黙示録講解

(第208回)


説教日:2015年5月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(37)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。9節に、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

と記されていますように、スミルナにある教会の信徒たちはローマ帝国からの迫害を受けて「苦しみと貧しさ」の中にありました。スミルナにある教会の信徒たちがローマ帝国から迫害を受けたのは、スミルナにおいて盛んであった皇帝礼拝を初めとして、天地の造り主である神さま以外の神々を神として礼拝することや、偶像礼拝に関連する仕事を避けていたためのことでした。
 また、スミルナにある教会の信徒たちは、自分たちこそ神である主の選びの民であると考えているユダヤ人たちから「ののしられて」いました。それは、スミルナにある教会の信徒たちに限らず、クリスチャンたちが十字架につけられて殺されたイエス・キリストは、神さまが旧約聖書をとおして約束してくださっていたメシヤであると信じていたからです。申命記21章22節ー23節には、死刑判決を受けて殺された者について、「木につるされた者は、神にのろわれた者」であるということが記されています。この旧約聖書の教えに照らしてみますと、イエス・キリストは「神にのろわれた者」として処刑されたことになります。ユダヤ人たちからすれば、クリスチャンたちは、こともあろうに、「神にのろわれた者」として処刑された者を、神から遣わされたメシヤであるとしていることになります。それで、ユダヤ人たちには、このような教えは神を冒 するものであり、この教えも、この教えを広める者も、神の御前から抹殺されるべきものであるということになります。
 コリント人への手紙第一・1章22節ー24節には、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されています。ここでは「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にとってはつまずき」であると言われています。ここで「つまずき」と訳されたことば(スカンダロン)は、人をつまずかせて罪に陥れるものや、人が信じるようになるのを妨げるものを表すとともに、人のうちに嫌悪感や憤りを生み出すものをも表します。ここでは、十字架につけられたイエス・キリストはユダヤ人にとっては、ただ単にとても信じられないものであるというだけでなく、嫌悪感や憤りを生み出すものであるということが示されていると考えられます。
 スミルナにある教会の信徒たちはこのような「苦しみと貧しさ」の中にありましたが、イエス・キリストを主として告白して堅く立ち、お互いの間でも愛をもって支え合って歩んでいたと考えられます。そのことは、スミルナにある教会へのみことばにおいて、イエス・キリストはスミルナにある教会のうちに「非難すべきこと」があることを指摘しておられないことと、「苦しみと貧しさ」の中にあるスミルナにある教会について、

 しかしあなたは実際は富んでいる

と述べておられることから分かります。この場合の「富んでいる」状態は霊的なことで、神さまの御前に「富んでいる」ということです。それは神さまの愛に包まれて兄弟姉妹たちを愛する愛において「富んでいる」ことを意味しています。
 サタンはこのように主にあって、愛のうちを歩んでいるスミルナにある教会の信徒たちをさらなる試練にさらそうとしていました。そのことが10節に、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と記されています。
 イエス・キリストは、まず、

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

と命じておられます。このことから、悪魔は、スミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たちを牢に投げ入れ」ることによって、スミルナにある教会の信徒たちのうちに恐怖を呼び覚まし、彼らが神さまの愛を疑うようになったり、お互いの間の愛の交わりが形式的なものとなってしまうことを狙っていたと考えられます。
 これに対してイエス・キリストは、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と言われて、この試練の時も、ご自身が、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

として、特別な意味でスミルナにある教会の信徒たちの間にご臨在してくださって、みこころを実現してくださることを示しておられます。イエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちの苦しみや貧しさを、またそこから生じてくる悲しみや痛みをご自身のこととして負ってくださるほどに、スミルナにある教会の信徒たちと一つになってくださいます。そして彼らを、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の祝福にまったくあずかる者としてくださいます。
 イエス・キリストはこのことを受けて、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と言われました。この命令と約束はスミルナにある教会の信徒たちすべてに与えられています。
 イエス・キリストは、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と命じておられますが、それに先立って、そのように命じておられるイエス・キリストご自身が、スミルナにある教会の信徒たちの苦しみや貧しさ、悲しみや痛みをご自身のこととして負ってくださるほどに、スミルナにある教会の信徒たちと一つになっていてくださいます。それによって、スミルナにある教会の信徒たちが、その試練の中で、イエス・キリストとともに歩むことができるようにしてくださっています。先主日にお話ししたことばで言いますと、イエス・キリストの御足の跡を踏みながら、敵をも愛する愛のうちを歩むことができるようにしてくださいます。それによって、スミルナにある教会の信徒たちを、御霊によって、イエス・キリストに似たものへと造り変えてくださり、愛にあって成長するようにしてくださり、スミルナにある教会の信徒たちが真にイエス・キリストの民であることを明らかにしてくださいます。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されていることが、スミルナにある教会の信徒たちに実現するようにしてくださるのです。


