黙示録講解

(第210回)


説教日:2015年6月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(39)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばが記されています。
 9節に、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と記されていますように、スミルナにある教会はローマ帝国からの迫害を受けて「苦しみと貧しさ」のうちにありました。
 ここでイエス・キリストがこのことを知っていると語っておられるのは、外から客観的に眺めて知っているという意味ではありません。また、神さまがすべてのことをご存知であられるということを越えることです。イエス・キリストご自身がスミルナにある教会の信徒たちとともにおられて、その「苦しみと貧しさ」をご自身のこととして負ってくださることによって知ってくださっているということです。それは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、スミルナにある教会をご自身のからだとしてくださり、御霊によって、スミルナにある教会にご臨在してくださっていることによっています。それはスミルナにある教会という共同体におけることですが、それとともに、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たち一人一人のうちに、御霊によってご臨在してくださっていることによっています。
 イエス・キリストが、スミルナにある教会に限らず、ご自身のからだである教会にご臨在してくださっていることは、聖書のいろいろな個所で示されていますが、その一つであるエペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 ここで「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている方は、十字架におかかりになって、ご自身の民のための罪の贖いを成し遂げられてから、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上られて、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストのことです。
 「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われているときの「いっさいのものによって」と訳されていることば(エン・パスィン)は「あらゆる点で」とも訳すことができます。ここでは、そのどちらの意味も生かされていて、イエス・キリストのことが、いっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方として示されていると考えられます。
 イエス・キリストがいっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方であられるということは、神さまがお造りになったこの世界、この宇宙が、どんなに広大であり、複雑であっても、イエス・キリストの手に負えないことは何もないということを意味しています。イエス・キリストはいっさいのもの、いっさいのことを、父なる神さまのみこころに従って支えておられ、生かしておられ、神さまのご栄光を現されます。
 ここ1章23節では、そのイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、教会をご自身のからだとしてくださっており、そこに、ご臨在して満たしてくださっている、ということが示されています。
 キリストのからだである教会は、時代と文化の違いを越えて、この世に存在しています。それで、それぞれの時代によって、文化によって、また、社会によって異なった、さまざまな問題に直面します。しかし、それがどのような状況のどのような問題であっても、いっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方であられるイエス・キリストにとって、手に負えない問題はありません。
 神さまの御前において(あるいは、神さまにとってと言ってもいいのですが)、最も難しい問題は、一介の被造物に過ぎないのに、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっており、その結果、神さまの義の尺度に照らしてさばかれると永遠の刑罰、地獄の刑罰に価するものとなってしまっている人を、なおも、その愛とあわれみのゆえにご自身の民として回復してくださるということです。イエス・キリストはそのような問題さえも、私たちのために解決してくださいました。ご自身無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが無限に身を低くして、私たちご自身と一つになってくださるために、人の性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する神さまの義に基づく刑罰を、私たちに代わって受けてくださり、私たちを死と滅びの中から救い出して、神さまとの愛の交わりに生きる者として回復してくださったのです。
 私たちはこのイエス・キリストをいっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方と呼んでいます。
 イエス・キリストは、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方として、それぞれの時代と文化と社会において、さまざまな問題にさらされ、困難に直面している一つ一つの教会を、ご自身のからだとして支えてくださり、それぞれにふさわしく導いてくださり、きよめてくださり、お育てくださいます。そのようにして、地上にあるキリストのからだである教会が直面する困難な試練の一つが、スミルナにある教会がローマ帝国から受けていた迫害であり、それによってもたらされる「苦しみと貧しさ」です。
 これと同じようなことは、一見すると分かりにくいのですが、ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 イエス・キリストは、いま、父なる神さまの右の座に着座しておられ、「その力あるみことばによって万物を保っておられます」。これは、イエス・キリストがいっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方であられることに当たります。
 ここでは、さらに、そのイエス・キリストが、特に、

また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と言われています。明確なことばは出てきませんが、これは、イエス・キリストがご自身の民のために罪のきよめを成し遂げられた大祭司として、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちご自身の民のためにお働きになっておられることを示しています。
 ヘブル人への手紙ではこのことを受けて、2章17節ー18節に、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、「試みられている者たちを助けることがおできになる」と言われています。これはヘブル人への手紙の後半でより明確に示されていますが、ヘブル人への手紙の読者たちが迫害を受けて苦しんでいたことによっています。
 このようなことを思い巡らしますと、思い出されるみことばがあります。ローマ人への手紙8章31節ー34節には、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。


 イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに限らず、ご自身の民一人一人のうちに、御霊によってご臨在してくださっていることについては、ローマ人への手紙8章9節ー11節に、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 ここにはいろいろなことが示されていますが、今日は、9節に記されていることしか取り上げることができません。
 9節で、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、

