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説教日:2015年6月28日 |
詩篇8篇5節で「人」について言われていることと、ここヘブル人への手紙2章7節でイエス・キリストについて言われていることとの間に意味の発展があります。 7節で引用されている詩篇8篇5節で、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 と言われているときの、 彼に栄光と誉れの冠を与え ということは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったことを述べています。人は神のかたちとして「栄光と誉れの冠を与え」られています。これは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に与えてくださった恵みの賜物です。 それで、この「栄光と誉れの冠」は、まことの人となって来てくださったイエス・キリストが、まことの人であられるゆえに、すでに与えられて、もっておられるものです。最初の人アダムは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、このこの「栄光と誉れの冠」を失ってしまいました。けれども、イエス・キリストは罪を犯されませんでしたから、それを失われたことはありません。 ところが、9節では、まことの人となられたために、すでに、「栄光と誉れの冠」を与えられてもっておられるイエス・キリストが、 死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 と言われています。すでに「栄光と誉れの冠」を受けておられるイエス・キリストに、「栄光と誉れの冠」が与えられたというのです。これはどういうことでしょうか。 このことを理解する鍵は「死の苦しみのゆえに」と言われていることです。これは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従順であられたことのゆえにということです。イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従順であられたことに対する報いとして「栄光と誉れの冠」お受けになったのです。これは、まことの人として来てくださったイエス・キリストがすでに与えられてもっておられた「栄光と誉れの冠」を、さらに豊かな「栄光と誉れの冠」としていただいたことを意味しています。 そうしますと、イエス・キリストがすでに与えられていた創造の御業において神のかたちとして造られた人に与えられた「栄光と誉れの冠」より、さらに豊かな「栄光と誉れの冠」を与えられたということにはどのような意味があるのかが問題となります。これには二つのことがかかわっています。 ひとつは、7節ー8節で引用されている詩篇8篇5節ー6節では、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。 と言われていますように、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人に「栄光と誉れの冠を与えられた」ことは、 万物をその足の下に従わせられました。 と言われていること、すなわち、歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととつながっているということです。 もう一つは、この5節ー10節に記されていることの中心主題は、最初の5節において、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われていることにあるということです。 この二つのことから、イエス・キリストがさらに豊かな「栄光と誉れの冠」をお受けになったことは、イエス・キリストが「後の世」すなわち「来たるべき世界」に属する「栄光と誉れの冠」をお受けになったということが分かります。それは、イエス・キリストが「来たるべき世界」における歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」をお受けになったということを意味しています。先主日までにお話ししてきましたことに沿って言いますと、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」をお受けになったということです。 「来たるべき世」、「来たるべき時代」は、終わりの日の再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地において完全な形で実現します。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。神さまはその新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」をイエス・キリストにお与えになりました。 また、この「栄光と誉れの冠」は、詩篇8篇5節ー6節に記されていることから分かりますが、もともと、創造の御業において神さまが神のかたちとしてお造りになった人にお与えになったものです。それで、イエス・キリストがお受けになった、それよりさらに豊かな「栄光と誉れの冠」も、本来、人が受けるべき「栄光と誉れの冠」です。言い換えますと、これはイエス・キリストだけが独自にお受けになる「栄光と誉れの冠」ではないということです。 それで9節では、さらに、 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 と言われています。これを文脈(前後関係)と切り離して見ますと、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、死と滅びの中から救い出してくださったことを述べていると理解されることでしょう。しかしここでは、そのことを踏まえたうえで、さらに、その先にあることを述べています。これも、これまでお話ししてきましたように、5節ー10節に記されていることの中心主題、すなわち、5節において、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われていることとのかかわりで理解すべきことです。 私たちは、まことの人となって来てくださった御子イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった、ご自身の民の贖いの御業にあずかって、罪を赦していただき、死と滅びの中から贖い出していただいています。そればかりでなく、イエス・キリストが十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして「栄光と誉れの冠」をお受けになったことにもあずかって、「後の世」すなわち「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」を受けているのです。 このこととの関連で、一つのことに触れておきましょう。 神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことの核心にあるのは、造り主である神さまにいっさいの栄光を帰して、礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることです。そのために、人は神である主の栄光の御臨在の御許に近づいて、神である主の御顔を仰ぐことになります。人はこのために、神のかたちとしての「栄光と誉れの冠」を与えられています。実際に、創造の御業において神のかたちとして造られた人は、エデンの園にご臨在される神である主の御前に近づいて、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。 イエス・キリストが「死の苦しみのゆえに」お受けになった、より豊かな「栄光と誉れの冠」は、新しい天と新しい地にご臨在される神である主のさらに豊かな栄光に満ちた御臨在の御許において、神である主との愛にあるいのちの交わり、すなわち、永遠のいのちにおける愛の交わりにふさわしい「栄光と誉れの冠」です。 その意味で、このさらに豊かな「栄光と誉れの冠」は、黙示録2章10節で、イエス・キリストが、 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 と約束してくださっている、「いのちの冠」とつながっています。 私たちはイエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストとともによみがえったことによって、このより豊かな「栄光と誉れの冠」を受けています。