 このように、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と命じておられるイエス・キリストは、投獄され、処刑されるようになるスミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たち」だけでなく、スミルナにある教会の信徒たちすべてに、お互いの間の愛のうちを歩むだけでなく、敵をも愛する愛のうちを歩むことによって、イエス・キリストの御足の跡を踏みながら、イエス・キリストとともに歩むことを求めておられます。そして、イエス・キリストにあって、また、御霊に導かれて、そのような愛のうちを歩むことこそが、神の子どもとしてのいのちの本質です。
 このこととの関連で、ルカの福音書9章23節ー24節に記されています、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

というイエス・キリストの教えを取り上げたいと思います。
 24節に記されています、

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

という教えには、黙示録2章10節に記されています、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というイエス・キリストのみことばにつながる面があります。
 ここでイエス・キリストは、

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、

と言っておられます。これは、これまでお話ししてきました、イエス・キリストの御足の跡を踏みながら、イエス・キリストとともに歩むことを意味しています。まず、このことを踏まえたうえでお話を続けます。
 23節の、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えは、三つの命令のことばから成り立っています。このうちの、最初の、

 自分を捨てなさい

ということと、次の、

 日々自分の十字架を負いなさい

ということは、きっぱりとそのことがなされるという意味合いを示す(不定過去時制の命令形)もので、最後の、

 わたしについて来なさい

ということは、それが継続的になされるという意味合いを示す(現在時制の命令形)ものです。
 これによって、きっぱりと自分自身を捨てて、日々きっぱりと自分の十字架を負うことがあって初めて、イエス・キリストについて行くことができる、ということを示しています。きっぱりと自分自身を捨てて、日々きっぱりと自分の十字架を負うことがないままで、イエス・キリストについて行くことはできないということです。
 今日は、最初の、

 自分を捨てなさい

というイエス・キリストの戒めについてしかお話しすることができません。というのは、この戒めの意味が分かれば、これに続く戒めも理解しやすくなりますので、この戒めについて少し詳しくお話ししたいと思っているからです。
 ここで言われている、自分を捨てるということは、私たちも含めてのことですが、人が罪の自己中心性に縛られてしまっていることを踏まえて、そのような自分を捨てることを意味しています。
 罪によって、神さまの御前に堕落してしまっている人には、すべてのことを自己中心に見て、判断し、評価してしまう傾向があります。それによって、実質的に神さまを否定し、自分を「神」の位置に据えてしまう傾向があるのです。
 実際には、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、このような罪の自己中心性がむき出しに現れてこないように抑制されたり、より積極的に啓発されて自己犠牲に当たることをすることがあります。けれども、生まれながらの状態の人は、罪がもたらす霊的な暗やみの中にあるために、決して造り主である神さまを神とすることはありません。
 いずれにしましても、これが罪によって神さまの御前に堕落してしまっている人の現実であり、私たちは生まれながらにこのような者でした。これが生まれながらの人の状態であれば、人は自分の力で自分を捨てることはできません。人は御霊のお働きによって、新しく造られ、新しく生まれなければ、生まれながらの自分、すなわち、古い自分を捨てることはできません。ですから、ここで言われている自分を捨てることは、一般的に考えられるような、厳しい自己修養や徹底的な禁欲生活をすることではありません。
 イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちが永遠のいのちに生きるようになるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。御霊はこのようにしてイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。私たちはこの御霊のお働きによって、イエス・キリストと結び合わされ、イエス・キリストの十字架の死にあずかって、古い自分、生まれながらの自分に死ぬとともに、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれています。ガラテヤ人への手紙2章20節には、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と記されています。また、エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。さらに、コリント人への手紙第二・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。
 このように、私たちは御霊によってイエス・キリストと結び合わされて、イエス・キリストとともに十字架につけられて古い自分に死んでおり、イエス・キリストとともによみがえって、新しく生まれています。けれども、その私たちのうちには、今なお、罪の性質が残っており、私たちは実際に罪を犯します。ヨハネの手紙第一・1章8節ー10節に、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されているとおりです。
 私たちが完全に罪の力から解放されるのは、終わりの日に、イエス・キリストが再臨されて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださることによっています。その時には、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されている状態になります。
 しかし、それまでは、私たちは先ほど引用しました、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されている状態にあります。これは、まだ途上にある状態です。言い換えますと、私たちはローマ人への手紙8章23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されている状態にあるのです。
 このように、私たちは、すでに、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んでおり、イエス・キリストとともに新しいいのち、永遠のいのちによみがえっているとともに、終わりの日に栄光のからだによみがえることを待ち望んでいます。私たちはこのような状態にありますので、御霊に導いていただいて、古い自分を捨てるとともに、新しい自分に生きるようにと戒められています。コロサイ人への手紙3章1節ー10節には、

