![]() |
説教日:2015年6月7日 |
先週は、このこととの関連で、ルカの福音書9章23節ー24節に記されています、 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 というイエス・キリストの教えを取り上げてお話ししました。 23節には、三つの戒めが記されています。先主日にお話ししましたので詳しい説明は省きますが、このイエス・キリストの戒めは、「自分を捨て、日々自分の十字架を負」うことがあって初めて、継続的にイエス・キリストについて行くことができるということを示しています。 先主日は、最初の、 自分を捨てなさい という戒めについてお話ししました。 これは、一般に考えられるような、修業や禁欲生活を送ることなどによって欲望を断つというようなことを指しているのではありません。それは、生まれながらの自分をそのままにして、つまり、罪の性質を自らのうちに宿したまま、また、そのゆえに、罪に縛られたままで、改善を図ることです。 そのようなことについて、パウロはコロサイ人への手紙2章20節ー23節において、 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。 と教えています。 ここには、いくつかの難しい点がありますが、全体の主旨は分かります。これらの「人間の戒めと教えによる」「礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行など」を実践することによって、何の変化ももたらされないということではありません。それは「この世の生き方をしている」(より直訳調には「この世にあって生きている」)人々の目からは、すばらしい人格者になったと評価されるようになることでしょう。けれども、それは人のすべてをご存知であられる神さまの御前では、罪が清算されているわけではありませんので、その人は死と滅びの力に捕らえられてしまっています。何よりも、その人は造り主である神さまとの関係が本来の愛の関係に回復されているわけではありません。 イエス・キリストの、 自分を捨てなさい という戒めは、十字架につけられて私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと、御霊のお働きによって、一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえることによって、初めてできることです。 これに続いて、イエス・キリストは、 日々自分の十字架を負いなさい と戒めておられます。 このことを聞いた弟子たちが最初に考えたであろうことは、十字架刑を宣告された犯罪人が、十字架刑が執行される刑場まで、自分が付けられる十字架を背負って行かなければならないという、その当時の人々がよく知っていたことです。しかも、十字架刑は、それによって処刑された犯罪人が十字架の上で何日も苦しんだ末に、ようやく息を引き取るという残酷なものでした。その残酷さのためでしょうか、ローマ帝国においては、十字架につけられて処刑されるのは、強盗や反乱などを扇動するという重大な犯罪を犯した者に対してであって、ローマ市民に対しては十字架刑は適用されなかったと言われています。 また、十字架刑の執行は公開されていました。処刑される犯罪人が自分の十字架を背負って刑場に行くことも、十字架につけられる様子も、その上で苦しむ姿もすべて人の目にさらされていました。人々はそれを黙って見ていたのではなく、ののしりやあざけりを投げつけたりして、犯罪人を卑しめました。そのことは、イエス・キリストが十字架につけられた時のことを記しているマルコの福音書15章29節ー32節に、 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。 と記されています。 先ほどお話ししましたように、最初の、 自分を捨てなさい という戒めは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、古い自分に死んで、新しい自分によみがえっていなくては、守ることができない戒めです。それは生まれながらの自分の力によって達成することではなく、御霊が私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、その上で、私たちを導いてくださることによって実現することです。それは、私たちを愛してくださって、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったイエス・キリストの御足の跡を踏みながら、愛のうちを歩むことを意味しています。 そうであるとしますと、 自分を捨てなさい という戒めは、実質的に、 日々自分の十字架を負いなさい という戒めと同じなのではないでしょうか。 その点は、そのとおりです。けれども、 日々自分の十字架を負いなさい という戒めは、 自分を捨てなさい という戒めに、さらに新しい面を付け加えています。 その新しい面としては、二つのことが考えられます。 一つは、イエス・キリストにある自由によって「自分の十字架を負う」ということです。 重大な犯罪を犯して捕らえられた犯罪人が自分の十字架を背負って刑場まで行くということは、その犯罪人にとっては、もう如何ともし難い状態、そこから逃れられない状態になっていることです。けれども、イエス・キリストはそうではありませんでした。ヨハネの福音書10章18節に、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と記されていますように、イエス・キリストはご自身の意思によって、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、 わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と記されていますように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。