ヨハネの黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばが記されています。
スミルナはエーゲ海沿岸にある港湾都市として繁栄していました。スミルナは古くからローマとの関係が深く、皇帝礼拝も盛んな町でした。けれども、スミルナにある教会の信徒たちは、皇帝を神として拝むことや、その他の偶像を礼拝することにかかわることを避けていました。そのために、さまざまな形で迫害を受け、苦しみと貧しさの中にありました。9節において、イエス・キリストが、
わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
と述べておられるとおりです。
しかし、そのような苦しみと貧しさの中にあったスミルナにある教会の信徒たちについて、イエス・キリストは、それに続いて、
しかしあなたは実際は富んでいる
とも述べておられます。
これはこの世の尺度で量られた豊かさ、物質的な豊かさではなく、神さまとの関係における豊かさ、霊的な豊かさです。
スミルナにある教会の信徒たちが迫害を受けても皇帝礼拝を拒否したのは、神さまを愛していたからです。またそれは、スミルナにある教会の信徒たちが神さまを愛するようになる前に、神さまが彼らを愛してくださったことを知るようになったからです。
ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
と記されていますように、神さまは私たちを死と滅びから救い出してくださるために、ご自身の御子イエス・キリストを「なだめの供え物として」お遣わしになりました。イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪は完全に清算され、私たちは私たちの罪に対する刑罰としての死と滅びから贖い出されています。
創造の御業によって、この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていた私たちご自身の民のために、御子イエス・キリストをとおして、このような贖いの御業をも成し遂げてくださいました。このすべては、私たちの思いをはるかに超えた神さまの私たちへの愛から出ています。
このように、私たちは、この世界の造り主であられるとともに、ご自身に背いて罪の中に死んでいた私たちのために御子をも贖い主として遣わしてくださったほどに私たちを愛してくださっている神さまを神として愛し敬い、礼拝しています。それで、私たちは、神さま以外のものを神として礼拝しません。
このこととのかかわりで、十戒の第一戒と第二戒のことを取り上げて、神である主の戒めについて、あることをお話ししたいと思います。
十戒の第一戒と第二戒を記している出エジプト記20章3節ー6節には、
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
と記されています。
よく、クリスチャンは十戒に記されている神である主の戒めを守っているので、偶像を拝むことはしないと言われます。それはそのとおりですが、注意しておかなければならないこともあります。というのは、私たちはただ戒律を守っているわけではないからです。
この十戒の第一戒と第二戒は私たちを縛る戒律ではありません。どうしてかと言いますと、これら二つの戒めに限らず、十戒の戒めは、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、罪と死の力に捕らえられて、滅びるべき者になってしまっていた私たちを神である主が愛してくださって、贖いの御業によって、ご自身の民としてくださったことに基づいて与えられたものだからです。
そのことは、十戒の第一戒と第二戒を記している出エジプト記20章3節ー6節の前の2節に、
わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
と記されていることから分かります。神である主はエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出して、ご自身の民としてくださいました。それはイスラエルの民がよい民であったからではありませんし、数が多くて、役に立つ民であったからでもありません。民の一部ではなく、民そのものが他国の奴隷となっていて、最も弱く貧しい民でした。神である主はそのようなイスラエルの民を愛してご自身の民としてくださいました。申命記7章7節ー8節に、
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
と記されているとおりです。
これは、神さまがどのような方であるかを示すものです。神さまは自らの罪に縛られ、死と滅びに至る道を歩み続けていながら、そのことにも気づくことがなかった私たち、たとえ、そのことが分かったとしても、自分の力ではどうすることもできない状態にあった私たちを愛してくださって、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださった方です。
このように、神さまが弱く、貧しく、打ちひしがれている者たちを愛して、ご自身の民としてくださっていることは、旧約聖書と新約聖書をとおして一貫して変わることなく示されていることです。私たちは、このような私たちのためにご自身の御子を与えてくださった神さまの愛に触れて初めて、神さまがどのような方であるかが分かったのです。それで、この神さま、契約の神である主以外のものは神ではないことを心底信じるようになりました。また、そうであるから、それ以外のものを神として礼拝することはしません。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
という戒めは、一方的に押しつけられた戒律ではありません。弱く、貧しく、打ちひしがれた者でしかなかった私たちのために、御子をも惜しまず与えてくださった神さまの愛に触れた私たちは、神さまが私たち自身を本当に愛してくださっておられ、決して、私たちを利用しようとはしておられないことを確信しています。それで、私たちにとっても、神さまご自身が心の喜びであり、私たちは神さまご自身を愛する者としていただいています。そのような私たちには、
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
という神である主の戒めは、ひたすら私たちを愛してくださって、私たちをご自身のものとしてくださっておられる神である主の私たちへの愛から出ていることが分かります。
また、そうであるからこそ、神である主が、
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神
と言っておられることの意味も分かります。聖書では、契約の神である主とその民の関係が夫と妻の関係にたとえられていますが、この、
