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説教日:2015年9月6日 |
アジアにある七つの教会のそれぞれは、その置かれた状況が違っていまして、それぞれに固有の問題がありました。具体的には、エペソにある教会へのみことばでは、エペソにある教会の信徒たちがにせ使徒たちの偽りを見抜いたことなど、いくつかの賞賛すべきことがあるとともに、 あなたは初めの愛から離れてしまった。 と言われていて、キリストのからだである教会にとって致命的な問題が指摘されています。 また、スミルナにある教会へのみことばでは、スミルナにある教会の信徒たちが迫害によってもたらされた「苦しみと貧しさ」のうちにありました。そればかりでなく、すでにそのような「苦しみと貧しさ」のうちにある信徒たちに、悪魔の働きによって、さらなる試練が襲ってくることが告げられています。 スミルナにある教会のように迫害を受けていた教会はフィラデルフィヤにある教会です。 さらに、ペルガモにある教会へのみことばでは、「バラムの教え」、「ニコライ派の教え」などの異端的な教えに従っている人々が教会の中にいることが示されています。ペルガモにある教会では、異端的な教えが持ち込まれて、福音のみことばの真理が危険にさらされていました。それは、真理のみことばの土台の上に建てられているキリストのからだである教会にとって、きわめて深刻な状態です。 ペルガモにある教会と同じように、誤った教えによって惑わされてしまっていることが指摘されているのは、テアテラにある教会です。2章20節には、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と記されています。 そして、ラオデキヤにある教会へのみことばでは、3章17節に、 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。 と記されていますように、経済的に繁栄していた町にあって潤っていた教会が陥っている問題が指摘されています。20節に、 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。 と記されていますように、教会のかしらであられるイエス・キリストはこの教会の中におられるのではなく、その「戸の外に」締め出されてしまっています。これがラオデキヤにある教会の霊的な貧しさの核心にあることです。イエス・キリストはそのことに気づいていないラオデキヤにある教会の信徒たちにご自身を示しておられます。 ラオデキヤにある教会に見られるのと同じような問題が指摘されているのは、サルデスにある教会です。3章1節には、 あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。 というイエス・キリストのみことばが記されています。 このように、アジアにある七つの教会はそれぞれとても深刻な問題に直面していました。迫害で苦しんでいる教会のようにそのことを実感している教会がある一方で、自分たちのうちにある深刻な問題に気づいていない教会もありました。これらの問題に対しては、それぞれの教会が、教会のかしらとして自分たちを教え、さとし、導いてくださっているイエス・キリストに信頼して、主体的に取り組んでいくよう求められています。 けれども、それで終わりではありません。先ほどお話ししましたように、アジアにある七つの教会のそれぞれに語られたイエス・キリストのみことばは、また、アジアにある七つの教会のすべてに語られたみことばでもあります。すべての教会が同じ方、イエス・キリストを贖い主として信じ、主として告白しています。そしてイエス・キリストも、これらアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけられたみことばに見られますように、どのような状態にある教会をも見捨てられることなく、それぞれの教会に御目を留め、お心を注いでくださって、細やかに導いてくださっています。そして、最終的には、終わりの日に完全な形で実現する祝福にあずからせてくださることを約束してくださっています。 このことを理解するために、ラオデキヤにある教会に語られたみことばを見てみましょう。3章15節ー22節には、 わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。 と記されています。 この引用から分かりますが、ラオデキヤにある教会については、賞賛されるべきことが一つもあげられていません。そのほかの教会では、賞賛されるべきことがあげられています。先ほどラオデキヤにある教会と同じような問題があると言いました、サルデスにある教会については、3章4節に、 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。 と記されています。ところが、ラオデキヤにある教会については、サルデスにある教会へのみことばに示されているような少数者の存在にさえも触れられていません。 このように、ラオデキヤにある教会には取り立てて賞賛すべきことが見当たりません。実際、イエス・キリストは、 あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。 とさえ述べておられます。けれども、イエス・キリストは、なお、ラオデキヤにある教会を悔い改めるようにとさとし、導いておられます。しかも、19節に記されています、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 というみことばは、ラオデキヤにある教会の信徒たちがご自身の「愛する者」(複数形)であることを示しています。 