すべて、ご自身のご意思によることですが、それは父なる神さまに対する愛と、私たちご自身の民に対する愛から出ています。また、17節に、 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 と記されていますように、父なる神さまも、私たちのためにいのちをお捨てになられるイエス・キリストを愛してくださっておられました。 先ほど引用しましたマルコの福音書15章29節ー32節には、人々がこぞって、イエス・キリストが十字架から降りられないことをあざけっていたことが記されていました。もちろん、イエス・キリストにとって、その時、十字架から降りること自体は、いともたやすいことでした。けれども、その時、人々からの挑発に乗って、十字架から降りてしまわれたら、私たちご自身の民のための罪の贖いは成し遂げられず、父なる神さまのみこころは実現しないで終わってしまったことでしょう。イエス・キリストは父なる神さまへの愛と私たちご自身の民への愛のゆえに、十字架にとどまり続けられました。 ルカの福音書9章23節に記されています、 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 というイエス・キリストの教えは、このように、父なる神さまと私たちご自身の民への愛のゆえに、ご自身の意思で十字架におかかりになっていのちを捨ててくださったイエス・キリストについて行くことについての教えです。そうであれば、 日々自分の十字架を負いなさい という戒めは、押しつけられてどうしようもないからそうするということではなく、私たち自身の意思で進んですることです。しかも、それは父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれ、その愛に応答することとしてなすことです。 広く、「自分の十字架を負」うことは、徹底的な自己犠牲を意味していると言われています。それはそのとおりです。けれども、それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれて、その愛に応答することであり、兄弟姉妹たちへの愛、さらには、自分たちに敵意を示している人々のためにとりなして祈るような愛にもとづく自己犠牲のことです。ヨハネの手紙第一・3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と記されています。また、ルカの福音書6章27節ー28節には、 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このように教えられたイエス・キリストご自身がこのような敵をも愛する愛のうちを歩まれました。私たちはそのイエス・キリストの御足の跡に従って、イエス・キリストについて行くように招かれています。 イエス・キリストの、 日々自分の十字架を負いなさい という戒めは、 自分を捨てなさい という戒めに新しい面を付け加えているということをお話ししていますが、そのもう一つの新しい面は、「自分の十字架を負」うことがもたらす辱めです。 先ほどお話ししましたように、十字架刑は公開処刑として執行されました。また、十字架刑によって処刑される犯罪人は重大な犯罪を犯した者たちです。そのようなことから、「自分の十字架を負」って行く人は、人々の目にそのみじめな姿をさらします。また、人々も重い犯罪を犯した人をさげすみの目で見ます。 それは一般的なことでしたが、ユダヤ人の指導者たちからにせメシヤであると断罪されたイエス・キリストの場合には、人々の失望をかったばかりか、にせメシヤとして神を冒 した者とされ、人々の憎しみをもかって、より激しいののしりとあざけりを受けました。「自分の十字架を負」ってイエス・キリストについて行く私たちは、十字架につけられて殺された犯罪人を救い主として信じている愚かな者であると見なされることでしょう。 さらには、終わりの日に至る歴史の様相についてのイエス・キリストの教えを記しているルカの福音書21章12節ー18節には、 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。 と記されています。人々から辱めを受けるだけでなく、権力者たちからも迫害を受け、親しい人々からも見捨てられるようになることもあります。このイエス・キリストの教えは、そうであっても、それらのことをとおして、福音が伝えられ、十字架につけられたイエス・キリストについてのあかしがなされるようになることを示しています。 ヘブル人への手紙13章12節ー14節には、 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。 と記されています。これは、その当時、十字架刑による犯罪人の処刑は町の門の外で執行されたこと、そして、イエス・キリストも町の門の外で十字架におかかりになったことを踏まえています。その当時の町は外壁で囲まれていて、その門を通って町に出入りしていました。 ここでは、私たちも、 キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。 と勧められています。これは、私たちがこの世では拒絶され辱めを受けることを意味していますが、それには積極的な面があります。私たちがこの世では拒絶され辱めを受けるのは、私たちが「永遠の都」すなわち「後に来ようとしている都」に属しており、それを求めているためです。 その「後に来ようとしている都」、「永遠の都」の中心には、父なる神さまと御子イエス・キリストの御座があり、御臨在があります。黙示録22章3節ー4節には、 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 と記されています。これは、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに約束してくださっている「いのちの冠」を受けることに当たります。 |
![]() |
||