黙示録講解

(第211回)


説教日:2015年6月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(40)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 スミルナはエーゲ海東岸の港湾都市として繁栄していた町でしたが、そこにある教会は、9節に記されていますように、迫害を受けて「苦しみと貧しさ」のうちにありました。それはスミルナが歴史的にローマ帝国とのつながりが深く、皇帝礼拝に熱心な町であったことと関連しています。スミルナにある教会の信徒たちを含めて、その当時、迫害を受けていたクリスチャンたちは、皇帝礼拝を初めとして、偶像を礼拝することを拒否していましたし、偶像にかかわる仕事を避けていました。
 また、スミルナにある教会の信徒たちは、神さまの選びの民であることを自任しているユダヤ人からの「ののしり」も受けていました。港湾都市として繁栄していた町であるスミルナには、ユダヤ人共同体があり、その人々からののしりを受けていたと考えられます。
 イエス・キリストはユダヤの政治的、宗教的な指導者たち、すなわち、その方面の権威者たちから、にせメシヤであると断罪されました。そして、ルカの福音書23章1節ー5節に記されていますように、ローマ帝国に逆らうよう民衆を扇動しているとして、ローマ人の手に引き渡され、十字架につけられて処刑されました。それは、申命記21章23節に記されています「木につるされた者は、神にのろわれた者」という教えに照らして見ますと、イエス・キリストは「神にのろわれた者」として処刑されたということを意味しています。クリスチャンたちは、そのようなイエス・キリストを、神さまから遣わされたメシヤであると信じており、そのような教えを広めています。ユダヤ人たちからしますと、クリスチャンたちは神さまを冒 する者たちであるということになります。
 しかし、本来、「神にのろわれた者」として永遠の刑罰を受けて滅びるべきであるのは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている私たちすべてです。私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。それで、その罪の重さは無限です。神さまはそのような私たちの罪を贖ってくださるために、やはり、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストを贖い主、メシヤとして遣わしてくださいました。イエス・キリストは「神にのろわれた者」として十字架におかかりになって、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったのです。
 イエス・キリストが神の選びの民であることを自任しているユダヤ人の政治的、宗教的な指導者たちからにせメシヤであると断罪されて退けられたことは、旧約聖書が預言していたことでした。
 そのことはいくつかの個所に示されています。代表的な事例として詩篇118篇22節ー24節を見てみますと、そこには、

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。
 これはのなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。
 これは、が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。

と記されています。
 この詩篇には、苦しみの中にあった人が神である主から受けた救いに対する感謝と喜びを表すことばが繰り返し出てきます。
 ここに出てくる「家を建てる者たち」とは、その道の権威者、専門家たちのことです。その当時のユダヤであれば、祭司長、律法学者、長老たちです。また「礎の石」とは、家を建てる時に最初に据える最も重要な土台となる石のことです。[注] ここでは「家を建てる者たち」から、これは「礎の石」にはならないとして捨てられた石が、「礎の石」となったというのです。しかも、それは何かの間違いでそうなったということではなく、「のなさったことだ」というのです。「のなさったこと」なのであるから、皆がなるほどと納得するかというと、そうではなく、

 私たちの目には不思議なことである。

と言われています。ここで「不思議なことである」と訳されていることば(パーラーという動詞のニファル語幹)は「難しすぎて理解し難い」という意味合いと、「とてもすばらしい」という意味合いがあります。ここでは、その両方の意味が込められていると考えられます。その道の権威者、専門家が「礎の石」にはならないとして捨てた石は、誰が見ても「礎の石」によいとは思えない石です。ところが、契約の神である主、ヤハウェは、そのような石を「礎の石」とされました。それは、その道の権威者、専門家にはとても理解できないことです。そうであれば、素人たちにはなおさらのこと理解できないことです。それだけであれば、これは「難しすぎて理解し難い」という意味合いだけになります。けれども、ここでは、それで終わっていなくて、

 これは、が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。

と言われています。私たちはこの「不思議なことである」と言われていることを、主がなしてくださった「すばらしいことである」と理解し、それを楽しみ喜ぶようになるというのです。

[注]ここで「礎の石」と訳されていることば(ローシュ・ピンナー)は「礎の石」ではないという主張もあります。NIV(新国際訳)はcapstone(冠石)と訳しています。

 新約聖書は、ここに記されていることはイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。たとえば、使徒の働き4章10節ー11節には、

皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」というのはこの方のことです。

と記されています。
 これは、ペテロとヨハネが民の指導者たちに語ったことばです。これに先立って、ペテロとヨハネは主の宮で、生まれつき足の萎えた人をいやしました。そして、そのことを知って、そこに集まってきた人々にイエス・キリストのことをあかししました。それによって、多くの人々(男だけで5千人ほどと言われています)が信じました。しかし、ペテロとヨハネは捕らえられ、翌日、民の指導者たちがふたりを尋問したのです。
 また、ふたりが主の宮で集まってきた人々に語ったことばを記している3章17節には、人々がイエス・キリストをローマに引き渡し、十字架につけて殺してしまったことについて、

ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。

と記されています。ユダヤの指導者たちも、民衆も「無知のために」神さまがメシヤとして遣わしてくださったイエス・キリストを十字架につけてしまったというのです。この場合の「無知のために」ということは、霊的な無知ということであって、この世の基準で無知であるということではありません。ユダヤの指導者たちは知恵と知識に富んでいると認められた人々です。先ほどユダヤの指導者たちがペテロとヨハネを尋問したことをお話ししましたが、その指導者たちのことが、4章13節に、

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた

と記されています。ユダヤの指導者たちからすれば、ペテロとヨハネは「無学な、普通の人」でした。もちろん、ふたりは小さな頃から旧約聖書についての一般的な教育を受けていましたし、指導者たちがにせメシヤと断罪したイエス・キリストから弟子としての訓練、薫陶と教えを受けていました。とはいえ、その時、弟子たちはイエス・キリストの教えを理解することはできませんでした。しかし、聖霊降臨節にイエス・キリストが注いでくださった御霊によって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を、旧約聖書に記されていますみことばの光の下で、理解することができるようになりました。
 スミルナにあったユダヤ人共同体に属している人々は、なおも、霊的な無知の中にあって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を理解することができませんでした。
 なお、先ほど引用しました詩篇118篇22節ー23節に記されていますみことばは、そのほか、マタイの福音書21章42節とマルコの福音書12章10節ー11節に記されていますイエス・キリストの教え、そして、ペテロの手紙第一・2章7節に引用されています。また、エペソ人への手紙2章20節に記されていますみことばもこの教えを踏まえています。それぞれ、機会がありましたらご覧になってください。


 スミルナにある教会の信徒たちはそのような迫害にあって「苦しみと貧しさ」の中にありましたが、9節で、イエス・キリストが、

 しかしあなたは実際は富んでいる

と述べておられますように、霊的な豊かさの中にありました。御霊のお働きによって、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を理解し、イエス・キリストとともに十字架につけられて古い自分に死んで、イエス・キリストとともに栄光あるいのち、永遠のいのちによみがえっていました。そして、ご自分の御子をも遣わしてくださった父なる神さまの愛と、自分たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの愛に包まれて、神さまを愛して礼拝し、お互いに愛し合い、支え合って生きていました。
 そのような、神さまの愛に包まれて、愛のうちを歩むことこそが、永遠のいのちの現れであり、イエス・キリストが言われる霊的な豊かさの本質です。またそれは、先主日にお話ししました、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあることです。
 イエス・キリストは、10節において、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と語りかけておられます。これによって、イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちが、悪魔の働きによって、さらなる試練に合うようになることを示しておられます。
 その試練とはスミルナにある教会の信徒たちの「ある人たち」を投獄することです。その当時の投獄は、今日の懲役刑とは違って、投獄自体が目的ではなく、処刑のためか裁判のための投獄です。ですから、それは死に至る可能性がある投獄でした。また、投獄された人々は丁寧な取り扱いを受けたのではなく、とても劣悪な状況に置かれていました。
 すでにお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、サタンはそれによって、神さまの愛に包まれて、お互いに愛し合っていたスミルナにある教会の信徒たちの間に恐怖を呼び覚まし、神さまへの不信感を生み出し、自分も投獄されることがないようにと考える人々が、投獄された人々と距離を置くようになり、お互いの間に分裂が生まれるようになることを狙っていたと考えられます。
 このように、投獄される人々はスミルナにある教会の信徒たちの一部ですが、すべての信徒たちがこの試練によって試されることになります。それで、イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちすべてに対して、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と戒めておられます。
 これは、そのような試練にさらされても、イエス・キリストが、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

