黙示録講解

(第206回)


説教日:2015年5月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(35)


 ヨハネの黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、10節に記されています、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というみことばについてです。
 まず、いつものように、これまでお話ししたことを簡単に振り返っておきます。
 9節に、

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というイエス・キリストのみことばが記されていますように、スミルナにある教会はローマ帝国からの迫害を受けて、苦しみと貧しさの中にありました。けれども、スミルナにある教会の信徒たちは、

 しかしあなたは実際は富んでいる

というイエス・キリストのみことばが示していますように、そのような中にあっても、神さまと、神さまが御子イエス・キリストをとおして示してくださっている愛と恵みを信じて、神さまを愛し、お互いに愛し合って歩んでいました。
 10節では、悪魔がそのようなスミルナにある教会の信徒たちをさらなる試練にさらそうとしていることが明らかにされています。悪魔はスミルナにある教会の信徒たちのうちの「ある人たちを牢に投げ入れようとして」いました。この投獄はそれ自体が刑罰なのではなく、裁判を受けるまでの拘束、あるいは処刑されるまでの拘束でした。裁判を受ける場合でも、死に定められる可能性がありました。
 悪魔の狙いは、まず、このような意味をもっている投獄によってスミルナにある教会の信徒たち全体を恐怖で縛りつけることにありました。それによって、スミルナにある教会の信徒たちの間に神さまへの不信が芽生え、お互いの間の愛の交わりが形式的なものとなってしまうことによって、スミルナにある教会がキリストのからだである教会としての実質を失ってしまうようになることが悪魔が最終的に狙っていたことであったと考えられます。
 その一方で、

 見よ。悪魔はあなたがたがためされるために(直訳)、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

というイエス・キリストのみことばは、さらにその奥に、悪魔の思惑を超えた神さまのみこころがあることをも示唆しています。
 神さまが私たちご自身の民を試されることの目的は、基本的に、私たちが真に神さまの民、神の子どもであることを明らかにしてくださるためです。その際に、私たちのうちにもいろいろなことが起こります。たとえば、私たちが私たち自身も気づいていなかった恵みにあずかっていることをに気がつくようになることがあります。また、私たち自身のうちにある罪の現実に気がついて、ますます、イエス・キリストによって成し遂げられている完全な罪の贖いに頼るように導かれることもあります。さらには、私たちが目で見ていることを超えてご自身のご計画を実現してこられた契約の神である主の約束の真実さと確かさを悟って、そのみこころがさらに自分たちをとおして実現することを願い求めるように導かれることもあります。


 先主日おもにお話ししたのは、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

というイエス・キリストのみことばに出てくる「十日の間」についてです。
 この「十日の間」は文字通りの「十日間」のことではなく、黙示録に頻繁に出てくる黙示文学的な表象としての「十日間」であると考えられます。
 その当時の文化においては、「」という数は完全数の一つで「完結していること」を象徴的に表すことがありました。また、聖書の中には、「十日間」が短い期間を表す事例があります。この二つの意味合いを合わせますと、「十日間」とは、短い期間ではあるけれど、何らかの意味での完結性をもっている期間であるということになります。
 また、この「十日間」はダニエル書1章に記されています、ダニエルと三人の友人たちが、バビロンの王ネブカデネザルの宮廷で仕えるために3年間の養育を受けた時のことが背景となっていると考えられます。その時、ダニエルと三人の友人たちは、王から賜った「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め」て、彼らの世話役に、「十日間」自分たちに野菜だけを与えて、試していただきたいと申し出ました。神さまの導きによることと考えられますが、それが受け入れられました。十日の後に世話役が「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒」を口にしていた若者たちと比べてみると、ダニエルと三人の友人たちは、ほかの若者たちより顔色も体つきもよいことが明らかになりました。
 この「十日間」は3年間の養育期間に比べるとはるかに短い期間ですが、ダニエルと三人の友人たちに対して神さまがどのようにかかわってくださっているかが明らかになるには十分な時でした。神さまはこの「十日間」にお示しになったように、3年間の養育の期間の間をとおして、ダニエルと三人の友人たちとともにいてくださり、彼らを養い育ててくださいました。その意味で、この「十日間」は3年間の養育の期間全体を凝縮しているとも言えます。
 これらのことを背景として記されていると考えられる黙示録2章10節において、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と言われた方は、ご自身のことを、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

とあかししておられるイエス・キリストです。この方は、この歴史的な世界の歴史を始められ、終わりに至らせる歴史の主であられる方です。それで、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

ということは、単なる予告ではありません。スミルナにある教会の信徒たちが「十日の間苦しみを受ける」ことを決定されたのは、悪魔のはかりごとをもお用いになってご自身のみこころを実現されるイエス・キリストご自身です。その「十日の間」は、イエス・キリストが特別な意味でスミルナにある教会の信徒たちの間にご臨在されて、彼らの苦しみや悲しみをご自身のこととして負ってくださる時であるとともに、スミルナにある教会の信徒たちを御霊によって支えてくださり、導いてくださって、真にご自身の民であることを明らかにしてくださる時であるのです。
 このように、この「十日の間」は、すでにさまざまな形において経験している苦しみと貧しさの中にあったスミルナにある教会の信徒たちに与えられるさらなる試練の時ですが、