と言われていることは、それが「あなたがた」と言われているローマにある教会の信徒たちの、また、私たちの現実であることを踏まえています。それで、9節で、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と訳されている部分は、

神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのですから、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と訳すこともできます。
 ここには「」ということばが出てきます。これはギリシア語ではサルクスで、「からだ」を表すソーマとは区別されます。サルクスはとても意味が広いもので、「からだ」を表すこともありますが、「肉(人も含めた生き物の肉の部分)」、「人」、「(有限であり、弱さをもっている)人」などを表します。
 ここでは「」(サルクス)と「御霊」(プネウマ)が相容れないものとして対比されています。このような形で「」と「御霊」が対比されているときには、「」は「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしている動因を表しています。この場合の、「この世」は、神さまがお造りになった世界という意味での「この世界」のことではなく、ヨハネの手紙第一・2章15節ー17節に、

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

と記されているような「この世」のことです。ヨハネの手紙第一では、さらに、5章19節で、

 世全体は悪い者の支配下にある

と言われています。そして、このような「この世」を時間的・歴史的な面から見ますと「この時代」になります。それで、この場合の「この時代」は、今私たちが生きているこの時代という意味ではありません。神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人が罪と死の力に捕らえられ、「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル人への手紙2章14節ー15節)に支配されるようになって以来、終わりの日まで続いていくものです。
 これに対して、「」と対比されている「御霊」は、「新しい世」、「新しい時代」、あるいは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を生み出し、特徴づけ、導いている動因としてお働きになる御霊のことです。この御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。
 「新しい世」、「新しい時代」、あるいは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」につきましては、もう一つのことに触れてからお話しします。
 ローマ人への手紙8章9節で、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われているときの「肉の中に」いるということは、「この世」、「この時代」に属しているということを意味しています。
 私たちはかつて「この世」、「この時代」に属していました。エペソ人への手紙2章1節ー3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているとおりです。
 これに対して、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

と言われているときの「御霊の中にいる」ということは、「新しい世」、「新しい時代」、あるいは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属していることを意味しています。このみことばが示していますように、私たちは、今、「新しい世」、「新しい時代」、あるいは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属しています。

 「新しい世」、「新しい時代」、とか、「来たるべき世」、「来たるべき時代」という言い方は、少し分かりにくいかと思います。これは、基本的には、終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地のことを意味しています。新しい天と新しい地も神さまによって(厳密には、父なる神さまのみこころにしたがい、イエス・キリストによって)造られる世界で、歴史的な世界です。それで「来たるべき時代」と呼ぶことができます。
 新しい天と新しい地については、黙示録21章1節ー4節を見てみましょう。そこには、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 ここには「新しい天と新しい地」ということばが出てきます。それで、この「新しい」ということを生かして、「新しい世」、「新しい時代」という言い方が生み出されています。また、この「新しい天と新しい地」は世の終わりに、再臨されるイエス・キリストによって再創造されるものですので、「来たるべき世」、「来たるべき時代」とも呼ばれます。
 今日のお話では、この後、代表的に「来たるべき世」、「来たるべき時代」を用いることにいたします。
 世の終わりに再臨されるイエス・キリストは、新しい天と新しい地を再創造される前に、天地創造の御業から終わりの日に至るまでの歴史を清算されるためのさばき、いわゆる「最後の審判」を執行されます。その最後のさばきにつきましては、やはり、いろいろな個所に示されていますが、黙示録20章12節ー15節を見てみましょう。そこには、