と戒めてくださっておられますように、恐ろしい状況にあっても、すべてのことを知ってくださっているイエス・キリストに信頼して、恐怖に支配されることなく、むしろ、すでに歩んできたように、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれて、お互いに愛し合い、特に、投獄された人々を思いやり、愛のうちを歩み続けることです。そのように歩むことは、イエス・キリストの弟子となって、イエス・キリストの御足の跡を踏んで、イエス・キリストに従って行くことであり、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことです。

 さらに、10節には、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されていますように、イエス・キリストは「いのちの冠」を与えてくださると約束してくださっています。
 ここに出てくる「」(ステファノス)ということばは、いろいろなことに用いられる花や葉や枝などの冠で、金などの金属で作られた王冠(ダイアデーマ)とは区別されます。この「」は競技において勝利した人の頭にかぶせられた冠、戦争において武勲、武功を立てた人に与えられる冠、業績のあった市民に与えられる冠、異教の祭司がかぶった冠、祭りの時に飾りとしてかぶった冠、町の行政官がかぶった冠などを表しています。
 これらのうち「いのちの冠」の「」がどれを背景としているかについてはいろいろな見方があります。10節に、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されていることと、続く11節に、

 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

と記されていることとのつながりから、競技における勝利者に与えられる「花冠」の可能性が高いと考えられます。
 「」(ステファノス)ということばとのかかわりで思い出されることがあります。マタイの福音書27章29節、マルコの福音書15章17節、ヨハネの福音書19章2節には、ローマの兵士たちが「いばらの冠を編んで」、十字架につけられるために渡されたイエス・キリストにかぶらせたことが記されています。この「いばらの冠」の「」は黙示録2章10節に出てくる「いのちの冠」の「」と同じことば(ステファノス)です。また、「いばら」と訳されたことばは、「いばら」ばかりではなく、さまざまなトゲのある植物を表しています。ローマの兵士たちがイエス・キリストにかぶせたのは、「いばら」よりトゲの長い植物の冠であったという見方もあります。
 その時に兵士たちが、

 ユダヤ人の王さま。ばんざい

と叫んだことも、マタイの福音書、マルコの福音書、ヨハネの福音書に記されています。ですから、これはイエス・キリストをあざけるためになされたことですが、そのトゲがイエス・キリストの頭に刺さって、痛みを増し加えることになりました。
 このことは、最初にお話ししました、イエス・キリストを十字架につけたユダヤの指導者たちと民衆の霊的な無知、さらには、ローマの総督ピラトと兵士たちの霊的な無知によってなされたことです。しかし、福音書の記者たち(マタイ、マルコ、ヨハネ)は、ただ、このようなことをした人々を糾弾し、告発するために記しているわけではありません。福音書の記者たちは、このように辱められ、卑しめられ、痛めつけられた「王」こそが、父なる神さまが認証された神の御国の王であるということを、あかししていると考えられます。
 この方は、この「いばらの冠」をかぶったまま、「王」として十字架につけられました。実際、イエス・キリストの十字架につけられていた「罪状書き」には「ユダヤ人の王」と書かれていました(マタイの福音書27章37節、マルコの福音書15章26節、ルカの福音書23章38節、ヨハネの福音書19章19節)。イエス・キリストは、まことの王として、私たちご自身の民を罪と死の力と暗やみの主権者の支配の下から解放してくださり、永遠のいのちに生きる者としてくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。
 このように「王」として十字架につけられたイエス・キリストは、ご自身の十字架の死にあずかって古い自分に死に、ご自身の死者の中からのよみがえりにあずかって、永遠のいのちによみがえっている私たちご自身の民に、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と戒めておられます。この戒めは、直接的には、スミルナにある教会の信徒たちに与えられたものです。けれども、この戒めと、それに対する、

 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

という約束は、主のみことばに書き記されて、すべての主の民に伝えられています。それで、これは地上に存在するすべての主の民に当てはまります。
 この、

 死に至るまで忠実でありなさい。

という戒めは、地上の生涯の最後まで、ご自身の御足の跡を踏みながら、ご自身についてくるようにとの招きです。それは、すでにお話ししましたように、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれて、その愛に応答する礼拝をささげることを中心として、お互いに愛し合う歩みをすることです。それが永遠のいのちの現れであり、それによって「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化が造られていきます。
 ここで私たちがしっかりと心に刻んでおきたいことは、そのような歩みをすること自体が、すでに、豊かないのちの現れであるということです。また、その歩みも、神さまがイエス・キリストにある一方的な愛と恵みによって、私たちご自身の民のために備えてくださっているものであるということです。
 エペソ人への手紙2章8節ー10節には、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

