黙示録講解

(第209回)


説教日:2015年6月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(38)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 スミルナは地中海交易で繁栄していた港湾都市でした。しかし、9節に記されていますように、スミルナにある教会の信徒たちは「苦しみと貧しさ」の中にありました。それは、スミルナにある教会の信徒たちが、スミルナで盛んであった皇帝礼拝や、そのほかの偶像礼拝を避けるとともに、偶像にかかわる仕事なども避けていたからであると考えられます。
 また、繁栄していた町であったスミルナには、相当数のユダヤ人がいてユダヤ人共同体を形成していたと考えられます。スミルナにある教会の信徒たちはそのユダヤ人たちからもののしられていました。それはクリスチャンたちが十字架につけられて殺されたイエス・キリストを神から遣わされた贖い主であると信じていたからです。確かに、申命記21章23節に「木につるされた者は、神にのろわれた者」であると記されていますように、イエス・キリストは「神にのろわれた者」として処刑されました。けれども、それは、ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されていますように、私たちが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためのことです。
 ここには「律法ののろい」が出てきます。神さまの律法は、基本的に、神のかたちとして造られている人のあり方を示しています。その根底にあることは、愛であられる神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちとして、そして、神さまとの愛の交わりに生きる者としてお造りになったということです。それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は造り主である神さまとの愛の交わりにあります。
 このことと関連して、私たちが心に刻んでおかなければならないことは、これらすべてのことは神さまの愛から出ているということです。神さまが人を愛して、人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださいました。また、神さまが無限に身を低くされて、人とともにあるためにご臨在してくださり、実際に、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださいました。神さまが近づきがたい高みにいまして、人にそこに上ってくるように求められたのではなく、神さまが無限に身を低くされて、人の間にご臨在してくださったのです。
 このように、神さまの律法は神のかたちとして造られている人のあり方を示しています。それが律法の本来の役割ですが、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、新しい役割が生じました。それは、ローマ人への手紙3章20節に、

 律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

と記されていますように、人が律法に示されている神さまのみこころに背いてしまっていることを明らかにすることです。律法を守り行おうとすると、かえって、それを守れないことが明らかになるということです。さらに、ガラテヤ人への手紙3章10節に、

というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

と記されていますように、律法は罪を犯した人をのろいの下に置きます。それは、人が犯した罪はすべて神さまの義の基準に基づくさばきによって清算されなければならないということを意味しています。
 このことと関連して、私たちがしっかりと心に刻んでおかなければならないことは、人が犯す罪はすべて造り主である神さまに対する罪であるということです。そして、神さまの律法は、罪を犯した人はその罪に相応する刑罰を受けなければならないということを示しています。神さまのみことばである聖書は、すべての人が無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯したことを示しています。それで、私たちの罪は無限に重いものであり、私たちは神さまの御前に無限の償いをしなければならないのです。このようなことがありますので、神さまはご自身の御子、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストを私たちのための贖い主として遣わしてくださいました。また、御子イエス・キリストは私たちに代わって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださいました。イエス・キリストはこのことを使徒たちをとおして啓示してくださり、その啓示のみことばが文書化され、永続する形で残るようにしてくださいました。それが新約聖書です。
 先ほど、神さまが人を愛してくださって、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人がご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださったということをお話ししました。人が神さまを愛する前に、神さまが人を愛してくださって、すべてのことをしてくださったのです。皆さんが十分お分かりのことで、言うまでもないことですが、そのことは、贖いの御業において、さらに豊かな形で示されています。ローマ人への手紙5章6節ー8節に、

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されているとおりです。ここでは、私たちは神さまの聖なる御怒りにこそ価するものであり、神さまの愛を受くるに価するものではなかったことが強調されるとともに、神さまがあえてそのような私たちを愛してくださったこと、そして、今も愛してくださっていることが示されています。新改訳で最後に出てくる、

 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

というみことばは現在時制で記されていて、神さまの私たちに対する愛が今も変わっていないことを示しています。しかも、ギリシア語の原文ではこのことばが最初に出てきて、強調されています。また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節にも、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 スミルナにある教会の信徒たちを含む初代教会のクリスチャンたちは、使徒たちによって伝えられた福音のみことばにおいてあかしされている、十字架につけられたイエス・キリストを、神さまが自分たちを愛して遣わしてくださった贖い主として信じました。先主日も引用しました、コリント人への手紙第一・1章22節ー24節に、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されていますように、異邦人から、それが愚かなことであるとあざけられても、また、ユダヤ人から、それが神を冒 することであると激しく非難されても、十字架につけられて殺されたイエス・キリストを主として告白して、主であるイエス・キリストの御足の跡を踏み行く歩みを続けました。そのために、投獄され、処刑されることがあったとしても、そうしました。それこそが、私たちのためにご自身の御子をも与えてくださった神さまの愛に応えることです。また、そのようにして主であるイエス・キリストの御足の跡を踏んで歩みを続けることが、黙示録2章10節に、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と記されているイエス・キリストの戒めに従うことの核心にあることです。イエス・キリストはそのように歩む私たちとともに歩んでくださいます。たとえ、それが迫害によって肉体的に死を迎えることになっても、あるいは、病や老衰によって肉体的な死を迎えることになっても、イエス・キリストは、ご自身のことを、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