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

と記されています。
 そのさばきが、世の終わり、すなわち天地創造の御業以来の歴史の終わりになされるのは、神さまが創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとして造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったからです。神さまは人にその使命をお委ねになった後、人がどのようにその使命を果たしたかを評価されます。人が神さまのみこころに従ってその使命を果たしたなら、そのことをお認めになり、それに報いてくださることになっていました。
 それで、終わりの日におけるさばきは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために執行されるようになったのではありません。人が神さまに対して罪を犯して堕落することがなかったとしたら、人は神さまのみこころに従って、神さまを礼拝することを中心として、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を映し出す歴史と文化を造る使命を果たしていたはずです。そのことは愛を本質的な特性とする神のかたちとして造られている人にとっては、最も自然なことであるのです。そうしますと、神さまは人が歴史と文化を造る使命を果たしたことに報いてくださるために、評価としてのさばきをなしてくださっていたはずです。そのような意味をもっている、評価としてのさばきがなされる日は人にとっては喜びの日となったはずです。
 けれども、実際には、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人は愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を映し出す歴史と文化を造ることはなくなってしまいました。むしろ、造り主である神さまを神としてあがめることがなく、人の罪の自己中心性を映し出す歴史と文化を造り出すものになってしまいました。それで、終わりの日におけるさばき、それまでの歴史ををするさばきが、人が神さまに対して犯した罪の自己中心性を映し出す歴史と文化を造り出したことに対する刑罰をもたらすさばきとなってしまったのです。
 そして、この、造り主である神さまを神としないで、人の罪の自己中心性を映し出す歴史と文化を造り出す動因が、先ほどお話ししました「肉」です。
 イエス・キリストは十字架におかかりになって、ローマの兵士たちによって執行された十字架の苦しみを伴う刑罰を受けられただけでなく、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってお受けになりました。これは、世の終わりになされるべき最後のさばきに当たるさばきです。これによって、私たちの罪に対する刑罰を宣告するさばきはすでに終わっています。
 このように、イエス・キリストの十字架において、終わりの日に執行される私たちイエス・キリストの民に対する最後のさばきが「すでに」執行されて終わっています。
 また、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストは、その地上の生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされて、神さまの愛といつくしみに満ちた歴史と文化を造る使命を果たされました。神さまはイエス・キリストに、このことに対する報いとして栄光をお与えになり、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。ですから、イエス・キリストはただ単に元の状態に生き返られたのではありません。創造の御業において人が神のかたちとして造られた時の栄光より、さらに栄光に満ちた状態によみがえられたのです。このようにして、イエス・キリストが獲得された、さらに栄光に満ちた状態は、新しい天と新しい地にふさわしい栄光に満ちた状態です。
 ですから、今から2千年前に起こった、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにおいて、「来たるべき世」、「来たるべき時代」が、すでに、この歴史の現実になっています。イエス・キリストは十字架の死と死者の中からのよみがえりによって「来たるべき世」、「来たるべき時代」の基礎を築かれるとともに、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の先駆けとなられ、ご自身の御霊によって「来たるべき世」、「来たるべき時代」を治める主となられました。
 栄光を受け死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座しておられるたイエス・キリストは「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属しておられます。そして、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖われているだけでなく、イエス・キリストの復活にあずかって、栄光あるいのち、永遠のいのちによみがえっている私たちは。すでに、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属する者となっています。私たちは、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地にご臨在される神である主の栄光の御臨在の御前に近づいて、神である主とのより豊かな栄光に満ちた愛の交わりに生きるいのちによみがえって、そのいのちに生きています。先ほどエペソ人への手紙2章1節ー3節を引用しましたが、続く4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。
 このすべてが、私たちの現実になるのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によっています。それで、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を生み出し、特徴づけ、導いている動因が「御霊」なのです。この御霊が私たちを栄光によみがえられたイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっています。私たちは、すでに、この御霊のお働きにあずかって、イエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストとともに栄光ある者としてよみがえっています。それで、私たちは「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属しています。
 その私たちは、イエス・キリストから「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を委ねられています。マタイの福音書28章18節ー20節に記されています、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

というイエス・キリストの命令は、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を私たちに委ねてくださっているものです。
 これは、いっさいのものを、「いっさいのものによって」また「あらゆる点で」満たしてくださる方であられるイエス・キリストが、ご自身のからだである教会に、御霊によってご臨在してくださり、私たちを御霊によって導いてくださることによって初めて、果たすことができる使命です。そのため、イエス・キリストは、

 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という約束を与えてくださっています。
 私たちは御霊によって導いていただいて、神さまを礼拝することを中心として、神さまの愛といつくしみに満ちたご栄光を映し出す歩みをすることによって「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造っていきます。

 先主日と先々主日にお話ししました、ルカの福音書9章23節には、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここには三つの戒めがあります。そして、最初の二つの、

 自分を捨てなさい

という戒めと、

 日々自分の十字架を負いなさい

という戒めを守らなければ、

 わたしについて来なさい。

という戒めに従って、イエス・キリストについて行くことができません。また、最初の二つの戒めは、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっていなければ実行することができません。ということは、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっていなければ、イエス・キリストについて行くことができないということです。
 このイエス・キリストの教えに従って、イエス・キリストについて行くということは、イエス・キリストの弟子となることを意味しています。それで、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えにしたがって、イエス・キリストについて行くことは、イエス・キリストの弟子としての使命を果たすことにかかわっています。
 それは、今日これまでお話ししてきましたことに沿って言いますと、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって「来たるべき世」、「来たるべき時代」の基礎を築かれるとともに、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の先駆けとなられ、ご自身の御霊によって「来たるべき世」、「来たるべき時代」を治める主となられたイエス・キリストについていくということです。また、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえって、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属している者として、イエス・キリストについて行くということです。それによって、御霊に導いていただいて、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たして行くことになります。
 スミルナにある教会の信徒たちは、ローマ帝国からの迫害という厳しい現実にさらされていながら、御霊に導いていただいて、愛のうちを歩むことによって、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たして行くことになります。


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