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神
という主のみことばは、心から妻を愛している夫の思いがあふれているようなことばです。
このように、神である主の戒めは主の私たちへの愛に基づいていて、私たちへの愛から出ています。このことは十戒の十の戒めに当てはまるだけではありません。神である主の戒めの全体を要約すると、十戒の十の戒めになります。その十戒の十の戒めは、さらに、二つにまとめられます。第一戒から第四戒は、私たち神である主の民と神である主ご自身との関係のあり方を示しています。そして、第五戒から第十戒は私たち神である主の民同士の関係のあり方を示しています。そして、これをさらに要約しますと、大切な二つの戒めになります。その二つの戒めについてのイエス・キリストの教えが、マタイの福音書22章37節ー40節に、
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
と記されています。ここに示されています、大切な二つの戒めは、神である主を愛することと、隣人を愛することを教えていますが、これは、神である主が私たちを愛してくださって、御子イエス・キリストによって私たちの罪を完全に贖ってくださって、私たちをご自身の民としてくださったことに基づいています。そのことは、神さまのことが「あなたの神である主」と呼ばれていることから分かります。神さまが私たちを愛してくださって、私たちを御子イエス・キリストによって死と滅びの中から贖い出してご自身の民としてくださったので、私たちは神さまの民となっていますし、神さまは私たちの神となってくださっています。私たちはこのような神である主の愛に包まれて、神である主ご自身を愛し、同じように、神である主に愛されている兄弟姉妹たちを愛するようにと戒められています。このことは、私たちにとっては自然なこととなっていますので、決して重荷とはなりません。このことがヨハネの手紙第一・4章19節ー5章3節に、
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
と記されています。
いずれにしましても、私たちは私たちを愛して私たちをご自身の民としてくださるために、ご自身の御子をも贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださった神である主の愛に触れていますので、神である主以外のものを神として心を寄せることはしません。
このことは、いつの時代の神である主の民に当てはまります。スミルナにある教会の信徒たちは、ローマ帝国からの激しい迫害を受けて苦しみと貧しさの中にありながら、なおも、神さまの愛に包まれていることを確信し、神さまを愛していたので、ローマ帝国の皇帝を神として礼拝することを拒否したのです。
イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちに、
しかしあなたは実際は富んでいる
と言われたときの豊かさは、実際に、スミルナにある教会の信徒たちが神さまの愛に包まれており、そのことを確信して、神さまを愛していたことと、苦しみと貧しさの中にあって、お互いに愛し合い、支え合って歩んでいたことに現れている豊かさです。
黙示録2章10節には、
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
と記されています。
ここでは、すでに苦しみと貧しさの中にあったスミルナにある教会の信徒たちがさらなる試練に遭うようになることが示されています。それは、スミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たち」が投獄されるようになるということです。それは投獄された人たちが、すべてではないとしても、処刑されて殉教するようになることを意味していました。悪魔は、このことによってスミルナにある教会の信徒たちのうちに恐怖を呼び覚まし、彼らが神さまの愛を疑うようになったり、お互いの間の愛の交わりが形式的なものとなってしまうようにと仕向けていたと考えられます。
けれどもイエス・キリストは、
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
と言われました。「十日の間」については、すでに詳しくお話ししましたので、説明は省きますが、これによって、イエス・キリストは悪魔が仕掛けるさらなる試練の時も、神である主、すなわち、イエス・キリストご自身が、
初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
として、特別な意味でスミルナにある教会の信徒たちの間にご臨在してくださって、お働きになる時であることを示しておられます。イエス・キリストは、彼らの苦しみや痛みや悲しみをご自身のこととして負ってくださるほどに、彼らとまったく一つになってくださり、彼らが真にご自身の民であることを明らかにしてくださいます。そして彼らを、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の祝福にまったくあずかる者としてくださいます。
イエス・キリストはこのことを受けて、
死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
と言われました。
この、
死に至るまで忠実でありなさい。
という命令は、2人称単数形の命令で、8節で、
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
と言われている、スミルナにある教会全体を代表的に表している「スミルナにある教会の御使い」に与えられている命令です。その意味で、これはスミルナにある教会の信徒たちすべてに与えられている命令です。また、
そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
という約束も、同じように、スミルナにある教会の信徒たちすべてに与えられている祝福です。
このように、
死に至るまで忠実でありなさい。
という命令は、投獄される人たちだけに与えられた命令ではなく、スミルナにある教会の信徒たちすべてに与えられている命令です。このことは、スミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たち」が投獄されるようになることが、スミルナにある教会の信徒たち全体にとっての試みとなることを反映しています。スミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たち」が投獄されるようになることが、スミルナにある教会の信徒たち全体にとっての試みとなるということは、すでに、
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
というイエス・キリストのみことばに示されています。