もちろん、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。 というみことばは、イエス・キリストがだれに対してもなされることを示しています。その意味でこれは「一般的な原則」のようなことで、私たちにもそのまま当てはまります。イエス・キリストが私たちを悔い改めるようにと諭してくださるのは、イエス・キリストが私たちに対して憤っておられるからではなく、私たちを愛してくださっているからです。またそれで、このことは、ラオデキヤにある教会だけでなく、アジアにある七つの教会のそれぞれに当てはまります。 けれども、イエス・キリストはラオデキヤにある教会以外の教会にも悔い改めるようにと求めておられますが、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。 というみことば、あるいは、これに相当するみことばは語られてはいません。もし、イエス・キリストがこれを「一般的な原則」のようなこととして語っておられるのであれば、悔い改めるべきことを最初にお示しになった、エペソにある教会へのみことばにおいてお示しになっていたことでしょう。エペソにある教会へのみことばを記している2章4節ー5節には、 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と記されています。最後の、 もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 という警告はまことに厳しいものです。それで、この悔い改めるべきことを明らかにされた最初の事例で、そのような厳しいことを言うのも、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする からであるということをお示しになれば、その後に取り上げられている教会について、悔い改めるべきことを示されたときには、それがイエス・キリストの愛から出ていることが、その都度、思い出されるようになっていたことでしょう。 けれども、実際には、イエス・キリストは、このことを最後に取り上げているラオデキヤにある教会へのみことばの中で語っておられます。その理由はもうおわかりのことと思います。ラオデキヤにある教会へのみことばでは、ラオデキヤにある教会が悔い改めるべきことしか取り上げることができなくて、賞賛すべきことがひとつも見当たらないという現実が暗示されているからです。 先ほど触れました、サルデスにある教会へのみことばにおいては、 あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。 と言われていて、サルデスにある教会が霊的に死んでいる状態にあることが示されていました。けれども、 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。 と言われていますように、サルデスにある教会には、それでもなお賞賛すべきことがありました。私たちのことばで言えば、「でも、あなたにもいいところがある」ということです。しかし、ラオデキヤにある教会には、そのように言うことができる要素がありませんでした。イエス・キリストはそのようなラオデキヤにある教会にこそ、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする ということをお示しになったのです。 このことは、ラオデキヤにある教会の信徒たちにとって大きな意味をもっていたと考えられます。もしラオデキヤにある教会の信徒たちがイエス・キリストの語りかけのみことばを、御霊の導きによって悟り、しっかりと受け止めたとしますと、自分たちのうちには、主の御前において、なんの拠り所もないということを悟ったはずです。そのような人たちにとって、イエス・キリストが自分たちのことをなお「愛する者たち」としてくださっておられることに、最後の拠り所、そして、もっとも確かな拠り所を見出すことができたはずです。 私たちも、自分は主の御前になんの取り柄もないばかりか、不真実なしもべでしかないというような思いにさいなまれることがあることでしょう。そのようなときにこそ、この、イエス・キリストがラオデキヤにある教会の信徒たちに語られた、 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 というみことばを思い起こさなければなりません。 さらに、このことと関連して、大切なことを確認しておきましょう。私たちの主イエス・キリストが私たちを救ってくださったのは、「でも、あなたにもいいところがある」とおっしゃってのことではありません。かつての私たちのあり方は、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。私たちは神さまに背を向けて歩んでいた者であり、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。そのような私たちが救われたのは、続く4節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 と記されていますように、神さまがそのような私たちを愛してくださったからです。5節に、 あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです と記されていますように、決して、私たちによいところがあるからということではありません。私たちは救われた後においても、この神さまの愛と恵みに包まれています。 ラオデキヤにある教会へのみことばについて、もう少し見ておきましょう。 