それで、私たちは、今すでに、「後の世」すなわち「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されていますし、実際に、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造っています。 ヘブル人への手紙2章10節では、 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と言われています。ここでは、イエス・キリストが「死の苦しみのゆえに」創造の御業において神のかたちとして造られた人に与えられた「栄光と誉れの冠」よりさらに豊かな「栄光と誉れの冠」をお受けになったことにあずかって、さらに豊かな「栄光と誉れの冠」を受けている人々のことが「多くの子たち」と呼ばれています。 ここではまた、神さまがこの「多くの子たち」を「栄光に導」いてくださるために、 彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた と言われています。「彼らの救いの創始者」とは、言うまでもなく、御子イエス・キリストのことです。イエス・キリストは私たちの「救いの創始者」であられるとともに「救いの完成者」であられます。ここでは、「多くの苦しみ」は「苦しみ」の複数形で表されています。 ここで、神さまが私たちの「救いの創始者」を「多くの苦しみを通して全うされた」と言われていることが、どういうことを意味しているかが問題となります。私たちの「救い」がイエス・キリストの「多くの苦しみを通して全うされた」ことは確かなことですが、ここではそのことではなく、神さまがイエス・キリストを「多くの苦しみを通して」私たちの「救いの創始者」として「全うされた」と言われています。 これにつきましては、広く、イエス・キリストの大祭司としてのお働きに関わっていると理解されています。ヘブル人への手紙では、イエス・キリストの大祭司としてのお働きにつきましては、すでに、先ほど引用しました、1章3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されていました。ここに出てきます、 すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 ということは、詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されているみことばを背景としていますので、これだけを見ますと、イエス・キリストの王権のこと、イエス・キリストが王として支配されるようになったことを記していると理解されます。けれども、ここでは、これに先立って、 罪のきよめを成し遂げて、 と言われていますので、イエス・キリストの大祭司としてのお働きについて記されています。このことから、イエス・キリストは「祭司王」あるいは「王である祭司」であられることが分かります。 これと同じことは、さらに、10章12節ー14節に、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。ここでは、 神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 と言われていることから分かりますが、詩篇110篇1節のみことばがより明確に引用されています。 1章3節で、 罪のきよめを成し遂げて、 と言われていることも、また、10章12節で、 罪のために一つの永遠のいけにえをささげた と言われていることも、2章9節に出てきました、イエス・キリストの「死の苦しみ」のことです。イエス・キリストはこの「死の苦しみ」を味わわれることがないままに、言い換えますと、私たちご自身の民の罪のための贖いを成し遂げてくださることがないままに、私たちの大祭司とはなられなかったのです。このことが、2章10節で、神さまが「多くの子たち」を「栄光に導」いてくださるために、 彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた と言われていることの根本にあります。 それとともに、ヘブル人への手紙では、 彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた と言われていることにはもう一つの面があります。同じ2章の17節ー18節には、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されています。 先ほど取り上げました、1章3節で、 罪のきよめを成し遂げて、 と言われていることも、また、10章12節で、 罪のために一つの永遠のいけにえをささげた と言われていることも、一回限りなされた、完全な罪の贖いのためのいけにえをささげられたことに触れるものです。10章14節では、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と言われていました。もはや、イエス・キリストがさらなるいけにえをささげられることはありません。 これに対しまして、2章17節ー18節に記されていることは、私たちのために「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られてから、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが私たちの「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、今も、私たちのために継続的になしてくださっていることです。28節で、 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と言われていますように、その「あわれみ深い、忠実な大祭司」としての継続的なお働きも、イエス・キリストが「試みを受けて苦しまれた」ことに根ざしていると言われています。そのイエス・キリストの苦しみは、十字架における肉体的苦しみ、あざけりとののしりによる精神的な苦しみ、さらには、私たちの罪に対する神さまの御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださったための霊的な苦しみを頂点として、地上の生涯の全体にわたってお受けになった苦しみです。イエス・キリストの大祭司としてのお働きは、イエス・キリストが経験された、このような苦しみをとおして全うされています。 ここで引用しました、2章17節ー18節に記されていることに先立つ16節には、 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。 と記されています。 注目したいのは、 主は御使いたちを助けるのではなく と言われていることです。これは、繰り返し触れてきました5節において、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われていることとつながっていると考えられます。それで、これに続く2章17節ー18節で、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と言われていることは、基本的には、私たちが「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属する者として、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たして行くなかでさまざまな苦しみを味わうときに、イエス・キリストが「あわれみ深い、忠実な大祭司」として私たちを助けてくださるということを示しています。 私たちは「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属しています。それで、私たちのなすすべてのことが「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていくことにかかわっています。コリント人への手紙第一・10章31節に、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 と記されていますように、私たちは飲むこと食べることというごく日常的なことを初めとして、私たちのなすすべてのことを「ただ神の栄光を現すために」なしていきます。そして、その中心に、神さまを造り主として礼拝することがあります。それで、私たちのなすすべてのことが「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていくことになります。 |
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