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方

としてご自身を表しておられるイエス・キリストが特別な意味でスミルナにある教会の信徒たちとともにいてくださり、その苦しみの中で彼らとまったく一つとなってくださって、彼らがご自身の民であることをより鮮明に現してくださる時です。この「十日の間」は、そのような意味をもっている時として、スミルナにある教会の信徒たちが地上において苦難の中を歩むすべての時を凝縮して表す表象として用いられています。
 ですから、この「十日の間」の後に、投獄されている信徒たちがどうなるのかは示されてはいません。実際には、投獄されている信徒たちが殉教してしまうこともあったでしょう。しかし、殉教してしまった信徒たちにとって、イエス・キリストが言われた、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

というみことばが空しくなってしまったのではありません。このみことばは「『十日』の後にはあなた方は解放されるから恐れてはいけない」ということを意味しているのではありません。その「十日の間」は、ご自身の民のために、十字架におかかりになって、彼らの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを彼らに代わってすべてお受けになったイエス・キリストが、殉教した信徒たちと、その苦しみにおいて、最後まで、まったく一つとなってくださっておられて、彼らに対するみこころを実現してくださる期間でした。この、

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

というみことばはそのように豊かな意味をもっている時を明らかにしています。そして、このことは確かに殉教した信徒たちの現実となっています。
 悪魔はスミルナにある教会の信徒たちを恐怖で縛って、彼らが神さまの愛と恵みを疑うように仕向け、お互いの間にあった愛の交わりを分断しようとして、一部の信徒たちが投獄されるようにと働きました。けれども、彼らのために十字架におかかりになってご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストは、投獄された信徒たちとまったく一つとなってくださり、また、投獄された人たちと心を一つにしている信徒たちとともにいてくださって、スミルナにある教会をご自身のみからだとして、整えてくださっていました。
 すでにお話ししましたように、イエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちに

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

とお命じになりました。この、

 恐れてはいけない

という命令のことばは強調形で、

 何も恐れてはいけない

というような意味合いを伝えています。それが投獄されて処刑されてしまうような厳しい状況にある信徒たちにも語られていることを思いますと、あまりにも無理な命令ではないかと思いたくなるかも知れません。けれども、イエス・キリストの命令は命令でありつつ、イエス・キリストが私たちにそれに従う力を与えてくださるという意味での「約束」でもあります。投獄されて処刑されようとしている信徒たちから恐れを取り除いてくださるのはイエス・キリストご自身です。それは、必ずしも、彼らが釈放されるようにしてくださることによっているのではありません。先ほどお話ししましたように、彼らのために十字架におかかりになってご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストご自身が、彼らとまったく一つとなってくださることによっています。また、そのことを御霊によって、彼らに確信させてくださることによっています。彼らは自分たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださり、自分たちのために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった方、それゆえに、

 死んで、また生きた方

であられるイエス・キリストとともに歩み、イエス・キリストの御足の跡を歩んでいることを確信できたのです。
 そのようにして、この「十日の間」は、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちの間に、特別な意味でご臨在してくださっていて、ご自身の栄光を現してくださった時でした。

 2章8節ー11節に記されていることから、イエス・キリストがスミルナにある教会の信徒たちとともにいてくださるということや、そのことを彼らに確信させてくださるというようなことまで汲み取ることはできないと言われることでしょう。
 確かに、ここにはそのようなことが示されてはいません。けれども、たとえば、同じ黙示録12章10節ー11節には、

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 11節では、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われています。ここで兄弟たちが「彼に打ち勝った」と言われているときの「」とは、10節で「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われている悪魔のことです。
 それで、11節では、兄弟たちが「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに」悪魔に打ち勝ったことと、死に至るまでいのちを惜しまなかったことが記されています。このことは、今取り上げています、2章10節に記されています、

見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばを思い起こさせます。そのつながりは、黙示録が基本的に、アジアにある七つの教会に宛てて記されていることからも支持されます。どういうことかと言いますと、2章ー3章に記されています、イエス・キリストがアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけられたみことばの中で、12章11節に記されています、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

というみことばと最もよく符合するのは、このイエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばです。
 この12章11節に記されていることを12章初めからの流れに沿って見てみましょう。
 まず、1節ー2節に記されていますが、旧約と新約をとおして存在する主の民を象徴する「」から子どもが生まれようとしています。これに対して、3節ー4節には、悪魔を表象的に表している「大きな赤い竜」が生まれてこようとしている子どもを食い尽くそうとしていることが記されています。
 そして、5節には、

 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されています。この「男の子」は、創世記3章15節に記されています「最初の福音」において約束されている「女の子孫」のかしらとして来られたイエス・キリストのことです。ここで、