先ほど触れましたように、イエス・キリストは、賞賛すべきことがひとつも見当たらない状態にあるラオデキヤにある教会に、 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。 と語られて、ラオデキヤにある教会がご自身を締め出してしまっているという「とんでもない」状態にあることをお示しになりました。けれども、それで終わってはいません。これに続いて、 だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 と語りかけておられます。イエス・キリストご自身が、ご自身を締め出してしまっているラオデキヤにある教会の信徒たちとの愛の交わりを求めておられることを示してくださっています。 そればかりでなく、これに続いて、 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 という約束のみことばを語ってくださっています。 これは、先ほど一部引用しましたエペソ人への手紙2章4節ー7節に記されています、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 というみことばに照らして見ますと、私たちがイエス・キリストにある神さまの恵みによって救われたことの最終段階にある祝福を指しています。 詳しい説明を省いて、結論的なことだけを言いますと、これは、1章20節ー23節に、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています、父なる神さまがイエス・キリストに対してなしてくださったことに、私たち主の民があずかっていることを示しています。そして、1章20節ー23節では、栄光を受けて死者の中からよみがえったイエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことが「すべての支配、権威、権力、主権」と呼ばれている暗やみの主権者たちに対する勝利を意味していることが示されています。また、それとともに、詩篇8篇6節を引用して、 神は、いっさいのものをキリスト[文字通りには「彼」]の足の下に従わせ(ました) と言われていますように、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを成就しておられることを示しています。そして、2章4節ー7節では、イエス・キリストにある神さまの恵みによって救われた私たち主の民が、神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストと一つに結ばれていることが示されています。すでにお話しした用語を用いて言いますと、このことにおいて、私たちは「この世」にありながら、「来たるべき時代」、「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たす者となったのです。 これによって、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業は、神さまが創造の御業において示され、始められたみこころを、成就し、完成へと至らせるための御業であることが示されています。 このように、イエス・キリストがラオデキヤにある教会に語られたみことばの中で示してくださった、 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 という約束のみことばは、神さまが御子イエス・キリストをとおして遂行された創造の御業と贖いの御業をとおして貫いている、この歴史的な世界に対するみこころの実現にかかわる約束です。 また、それとともに、このみことばは、黙示録の中で「ほふられたと見える小羊」(5章6節)としてご自身を現しておられるイエス・キリストが父なる神さまとともに御座に着いておられることへとつながっています。22章1節ー2節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。 と記されています。この「神と小羊との御座」の「御座」は単数です。父なる神さまとイエス・キリストはその「御座」に着座されることにおいてひとつとなっておられます。 これらのことから、イエス・キリストが、ご自身ご覧になっても賞賛されるべきことが何もないラオデキヤにある教会に、深くお心を注いでくださっていることがわかります。 このようにイエス・キリストはアジアにある七つの教会のそれぞれをご自身のからだとして愛し、迎え入れてくださった上で、賞賛すべきことはお認めになり、悔い改めるべきことを悔い改めるようにと導いてくださっておられます。 そして、それぞれの教会に語られたイエス・キリストのみことばが、それぞれの教会だけでなく、アジアにある七つの教会のすべてにも語られています。そうであれば、アジアにある七つの教会のそれぞれの教会が、このイエス・キリストのみこころを自分たちの思いとしなければなりません。そして、イエス・キリストにあって姉妹である教会が直面している問題を、自分たちのこととして受け止めなければなりません。 もしここに示されているイエス・キリストのみこころを自分たちの思いとしているなら、たとえば、ラオデキヤにある教会はなにも賞賛されていないけれども、自分たちはイエス・キリストから賞賛されているということで安心したりすることはないはずです。むしろ、イエス・キリストが自分たちの姉妹教会であるラオデキヤにある教会に示してくださった愛と恵みに満ちたご配慮を自分たちのこととして受け止めて、深い慰めを得るとともに、イエス・キリストの愛と恵みに対する感謝と賛美を深くしたことでしょう。 |
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