繰り返しお話ししてきましたように、悪魔にとって、スミルナにある教会の信徒たちが迫害による苦しみと貧しさの中でも、イエス・キリストにある神さまの愛を信じて、お互いに愛し合い、支え合って歩んでいることは、とても目障りなことです。それで、彼らのうちの「ある人たち」が投獄されるようになるという、さらなる試練によって、神さまの愛に疑いをもつように仕向けたり、お互いの間の愛が愛の実質を失うものとなるように仕向けたりします。
そのような試練の時も、イエス・キリストが、
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
と言われたように、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちの間にご臨在されて、彼らとまったく一つとなってくださり、彼らの苦しみや痛みや悲しみをご自身のこととして負ってくださいます。それによって、スミルナにある教会の信徒たちがご自身の御足の跡に従うことができるようにしてくださいます。
ペテロの手紙第一・2章18節ー25節には、
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
と記されています。
これは、基本的には、その当時の奴隷の身分にありながらイエス・キリストを信じ、イエス・キリストを主として、イエス・キリストに従っている人々に対して語られた教えです。ここでは、特に、そのような立場にある人たちがしばしば経験する「不当な苦しみ」を受けることが取り上げられています。
ここには、普通に考えると分かりにくいことが出てきます。そのように分かりにくい教えの代表的なものは、19節に出てくる、
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
という教えです。
特に難しいのは、
神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、
と言われているときの「神の前における良心のゆえに」ということばが何を意味しているかということです。
ここに出てくる「良心」と訳されていることば(シュネイデースィス)は、日本語の「良心」ではあまりはっきりしませんが、何らかの基準になる考え方があって、それに従って働くものです。その基準になる考え方が誤っていますと、良心の働きも誤ってしまいます。聖書の中に「邪悪な良心」(ヘブル人への手紙10章22節)というような言い方が出てくるのはこのことによっています。
そうしますと、ここに出てくる「神の前における良心」ということばは、その基準になる考え方が神さまの御前におけるものであると考えられます。それはこれまでお話ししてきました神さまの戒めに示されているみこころのことでしょう。具体的には、ここでは「不当な苦しみを受けながらも」なお、神さまのみこころに従って働く良心ということになります。このような場合の、神さまのみこころとはどのようなものでしょうか。それは、イエス・キリストご自身がそのうちを歩まれたもので、敵をも愛する愛のうちを歩むことです。ルカの福音書6章35節ー36節には、
ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
という教えが記されています。説明のために引用したみことばの問題を取り上げて、話を複雑にしてしまいますが、ここで、
そうすれば、・・・あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。
と訳されている部分には問題があります。というのは、ここに出てくる「いと高き方」は、36節では「あなたがたの天の父」と呼ばれていて、「あなたがた」はすでに「天の父」すなわち「いと高き方の子ども」となっているからです。また、新改訳の、
いと高き方の子どもになれます。
という訳が示している「なれます」(英語のbe動詞に当たるエイミ動詞の未来時制)は、「なります」あるいは「(将来もその状態で)あり続けます」というような意味です。そのようなわけで、これは、神である主の一方的な愛と恵みによってすでに「いと高き方の子ども」となっている「あなたがた」が、敵をも愛する愛に生きることによって、「いと高き方の子ども」としての特質をさらに豊かにもつようになるという意味でしょう。
ペテロの手紙第一・2章18節ー25節に記されている教えに出てくる「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえる」人においては、その良心が、敵をも愛する愛をもって歩むようにという主イエス・キリストの教えに従って働くということです。自分は奴隷だからどうしようもないという悔しさでいっぱいになって悲しみをこらえるとか、神さまがひどい主人をさばいてくれるからというような復讐心をもって悲しみをこらえるということではないのです。
確かに、22節ー23節に、
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
と記されています。イエス・キリストはご自身に対して不当な苦しみを加える人々のことを「正しくさばかれる方にお任せになりました」。けれども、それは自己中心的な復讐心をもってのことではありません。ルカの福音書23章34節に記されていますように、イエス・キリストは、むしろ、十字架の上で、そのような人々のためにとりなし祈られました。
同じように、「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえる」しもべは、不当な仕打ちをする主人のためにとりなし祈ったことでしょう。それが、
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
と言われている、イエス・キリストの御足の跡に従うことです。それによって、先ほど引用しましたルカの福音書6章35節ー36節に記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、神の子どもとしての特質を豊かにもつようになります。言い換えますと、御霊のお働きによって、イエス・キリストに似た者として造り変えられていくことになります。それは真の意味での豊かないのちをもつことです。
このことは、ローマ帝国からの迫害を受けて、苦しみと貧しさにあえいでいながら、愛のうちを歩んでいたスミルナにある教会の信徒たちにも、そのまま当てはまります。そして、そのことが、
死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
というイエス・キリストの約束の実現につながっていきます。「死に至るまで忠実である」ことの中心は、イエス・キリストの御足の跡に従って愛のうちを歩み続けることにあります。
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