 この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。

と言われているのは、この「男の子」がメシヤ詩篇の一つとして知られている詩篇2篇9節に預言されていたメシヤであることを示しています。
 そして、このことを受けて7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 さらにこのことを受けて、先ほど引用しました10節ー11節には、

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 これらのことから、11節に、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されていることは、兄弟たちの信仰の歩みによる勝利を示しています。それは、兄弟たちの力によることではなく、それに先立って、「女の子孫」のかしらとして来られたイエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げられてから、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上られて父なる神さまの右の座に着座されたという事実があります。また、それによって、天における霊的な戦いにおいて、悪魔が敗北して、地に投げ落とされているという事実があります。これらのことがすでに成し遂げられているので、

 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されていることが、地上において迫害を受けて苦しみ、貧しさの中に追いやられている兄弟たちが、霊的な戦いにおいて、悪魔に勝利することができるのです。それも、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、彼らとともにいてくださって、彼らを堅く立たせてくださるからです。

 2章10節には、さらに、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストの命令が記されています。これも命令ではありますが、「死に至るまで忠実で」あるように導いてくださり、支えてくださるのはイエス・キリストご自身です。
 ここで、

 死に至るまで忠実でありなさい。

と言われているときの「ありなさい」ということば(動詞・ギヌー)は単数形です。それで、これは、投獄されることになる信徒たちだけでなく、9節でイエス・キリストが、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている

と語りかけておられる「あなた」、すなわち、スミルナにある教会全体に対して語りかけられています。
 すでにお話ししましたように、スミルナにある教会の信徒たちのうちのある人たちが投獄されるようになるのは、その人たちが処刑されるか裁判を受けるためのことです。裁判を受けるためである場合にも、その判決の結果処刑される可能性がありました。それで、この、

 死に至るまで忠実でありなさい。

というイエス・キリストの命令は投獄されるようになる信徒たちに典型的なこととして当てはまります。けれども、それはまた、厳しさを増す迫害の中で、神さまと兄弟姉妹たちを愛し、投獄される兄弟姉妹と心を一つにして歩み続ける信徒たちにも等しく当てはまることです。
 このこととのかかわりで、投獄されている兄弟姉妹たちと心を一つにすることの大切さを示すみことばを見てみましょう。
 ヘブル人への手紙10章32節ー34節には、

あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

と記されています。ここには、この手紙の読者たちがイエス・キリストを信じるようになった「初めのころ」には迫害による苦難に会いながらも、それに耐えて、苦しむ人々と心を一つにしていたことが示されています。そのことを思い起こすようにと勧められているのは、この手紙が記された時には、彼らがそのような状態から落ちてしまっているからです。
 また13章3節には、

 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。

と記されています。ここでは、改めて、迫害を受けて投獄されている人々を思いやり、その人々と心を一つにすることの大切さが示されています。それは、これまでお話ししてきましたように、誰よりもイエス・キリストご自身が、迫害に会って苦しんでいる主の民と一つになってくださっておられるからです。
 そのことを示しているみことばも見てみましょう。
 マタイの福音書25節31節ー46節には、

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」そのとき、彼らも答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えは、一見すると、人は良い行いによって救われることが教えられているように思われますが、それは聖書の教えではありませんし、ここでの教えでもありません。これは人を羊と山羊にたとえるたとえによる教えの要素をもっています。このような教えはその中心にあることを示そうとしていて、それに関連するすべてのことを取り上げてはいません。ここでは終わりの日におけるさばきにかかわる一つのことが取り上げられていて、人はどのようにして救われるかということには触れられていません。
 ここでは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって救われ、主イエス・キリストの民となっている人が、イエス・キリストを愛することは最も自然なことである、ということが大前提となっています。それで、その人がイエス・キリストを愛していることが、その人がイエス・キリストの民となっていることの最も明確な現れであるのです。それで、その人が主の恵によって救われて、イエス・キリストの民となっているかどうかは、その人がイエス・キリストを愛しているかどうかによって見分けることができます。
 ここでは、そのことが踏まえられたうえで、イエス・キリストが40節で「これらのわたしの兄弟たち」と呼んでおられる、ご自身の民と一つとなってくださっていることが明確に示されています。そして、特に、イエス・キリストが「最も小さい者たち」と呼んでおられる、この世で、さげすまれ、軽んじられて、いろいろな意味で苦しんでいるご自身の民とひとつとなられて、その苦しみをご自身のこととして負ってくださっていることがこの上なく明確に示されています。それで、その人が主の恵によって救われて、イエス・キリストの民となっているかどうかは、その人がイエス・キリストの民、特に、さまざまな苦しみの中にある民を愛しているかどうかによって見分けることができるのです。
 スミルナにある教会の信徒たちは、この教えでイエス・キリストが「最も小さい者たち」と呼んでおられる人たちに当たります。イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たち、特に、投獄されてしまっている信徒たちとともにいてくださって、彼らの苦しみ、痛み、悲しみをご自身のこととして負ってくださっておられます。


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