と記されています。ここで「キリスト・イエスにあって造られた」と言われていることは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく、新しい創造の御業によって造られたということです。これはコリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されていることに当たります。
 エペソ人への手紙2章10節では、私たちが「キリスト・イエスにあって造られた」のは「良い行いをするため」であると言われています。この「良い行い」(複数形)についてはこれ以上説明されていません。けれども、これは同じ2章の1節ー3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されている、生き方、歩み方と対比される歩みをすることです。1節ー10節がひとまとまりとなっていますが、その初めの1節ー3節に記されていることと、最後の10節に記されていることが、対比の形で、対応しているわけです。
 1節ー3節に記されている生き方は、1節で、

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

と言われていますように、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」としての歩みです。また、3節に、

 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と言われていますように、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けるべきものとしての歩みです。それは、先主日にお話ししたことに合わせて言いますと、「この世」、「この時代」に属する者としての歩みです。
 このような1節ー3節に記されています歩みをしていた私たちを、神さまが愛してくださったことが4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。私たちは神さまの愛と恵みによって、イエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストとともに永遠のいのちによみがえって、「天の所にすわらせて」いただいています。
 そうしますと、10節に記されています「良い行いをする」ということは、イエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストとともによみがえって、イエス・キリストとともに「天の所にすわらせて」いただいている者としての歩みをすることです。この「天の所にすわらせて」いただいているということは、時間的には、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属しているということにほかなりません。
 このように、10節で、

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われていることは、私たちが「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属している者としての歩みをするために、イエス・キリストにあって造られていることを意味しています。
 先主日にお話ししましたように、「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしている動因は「肉」です。それに対して、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を生みだし、特徴づけ、導いているのは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。ですから、私たちが「良い行いをする」ことは、この御霊に導いていただき、御霊に力を与えていただいて初めてできることであって、私たちの生来の力によってできることではありません。その意味で、

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

と言われています。
 ここで「その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と言われているときの「あらかじめ備えてくださった」ということば(プロエトイマゾー)は、このことばが出てくるもう一つの個所であるローマ人への手紙9章23節では、神さまの永遠の聖定にかかわることを示しています。それで、ここエペソ人への手紙2章10節でも、神さまの永遠の聖定にかかわることであると考えられます。また、エペソ人への手紙には永遠の聖定にかかわる視座、視点があります。1章4節ー5節に、

神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されているとおりです。ですから、2章10節で、

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

と言われているのは、神さまが永遠の聖定において「良い行い」を備えてくださっているということです。それは、私たちが「良い行い」をすることを見越して、その「良い行い」を備えてくださったという意味ではなく、私たちが何かをするということに先立って、すなわち、まったくの愛と恵みによって、その「良い行い」を備えてくださったという意味です。このように、この「良い行い」は神さまの愛と恵みによる賜物です。
 それが、今この地上の生涯を歩む私たちの現実になるのは、私たちが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、すなわち、御霊に導いていただき、力づけていただいて歩むことによっています。
 ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と記されています。
 私たちが「良い行い」に生きることは、私たちが御霊によって歩むことによって、私たちの現実になります。それは、

 愛をもって互いに仕えなさい。

と戒められていますように、私たちが愛のうちを歩むことに現れてきます。そして、御霊に導いていただき、力づけていただいて、愛のうちを歩むことは、永遠のいのちの現れです。私たちはすでに、神さまの一方的な愛と恵みによって、この永遠のいのちに生きる者としていただいています。私たちが地上の生涯を御霊に導いていただき、力づけていただいて、愛のうちを歩み続けるなら、イエス・キリストは「いのちの冠」を与えてくださると約束してくださっています。それは、すでに永遠のいのちに生きる者としていただいている私たちが、地上の生涯を御霊に導いていただき、力づけていただいて、愛のうちを歩み続けていくことを、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが完成してくださるということです。
 その日には、イエス・キリストが私たちのからだを栄光のからだによみがえらせてくださいます。私たちは罪を完全にきよめられるばかりか、より豊かな栄光にあって、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在の御許に近づいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わり、そして、私たち主の契約の民の間の愛の交わりに生きるようになります。


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