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

と記されています。

 イエス・キリストが、

 自分を捨てなさい

と戒められたことには、これらのことがかかわっています。これに対して、

 自分を捨てなさい

というイエス・キリストの戒めは、もっと単純なことで、いまお話ししたようなことまでは言われていないのではないかという疑問がわいてくるかも知れません。これに対しましては、イエス・キリストのお働きの段階の違いを考慮する必要があります。ルカの福音書9章23節に記されています、

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

というイエス・キリストの教えは、その前の22節に記されています、

人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。

というイエス・キリストの苦難の死と栄光へのよみがえりの予告を受けて語られたものです。この時点では、イエス・キリストはまだ十字架におかかりになって私たちご自身の民の罪の贖いを成し遂げてはおられませんし、栄光を受けて死者の中からよみがえってもおられません。それで、御霊もまだイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊としては遣わされていません。この状態にあったイエス・キリストの弟子たちは、イエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業のことを、まったくと言っていいほど理解することができませんでした。ヨハネの福音書16章12節ー13節に、

わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

と記されているとおりです。
 また、コリント人への手紙第一・2章14節には、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されています。これは、これに先立つ部分からの流れで見ますと、2節に出てくる「十字架につけられた方」のことを知るようになること、特に、8節で言われています、その「十字架につけられた方」が「栄光の主」であられるということを理解し、受け入れることができるのは御霊によっているということを示しています。また、それゆえに、生まれながらの人はこれらのことを理解することができないということを示しています。
 イエス・キリストは十字架におかかりになって私たちご自身の罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられた後、聖霊降臨節(5旬節・ペンテコステ)に、御霊を、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊としてお遣わしになりました。弟子たちは、この御霊に導かれて初めて、十字架につけられて殺された方は栄光の主であられるということと、それが自分たち主の民にとってどのような意味をもっているかを理解することができるようになりました。その意味とは、具体的には、十字架につけられて殺された方は栄光の主であられるので、私たちとまったく一つになってくださることがおできになるということですし、私たちが無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して犯してしまった罪を、完全に贖ってくださることがおできになるということです。
 それまで弟子たちは、イエス・キリストが、ご自身が多くの苦しみを受けて殺されるということを繰り返し教えられても、まったくそれを悟ることができませんでした。マルコの福音書8章章31節ー33節には、

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と記されています。ここにはペテロのことが記されていますが、ほかの弟子たちも、イエス・キリストの教えを理解することはできませんでした。この時の弟子たちにとっては、そもそも、神さまが遣わしてくださったメシヤが、殺されるということ自体がありえないこと、あってはならないことでした。
 このようなことがあって、ペテロが、

 下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

と言われるほど、厳しく叱られたのですが、それでも、弟子たちは、イエス・キリストの教えを理解することができませんでした。マルコの福音書では、この後の9章30節ー32節に、

さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

と記されているとおりです。。
 弟子たちはこのような状態にありましたから、たとえイエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりについて繰り返し語ってくださっても、また、詳しく説明してくださっても、弟子たちはそれを理解することはできませんでした。それで、イエス・キリストは、ご自身について行きたいと願う人は、まず、

 自分を捨てなさい

と教えておられますが、それがどのようなことであるかは、詳しく説明してはおられません。それがどのようなことであるかは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられた後に、弟子たちが御霊のお働きによってそれにあずかって、新しく生まれるようになって初めて分かるようになりました。それで、そのことは、後に御霊が注がれるようになってから、説明されるようになったのです。

 自分を捨てることは、イエス・キリストの十字架の死にあずかって古い自分に死ぬとともに、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれている人が、御霊に導かれて、神さまのみこころに従って歩むようになることです。その神さまのみこころは、神さまの律法に示されています。それについてパウロはガラテヤ人への手紙5章13節ー14節で、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

と教えています。これは、ご自身が父なる神さまを愛して、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされ、私たちご自身の民を愛して十字架におかかりになっていのちをお捨てになった、イエス・キリストの御足の跡に従って、愛をうちを歩むことにほかなりません。ですから、イエス・キリストの教えに従って、自分を捨てることは、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストの戒めに従うことの第一歩です。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第207回)へ戻る

「黙示録講解」
(第209回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church