも栄光化されて、すべての点で、イエス・キリストに似た者となるときのことを述べています。私たちはそのような祝福に入るようになるとき、御使いたちにまさる栄光を受けることになります。
 みことばが全体として示していることは、もし神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である主のしもべとして霊的な戦いに参加して、主こそが神であられ、礼拝し従うべき主であられることのあかしを立てつつ、神である主から委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしていたとしたら、人はそのことへの報いとして、より豊かな栄光を与えられていたはずです。そして、その栄光は御使いたちの栄光にまさる栄光であったはずです。
 実際、イエス・キリストは神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人としての性質を取ってきてくださり、地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従われました。そして、そのことへの報いとして栄光を受けて、神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就しておられます。このことに関しては、ヘブル人への手紙2章8節ー9節とエペソ人への手紙1章20節ー22節を見てください。
 また、実際、イエス・キリストとともに栄光ある者としてよみがえっている私たち主の民は、神の子どもとしての身分を与えられています。神さまを「アバ、父」と呼ぶことができるのは、私たち神の子どもたちの特権です。それは、ヘブル人への手紙1章14節に、

 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた

と記されている御使いたちには与えられていない特権です。

 このように、霊的な戦いは、優れた御使いとして造られたサタンが自分に与えられた栄光のために、神である主の御前に高ぶり、自らを神としようとする罪を犯したことから始まっています。そして、神である主は神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である主の契約のしもべとして、この霊的な戦いに加わることをよしとされたと考えられます。
 けれども、サタンの働きによって、最初の女性であるエバが欺かれて罪を犯し、最初の人アダムも彼女の声に従って神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって霊的な戦いの様相が変わりました。霊的な戦いにおいて、神である主の契約のしもべとして、主こそが神であられ、礼拝し従うべき主であられることのあかしを立てつつ、神である主から委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしていくべき人が、罪によってサタンと一つに結ばれてしまったのです。
 これによって、人が造る歴史と文化は暗やみの主権者であるサタンの特性を現すものとなってしまいました。そして、そのような者となってしまった人は、サタンと同じように、神である主のさばきを受けて滅びる他はなくなってしまいました。
 このようにして、創造の御業において示された神さまのみこころの実現が阻止されてしまいました。その意味では、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したということになってしまいました。
 これに対して、先主日もお話ししましたように、神である主は創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というサタンへのさばきの宣告において、「最初の福音」をお示しになりました。
 このサタンへのさばきの宣言において、神である主は、「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後で働いているサタンと「女との間に」「敵意」を置いてくださって、罪によって一つに結ばれてしまっているサタンと「」との結びつきを断ち切ってしまうと宣告されました。そして、その「敵意」は、さらに「おまえの子孫」の共同体と「女の子孫」の共同体にまで及ぶと宣言されています。さらに、「女の子孫」の「かしら」として来られる方が、サタンに対する最終的なさばきを執行すると宣言されました。
 このことをとおして神である主は、ご自身が「」と「女の子孫」の共同体をとおしてサタンとその子孫の共同体に対するさばきを執行されることを示しておられます。そして「女の子孫」の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されることも示しておられます。
 さらに、このことは、「」と「女の子孫」の共同体が、霊的な戦いにおいて、神である主の側に立つようになることを意味しています。それは、「」と「女の子孫」の共同体が、主のしもべとして回復されることを意味しています。
 また、このことは、「女の子孫」の「かしら」として来られる方こそが、霊的な戦いの最終的な勝利者であることと、「」と「女の子孫」の共同体は、その「女の子孫」の「かしら」として来られる方との一体性において、霊的な戦いの勝利者となることを意味しています。
 この「最初の福音」において示されている、霊的な戦いにおける勝利者が、黙示録2章11節に出てくる「勝利を得る者」として成就するようになります。それは「女の子孫」の「かしら」として来られたイエス・キリストにあって、またイエス・キリストによって「勝利を得る者」となることです。


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