とあかししておられる方として、私たちとともに歩んでくださり、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と約束してくださっている「いのちの冠」を受けるという祝福にあずからせてくださいます。


 先週は、このこととの関連で、ルカの福音書9章23節ー24節に記されています、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

というイエス・キリストの教えを取り上げてお話ししました。
 23節には、三つの戒めが記されています。先主日にお話ししましたので詳しい説明は省きますが、このイエス・キリストの戒めは、「自分を捨て、日々自分の十字架を負」うことがあって初めて、継続的にイエス・キリストについて行くことができるということを示しています。
 先主日は、最初の、

 自分を捨てなさい

という戒めについてお話ししました。
 これは、一般に考えられるような、修業や禁欲生活を送ることなどによって欲望を断つというようなことを指しているのではありません。それは、生まれながらの自分をそのままにして、つまり、罪の性質を自らのうちに宿したまま、また、そのゆえに、罪に縛られたままで、改善を図ることです。
 そのようなことについて、パウロはコロサイ人への手紙2章20節ー23節において、

もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

と教えています。
 ここには、いくつかの難しい点がありますが、全体の主旨は分かります。これらの「人間の戒めと教えによる」「礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行など」を実践することによって、何の変化ももたらされないということではありません。それは「この世の生き方をしている」(より直訳調には「この世にあって生きている」)人々の目からは、すばらしい人格者になったと評価されるようになることでしょう。けれども、それは人のすべてをご存知であられる神さまの御前では、罪が清算されているわけではありませんので、その人は死と滅びの力に捕らえられてしまっています。何よりも、その人は造り主である神さまとの関係が本来の愛の関係に回復されているわけではありません。
 イエス・キリストの、

  自分を捨てなさい

という戒めは、十字架につけられて私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと、御霊のお働きによって、一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえることによって、初めてできることです。
 これに続いて、イエス・キリストは、

 日々自分の十字架を負いなさい

と戒めておられます。
 このことを聞いた弟子たちが最初に考えたであろうことは、十字架刑を宣告された犯罪人が、十字架刑が執行される刑場まで、自分が付けられる十字架を背負って行かなければならないという、その当時の人々がよく知っていたことです。しかも、十字架刑は、それによって処刑された犯罪人が十字架の上で何日も苦しんだ末に、ようやく息を引き取るという残酷なものでした。その残酷さのためでしょうか、ローマ帝国においては、十字架につけられて処刑されるのは、強盗や反乱などを扇動するという重大な犯罪を犯した者に対してであって、ローマ市民に対しては十字架刑は適用されなかったと言われています。
 また、十字架刑の執行は公開されていました。処刑される犯罪人が自分の十字架を背負って刑場に行くことも、十字架につけられる様子も、その上で苦しむ姿もすべて人の目にさらされていました。人々はそれを黙って見ていたのではなく、ののしりやあざけりを投げつけたりして、犯罪人を卑しめました。そのことは、イエス・キリストが十字架につけられた時のことを記しているマルコの福音書15章29節ー32節に、

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、最初の、

 自分を捨てなさい

という戒めは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、古い自分に死んで、新しい自分によみがえっていなくては、守ることができない戒めです。それは生まれながらの自分の力によって達成することではなく、御霊が私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、その上で、私たちを導いてくださることによって実現することです。それは、私たちを愛してくださって、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったイエス・キリストの御足の跡を踏みながら、愛のうちを歩むことを意味しています。

 そうであるとしますと、

 自分を捨てなさい

という戒めは、実質的に、

 日々自分の十字架を負いなさい

という戒めと同じなのではないでしょうか。
 その点は、そのとおりです。けれども、

 日々自分の十字架を負いなさい

という戒めは、

 自分を捨てなさい

という戒めに、さらに新しい面を付け加えています。
 その新しい面としては、二つのことが考えられます。
 一つは、イエス・キリストにある自由によって「自分の十字架を負う」ということです。
 重大な犯罪を犯して捕らえられた犯罪人が自分の十字架を背負って刑場まで行くということは、その犯罪人にとっては、もう如何ともし難い状態、そこから逃れられない状態になっていることです。けれども、イエス・キリストはそうではありませんでした。ヨハネの福音書10章18節に、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と記されていますように、イエス・キリストはご自身の意思によって、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、

 わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と記されていますように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。すべて、ご自身のご意思によることですが、それは父なる神さまに対する愛と、私たちご自身の民に対する愛から出ています。また、17節に、

 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

と記されていますように、父なる神さまも、私たちのためにいのちをお捨てになられるイエス・キリストを愛してくださっておられました。
 先ほど引用しましたマルコの福音書15章29節ー32節には、人々がこぞって、イエス・キリストが十字架から降りられないことをあざけっていたことが記されていました。もちろん、イエス・キリストにとって、その時、十字架から降りること自体は、いともたやすいことでした。けれども、その時、人々からの挑発に乗って、十字架から降りてしまわれたら、私たちご自身の民のための罪の贖いは成し遂げられず、父なる神さまのみこころは実現しないで終わってしまったことでしょう。イエス・キリストは父なる神さまへの愛と私たちご自身の民への愛のゆえに、十字架にとどまり続けられました。
 ルカの福音書9章23節に記されています、

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えは、このように、父なる神さまと私たちご自身の民への愛のゆえに、ご自身の意思で十字架におかかりになっていのちを捨ててくださったイエス・キリストについて行くことについての教えです。そうであれば、

 日々自分の十字架を負いなさい

という戒めは、押しつけられてどうしようもないからそうするということではなく、私たち自身の意思で進んですることです。しかも、それは父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれ、その愛に応答することとしてなすことです。
 広く、「自分の十字架を負」うことは、徹底的な自己犠牲を意味していると言われています。それはそのとおりです。けれども、それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれて、その愛に応答することであり、兄弟姉妹たちへの愛、さらには、自分たちに敵意を示している人々のためにとりなして祈るような愛にもとづく自己犠牲のことです。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。また、ルカの福音書6章27節ー28節には、

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このように教えられたイエス・キリストご自身がこのような敵をも愛する愛のうちを歩まれました。私たちはそのイエス・キリストの御足の跡に従って、イエス・キリストについて行くように招かれています。

 イエス・キリストの、

 日々自分の十字架を負いなさい

という戒めは、

 自分を捨てなさい

という戒めに新しい面を付け加えているということをお話ししていますが、そのもう一つの新しい面は、「自分の十字架を負」うことがもたらす辱めです。
 先ほどお話ししましたように、十字架刑は公開処刑として執行されました。また、十字架刑によって処刑される犯罪人は重大な犯罪を犯した者たちです。そのようなことから、「自分の十字架を負」って行く人は、人々の目にそのみじめな姿をさらします。また、人々も重い犯罪を犯した人をさげすみの目で見ます。
 それは一般的なことでしたが、ユダヤ人の指導者たちからにせメシヤであると断罪されたイエス・キリストの場合には、人々の失望をかったばかりか、にせメシヤとして神を冒 した者とされ、人々の憎しみをもかって、より激しいののしりとあざけりを受けました。「自分の十字架を負」ってイエス・キリストについて行く私たちは、十字架につけられて殺された犯罪人を救い主として信じている愚かな者であると見なされることでしょう。
 さらには、終わりの日に至る歴史の様相についてのイエス・キリストの教えを記しているルカの福音書21章12節ー18節には、

しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

と記されています。人々から辱めを受けるだけでなく、権力者たちからも迫害を受け、親しい人々からも見捨てられるようになることもあります。このイエス・キリストの教えは、そうであっても、それらのことをとおして、福音が伝えられ、十字架につけられたイエス・キリストについてのあかしがなされるようになることを示しています。
 ヘブル人への手紙13章12節ー14節には、

ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

と記されています。これは、その当時、十字架刑による犯罪人の処刑は町の門の外で執行されたこと、そして、イエス・キリストも町の門の外で十字架におかかりになったことを踏まえています。その当時の町は外壁で囲まれていて、その門を通って町に出入りしていました。
 ここでは、私たちも、

 キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

と勧められています。これは、私たちがこの世では拒絶され辱めを受けることを意味していますが、それには積極的な面があります。私たちがこの世では拒絶され辱めを受けるのは、私たちが「永遠の都」すなわち「後に来ようとしている都」に属しており、それを求めているためです。
 その「後に来ようとしている都」、「永遠の都」の中心には、父なる神さまと御子イエス・キリストの御座があり、御臨在があります。黙示録22章3節ー4節には、

もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

と記されています。これは、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに約束してくださっている「いのちの冠」を受けることに当たります。


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